3.MEN OF DESTINY アルフレッドとビクトーの攻防は、これを傍観する者たちにとっても驚愕の一言であった。 イリュウシナとグンダレンコに至っては、黙したまま目を見張っている。 七導虎の一角、シルヴィオ・ルブリンと引き分ける程の力量を持つアルフレッドが抹殺対象なのだ。 容易く処刑を果たせるとは思っていなかったが、想定(それ)を抜きにしても彼の善戦は鮮烈そのもの。 スカッド・フリーダムからしてみれば、由々しき事態と言えよう。 戦いの序盤では殆ど圧倒されるばかりであったアルフレッドは、 徐々にビクトーの疾(はや)さにも順応し、遂にはその動きを上回って見せたのだ。 双方の状態を見比べれば、痛手(ダメージ)の総量は明らかにアルフレッドのほうが多く、 互角の勝負に持ち込んだとは言い難いが、しかし、形勢が変わる兆しは確かに感じられた。 少なくとも、ジャーメインとザムシードの目には、アルフレッドが押し戻し始めたと見えている。 「――しかし、分からんな。何故にライアンは『ホウライ』を出し惜しみするんだ? アレが有るだけでも、だいぶ違うだろうに……」 この一点がザムシードには不思議でならなかった。 例え、僅かでも好転の可能性が見えたのであれば、今こそ一気呵成に攻め立てるべきであろう。 より攻勢を強める為には戦闘力を爆発的に強化し得るホウライの存在は欠かせない筈なのだが、 当のアルフレッドが蒼白い稲光を纏う回数は極端に少ない。 決定的な切り札を惜しむ理由がザムシードには見当も付かないわけだ。 彼もまたホウライの存在に難儀しており、その有効性は身を以て思い知ったばかりである。 ザムシードが交戦する相手は依然としてグンダレンコであるが、 彼女の蹴り技には先程からホウライが伴い始めており、 攻守の組み立ても全く仕切り直さなくてはならなかった。 グンダレンコが繰り出した蹴りの軌道を追尾するようにして稲光が走り、 ザムシードを捕まえようと襲い掛かるのだ。 ほんの数分前までとは全く別の様式(スタイル)と言っても過言ではない。 時間差を付けた追撃かと思いきや、蹴りとは異なる方向から突然に稲光が降り注ぐこともあった。 即ち、ホウライを利用すれば複数方向から同時に攻撃することまで可能となるわけである。 強靱な糸の如くザムシードの手足を縛ったかと思えば、 電撃の鞭として直接的な加撃を図るなど、相手に与える効果すら自由自在であった。 手足を搦め取った上で、爆弾さながらにヴィトゲンシュタイン粒子を炸裂させると言う荒技もあり、 ザムシードは既に全身の至る箇所(ところ)に熱傷を刻まれている。 最も厄介なのは、繰り出される稲光が例外なく蒼白い輝きを発している為、 捕縛の繰り糸であるのか、電撃の鞭であるのか、目視だけでは見分けが付けられない点だ。 変則的な拳闘を得意とするザムシードでさえ、グンダレンコのホウライを突破出来ずにいる。 だからこそ、ザムシードはアルフレッドの真意が分からない。 このような妙技を駆使していけば、より有利に戦いを進められる筈ではないか。 それにも関わらず、彼はホウライには殆ど頼らず、地力のみで立ち向かっている。 合理的とは言い難く、智略に長けた『在野の軍師』には珍しい姿とも言えよう。 尤も、ホウライを使わないのはビクトーも同様である。 互いに切り札を封印しながら戦う意味が分からず、ザムシードは首を傾げ続けているのだった。 これは試合や稽古ではない。紛れもない実戦であり、生命の遣り取りなのだ。 持てる限りの力を尽くさなくてはならない局面なのである。 「ホウライには外し方があるのッ! おじさんだって初めて見るワケじゃないでしょ!? それくらい、頭ン中から引っ張り出しなさいよッ!」 「……どうして私は怒鳴られているんだろうな」 イリュウシナ相手に苦戦し続けるジャーメインが、明らかに切羽詰った声でザムシードの疑問に答えた。 それは回答と言うよりも叱声に近い。「そんなことも知らないのか」と批判するような語調であったのだ。 スカッド・フリーダムとは長年に亘って対立関係にあったテムグ・テングリ群狼領―― その将たるザムシードもホウライの存在は承知していたが、 だからと言って全容を把握しているわけではない。外し方を解説されたのも初めてだった。 ジャーメインから指摘された通り、ホウライの使い手同士の戦いに立ち会うのは ハンガイ・オルスに続いて二度目である。 しかし、その少ない機会だけでホウライの委細を見通すよう強いるのは、幾らなんでも無体であろう。 ザムシードはタイガーバズーカの縁者でもないのだ。 それでも、彼にとっては十分な手掛かりであった。 アルフレッドたちがホウライへ頼らずに戦う理由を察したザムシードは、 「外し方とやらを知っていたら、私もラクに戦(や)れるんだがねェ」と頭を掻きながら 再びグンダレンコに向かっていく。 「みなさん、決まって同じようなことを仰いますねぇ。 でも、ホウライ外しはホウライそのものを覚えないことには使えないんです。 ムリなものはムリって諦めて貰うしかないかなぁ〜」 「そんなコトだろうとは思ったけどね。……ま、ほんの些細な問題さね。 敵がどんな手段(て)を使ってきても、それを上回る力で打ち克てば良い。それが戦場だ」 「あら〜、それは困りましたね。私のように非才にはホウライは一番の頼りなのですけどぉ」 「冗談なのか、天然なのか――尻尾を掴ませないところまで技に表れているようだな」 両腕をだらりと垂れ下げながら、散歩に出掛ける足取りで近付いていったザムシードは、 グンダレンコが前進の構えを見せた瞬間に突如として加速し、 一足飛びで間合いを詰めるや否や、右拳を繰り出した。 散歩姿から瞬きよりも疾(はや)く臨戦態勢へと移り、腰の入った拳を放ったのである。 顔面を狙う一撃を右下腕でもって防がれたザムシードは、すぐさま追撃に移る。 防御(ガード)を上げさせておいて、がら空きになった胴へ左拳を突き込んだのだ。 肝臓への強打こそが狙い――そのように認識させた直後、ザムシードは左拳の軌道を変化させた。 正しくは「軌道を曲げた」と例えるべきかも知れない。グンダレンコの胴を捉える寸前で上体を捻り込み、 狙いを顔面に変えた次第であった。 防御に用いた腕の隙間を潜り、顎を叩くと言うのがザムシードの目論見であったが、 グンダレンコは輪舞の如く旋回しながら後方へと逃れた。 しかし、その速度は今までの比ではない。 ホウライの恩恵を受けて限界を超える程に身体能力を強化したのであろう。 体内に取り込んだ蒼白い稲光を鍵として、潜在する全ての力を解放出来るともザムシードは聞いている。 確かにグンダレンコの加速は尋常ならざる水準(レベル)ではあった――が、 複数向から降り注ぐ同時攻撃のように感覚自体を狂わされるものならともかく、 身体能力が高まった程度≠フことでは馬軍きっての勇将はたじろがない。 「優れた異能(ちから)も使いようだな。しかし、それに依存しては勝てる戦いも落とし兼ねん――」 「あらあらぁ〜」 言うが早いか、地力のみでホウライの蒼白い火花を追い掛け、 今まさに振り返ろうとしていたグンダレンコの正面まで回り込んだ。 「心身の怠慢を招く原因」としてトラウムの使用を全面的に禁止し、 己の腕一本で如何なる戦いにも勝ち抜けるよう肉体を極限まで鍛え上げるのが テムグ・テングリ群狼領の将士である。 即ち、義の戦士に勝るとも劣らない身体能力を身に付けていると言うことだ。 ホウライの使い手が相手であっても臆する理由はなく、互角以上に渡り合えるのだった。 果たして、ザムシードはホウライの効果が途切れた一瞬を見極め、 馬軍の伝統武術ならではの投げ技を打つべくグンダレンコに組み付いていく。 「そんなに迫られたら困っちゃいますよぉ〜」 上体の柔軟性を最大限まで引き出したグンダレンコは、素早く屈み込みながら左方へと身を傾け、 これによって胴まで伸びていたザムシードの右手を躱し、 同時に足へと迫っていた左手を右前回し蹴りで弾き飛ばす。 蹴り足から稲光が迸らせて追撃を牽制しつつ、旋回を伴いながら後方へと跳ねたグンダレンコは、 中空にて身を翻すと、電撃の鞭を掻い潜って追い縋るザムシードに左後ろ回し蹴りを見舞った。 一方のザムシードは後ろ回し蹴りを額で受け止め、 グンダレンコの側もこれを踏み付ける恰好で二段目の跳躍を行い、着地と同時に直線的な右拳打を放つ。 このときには既にザムシードの追撃が迫っており、互いの右拳を正面から衝突させる恰好となった。 周囲にまで衝撃が輻射する程の破壊力が炸裂し、 ザムシードとグンダレンコは共に後方へと吹き飛ばされた。 しかし、結果は相討ちではない。拳が激突した瞬間にザムシードは何か≠ェヒビ割れる音を聞いている。 「ホウライは身を守る鎧のようにも使えるのだろう? ……後悔先に立たずと言うものだな」 「――みたいですねぇ〜。注意一秒怪我一生、知らず知らず慢心があったようです。 頑張って押し切れると思ったんですけどねぇ〜」 困り顔のグンダレンコは左手でもって対の拳を摩っている。 粉砕までは至らなかったが、右手の骨に亀裂が走ったのは間違いなさそうだ。 対するザムシードの右拳は痛みのひとつも起こっていない。 彼は合戦の場に於いても拳闘の技を操る剛の者だ。 甲冑姿の相手すら突き破ってきたザムシードの拳は桁外れに頑強なのである。 グンダレンコは低い姿勢からの蹴りを主軸とした武術の使い手である。 そのような相手に拳の強さで競り勝ったとしても何の自慢にもならないだろうが、 しかし、骨に亀裂を入れたと言う事実は、ひとつの結果として極めて大きい。 この痛手(ダメージ)によって身のこなしが鈍れば、 ただそれだけでも命取りになり兼ねないのだった。 ザムシードの力闘を目端で確かめながら、ジャーメインは例えようのない焦燥に駆られていた。 ホウライもなくグンダレンコに拮抗する馬軍の将は勿論のこと、 先程まで意識不明の状態であったアルフレッドも、復活した後(のち)は義兄に喰らい付いている。 もとスカッド・フリーダム隊員として七導虎に列する者の戦闘力を思い知っているジャーメインには、 アルフレッドの善戦は驚異としか言いようがない。それ故、彼が不用意に飛び込んでいった際には、 ビクトーを相手に攻め急いではならないと叫んだのだ。 アルフレッドやザムシードと比して、現在(いま)の自分の有様はどうか。 未だにイリュウシナを突破する手立てを見出せず、骨法の妙技によって一方的に攻め込まれている。 その口から発せられるのも気合いではなく苦悶の声ばかりだ。 つい数分前までイリュウシナとは睨み合いを演じていたのだが、 この僅かな時間に頭部への痛手(ダメージ)が回復したジャーメインは、 今度こそアルフレッドの加勢に入るべく目の前の壁≠ノ渾身の力をぶつけていった。 さりながら、結果は先に述べた通りである。妹の脳を手酷く揺さ振っておきながら、 それが回復するまで待つと言う余裕を見せ付けたイリュウシナにどうして敵うだろうか。 しかも、格闘戦が再開して以降のイリュウシナは、より多くの抽斗≠開け始めた。 ここまでは打撃中心であり、状況に応じて投げ技を混ぜる程度であったのだが、 現在(いま)は関節技まで併用している。 イリュウシナの関節技がどれほど恐ろしいのかは、実の妹であるジャーメインが誰よりも分かっている。 両の掌打が乱れ飛んだ直後、防御に用いていた右腕を突然に掴まれ、 そのまま仰向けの状態に引き倒されたのだが、寝技へ持ち込まれる前に身を捩って左足甲を振り上げて イリュウシナの後頭部を揺さ振り、辛くも捕獲から逃れたのである。 さしものイリュウシナとて人体急所に強撃を被れば意識に空白が生じると言うものだ。 「……メガネが飛ぶかと思ったわ」 「せめて、意識が飛ばなくて良かったって安心してよ。こっちは全力で蹴りに行ってるんだから」 「体勢に無理があり過ぎて一撃必殺とは行かないわね。……それでも機転を利かせたことだけは褒めてあげるわ」 「こっちだって必死だからね」 一先ず窮地を脱したジャーメインであるが、その背中には冷たい汗が流れていた。 先程の状態からイリュウシナが試みる寝技は、ジャーメインが記憶する限りでは 全てが関節破壊の絶技であった。相手を組み敷いて征圧するのが目的なのではなく完全なる破壊である。 たった今、仕掛けられた技は、仰向け状態となった相手の片腕を両脚で挟み込み、 更に頭部を抱え込んで肘に負荷を掛けるものであろう。関節の可動域を超えて反り返った腕は、 捕獲を解かれたときには使い物にならなくなっているわけだ。 このように関節技ばかりに気を取られていると、今度は狙い定めたような打撃の餌食となる。 自身の右足甲を妹の左足首に絡めたイリュウシナは、これによってムエ・カッチューアの蹴りを封じ込め、 同時に左右の掌打を立て続けに繰り出した。 鉤爪の如き足甲でもって強く引っ張られたジャーメインの左足は、今や一本の棒切れと化している。 蹴り足にも軸足にも使えず、それどころか、満足な身動きも制限されているわけだ。 「ふぁっ……んんっ――」 この足を横方向に払われてしまうと、ジャーメインには堪えようがなかった。 敢えなく横転させられ、そこに一瞬たりとも逡巡を挟まない左膝を突き込まれた。 そこにジャーメインは起死回生の好機を見出した。 横転された直後に片膝を突けて上体を引き起こした為、今の彼女は屈んだ状態にあり、 イリュウシナにとっては格好の標的(まと)も同然なのだ。 だからこそ、一撃で楽≠ノなれる顔面を狙われたわけだが、 その瞬間にジャーメインは右足裏でホウライを炸裂させ、これによって得た推力でもって膝を瞬時に突き上げた。 右膝の急加速へ引っ張られるようにして全身が浮き上がってしまい、 己自身が技の勢いに振り回される形となったが、しかし、この一手は完璧に意表を突いたらしく、 互いの膝が耳障りな音を立てて激突した直後、イリュウシナは大きく仰け反った。 左膝を襲った痛みが堪えたわけではない。呼吸も技の癖も読み抜き、 「自分の掌の上で転がっている」とばかり考えていたジャーメインに初めて慄いたのである。 「……ホウライの使い方も変わったわね。恋人とお揃いと言うわけかしら」 「ア、アルの技は借りたけど! 何でもかんでもそっち系のハナシに持ってくのはどうなのッ!?」 「別に戦いの合間に恋の話をしてはいけないなんて言う法律はないわよ」 「法律はなくても普通はしないからッ! 言ってること、メチャクチャだからッ!」 一番上の姉には――二番目の姉も同じであろうが――依然として気恥ずかしい誤解をされたままであるが、 今はそのことを弁明している場合ではない。 冗談めかしたことを言いながらも、イリュウシナの目付きは先程よりも更に鋭さを増しているのだ。 思い掛けない奇襲に戦慄したことで火が付いたのは明らか。 いよいよ本気になって実の妹を潰しに掛かるつもりであろう。 姉の殺気が膨らんだことはジャーメインも感じており、 この恐怖に突き動かされるようにして、彼女は更なる攻撃を仕掛けていく。 危険な事態へ陥る前に決着を急がなくてはならないと焦ってしまったわけである。 余程のことがない限り、最早、二度とホウライは通じまい。 結果的に相打ちとなったが、今し方の膝蹴りもジャーメイン自身はイリュウシナの顎を狙っていたのだ。 勝負を託した技が外れてしまった以上、このまま押し切られる可能性が一気に高まったと言える。 (それでも……喰らい付くしかない――ッ!) 気合いの吼え声を引き摺りながら、ジャーメインは右足を放つ。 脇腹を抉らんとする中段蹴りと見せかけて、その照準を左側頭部へと変化させるものの、 軌道まで読み抜いたイリュウシナは左下腕でもって的確に受け止め、すかさず反撃に移った。 防御に用いた左腕を水平に倒し、そこから肘打ちの構えを取ったのである。 しかも、だ。腰を内側へ捻り込みながらジャーメインへと左足を踏み込み、 続けて右手を伸ばすと、いきなり彼女の左耳朶を掴んだ。 これは妹を虚仮にする為の挑発ではなく、歴(れっき)とした捕獲≠ナある。 事実、五指でもって耳朶を握り、そのまま自身の側へと思い切り引き付けたのだ。 「そこっ――だめぇ……っ!」 「ちょっと褒めたら、その倍は叱らないとならないのね。実戦では何が起こるか分からないのよっ!」 耳朶の捕獲と言う奇策でもって攻守の拍子と姿勢を崩されたジャーメインは、 無防備のままイリュウシナの左肘でもって脇腹を抉られる格好となった。 「裂けたらどうすんのよ! これ、絶対、血ィ出てるわ!」と、 脇腹より先に耳朶の状態を確かめつつ、ジャーメインは実の姉に向かって文句を垂れた。 尤も、イリュウシナの側は妹の耳朶が千切れようとも知ったことではない。 生命を遣り取りする実戦の場に於いて、人体の破壊などは瑣末な問題なのだ。 耳朶の流血の有無はともかく――現在(いま)のジャーメインとイリュウシナは、殆ど密着状態に近い。 即ち、ムエ・カッチューア必勝の形と呼ばれる『首相撲』へ持ち込む好機と言うわけだ。 すぐさまに右手一本でイリュウシナの首へ組み付いたジャーメインは、 バンテージで包まれた左拳を実姉の脇腹へと放つ――と思わせておいて、全く別の技に変化する。 イリュウシナの頭部を両腕で抱え込み、そのまま身を放り出すようにして地面へ投げ落としたのである。 「――あらあら、今度はテムグ・テングリのお兄さんの攻め方と似てるのねぇ。 もしかしてもしかすると、メイちゃんたら浮気性〜? いけませんよぉ、いかがわしいコトは。お姉ちゃんが許しませんっ」 打撃から投げ技への急激な変化を見て取ったグンダレンコは、何やら新たな誤解を抱いた様子であるが、 アルフレッドの場合と違って反応する理由もない為、ジャーメイン当人はこれを黙殺。 イリュウシナを石畳に叩き付けるや否や、すぐさま後方へと退った。 これが余人であったなら追い討ちを仕掛けていたところだが、相手は技巧に長けたイリュウシナだ。 逆に寝技へ引き込まれることを警戒し、一瞬にして身を起こした次第であった。 案の定と言うべきか、イリュウシナは投げ落とされた直後には 自ら身を転がして体勢を立て直し、ジャーメインの腕を掴もうとしていた。 危険極まりない捕獲から逃れた彼女は、後ろへ下がりつつ身を旋回させ、 この状態から幾度も後ろ回し蹴りを繰り出していく。 なおも追い縋るイリュウシナの動きを牽制するのが一番の狙いであろう。 踵でもって胴を抉ろうとしたかと思えば、次の回転時には顔面を粉砕し得る蹴りを試みていた。 三度目の回転の折には、いきなり身を沈めて足首を刈ろうと図り、 これを避けられると即座に上体を引き起こし、遠心力をたっぷり乗せた後ろ回し蹴りを見舞う。 いずれの技も動作が大き過ぎる為、イリュウシナには簡単に見抜かれてしまったものの、 ここでジャーメインは、ひとつの疑問点に行き当たった。 足払いから変化した最後の後ろ回し蹴りは、やはり頭部を狙っている。 右下腕でもって蹴り足を受け止めたことでイリュウシナに僅かな隙が生じたのである。 今の実姉は左側面が全くの無防備となっていた。 防御を完璧にする意図であるのか、左掌も右下腕に添えられているのだ。 ここまで殆ど隙を見せなかったイリュウシナにしては不自然としか言いようがない。 当然ながら陽動(フェイント)の可能性も脳裏を掠めたが、 しかし、後退してばかりでは何時まで経ってもアルフレッドを助けに行くことは出来ない。 (このまま義兄さんが引き下がるとは思えないから――ッ!) 突貫の覚悟を秘めて瞬間的に足を止めたジャーメインは、 軸足はそのままに逆回転を以ってして再びイリュウシナへと向かっていく。 この所作(うごき)を見据える彼女の瞳は、「考えが浅い」と無言のうちに語っていた。 「呼吸もクセも何もかも見え見えだって、何度繰り返したら理解するのかしらね、このコは……」 ジャーメインが横薙ぎに右肘を放とうとする動作に合わせ、 イリュウシナは自身の右掌を繰り出し、振り抜かれる寸前で腕の可動を押さえ込んだ。 すかさず対の左掌で横っ面を叩き、再び脳を揺らすや否や、 押さえ付けていた腕を五指にて捕獲し、自身の側へと引き込みながら一気に捻り上げたのだった。 すぐさまに右肩が悲鳴を上げ始めたが、しかし、耳障りな破断音は聞こえない。 完全に骨を壊すより先にイリュウシナは膝蹴りを放ったのだ。 右手を抱え込まれたジャーメインにとっては、これ程までに厄介な事態もあるまい。 現役のスカッド・フリーダム隊員の膝を顔面などに突き込まれようものなら、 衝撃によって脳を破裂させられるかも知れなかった。 しかも、問題はただひとつではない。下手に身を捩っただけでも梃子の原理が働いて 肩から肘にかけて折れてしまう可能性が高いのだ。 「――ン……んん……っ!」 右肩が極まるのを感じながらも、ジャーメインは左掌でもって辛うじて膝蹴りを受け止めた。 この拍子に肩への捕獲が緩む。力任せにイリュウシナの腕を振り解いて 関節技から脱したジャーメインであるが―― 「ひうぅ……っ!」 ――今し方、直撃を被った掌打は、想定を上回るほど脳に痛手(ダメージ)を与えていたらしく、 間合いを離そうとした直後に視界が歪み、大きくよろめいてしまった。 この絶好の機会を見逃すほどイリュウシナも手加減はしていない。 ジャーメインに対して左半身を向けつつ跳ね飛び、大車輪の如き横回転で踵を振り落とした。 宙返りの状態から猛烈な蹴りを浴びせたのである。 異常に動作の大きい蹴り技である為、直撃させられる機会も滅多にないのだが、 著しく視界が歪んでいる現在のジャーメインでは防御も回避も困難だ。 「ふあ? ……んんんッ!」 果たして、全体重を乗せた踵で脳天を強打されたジャーメインは、 そのままうつ伏せに石畳へと叩き付けられてしまう。 この一撃で失神しなかったことは、奇跡と言っても差し支えはあるまい。 それ故にイリュウシナは追撃の手を休めない。 すかさず妹の真横へと身を滑らせ、遂に寝技でもって彼女の両腕を捕獲≠オた。 うつ伏せとなっているジャーメインの右腕を両脚で挟み込んで固め、 もう片方の腕を自身の両手でもって掴み、関節の可動域を超えて反り返らせたのだった。 骨法と言う武術の世界に於いては、その危険度から「鬼をも殺す」とまで恐れられる稀有の荒技である。 「あっ……ああっ……――あああぁぁぁァァァッ!」 ようやく意識が覚醒したジャーメインは、両腕が軋むのも構わず懸命になってもがくものの、 最早、独力でイリュウシナの寝技を外すことは不可能であろう。 両腕を同時に極められると言うことは、全身の機能の殆どが有効に使えなくなる状況にも等しい。 例えば、鳥が翼をもぎ取られたも同然なのであり、 端的に表すならば、絶望的な状況に陥ったと言うことであった。 左右どちらの腕も骨を折られないよう懸命に堪えているものの、 それとて何時まで続けられるか、分かったものではなかった。 全てはイリュウシナの胸三寸であり、未だに破談音を聞かないことがジャーメインには不思議なくらいである。 あるいは、そこに姉妹の情が表れているのかも知れない。 そして、当のイリュウシナは関節技を維持したまま身を動かしていき、 橋向こうで繰り広げられるアルフレッドとビクトーの戦いを目視し得る方角へと妹の顔を向けさせた。 「手出しだけは絶対に許さないけれど、……せめて、最期の姿は見届けてあげなさい。 ……ジャーメイン、それがあなたに出来るたったひとつのことなのよ」 「アルが義兄さんに殺されるところを指を咥えて眺めてろってコト!? ……ふざけないでよッ!」 妹に対する一種の情けなのか、それとも、裏切り者に対する制裁の措置なのか―― イリュウシナの真意は定かではないものの、身動きそのものを完全に封じられたジャーメインは、 アルフレッドが痛めつけられる様を厭でも見せられると言うことだ。 ここまで惨たらしい仕打ちを受ければ、誰であっても憤慨するであろう。 他の類例に漏れず、ジャーメインもまた高潮の警報を引き裂く程に大きな怒号を迸らせた。 「リュウ姉、何時の間にそこまで性格歪んじゃったのッ!? ぶっちゃけ、人格破綻もいいところだよッ!」 「誰に何を言われても構わないわ。スカッド・フリーダムの『義』は私たちが――」 「さっき、『何度繰り返したら理解するのか』って言ったわよね!? 同じ言葉をリュウ姉にお返ししてあげるよッ! ……こんなことに『義』なんかないッ! 今のスカッド・フリーダムはアウトローと同じだよッ!」 「……『義』を裏切っただけでなく、後ろ足で泥まで引っ掛けるつもり?」 「自分の胸に手を当ててごらんよッ! スカッド・フリーダムとか色んなしがらみを抜きにして、 リュウ姉は、今、自分の『義』が正しいって断言出来るのッ!?」 スカッド・フリーダムの隊員などではなく、イリュウシナ・バロッサと言うひとりの人間が 実の妹から『義』の在り方を問われていた。立場と言う名の呪縛から言わされた%嘯ヲは要らないと、 ジャーメインは訴えているのだ。 口では厳しく突き放しながらも姉妹の情を捨て切れないイリュウシナであるからこそ、 妹の言葉が心の奥深くまで突き刺さったのであろうか。彼女の表情(かお)は見る間に曇っていく。 その面には「動揺」の二字が浮かび上がっていた。 造船所の跡地で対峙して以来、初めて『義』に向けられた言葉で心が乱れていた。 「こんな汚い真似……ねぇ、こんなこと、義兄さんはホントに納得してるのッ!? 父さんか、新しい戦闘隊長あたりの命令で嫌々やらされてるんじゃないッ!?」 「ジャーメイン……!」 「さっきも顔色を見たけど、任務って言ってる割には、義兄さん、しんどそうだったよ! ……『義』を否定するようなことを自分の亭主にさせて、それでリュウ姉は平気なのッ!? そんな愛し方だけは絶対に間違いだって言い切れるよッ!」 「口を慎みなさい、メイッ!」 畳み掛けるようなジャーメインの追及を、イリュウシナは大声を張り上げて遮った。 人間と言う生き物は、何があっても隠し通したい部分に他者が触れたとき、 さながら自己防衛の如く癇癪にも似た反応を見せるのだ。 それこそが「図星を突かれた」と言う情況なのである。 ジャーメインが発した言葉とは、タイガーバズーカを出立する間際に イリュウシナ当人がビクトーへ訊ねたことと殆ど変わらなかった。 * 世界に混乱を振り撒く張本人、アルフレッド・S・ライアンを討滅する―― その決定にイリュウシナは真っ向から反対であった。 バロッサ家が置かれた状況も、これに伴う父の立場も長女として理解しているつもりであるが、 しかし、罰せられるべき罪を犯したとも思えない『在野の軍師』を 予防≠フような形で抹殺することだけは断じて受け入れ難い。 誰がどう考えても、世界秩序の護り手の『義』に反する振る舞いであろう。 白虎穴では家族以外の人間の目もあった為、不愉快な誤解を招かないよう恭順の姿勢を貫いていたが、 自宅であれば誰に気を遣う必要もあるまい。 ビッグハウスへ出発した後のビクトーの任務は、 『ヤールギュレシ』の使い手――俗にオイルレスリングとも呼ばれる格闘術だ――であり、 長年の友人でもあるホドリゴ・バーズタウンが引き継ぐことになったのだが、 その打ち合わせの最中を狙ってイリュウシナは夫の書斎へと怒鳴り込んだ。 ホドリゴは普段から冠鷲の頭部を模した覆面を被っているので表情(かお)を確かめにくいのだが、 それでも突然の出来事に動転していることだけはイリュウシナにも分かった。 扉打(ノック)もせずにいきなり踏み込んだのであるから、 飛び上がって驚いて貰わなくては張り合いがないと言うものだ。 しかも、足音を立てず、気配すら完全に消して扉の前に立つと言う周到さであった。 「ほたえなっ! わしゃ、今ので寿命が三年縮んでしもうたきっ!」 わざと驚かすような真似はしないで欲しいと注意を飛ばしてくるホドリゴを黙殺し、 イリュウシナは最愛のビクトーを睨み据えた。 流石は夫婦と言うべきか、ビクトーのほうは愛妻の接近を感じ取っていたらしく、 胸の辺りを撫でているホドリゴとは正反対に落ち着いた様子である。 「コーヒーを淹れて来てくれたわけではなさそうですね。 何を言いたいのか、大体は察していますが――とりあえず、突っ立っていないでお座りなさい」 このような形で怒鳴り込んでくることまで予想していたビクトーは、 自身が座っていたソファへとイリュウシナを手招きする。 妻にソファを譲ったビクトーは、そのまま壁際に置いてある安楽椅子(アームチェア)に移った。 読書を好む彼は、新刊を購入すると、決まって件の椅子に腰掛けてから包み紙を解き始めるのだ。 「こがなことではナイショ話も何もあったもんじゃないき。 おまんもスカッド・フリーダムの一員じゃったら、ちっくと配慮言うもんを考えて欲しいぜよ」 書斎の中央に置かれたガラステーブルを挟んで向かい側のソファに腰掛けるホドリゴは、 イリュウシナに対して故郷言葉(おくにことば)で文句を続けている。 未だに心臓は早鐘を打っているらしく、覆面の隙間から冷や汗が滑り落ちていった。 ビクトーの書斎は、来客を応接する為の環境も整えられている。 ホドリゴとは家族ぐるみの付き合いでもあり、平素であればリビングルームに案内するところだが、 最重要の任務にも関わる内容を論じ合うだけに聞き耳を立てられるわけにも行かず、 声≠ェ漏れる危険の少ない書斎へと通した次第である。 尤も、ドアの施錠を失念していたのは部屋の主の落ち度であり、 「ある意味、リュウで助かったのかも知れんの。これが本物のスパイじゃったら、わしらは終わりぜよ」と ホドリゴから揶揄されると、一言も弁明せずに頭(こうべ)を垂れた。 「……ビクトー、あなた、本気でエヴァンゲリスタに従うつもりなの? ビターゼさんが指摘した通り、ライアンには悪≠ニして罰するだけの根拠が殆どないわ。 それを私刑(リンチ)同然のやり方で始末するなんて――ここまで『義』をバカにした話なんかないわ!」 ホドリゴの存在は視界にも入らないと言うのか、 イリュウシナはビクトーただひとりに向かって憤りをぶつけていく。 当のホドリゴは除け者のような扱いを受けたことで気分を害するどころか、 神妙な面持ち――覆面から察せらる感情の断片と言うべきか――でイリュウシナの言葉に耳を傾けていた。 民を護ることに誇りを持って戦ってきたスカッド・フリーダムが 「いつか災いをもたらすかも知れない」と言う極端に曖昧な理由で暗殺に手を染めることを、 イリュウシナとホドリゴは承服出来ないでいるわけだ。 そもそも、暗殺などと言う穢れた手段も正義の味方≠ェ取るべきものではあるまい。 「反対意見があるなら、その場で言わなくては何の意味もありませんよ、リュウ。 私は戦闘隊長ではないのですから、任務内容を再考する権利も持ち合わせていませんしね」 「白虎穴(あんなところ)じゃ言いたいことも言えないから、自宅(ここ)で言っているんじゃない! ……それに現在(いま)のバロッサ家の立場じゃ何を言ったって意味がないわよ。 そんなこと、ビクトーだって分かっているでしょう?」 「……ですから、私も戦闘隊長の号令に頷いたのですよ。今、考えられる最善の道だと信じてね」 『在野の軍師』の抹殺と言う任務に『義』は在るのか―― この問題について、己自身が如何に感じているのかを明言せず、 「考えられる最善の道」とだけ口にしたビクトーは、 イリュウシナから顔を背けるような格好で窓の外に目を転じた。 山深い秘境たるタイガーバズーカには、数え切れない程の武術の道場が点在している。 誰よりも強い武術家、ひいては義の戦士となるべく若者たちが稽古に励む場が、だ。 正義の味方≠志す者たちの気合いの吼え声がバロッサの邸宅にまで聞こえてくるようであった。 嘗てのビクトーも数多の道場を巡り、心身に磨きをかけたものである。 「佐志を操るのに邪魔だから、件の青年を取り除きたいだけじゃないのかしら、戦闘隊長は。 ロクサーヌの調査報告を聞く限り、佐志の軍勢を切り盛りしているのはライアンみたいじゃない。 少弐(しょうに)と言う町長も彼に頼りきりの様子だし、……そう言う意味ではエヴァンゲリスタには邪魔よね」 その背に向けて、イリュウシナは正義の味方≠ニは掛け離れた内容(こと)を語りかけた。 そもそも、自分たちに課せられた任務とて正義の味方≠ニは真逆のものなのである。 だからこそ、彼女は憤懣を爆発させたのだ。 「滅多なことを言うものではありませんよ。確かにエヴァンゲリスタは佐志と手を結びたがっています……が、 別にアルフレッド・S・ライアンの生命を奪わずとも彼の目的は達成されるでしょう。 難民支援に向けたネットワークにも佐志は協力的だと伺っていますよ」 「でも、『将来的にはどうなるか分からない』――でしょう? ライアンがスカッド・フリーダムと手を切れと進言したら、少弐は確実に飲む筈よ。 彼はテムグ・テングリや、……シュガーレイたちとも親しい。 味方にするほうを選ぶとしたら、間違いなく私たちは弾かれるわ」 現戦闘隊長への疑念を並べ立てていくイリュウシナは 角張った骨組(フレーム)のメガネを愛用しているのだが、 そのレンズが窓から差し込む陽光を反射し、一切の表情を覆い隠そうとする。 レンズに陽の光を映し込んでいる為、余人には双眸の様子が殆ど解らないのだ。 瞳の動きと言うものは、ときとして口よりも物を語るのである。 「戦局を動かすのに使える道具≠ヘシビアに見定めるタイプじゃない、彼。 ロクサーヌの調査レポートを読めば一目瞭然だけど、要不要の選り分けは良くも悪くも冷徹よ」 「つまり、義の戦士は不要と言うことですか。本当にそのような評価を下されたのなら、 これほど悲しいことはありませんね」 「だから、エヴァンゲリスタには困るのよ。佐志は――海運の要衝は押さえておきたい様子だもの。 その懸念を潰す為の計略だとしたら、……こじ付けとしか思えない抹殺の根拠だって腑に落ちるわよ。 戦闘隊長が危惧しているのは佐志を利用出来なくなる可能性ね」 「……ソファではなくて、こちらの安楽椅子を譲るべきでしたね。 ここに腰掛けて今の推理を披露してくれたなら、晴れて名探偵の誕生です」 「ライアンの一味には名探偵ピンカートンも加わっているのよね。 私はヒュー・ピンカートンにはなれないけれど、これだけはハッキリと言えるわ。 ……エヴァンゲリスタ・デイナ・シュマンツは、腹の底で何を企んでいるのか、分かったものじゃない。 彼はスカッド・フリーダムの『汚れ仕事』を引き受けてきた男なのよ」 「……リュウ、キミは……」 「ロンギヌス社にピーチ・ファンダメンタルなんて言う得体の知れない輩とつるみ始めて、 今度は海運の要衝まで押さえた。極め付けは佐志を利用するのに邪魔な人間の排除―― スカッド・フリーダム本来の隊務から随分と離れてきたけど、 シュガーレイが戦闘隊長だった頃には考えられないことばかりよね」 言い方をひとつ間違えただけで大変な誤解を招くような内容(こと)にもイリュウシナは踏み込んでいく。 この場にはホドリゴも居合わせており、今し方の発言を糾弾される可能性も十分にあった。 それでも、彼女の物言いには遠慮がない。さりながら、ホドリゴの存在を無視しているわけではなく、 彼もまた自分と同じ考えに違いないと確信しているのだ。 果たして、ホドリゴは「ぼっこうな発想じゃけんど、ごっついハズレ言うわけでもないかも知れんのぉ」と、 覆面の裏の表情(かお)を歪めて見せた。 総帥とその補佐に次ぐ位階の人物が批判の対象である為、具体的に戦闘隊長の悪辣ぶりを挙げることはなく、 ただ曖昧に頷くばかりのホドリゴであったが、それでも同意に違いはない。 事実、ホドリゴ以外の隊員の中にもエヴァンゲリスタのやり方に疑問を持つ者は多い。 ジャーメインの親友であるトーニャや、シルヴィオの一件で憎悪を抱くカリームは言うに及ばず、 『在野の軍師』の身辺を調査したロクサーヌですら、 己の報告を抹殺の根拠として鵜呑みにはせず、慎重に吟味して欲しいと幾度も繰り返していた。 ある種の消極的な態度には、現戦闘隊長に対する警戒も含まれているわけだ。 エヴァンゲリスタに近付き過ぎることは、どう考えても危うい――それがロクサーヌの判断であろう。 先日、白虎穴へ参集した隊員の中で彼を庇ったのは、クラリッサ・バルバドスくらいである。 「わしゃ、白虎穴には呼ばれんかったき、偉そうにペラペラと語る資格は持っちょらんけんど、 ……のぉ、ビクトー。今のままでほんまにえいがかえ? このまま隊がおかしゅうなってしまうんではないか、わしゃ、心配で堪らんぜよ」 直接的にエヴァンゲリスタを批難することだけは避けたものの、 ホドリゴとてスカッド・フリーダムの行く末には不安しかなく、 心に抱えた鬱屈を少しずつ吐露していった。イリュウシナの言葉が呼び水となったのだろう。 数多の道場を望める窓からホドリゴへと目を転じ、次いで愛妻の顔を見つめたビクトーは、 何か語ろうとして口を噤んだ。 イリュウシナが口にした『スカッド・フリーダムの汚れ仕事』と言う意味を、 七導虎の一角を担う彼は誰よりも解っている。それ故に頭を振り、重苦しい溜め息を吐いたのである。 「……汚れ仕事を――いえ、人間の穢れた面を知っていればこそ、 己の正義を研ぎ澄ませることが出来るのではありませんか? 闇に触れた者だから光の尊さを学べるのだと、私は信じています」 「汚れ仕事をやらされた人間≠ノ積もるのは負の感情だけよ。 あなたが語ったような夢のある話、そうそう現実には転がっていないわ。 ……彼が自分と同じ境遇≠フ人間まで七導虎に引き入れたこと、忘れたわけじゃないでしょう?」 「そこで妙な陰謀論なんて持ち出さないで下さいよ」 「私はね、それが正解に一番近いと思っているのよ。何を企んでいるのかは見えてこないけれど……」 現戦闘隊長――エヴァンゲリスタが『義』を真っ当し得る可能性を 悉(ことごと)く切り捨てていくイリュウシナに対して、ビクトーは悲しげな顔を向けた。 「……では、キミは義の戦士として命じられた任務を放棄すると言うのですね。 新しい戦闘隊長を信用し切れないと言う個人的な感情だけで」 「そんなことは……ないけれど……」 「ホドリゴ、キミもですよ。良い大人なのですから、心配事くらいは自分で解決しなさい。 キミには将来を変えるだけの力も心も身に着いている筈ですよ?」 「おまんはまっこと澄ました顔で調子のえいことを言いゆう。 そがなはしかいことを言われち、わしゃ、もう何も返せんき」 「お分りでしたら、我々が為すべきことはただひとつ。 未来を担う後輩たちが道を誤らないよう真(まこと)の『義』を貫き通すこと――でしょう?」 イリュウシナもホドリゴも、子どものように駄々を捏ねるつもりはなかった。 『在野の軍師』ことアルフレッド・S・ライアンの抹殺は、 総帥補佐たるイゴール――イリュウシナにとっては実の父である――の権限に於いて決定されたものである。 即ち、タイガーバズーカを不在にしているテイケン総帥の名代が下した判断と言うことだ。 戦闘隊長のエヴァンゲリスタが提言し、 イゴールが頷いた瞬間から抹殺指令は神聖な任務となったのである。 これを拒むことはスカッド・フリーダム本隊に対する背信にも等しく、 義の戦士にとっては絶対に超えてはならない一線なのだ。 万が一にも背信の領域へ踏み込んでしまったなら、 パトリオット猟班と同じ裏切り者≠フ烙印を押されることになるのだった。 それはタイガーバズーカに生まれついた人間にとって永久追放にも匹敵する重罰である。 「ほりゃあそうけんど、ビクトー。道自体が間違っちょったら、不幸な若モンが増えるだけぜよ。 先輩をこうべりたいなら、後輩が歩む道にも責任を持たのうてはならんちや」 しかし、任務はあくまでも一時(ひととき)の出来事であり、 スカッド・フリーダムの行く末とは別問題と捉えるべきであろう。 世界の秩序を乱すと言う『在野の軍師』を仕留めたところで、 エヴァンゲリスタに対する猜疑――もっと言えば、不信感が解消されるわけではないのだ。 ホドリゴから突きつけられた指摘には、問題の摩り替えに対する注意も含まれている。 義の戦士たちが抱えた内憂とその病理を無意識に避けようとしていたことに気付かされ、 ビクトーは己の迂闊を愧じるように俯いた。 「……得心のいかない部分も全てひっくるめて、私たちはスカッド・フリーダムなのです。 自分で自分の『義』を疑ってしまったなら、秩序と言う大きな道さえも閉ざされてしまうでしょう。 そのとき、犠牲になるのは義の戦士ではなく力弱き民なのですよ」 「アルフレッド・S・ライアンを――罰せられる理由に乏しい一市民を殺めた後、 私たちは今までと同じように正義を唱えられなくなっているのではないかしら。 ……護民官としてのスカッド・フリーダムが死のうとしている気がして怖いのよ、私は……」 スカッド・フリーダムが『義』の道を見失ったときこそ世界の秩序は終焉を迎える―― 己に言い聞かせるようにして喉の奥から搾り出した呟きは、 最愛の妻の口より発せられた憤りの声によって咬み砕かれてしまった。 * スカッド・フリーダムの現状にも、現戦闘隊長のエヴァンゲリスタにも 不信感を拭えないイリュウシナであるが、しかし、己の論だけが正義と誇示するような愚か者でもない。 最愛の夫が言わんとした意味も理解しているのだ。 だからこそ、誤っているとしか思えない任務にもビクトーがグンダレンコと共に臨んだのである。 ビクトー自身も様々な思いを抱えているのだろう。 「得心のいかない部分も全てひっくるめて、私たちはスカッド・フリーダム」と言う呟きからは、 この任務に寄せる複雑な感情が察せられた。 何より彼がバロッサ家の犠牲と言う側面も否めないのだ。 義の都の名門でありながら裏切り者≠出してしまった責任を一身に受け止めたのである。 ビクトーにバロッサ家と言う名の罰≠背負わせた張本人――ジャーメインにだけは、 夫の決意を貶めるようなことを言って欲しくなかった。そればかりは何があろうとも許してはおけなかった。 本来ならば、身内に対する愛情は平等であるべき筈なのだが、 現在(いま)のイリュウシナの中では、 妹に掛けてきた情けが夫への愛と罪悪感で押し潰されようとしている。 「……今のあなたは単なる足手まといに過ぎないわ、メ――……ジャーメイン。 ましてや、スカッド・フリーダムを捨てた裏切り者と言う身の上。 『義』を語る資格すら持たない分際で、ビクトーの何が分かると言うのッ!?」 「ん……んん――はッ……ぁうゥっ!」 その不愉快な感情を気取られたくないのか、イリュウシナは今まで以上に冷たく妹を突き放し、 これと連動させるようにして両肩を極める力を一等増していった。 「鬼をも殺す」と恐れられる関節技から逃れることは、最早、不可能のように思えてならない。 ジャーメイン当人も今まで経験してきた全て戦いの中で最悪の窮地に陥ったと自覚している。 打撃の応酬で競り負けそうになったのであれば、まだ挽回の可能性も残されていると言えるだろうが、 今度ばかりはどうしようもない。全くと言って良いほど身動きが取れなくなっているのだ。 「足掻けるだけ足掻いて、自分がどれだけ無力で浅はかなのか、思い知るが良いわ。 ジャーメイン、今のあなたは足手まといと呼ぶにも値しない有象無象なのだから」 姉から言われるまでもなく、ジャーメインは現状を打開するべく懸命に抗い続けていた。 寝技に持ち込まれた直後からホウライの発動を試みてはいるものの、 蒼白い稲光が走ったかと思うと、次の瞬間にはヴィトゲンシュタイン粒子に還ることもなく消滅してしまう。 この繰り返しがずっと続いていた。鬼をも殺す寝技で妹を完全に捕獲≠オたイリュウシナは、 同時に『ホウライ外し』をも併用しているわけだ。 しかも、一瞬たりともジャーメインにホウライの恩恵を受けさせないと言う徹底した封じ方である。 これこそまさしく八方塞と言う状況(もの)であろう。 それ故に「足手まといと呼ぶにも値しない」と言う姉の痛罵が堪えるのだった。 ジャーメインを戦闘不能の状態に至らしめた後、 イリュウシナはグンダレンコとふたりがかりでザムシードを倒そうとする筈だ。 わざわざ一対一の勝負を見守る理由もあるまい。 馬軍の将たるザムシードは、この場に居合わせる全ての人間を驚愕させる程に善戦していたが、 しかし、バロッサ家が誇る双子から同時に攻められようものなら、流石に勢いを絶たれるに違いない。 そうなれば、いよいよアルフレッドに加勢する手立てを失うのだ。 そのアルフレッドは七導虎屈指の強豪を相手に際どいところで持ち堪えている。 円軌道の動きに飲み込まれ、続く正拳突きで吹き飛ばされて動かなくなったときには 血の気が引いたものだが、立ち上がった現在(いま)では殆ど互角に近い格闘戦を演じていた。 ホウライには頼れない為、地力のみでケンポーカラテの技とぶつかり合い、 「削り取る」と表すのが相応しいような速度ではあるものの、 少しずつビクトーに痛手(ダメージ)を刻み込んでいるのだ。 あらゆる攻め手を駆使しながらも敢えなく押さえ込まれた自分とは大違いだ――と、 ジャーメインは歯噛みするばかりであった。 「姉相手に戦えないと腰が引けているから、そんな体たらくになるのだ。 情けない声ばかり上げていないで、身内の屍を踏み越えるくらいの気合いを見せたらどうかね」 「お、おじさんだって、結局、レン姉を倒せてないじゃん! あたしばっか責めるのはフェアじゃないでしょ!?」 「こちらはじっくりと戦っているだけさ。確実に――いや、着実に敵の数を減らしていかねばなるまいよ。 ライアンだって今からの連戦≠ヘ厳しいだろうからね」 一方のザムシードは、完全に体勢を立て直したように見えるアルフレッドの姿に安堵していた。 『在野の軍師』の戦闘力は実際に拳を交えたザムシードも良く理解している。 伝説の勇者――『ワカンタンカのラコタ』に最も近いと謳われたフェイ・ブランドール・カスケイドをも 打ち負かした男なのだ。このまま喰らい付いていれば、いずれは奇策を講じて勝機へ繋げるに違いない。 問題はその後である。アルフレッドの勝利だけは疑わないが、しかし、満身創痍となるのは明白だ。 つまり、スカッド・フリーダムにとって千載一遇の好機と言うことである。 どうやら、造船所跡には、七導虎の一角と壁≠フ役割を担う双子の姉妹以外にも 伏兵が潜んでいる様子である。幾多の合戦場を潜り抜け、 その中で直感を鍛えたザムシードだけに僅かな殺気すらも拾い上げることが出来るわけだ。 疲弊し切ったところに新手が襲い掛かったなら、如何にアルフレッドと雖も一溜まりもなかろう。 今後の戦局を踏まえて判断すると、せめてバロッサ家の姉妹の片方だけでも潰しておかなくてはなるまい。 「あらあら、こっちも火が入っちゃのかしらぁ〜」 ザムシードの闘志が――否、殺気が膨らんだことをグンダレンコも感じ取ったのであろう。 蒼白い稲光を帯びた右下段蹴りでもって彼の左向こう脛を脅かそうとした。 ホウライの効果は術者の創意と工夫によって無限大に広がっていく。 直接的に打撃の威力を高めれば、人間の足の骨など一撃で叩き折ることさえ可能となるのだった。 尤も、数え切れない程の合戦場を渡り歩いてきた馬軍の将の肉体は、 ホウライの恩恵だけで軋むほど貧弱ではない。敢えて左脛に強撃を受け、これを耐え凌ぎ、 その後(のち)にわざわざ蹴られた側の足でもって踏み込んでいくのだ。 報復とばかりに打ち込まれた直線的な右拳打に対し、素早く回転しつつ後方に逃れ、 退いた先から瞬時にして間合いを詰めたグンダレンコは、 横薙ぎに振り抜かれた迎撃の左拳をも身を屈めて避け切ると、 ザムシードに背を向けつつ暴れ馬の如く後ろ足を振り上げた。 果たして、蒼白い稲光を纏った蹴りがザムシードの腹に直撃し、 その身は火花の炸裂と共に高く跳ね上げられた――が、 圧倒的な不利な状態すら馬軍の将は反撃の好機に変えて見せる。 突如として空中で逆様となり、そこから拳打を繰り出したのである。 両足が大地から離れている為に踏み込みによって勢いを付けることは出来ないものの、 上半身のバネを一度に限界まで引き出せば、無理な姿勢から仕掛ける打撃でも 小手先の技(もの)ではなくなると言うことだ。 事実、この拳打を後頭部に喰らったグンダレンコは、ほんの一瞬ながら大きく身を傾がせている。 これまでの攻防の中でも桁違いの痛手(ダメージ)だったのであろう。 「ライアンより遅れて二着でゴールするのは見っともないからな。 『じっくり』の次は、ぼちぼち仕上げに入るとしようかぁ」 着地の直後に襲ってきた反撃の蹴り足を最小の動作(うごき)による拳打で弾いたザムシードは、 ここから先の展望を静かに呟いた。 「――二着? ……生憎とゴールテープを切るのはうちの亭主よ。 本気になったビクトーは、もう甘くないんだから」 アルフレッドの逆転を信じて疑わないザムシードの呟きが聞こえたのであろう。 イリュウシナは彼の零した言葉を一笑に付した。 不吉としか思えない内容(こと)をイリュウシナより投げ付けられたザムシードの双眸は、 この予言が的中する様を――またしてもケンポーカラテの猛威に押され始めたアルフレッドの姿を捉えた。 「おい……ライアンッ!?」 「あらあらぁ、ビクトー君ったら、すっかり本気のスイッチが入っちゃったみたいねぇ〜。 それだけ彼≠ェ本物ってことかしらぁ。いいわねぇ、武術家として一番の幸せよねぇ」 何とか互角の格闘戦にまで持ち込んだと思ったのも束の間、再び形勢が入れ替わり、 先程まで勢いに乗っていたアルフレッドが今では防戦一方となりつつある。 「んっ……ふぐぅ――あっ……ア……ル……アルぅ……っ!」 生命が削られていく様を双眸にて確かめるよう強要されるジャーメインは、 両肩から全身に拡がって行く軋みに喘ぎながら、アルフレッドの名を連呼するのみであった。 イリュウシナとグンダレンコが口を揃えて「本気」と語った通り、 これまでの戦いが小手調べであったかのようにビクトーの動作(うごき)が再び加速し始めた。 絶え間なく拳打や蹴りをアルフレッドに浴びせ、 彼の身を釘付けにしたと見て取るなり水平に右手刀まで繰り出している。 全円を描く一閃もまた円軌道の技に他ならず、 後方に飛び退っていなければ、今頃は首を刎ね飛ばされていたことだろう。 横一文字に薙ぎ払われた斬撃≠ヘアルフレッドの胸元を微かに抉り、そこから赤黒い飛沫が舞った。 正拳突きでもって胸部を抉られた際、内側に血が溜まってしまったのだろう。 傷の深さと比して、余りにも出血量が多過ぎるのだ。 これを致命傷と勘違いしたジャーメインは、発狂したのではないかと心配になるような悲鳴を上げた。 「我が義妹(いもうと)ながら、いちいち騒がしいものですね。こんな程度で終わる筈がありません」 「……ああ、そのどちらにも賛成だ」 義妹の絶叫に辟易した様子で溜め息を吐いたビクトーは、 アルフレッドが着地する瞬間を狙って拳を突き込んでいく。 アルフレッドの側も迫り来るビクトーの動き自体は見極めていたのだが、 しかし、再び跳ね飛ぶだけの時間はない。回避どころか、防御すらも間に合わず、 深手を負った胸部に強撃を重ねられることは明白であった。 「――ちぃッ!」 事ここに至っては、最早、地力以外の要因に頼るしかない―― 遂にアルフレッドは足裏にてホウライを炸裂させ、 これによって本来ならば不可能な筈の回避運動を試みようとする。 足裏にて発生した強烈な推力は、アルフレッドの身を安全な場所まで瞬時に運んでくれることだろう。 ビクトーが眉間に皺を寄せ、何かを強く念じたのは、アルフレッドの両脚に蒼白い稲光が宿った瞬間である。 その直後、ホウライの煌きは見る影もなく消滅してしまった。 歴(れっき)とした『ホウライ外し』である。 熟達者ともなると、直接的に相手の身に触れていなくとも相手のホウライに干渉し、 その効力を打ち消してしまえるのだ。 ホウライを生み出す――トラウムの具現化にも欠かせないのだが――ヴィトゲンシュタイン粒子とは、 普段は不可視であるだけで、ありとあらゆる空間に漂っている。 それはつまり、互いの術にも干渉し易いと言うことであった。 ヴィトゲンシュタイン粒子を一種の触媒として相手のホウライと繋がり、 その効力を操作あるいは消滅させるわけだ。 程度の低い悪役ならば、驚天動地の不意打ちと言うことでアルフレッドを嘲り、 この場で種まで明かして勝ち誇ったことだろう。 ビクトーの場合は、寧ろ、そうした人間を心底から忌み嫌っていた。 ただ一度、『ホウライ外し』を成功させただけであり、取り立てて喜ぶものではないとも考えている。 ホウライを仕損じたアルフレッドを謗るのでもなく至って冷静なビクトーは、 横薙ぎの拳でもって鋭角に彼の横っ面を捉えた。 嘗て『トレイシーケンポー』のシルヴィオが披露したものと同質の技である。 ビクトーの拳もまた半円を描き、そこから尋常ならざる殺傷力を生み出していた。 「首の骨まで軋む程に重い――だがなッ!」 「ほう……ッ!」 案の定と言うべきか、防御も回避も出来ずに顔面を強か殴打されたアルフレッドは、 大きく仰け反るような体勢のままで右の足裏を突き出し、ビクトーの左膝を踏み付けにした。 無理な体勢から蹴り込んだので、当然ながら膝関節を破壊する程の威力はない。 追撃の為に前進してくるであろうビクトーの動きを食い止めることが出来れば、それで成功なのだ。 膝の突き上げによって蹴り足は弾かれてしまったが、それでもビクトーを釘付けにすることは出来た。 守りから攻めへと転じるには、その一瞬の減速だけでも十分なのである。 「――おあぁァッ!」 左足を軸に据えて駒の如く全身を旋回させたアルフレッドは、 ビクトーの顔面目掛けて轟然と右の蹴り足を繰り出していく。 やや姿勢を傾けつつ、高く持ち上げた右足を鎌のように振り落とす変則的な後ろ回し蹴りだ――が、 これは陽動(フェイント)に過ぎなかった。直撃するか否かと言う瞬間に軸足でもって半歩ばかり踏み込み、 次いで姿勢をも変え、縦一文字に右踵を落とした。 上段後ろ回し蹴りからの踵落としはビクトーの虚を衝いたらしく、 円軌道を伴う返し技は使わずに後方へと退ることで紫電の如き一撃を避け切った。 この時点でアルフレッドは軸足に据えていた左足が前に出ている。 踵落としに用いた左足は接地と同時に奥足≠ニなった次第である。 そして、彼はビクトーに対して右半身を開きつつ、前方に出した左足と同じ側の拳を速射した。 しかし、純粋な拳打と言うわけではない。よくよく観察すると、人差し指と中指を突き出しているではないか。 二本指でもってビクトーの双眸を抉るつもりなのだ。 さしものビクトーも光≠奪われる事態だけは避けねばならなかった。 ジークンドーとケンポーカラテ――両武術の宿命を受け入れた以上、 片目くらいは捨てても悔いはないのだが、間違いなくイリュウシナは激怒し、悲嘆に暮れるであろう。 戦士の勲章とは雖も、家族にとっては一生ものの怪我≠ヘなるべくなら避けて欲しいものなのだ。 複雑な想いを押し殺してまでビッグハウスに同行してくれた最愛の妻を、 これ以上悲しませることは出来ないと、ビクトーは頭を横に振って目突きを躱した。 だが、回避と言う一動作を強制的に挿入させられたことで技の拍子は崩れてしまっている。 それはつまり、アルフレッドにとって千載一遇の好機と言うことなのだ。 懐まで潜り込んだ彼が次に放つ技はただひとつ――相手と殆ど密着した状態から拳を添え、 一瞬で振り絞った全身の筋力を破壊の牙に換えて突き出す『ワンインチクラック』である。 「この勁≠煬ゥせてやる――」 「――それは光栄……ッ!」 鳩尾にワンインチクラックを叩き込まれたビクトーであるが、 口と鼻腔より鮮血を迸らせつつもその場に踏み止まり、 アルフレッドの全身を拳あるいは蹴りでもって滅多打ちにする。 全身の筋肉を瞬時にして爆発させると言う技の性質上、 ワンインチクラックを放つには根を張るように大地を踏み締めていなくてはならない。 渾身の力で踏ん張りを利かせる一瞬だけは、完全に身動きが止まってしまうのだ。 このただひとつの弱点をビクトーに見抜かれ、狙い撃ちにされた次第である。 「まともに入ったと思ったんだがな」 「我慢比べなら私も得意なんですよ。噂に名高いワンインチパンチも一度は味わってみたかったもので」 「余裕の発言か? 底抜けに厭味な奴め」 「歪んで受け取るものですね。私は本当に見てみたかったのですよ、ジークンドーの神髄を」 「成る程、私刑を楽しむクチか。……悪趣味にも程がある!」 身体が左右に振り回される程の強撃を被り続けるアルフレッドだったが、 ビクトーの拳が円軌道を描いた瞬間には巧みに躱し、負けじと殴り返していく。 己の攻撃が届かない側面まで回り込まれ、そこから拳や肘、手刀が降り注いでも、だ。 「な……にを釘付けにされてんの……ッよ! ボコボコにされて……情けないったらありゃ……しないわッ!」 ジャーメインの叱咤が再び鼓膜を叩いたとき、アルフレッドは遂に後方へと退った。 「……釘付けにされているのは自分のほうだろうに――」 一方的に重ねられていく痛みに堪り兼ねたのか、はたまた彼女の声に心を動かされたのか、 それは定かではない――が、彼の口元には何故か薄い笑みが浮かんでいた。 「……おや? メイの声には応えてくださるのですか。我が義妹ながら果報者ですねぇ」 「阿呆か、貴様……」 半身を開きながら大きく踏み込み、後ろに引き付けた左拳でもって全円を描こうとするビクトーであったが、 その直前にアルフレッドが奇怪な行動を取った。横薙ぎの拳が振り抜かれるであろう先に跳ねたのである。 安全な場所へと身を映して攻撃を避けるのではなく、予想される軌道に自ら立ったのだ。 全円を描くと言うことは、つまり最大の威力を発揮し得る状態である。 相手にとって最も有利な位置に己の身を晒すなど自殺行為以外の何物でもないのだが、 アルフレッドは迫り来る左拳に右掌打を合わせ、接触するや否や、後方へと大きく退いた。 すると、またしても奇怪な現象が起こった。攻めかかっていた筈のビクトーの上体が アルフレッドに引っ張られるようにして極端に前傾したのである。 ビクトー自身にも思い掛けない事態であったのだろう。 「……ほうっ!」と嬉しさや驚きを綯い交ぜにしたような溜め息を零している。 これが綱引き競技であったなら、ビクトーは間違いなく敗れていたことだろう。 全くと言って良いほど踏み止まれず、綱ごと身体を引き摺られた―― 周りの者たちには、そのように見えた筈だ。 しかし、ホウライを使ったわけでもなければ、掌が相手の拳に吸い付くと言った奇術の類でもない。 攻め寄せてくる相手の勢いを自身の側に引き込んでしまうと言う武技の一種なのだ。 (敵の動きを呑み込む技は、貴様の専売特許ではないぞ、ケンポーカラテ……!) 果たして、この筋運びこそが『在野の軍師』の計算であった。 ここに至る道程を頭の中で組み立て、その上でビクトーに罠≠仕掛けたのである。 相手の勢いを引き込むと言うことは、ただ単に身を傾がせるだけではない。 そこに生じた力をも吸収し、我が物にしてしまうと言うことだ。 ビクトーの拳打を引き付ける過程で、アルフレッドの四肢には暴発を危ぶむ程の力≠ェ溜められている。 折り曲げた肘は、言わば矢を番えて引き絞った弦の如き状態である。 相手より掛けられた力≠吸収し、己の身に移すと言う技巧(わざ)も奇術などではなく、 あくまでも物理的な現象であった。これもまた「相手の勢いを利用する」と言うことなのだ。 掌より伝達されてきた力≠殺すことなく四肢に蓄積させたアルフレッドは、 一種の反動と言う形でこれを解き放つ。彼が繰り出したのは右肘であったが、 その速度は電光石火の域にまで達し、ビクトーのこめかみを深く抉った。 「キミは実に面白い。身体の芯まで痛みが響きます……我々≠ヘそうでなくてはッ!」 「ニヤけるな、気色悪い! どこぞの肉団子を想い出すッ!」 人体急所のひとつから鮮血が噴き出そうとも、裏を掻かれようともビクトーは決して倒れない。 追撃を図るアルフレッドよりも身のこなしは疾(はや)く、 『バタフライストローク』なる三連打が放たれる寸前には既に迎撃態勢を整えていた。 速射砲の如き速度で右拳を突き込み、抉ったばかりのこめかみを狙って同じ右手の甲を放ち、 この裏拳の後(のち)には頚椎を圧し折るべく手刀へと変化する――それがバタフライストロークである。 同じ腕を素早く撓らせ、立て続けに打撃を見舞う技であるが、 いずれもビクトーに痛手(ダメージ)を重ねることは出来なかった。 最初の拳打にビクトーは左掌打を合わせ、そのまま肘を突き上げて裏拳を受け止め、 三撃目の手刀には対の右拳を鉄槌の如く叩き付けたのである。 「小癪なッ!」 「心外ですね。技の駆け引きはお互い様でしょう」 正面切っての力比べとも言うべき攻防は、おそらく傍目には相撃ちと見えたであろう。 しかし、アルフレッド自身は完全に競り負けたと捉えている。 己の手刀と彼の右拳が激突した段階で、本来ならばアルフレッドの身は宙を舞っていた筈なのだ。 瞬間的に体重を垂直落下させて己を錘≠ニ化し、弾き飛ばされることなく踏み止まった次第である。 直後に横薙ぎの右拳が半円を描いたが、左下腕――右掌を添えて衝撃の緩衝も試みる――でもって アルフレッドは何とか凌ぎ、この流れの中で再び体重を垂直に落とした。 今度もまた吹き飛ばされずに済んだものの、 これはつまり、相手の攻撃による威力が身体の芯まで浸透すると言うことである。 身体ごと宙へと弾かれた場合、破壊の力も外へと逸れていくのだ――が、 その場に踏み止まった場合、逃げ場がないので尋常ではない衝撃が押し寄せてくるわけだ。 過剰に痛手(ダメージ)を受け、己の四肢が軋む音を聞くことになったアルフレッドだが、 無理を押してでも踏ん張るだけの値打ちはあると当人は考えている。 ビクトーとの密着状態は維持し続けており、懐に潜り込むのも容易い状態だ。 全ては次なる強撃への布石なのである。 アルフレッドが左肩から突進を試みると、先程の技を警戒したビクトーは彼の左側面へ回り込もうとする。 この動作(うごき)を見て取ったアルフレッドは、 地を揺らす程に強くビクトーの右足甲を左足にて踏み付け、 読んで字の如く「足止め」にすると、続けて同じ側の拳を彼の脇腹に添えようとした。 それはワンインチクラックの構えに他ならない。もう一度、左拳でもって必殺技を見舞おうと言うのだろうか。 斜め下から突き上げるような体勢へとアルフレッドは移行しつつある。 「――そこでワンインチだと!? ……焦るな、ライアンッ!」 グンダレンコの蹴りを防ぎつつアルフレッドの戦いを見守っていたザムシードが思わず注意を飛ばした。 全身の筋肉を起爆させ、一インチ程度の隙間しかない密着同然の状態から 圧倒的な破壊力を叩き込むこの拳打は、まさに「必殺技」と呼ぶのに相応しいものである。 これはワンインチクラックに限ったことではないのだが、 短時間の内に乱発しようものなら、技の拍子や呼吸を相手に読まれ易くなるのだ。 七導虎と言うスカッド・フリーダムでも特等の席は、連続して同じ技を受けるような間抜けでは務まらず、 程なくして放たれたワンインチクラックも掌でもって油断なく受け止めた――が、 直後には彼の身は大きく浮き上がってしまった。 先程のワンインチクラックとは明らかに術理が違う。今度は下から突き上げるような力が働いていた。 「……ほうっ!」 「やはり」と言うべきか、アルフレッドが放ったのは変形のワンインチパンチ―― 正確には『ワンインチもどき』とでも呼ぶのが相応しい引っ掛けの技であった。 通常のワンインチクラックは全身の力を一点に集中し、標的の肉体を深く穿つのだが、 こちらのもどき≠ヘ強引に相手を押し上げ、両足を地から浮かせることを目的としているようである。 「貴様の好きな『技の駆け引き』と言うヤツだ――」 すかさずアルフレッドは追撃に移る。中空のビクトーを追い掛けるようにして自らも跳ね飛び、 弧を描くようにして右足を振り上げた。 宙返りと共に全体重を乗せた蹴りを放つ技のことをアルフレッドは『サマーソルトエッジ』と呼んでおり、 戦局を動かし得る手段として好んで使い続けてきた。つまり、ワンインチクラックと並ぶ得意技なのだ。 尤も、現在(いま)は状態が悪い。ビクトーへ喰らい付こうと強引に踏み止まった代償として 四肢に絶大な負荷を掛けており、その痛手(ダメージ)が抜け切っていない内に繰り出した為、 蹴り上げる速度が僅かに鈍っていた。 七導虎と言う世界屈指の武術家との戦いに於いてはその僅かな減速が命取りとなる。 自身を追い掛けてきた蹴り足に対し、右手で脛を、左手で踵を掴んだビクトーは、 中空にてサマーソルトエッジの回転速度を強引に引き上げた。 宙返りの軌道に逆らわないよう蹴り足を掴んだ両手を巧みに捌き、 妙な例え方ではあるが、アルフレッドの身体を「引っくり返した」と例えるべきかも知れない。 所作(うごき)そのものは原始的ながら効果は覿面であり、 己の意思より切り離されて急加速した回転力に翻弄され、身を捻って反撃を繰り出すことも出来ず、 舌打ちを引き摺りながら着地するだけであった。 「記憶にないんだが、ケンポーカラテはサバキ≠燻gうのか?」 「同じ理論が含まれていると考えてください」 円軌道を描く防御法に呑み込まれたときと同じ戦慄がアルフレッドの身を這いずっていた。 正拳突きを叩き込まれた折と異なって直接的な痛手(ダメージ)は受けなかったが、 しかし、全身に纏わり付く違和感≠ヘ同質である。 宙返りの回転軸はアルフレッドの側に在った筈である。それがビクトーに掴まれた瞬間に激変させられたのだ。 まるで別の回転軸を捻じ込まれ、これに振り回されたようなものであった。 (いや、待て――『軸』を変える……?) 脳裏に浮かんだひとつの仮説を反芻しつつ、 アルフレッドは着地直後のビクトーを狙って追い討ちを仕掛けていく。 身を沈めつつ右足を横薙ぎに振り回し、地に着いたばかりのビクトーの足を刈ろうと言うのだ。 滑り込むようにして襲ってきた足払いは耐え切れないと判断したのか、 ビクトーはすぐさま後方に飛び退いた。 左足を軸に据えて旋回していたアルフレッドは彼に対して背を向けた状態となり、 そこから更に跳ね飛ぶと、所謂、オーバーヘッドキックを繰り出した。 身を放り出しながら宙を舞い、己の頭上を通り越すように蹴り足を振り上げて後方の敵を打つわけだ。 直撃すれば激甚な痛手(ダメージ)となったであろうが、余りにも大振りな攻撃であった為、 これは交差させた左右の下腕でもって受け止められてしまった。 「キミがタイガーバズーカの人間でないことが残念でなりません。 叩けば叩く程に疾(はや)く、強くなっていく――実に口惜しいではありませんか。 尤も、ジークンドーの宿命を持って生まれてくれたからこそ、 このような時間に恵まれたわけですがね」 「人を特殊性癖の持ち主みたいに言うな。……貴様の妄念に付き合うつもりもない」 反撃を被る前に飛び退ったアルフレッドは、水際に立ち並ぶ瓦斯灯の柱の一本を前回し蹴りで断ち切り、 これをビクトー目掛けてシュートした。 即席の飛び道具であるが、この程度の物がビクトーに通用するとはアルフレッドも思っていない。 完全なる牽制であった。瓦斯灯を蹴り出した直後には、これを追尾するように自身も駆け出している。 直接攻撃でなければ、七導虎を仕留めることは出来ないのである。 飛来した瓦斯灯を縦一文字に閃く踵で叩き落としたビクトーは、 続くアルフレッドの飛び回し蹴りも左右の手刀で悉く弾き返して見せた。 プロペラの如く急速回転しながら左前回し蹴りと右後ろ回し蹴りを幾度も繰り返した―― それにも関わらず、ビクトーは全て防ぎ切ったと言うことだ。 このままでは血肉を削り取ることも叶わないと判断したアルフレッドは、 中空で身を捻ってビクトーの肩を踏み付け、背面まで一気に回り込んで延髄へ蹴りを見舞おうと試みる。 対するビクトーは後方を振り返りもせずに前傾姿勢となり、 次いで左足を振り上げ、己の延髄を狙っていたアルフレッドの腰を蹴り付けた。 頭の後ろにも目玉が付いているのかと慄く程の動きでもって打ち負かされたアルフレッドは、 着地するなり一呼吸を置くこともなく反撃に出る。 「まだまだ――この程度ではキミの牙はケンポーカラテには届きませんよ」 「煩い、黙れッ!」 このときにはアルフレッドもビクトーの面に浮かぶ歓喜の正体に気付いていた。 最初は私刑(リンチ)に歪んだ愉悦を感じていると捉えたのだが、 血飛沫の中で拳を交える内に彼の魂が波動の如く伝わってきたのである。 ジークンドーとケンポーカラテ――遥かな年月を超えた末の両武術の邂逅、 その宿命にビクトーは酔い痴れているのだ。唯一無二とも呼べるような相手との戦いを純粋に喜び、 七導虎でもスカッド・フリーダムでもなく、ひとりの武術家として魂を燃え滾らせていた。 「お誂え向き」などと皮肉めいた言葉を吐いておきながら、その宿命に溺れたわけだ。 嘗てアルフレッドと立ち合ったシルヴィオと――トレイシーケンポーと何も変わるまい。 義の戦士による私刑は、今や宿命の私闘へと摩り替わっていた。 だからこそ、アルフレッドは「妄念になど付き合い切れない」と繰り返し、 ケンポーカラテの継承者へ立ち向かっていくのだ。 何しろ、ルーインドサピエンスよりも旧い時代から紡がれてきた宿命である。 ひとりの武術家としてビクトーに共感出来ないわけでもないのだが、 しかし、この戦いの本質は互いの信念を賭した殺し合いなのである。 アルフレッドの信念はギルガメシュの討滅にある。その通過点などで浪漫に浸る気にはなれなかった。 ましてや、現在(いま)のビクトーは仲間と共に任務を遂行している最中であろう。 そのようなときに雑念≠ノ囚われるなど七導虎の名折れであり、軽蔑に値するのだ。 「……ケンポーカラテと共に、その莫迦げた妄想も葬ってやる!」 そして、心底よりの侮蔑を吐き捨てながら、アルフレッドは猛然と中段蹴りを打ち込んでいく。 ビクトーの技を受ける中で閃いた、「『軸』を変える」と言う考察を進めつつ、だ。 アルフレッドの奮戦を目の当たりにするジャーメインは、驚愕以外の言葉を持ち得なかった。 一瞬の優勢から再び劣勢に立たされたと思いきや、 本気になった筈のビクトーにもアルフレッドは果敢に攻め込み、 互角にも見える激闘を演じているではないか。 依然としてホウライに頼れない状況であるにも関わらず、だ。 純粋な身体能力では自分やザムシードよりも僅かに劣っているように思えるアルフレッドだが、 総合的な戦闘力と言う点に於いては七導虎にも匹敵するのだろう。 武術を志す人間としては悔しさを抱かないわけではないが、 ここに至るまでの道程を振り返ってみれば、アルフレッドがビクトーに拮抗しても不思議ではないのだ。 嘗て七導虎に名を連ねたジウジツの巨人を――ミルドレッドを彼が下した瞬間には ジャーメイン自身も立ち会っている。 (あれこれ心配してるのがバカバカしくなってきたじゃない……!) やはり、戦況は好転しているのではないかとジャーメインが希望を抱き始めた瞬間(とき)、 鬼をも殺すと恐れられた寝技が急に解かれた。何の前触れもなく両腕の捕獲≠ェ外されたのである。 訳も分からず後方に飛び退ってイリュウシナから間合いを取った直後、 ジャーメインのスニーカーが水溜りを踏んだ――否、水の中に足を突っ込んでしまった。 さりながら、誤って水路に足を滑らせたわけではない。 開戦の前後から鳴り続いている高潮警報が訴えた通り、 造船所跡一面に敷き詰められた石畳が浸かってしまうほど水位が上がってきたのだ。 水位の上昇を無視してイリュウシナが寝技を継続していたなら、 地に組み敷かれたジャーメインは押し寄せる海水に飲まれ、そのまま溺れていたことだろう。 妹が溺死してしまうような事態を恐れ、イリュウシナは寝技を外したに違いない。 それ以外にジャーメインを解放する理由が考え付かないのだ。 「リュウ姉……」 ジャーメインから名を呼ばれてもイリュウシナは何も答えない――が、その頬は微かに紅潮しているようだ。 「ムリして突っ張っても、リュウ姉さんはメイちゃんが大好きだものねぇ〜」と、 グンダレンコから冷やかしの声が言うまでもあるまい。 バロッサ家の姉妹が淡い心の触れ合いを見せる一方で、 アルフレッドとビクトーの激突は更なる局面へ向かいつつあった。 打撃の応酬の中でビクトーは右手でもってアルフレッドの視界を覆い隠し、 直後に首筋へと左掌打を突き込むと、そのまま彼の身動きを押さえ付け、 止(とど)めとばかりに対の拳で腹部を一撃した。 円軌道を伴わない直線的な正拳突きではあるものの、防御も回避も不可能な状態で叩き込まれた上に、 臍の下に在る急所を精密に撃ち抜いている。目隠しと言う予想外の一手に翻弄され、 身体の芯まで響く痛手(ダメージ)を許してしまったのである。 さしものアルフレッドも虚脱して蹲るかに思われたが、血染めの歯を食い縛って耐え抜き、 裂帛の気合いと共にビクトーの膝を踏み付けて跳ね、 続けざまに中空にて反撃の後ろ回し蹴り――『パルチザン』を繰り出した。 対するビクトーは、大胆にも蹴り足に向かって前回し蹴りを正確に合わせて見せた。 正面切って『パルチザン』を迎え撃たんとしているわけだ。 この前回し蹴りは下方から掬い上げるようにして流麗な半円を描いている。 奇しくも互いの必殺技が激突する恰好であった。 果たして、互いの蹴り足が接触した瞬間、アルフレッドの側にだけ大きな変調が訪れた。 彼の足裏にビクトーの足甲が吸い付いたと見えた直後、 アルフレッドの身が凄まじい勢いで縦回転し始めたのである。 (これは――いや、これもまた別の回転軸……ッ!) 無論、これは彼の意思とは無関係であり、ビクトーの蹴りによって引き起こされた現象だ。 下方から掬い上げるような前回し蹴りであったので、 力比べで競り負けたのなら回転も生じるかも知れないが、 それにしても三半規管を揺らす程の速度にまで達するのは異常であろう。 あるいは、この現象すらも円軌道を描く技の効果なのであろうか―― 己の身に起きたことを考察する間もなくアルフレッドには追撃が加えられた。 ビクトーの掌によって首を掴まれてしまったのだ。 この流れの中でビクトーは海水に浸された石畳に片膝を突き、その上にアルフレッドを背面から叩き落した。 「――はぐァッ!?」 己の背骨が上げる悲鳴を聞かされたアルフレッドだが、次の瞬間には更に耳障りな音が鼓膜を打った。 右膝の上にアルフレッドの胴を急降下させたビクトーは、続けて右肘を振り落とす。 渾身の力を込めた肘打ちはアルフレッドの右脇腹を鋭角に抉り、辺りに何か≠ェ破断する音を響かせた。 「――アルッ!」 「ライアンッ!」 ジャーメインとザムシードが同時に悲痛な叫び声を上げた。 縦一文字に振り落とされた肘によって右の肋骨を折られたことは疑いようがない。 膝で背を押さえ付けられていることもあり、肘打ちの威力は分散されずに骨身を貫いたことだろう。 一体、何本の肋骨を折られたのか、分かったものではなかった。 戦闘の最中に肋骨を折られると言うことは殆ど致命傷にも等しかった。 何かの拍子に折れた骨が内臓を食い破ろうものなら即死は免れまい。 無理な動作をすれば、折れた骨は内臓にめり込む。 相手の打撃を防いでも、折れた骨を内臓まで押し込まれるかも知れない。 現在(いま)のアルフレッドは、身体の中に爆弾≠幾つも抱えたようなものであろう。 「まだ終わっちゃいない――!」 折れた肋骨を狙っているのか、それとも左脇腹にも爆弾≠仕込むつもりなのか、 更なる一撃を加えようとビクトーが肘を振り上げた瞬間に石畳へと逃れたアルフレッドは、 全身を駆け抜ける激痛に耐えながら身を転がしていく。 無論、ビクトーも逃すつもりはない。胸部あるいは顔面を踏み付けにしようと執拗に追い縋る。 爆弾≠炸裂させるべく振り落とされた足裏を避けても、対の足にて頭を潰されそうになるのだ。 幾度、躱しても蹴り足は止まらず、身を転がし続けるアルフレッドは起き上がる好機さえ見出せずにいた。 幾度となく大きな水音が響き渡り、その度に飛沫が舞い散った。 「随分と処刑人≠轤オくなってきたじゃないか」 「そんな言い方は心外ですねぇ。コレ≠烽黷チきとしたケンポーカラテの技なのですよ」 「皮肉も理解出来ないほど阿呆か、貴様は」 口から鼻腔から流血を迸らせ、これを水飛沫で洗い落としながら、 アルフレッドは「辟易」の二字が最も似つかわしい表情(かお)を浮かべていた。 爆弾≠埋め込まれたことで、彼の思考は逆に冷静だった。 一度でも右脇腹を踏み付けられたなら、その瞬間に絶息させられてしまうだろうが、 しかし、蹴り足を落とす≠ニ言う所作(うごき)は直線的にならざるを得ず、円を描く攻撃は使えない。 それどころか、軌道が一定である為に却って避け易いくらいだ。 即ち、アルフレッドは反撃の好機を見出したと言うことである。 「……いい加減……それ≠焉c…鬱陶しいのでな――」 ビクトーが踏み付けに入ろうとした瞬間に左腕一本で身体を持ち上げ、続けざまに両足を繰り出したのである。 右脇腹は殆ど感覚を失いつつあるが、そんなことを気にしていられる余裕などなかった。 今まさに攻撃に移ろうとしていたビクトーは連続して顎を撥ね上げられ、 身体を大きく仰け反らせる――が、それでも後方に退(すさ)ることはない。 反撃を受けた直後には腰を捻り込み、右足を鞭の如く撓らせていた。 左腕一本で身体を持ち上げたアルフレッドの頭部は、当然ながら地を向いている。 これを粉砕するべく右の下段蹴りを放とうとしているわけだ。 しかも、半円を描いた蹴りである。完全に防御したところで先程と同じように円の運動の中に飲み込まれ、 自由を奪われることだろう。それが分かっていながらも、アルフレッドは左手を地面から離し、 下腕でもって蹴りを受け止め――案の定、円軌道の中に飲み込まれた。 骨身に浸透するような衝撃を捻じ込まれた刹那、 肩から肘、手首に至るまで防御に用いた関節が脱力状態と化し、 殆ど無防備のまま、アルフレッドは宙に舞ったのである。 文字通りの「飲み込まれる」と言う感覚を再び味わったわけだ。 (言い換えれば、『軸』を変えられたと言うことだ……!) 中空に撥ね上げられたアルフレッドへ横薙ぎの右拳打が打ち込まれる。 限界まで遠心力を利かせた大振りの拳打――言わずもがな、全円を描く必殺の一撃であった。 「――やはり、トレイシーケンポーのほうが疾(はや)いッ!」 「ならば、ケンポーカラテは一撃の重みにて勝負致しましょう」 轟々と風を裂いて迫る拳打に対して、アルフレッドは臆することなく左掌打で迎え撃とうとする。 しかし、ここは彼の分が悪い。力と力の激突へ臨もうにも、現在は踏ん張りを利かせられない中空なのだ。 迂闊に手を出そうものなら、肩ごと吹き飛ばされるところだった――が、 ビクトーの拳へ接触する寸前にアルフレッドはホウライを炸裂させ、これを一種の障壁に利用した。 全円を描く一撃の威力を緩衝させようと図った次第である。 蒼白い光爆で拳打そのものを吹き飛ばすのがアルフレッドの目論見であったが、 結局は減殺させることしか叶わず、激突の瞬間に生じた衝撃によって両者共に弾き飛ばされてしまった。 程なく水飛沫を上げながら着地したアルフレッドとビクトーは、ここでようやく立ち止まった。 勿論、戦いを打ち切ったわけではない。秒単位で激変していく環境≠ノ身体を慣らそうとしているだけだ。 脛の辺りにまで達しようとしている海水に足を取られ、思わずよろけたアルフレッドとは対照的に、 ビクトーの側は水底に沈んだ石畳を強く踏み締め、構えを取り直している。 そのビクトーは依然として口元に歓喜の笑みを浮かべていた。 打撃の応酬に於いては己の側が掌握していたにも関わらず、 全円を描く拳を弾いたホウライだけは完全な想定外であったのだ。 それ故に『ホウライ外し』を用いることすらままならなかった。 己の裏を掻いたアルフレッドの才能と言うものをビクトーは賞賛しているのだった。 互いの手が触れるか否かと言う瞬間を完全に見極め、そこで正確にホウライを炸裂させられる人材など、 現世代のスカッド・フリーダムの中でも多くはあるまい。 これを称えずしてどうするのか――と、ビクトーは心中にてアルフレッドに拍手を送っている。 アルフレッド個人と言うよりは、彼を通じて『ジークンドー』の神髄を見詰めているのかも知れない。 「手品と言うのはタネや仕掛けがバレた途端に安っぽくなるが、……貴様の場合も案外だったな」 対するアルフレッドは、左手でもって脇腹を庇い、荒い息を吐きながらも薄笑いを浮かべている。 これまでに幾度も円軌道を描く防御法に呑み込まれ、自由を奪われてきた。 為す術もなく技の拍子を乱され、体勢まで崩され、殆ど無防備のまま強撃を叩き込まれたのである。 同じ円軌道の技巧でも、シルヴィオの場合は『火炎旋風』、 ビクトーの場合は周囲の物体ごと大渦の中に呑み込み、引き千切る『竜巻』と喩えることが出来る。 円軌道によって生じる力の働きを外≠ノ向けて発するのがシルヴィオであり、 内≠フ側へ作用させるのがビクトーと言うこと――その武技を全身で味わったアルフレッドは、 やがて、「『軸』を変える」と言う仮説に行き着いたのである。 ビクトーの竜巻とは、相手の『軸』を強制的に変化させるものであったのだ。 この場合の『軸』が意味するところは、回転の軸や身を置く位置、重心など状況によって様々である。 敢えて総括するならば、「動作の基点」とも言えよう。 直線的な一撃と比して円軌道は運動の範囲も大きく、 相手の身体を呑み込み、『軸』を変えるには極めて有効な技巧(わざ)と言えよう。 この流れの中でビクトーは互いの立ち位置をも変化させていたのであろう。 アルフレッドの『軸』を意のままに操りつつ、己の打撃が最大の威力を発揮し得る地点へと移っていたわけだ。 『竜巻』の術理を「手品」と貶したのはアルフレッドなりの挑発だが、 七導虎と言う格上の敵との戦いに一筋の光明を見出したことは大きな成果に違いない。 相手の技が如何なる原理に基づいているのか――これを見極められずに戦い続けることは、 「勇気があれば必ず奇跡は起きる」と自分勝手に思い込み、 機関銃が火を吹く只中へ短刀一振りで特攻を仕掛ける命知らずと同じであった。 (仕掛けそのものは単純だ……が、とても常人に使える代物じゃない――これが七導虎と言うものかよ) 一筋の光明と言っても、それが余りにも小さいことはアルフレッド当人が最も分かっている。 術理を解き明かした程度で戦局を覆せるとも思っていなかった。 絶え間なく動き続ける肉体の何処を攻撃すれば、相手の据えた『軸』を外すことが出来るのか―― これを瞬時に見極める能力がビクトーは桁外れに優れているようだ。 完全に防御し切ったにも関わらず重心を崩され、身体が浮かび上がると言う瞬間もあったのだが、 あれこそがビクトーの真骨頂なのであろう。 対峙する人間からして見れば、これほど恐ろしい相手はいない。 『軸』とは攻守に限らず全ての動作の基点であり、これを他者によって操られてしまうなど、 想像しただけでも寒気が走ると言うものだ。 その戦慄すべき絶技をビクトーは労なく使いこなすのである。 「安っぽいタネ」と挑発こそしたものの、彼の『竜巻』は絶対的な脅威としか表しようがなかった。 「言ってくれますね。小一時間程度の立ち合いで見抜かれるほど、 ケンポーカラテの底は浅いつもりはないのですが……」 「別にそこまで傲慢なわけじゃない。遅ればせながら突破口に辿り着いただけだ。 ……だが、手を掛けた以上は必ずこじ開ける」 「それはそれは――お楽しみはこれからと言うことですか」 己の利を誇るような趣味を持たないアルフレッドだけに多くは語らなかったが、 『竜巻』の術理を見抜いたことはビクトーにも察せられた。 長期戦の様相を呈してきたが、ここまでの攻防の中で『竜巻』の術理を丁寧に解説した憶えはない。 寧ろ、尻尾を掴ませないよう一撃で突き放してきた筈だったのだ。 それにも関わらず、アルフレッドは痛手(ダメージ)と引き換えに手掛かりを掴み、 推論を重ねて突破口まで行き着いたと言うのである。 ジークンドーの名に恥じない武術家であることは既に理解していたが、 スカッド・フリーダムにも比肩する程の心技体に加えて、類稀なる知恵も兼備しているようだ。 武芸を志す者にとって、理想とすべき像のひとつと言っても過言ではあるまい。 (流石は『在野の軍師』と言ったところでしょうか。彼の一番の武器は拳脚ではなく智謀なのですから――) 行く末が楽しみな才能――と考えたところで、ビクトーは目の前に立つ『在野の軍師』が 抹殺の対象であったことを想い出した。 処刑人≠フ立場でありながらアルフレッドの行く末に期待を寄せるなど矛盾以外の何物でもなく、 そもそも、このような思考に至ること自体が愚の骨頂であった。 自責と言うよりは自嘲しかなかった。スカッド・フリーダムの規範となるべき七導虎が 完遂すべき任務を失念させられる程に宿命の私闘は心地良いのだ。 何よりもアルフレッド・S・ライアンと言う才能との立ち合いが痛快で仕方がない。 今や特命を帯びた七導虎ではなく、ひとりの武術家に戻ってしまっている。 これでは若い隊員たちに示しも付かないだろう――が、 身の裡より沸き立つ昂ぶりを抑えることはどうしても出来なかった。 それどころか、雑念≠切り捨てようと言う気持ちにもならない。 スカッド・フリーダムの『義』の在り方に対する迷いや虚しさからも解き放たれたビクトーは、 何ひとつ己を縛るものがない晴れやかな心地に浸っているのだ。 「……アルフレッド君と呼ばせて頂いてもよろしいでしょうか?」 「ファーストネームで呼び付けられるほど親しくなった憶えはないんだがな」 「これは手厳しい。私のほうは親兄弟よりも深い縁を感じているのですがね」 「吐き気を催すくらい迷惑だ」 そして、ビクトー・バルデスピノ・バロッサと言うひとりの武術家は、真っ白な歯を見せて笑った。 全身全霊を傾けて立ち合った果てに、どちらの生命が燃え尽きるのか――ただそれだけのことである。 任務の完遂と言う結果などは単なる余禄(おまけ)に過ぎなかった。 力と技を以って語らい、生命を遣り取りする武術家とは、そう言う生き物なのだ。 「――手品≠フタネを読み抜いたことは褒めて差し上げましょう。 しかし、分析だけでどうにかなるモノではありませんよ。 ケンポーカラテはアルフレッド君が想像するよりも遥かに高い次元で完成されているのです」 「何度も言わせるな。そんなことは百も承知だ。その上で貴様を葬ると言っているんだ」 昂揚した調子で笑うビクトーに対し、あくまでも冷徹なアルフレッドの足元―― 曇天を映して灰色に波打つ水面には、蒼白い稲光が途切れることなく閃いていた。 ジークンドーとケンポーカラテ――両武術を呑み込んだ宿命の私闘は、まだ終わらない。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |