4.Index Rule


 ギルガメシュ支配下のルナゲイトの一角に所在する古びた洋館――ここをゼラール軍団は拠点としていた。
 殆どのギルガメシュ幹部はルナゲイトに君臨する『鉄巨人』ことブクブ・カキシュに私室を持っており、
その中だけで生活の全てが事足りるのだが、酔狂にもゼラールは私財を投じて洋館を購入し、
自身の軍団員もこちらに住まわせていた。つまり、総員を収容し切れるほどに大きな家屋と言うことだ。
 中庭に鎮座する豪奢な土俵もゼラールが私費で設置したものである。
 当代最高の力士と謳われる太刀颪(たちおろし)を招いて造り込んだだけあって、
屋根に至るまで頑強そのもの。軍団員たちも暇さえあれば自己鍛錬の一環として相撲を取っているのだが、
幾人が上がろうとも、どれほどの者が叩き付けられようとも、決して土俵は崩れない。
 相撲を取る場としては勿論のこと、肉体の鍛錬にも最良の環境と言えよう。
 絶好の場が整っているにも関わらず、雑草の生い茂る裏庭までわざわざ赴き、
足場の悪い中で武技の修練に励む姿があった。
 物好きとしか言いようがない者とは、つい最近にゼラール軍団の一員となったばかりのムラマサである。
 トレードマークとも言うべき鉄色のレインコートを脱ぎ、更には上半身を剥き出しにして、
空(くう)を突くように拳や脚を繰り出し続けている。
 定められた所作に基づいて絶え間なく身体を動かし、
技の仕組みや間合い、打撃に要する呼吸などについて理解を深める『形(かた)』と言う稽古である。
 眼前に敵が在ることを想定した突き込み、蹴り込みだけでなく、
相手からの打撃を受け止め、あるいは受け流すなど、攻守双方の所作(うごき)を次々と試していく。
 件の形稽古を眺めているだけでも、ムラマサが緩急を巧みに操る武術家であると理解出来るのだ。
技から技へと移るまでの動作は流れる水の如くたおやかであるが、
いざ拳や脚を繰り出す瞬間は火山の爆発を彷彿とさせる程に力強く、轟々と風を薙ぐのだった。
 その見事な形稽古をムラマサは誰に披露するでもなく黙々と続けている。
 人目に付かない場所と言うことは、つまりは相当な暗がりである。
しかも、家屋の裏手と言う立地から相当に狭く、ともすれば閉塞感が押し寄せてくるような空間なのだ。
 尤も、ムラマサは閉所であっても何の苦もなく巧みに、そして、精密に技の形を再現していく。
溌溂と汗を飛び散らせながら、だ。
 やがて、隻眼の老将は低く腰を落とし、右腕を後方に引いて力を溜め、
深い吐息を滑らせた後(のち)に電光石火の正拳突きを繰り出した。

「――ぬゥんッ!」

 右拳より発せられた衝撃波は空(くう)を一直線に貫き、
二、三メートルばかり離れた岩の表面を大きく抉った。
 傍から見れば、驚異としか例えようがあるまい。間合いの外から放たれる不可視の打撃など
神業の領域にでも達しない限りは模倣のしようもないのだ。
 あるいは、スカッド・フリーダムの中には同等の秘技を再現し得る人間も在るのかも知れないが、
義の戦士自体に馴染みの薄いノイの人々にとっては、
やはり、ムラマサの拳は奇跡以外の何物でもない筈だ。
 ギルガメシュ随一の知恵者を気取りながらも小心なアサイミーが目の当たりにしたなら、
もしかすると腰を抜かしたかも知れない。

「――『軍師』と呼ばれる人は、素手の戦いが得意でなきゃいけないって条件(きまり)でもあるんでしょうか」

 交差させるようにして両手を振り下ろし、再び深く吐息を滑らせたとき、
そこにラドクリフの声が重なった。
 見れば、少し離れたところに件の少年が立っているではないか。
その口調からも察せられる通り、形稽古を眺めていたのだろう。
 言わずもがな、ラドクリフはアルトの人間である。
スカッド・フリーダムと言う頭抜けた武術家集団を知っている為か、
奇跡としか表しようのない不可視の打撃を間近で見ても極端に驚くことはなく、
反応も感想も至って普通である。
 尤も、ゼラール軍団にもトルーポを筆頭に化け物が揃っているのだ。
その中で『閣下』の側近を務めていれば、自然と肝も据わるのだろう。

「ほう……? お前が格闘術(こんなこと)に関心を抱くとは意外だな」
「心外ですよ。ぼくだって武芸を猛特訓中なのですから」
「これはすまん。……うむ、男児たる者、武芸のひとつでも窮めておかねばいかんな」
「ぼくのほうこそビックリしましたよ。さっきまでお酒を呑んでいた人が、
こんなに激しい運動をしているなんて。それって、空手の形稽古ですよね?」
「ほんの酔い覚ましだよ。それにベロベロになるほど呑んだわけでもないからな。
あんな安酒では飲み水の代わりが良いところだ」

 幕府成立を宣言するギルガメシュの緊急放送が始まった頃、
ムラマサはトルーポと一緒にビールを呷っていたのだが、
瓶が空となってからは完全に暇を持て余すようになってしまい、
こうして汗を流していた次第である。
 そこにラドクリフも加わろうとしているわけだ。
現在(いま)の彼はジャンビーヤと言う緩やかな反りの入った短剣を使いこなそうと稽古に励んでいた。
 プロキシの使用を禁じられた以上、これに代わる力がラドクリフには必要なのである。
 神人より力を授かるプロキシは、可能な限りはアルトの人間の前で使用しないほうが良いと
ラドクリフ当人が懸念していた。不必要な騒動に発展するかも知れないと危ぶんでいるのだ。
 ギルガメシュを含めるノイの側の人間は、その世界に於ける女神信仰を司る教皇庁であっても、
イシュタルや神人と交信する術(すべ)は持ち合わせていない。
 世界の神秘に接触し得るラドクリフは、仮に性質(たち)の悪い人間に目を付けられたなら、
モルモット(実験体)のような扱いを受けるかも知れないのだ。
 ギルガメシュはアカデミーとも深い繋がりがある。
そのアカデミーは表向きこそ広く開かれた士官学校であるが、
裏では非人道的な実験を繰り返していたと言う。つまり、そのような組織≠ニ言うことである。
 この点をアカデミーの出身者であるトルーポも憂慮し、
人前でプロキシは使わないようラドクリフへ指示したのだ。

「そう言えば、ガールフレンドはどうしたのだ? 稽古なら一緒にすればよかろう。
向こうもフェンシングを習っているのだろう?」
「ガ、ガールフレンドじゃないですけど、ベルちゃんならブクブ・カキシュまで送っていきましたよ。
こわ〜い教官と練習する時間だって言ってましたから」
「ドゥリンダナか。あのお嬢ちゃんは教官に向いているからな。
上手い具合にお姫様≠鍛えるだろうよ」
「あ、あの人が!? そんな風にはとても思えないんですけど……」
「あれは生来の不器用者でな。生い立ちも幸せとは言い難い。
そう言う人間は自分以外を大切に出来るものだよ」
「……そう――なのですか? ぼくにはよく分かりませんけど……」

 ラドクリフにはムラマサの言うことが全く理解出来なかった。
 カレドヴールフに絶対的な忠誠を誓い、首魁以外の人間へ過剰な敵愾心を剥き出しにするドゥリンダナである。
猛特訓(シゴキ)を施されるベルにとっては恐怖の対象でしかなかろうとラドクリフは捉えているのだ。
 そもそも、ベルは故郷を滅ぼされた恨みを心中にて昏(くら)く燃やしている。
ムラマサ曰く大切に育ててくれると言う教官を欺き、復讐の力を蓄えているのだ。
信頼によって結ばれる師弟関係など成り立つとは思えなかった。

「あと一〇年も生きてみれば、今言った意味も沁みてくるさ。
その頃には、『ああ、死んだクソジジィがそんなことを言っていたな』と想い出すハズだ」
「あなたは殺しても死にそうにありませんし、ぼくより長生きしそうですけど……」

 冗談めかして言いながらも、ムラマサの武技に対するラドクリフの評価は混じり気のない率直なものである。
「老将」と呼ばれる齢でありながら筋骨隆々。下腹に付いた僅かな贅肉以外には衰えを感じさせなかった。
 頭頂部から左頬にかけて顔面を横断する大火傷や光を失った右目だけでなく、
古い痕(きずあと)は全身に及んでいる。銃創や刀創もあちこちに散見された。
 中には致命傷と思しき箇所もある。そのような痕を全身に刻まれながら今日まで生き延びたのである。
その事実がムラマサと言う男の逞しさ、底なしの生命力を如実に物語っていた。
だからこそ、「殺しても死にそうにない」と言う評が口を衝いて出たわけだ。
 その一方で、ムラマサが操る武技をフルコンタクト系の空手であろうかとラドクリフは分析していた。
 徒手空拳の技については、マコシカの酋長の夫であり、
嘗ては軍属であったと言うヒュー・ピンカートンから手ほどきを受けた程度だが、
経験不足を補うべく有名な格技を一通りは調べてある為、全くの無知ではない。
 ムラマサの形稽古から空手であろうと見当を付けられたのは、まさしく知識の賜物と言う次第である。
 一口に「空手」と言っても、実は多くの様式(スタイル)に枝分かれしている。
伝統的な技法の継承に重きを置かんとする思想の中でさえ幾つかの流派に分裂する程なのだ。
「古伝」と称して創始以来の武技を厳密に守り続ける者たちも在る。
 先程の『形』を見た限りでは、ムラマサの披露した空手はフルコンタクト系――
即ち、直接打撃による粉砕を志向する様式(スタイル)しかラドクリフには思い当たらなかった。

「……それにしても、手も触れずに岩を砕くって……どれだけ鍛え上げれば、
こんな神ワザが出来るようになるんですか?」
「拳を突き込む瞬間にコツがあるのだよ。口で説明するのも面倒だから割愛するがね。
大体、仰々しく持ち上げる程のものでもない。突風に吹かれた程度では人は死なんぞ」
「コレ≠受けて死なないくらい丈夫な人って、そんなに多くはないと思いますけど……」

 直接破壊を本懐と定める空手家にとっては、余人の目には神秘の如く映る技でさえ
虚仮威(おど)しに過ぎないのだろうかとラドクリフは首を傾げる。

「そうだ、死ぬかも知れんし、死なないかも知れん。
手を触れぬ以上は相手の生死を確かめられんと言うことだ。
戦場に於いて、これは最も危うい。倒したつもりで仕留め切れず、
逆襲に遭って命を落とすと言う話などゴロゴロと転がっておるからな。
……打撃とは相手に直接叩き込んでこそ真価を発揮するもの。
それは威力のみならず、息の根を止めたか否かを見極める為でもあるのだよ」
「フルコン系の真骨頂と言ったところですね」
「ここまで空手に関心があるとは思わなんだ。人は見かけによらんな」

 フルコンタクト空手の根底に流れる志向を確かめつつ頻りに首を頷かせるラドクリフには、
隻眼の老将のほうが強く興味を引かれた。
 それはそうだろう。徒手空拳の武技とは縁遠いように見える小柄な少年が、
己の操る空手について根掘り葉掘り訊ねてくるのだ。しかも、基礎知識まで備えている様子である。
 ムラマサ自身はラドクリフについて殆ど何も知らない。
ゼラールの身辺を調査した折に側近のひとりとして確認こそしているものの、
これまで為人などは興味の対象外であったのだ。
 しかも、だ。出会って間もない上にギルガメシュの手先として警戒されていた為、
面と向かって会話をすること自体が皆無に等しかったのである。
これでは互いのことを理解しているわけがない。
 ラドクリフが様々な武芸を調べていることさえムラマサは知らなかったのだ。
彼の口からフルコンタクト空手と言う呼称が出たことも心底から意外であった。

「空手と言いますか――友達が体術を得意にしているんですよ。
空中殺法メインの『ルチャ・リブレ』って言う格闘技(もの)なのですけど……」
「ほぅ……ルチャか――記憶が正しければ、プロレスの一派だったな。
実戦と言うよりは見世物(ショー)に近いと聞くが、
その友達とやらも観客を相手にするルチャドールだったのか?」
「見世物(ショー)かどうかはともかく、ド派手に暴れ回ることは大好きだと思いますね」
「それにしても、ルチャドールと知り合い……か。なかなか居(お)らんぞ、そんな者は。
どうやら、お前の周りには色々なタイプの人間が集まるらしいな」
「集まりって言うことなら、寧ろ、ぼくの友達――ああ、ルチャの子とは別の友達なんですけど。
そっちのほうが人を引き付ける力が強いんです。本当、色々な人たちが彼と輪を作るんですよ」

 ルチャドールの友人――ジェイソンの話から飛躍して、ラドクリフはシェインのことを想い出していた。
 シェイン自身は素手の戦いではなく剣術を志しているのだが、
その傍らにルチャドールのジェイソンの姿があり、
彼と共に作る輪の中には神秘の遺物を操る冒険王マイクや、
存在そのものが不可思議なルディアと言った面々が含まれている。
 これこそ多士済々と言うものである。ラドクリフ当人も実感していることながら、
シェイン・テッド・ダウィットジアクと言う少年は、他の誰よりも人との出会いに恵まれているのだろう。
 そのシェインを通じて、ラドクリフもジェイソンやルディアと言った良き友人を得られたのである。
 輪≠生み出す者とは、つまり、人と人とを結ぶ才能に優れていると言うことだ。
ギルガメシュに於けるベルとの出会いとて、シェインによって結び付けられた縁であろう。

(……またシェインくんに会いたくなってきちゃった……)

 久しく会えていないこともあって、ラドクリフはシェインの眩しい笑顔が恋しくて仕方がなかった。
 この少年はシェインが決死隊の一員となってノイの大地に向かったことを未だ知らずにいる。
ボルシュグラーブが催した同窓会≠焜Jメラに映り込まない位置から傍聴していたのだが、
件の会合では決死隊のことなど一度も触れられずに終わったのである。
 ふたつのエンディニオンを繋ぐ転送装置――ニルヴァーナ・スクリプト。
それはギルガメシュにとって最重要機密のひとつであり、
ほんの一時(いっとき)であっても侵入者に支配されたと言う失態は、
断じて内外に漏らすわけにはいかないのだ。
 それ故、ゼラール軍団にも情報が一切届かず、バブ・エルズポイントを巡る戦いは、
ラドクリフの中では「アルフレッドが策を巡らせて敵の拠点を叩いた」と言う認識でしかなかった。
 運命のすれ違いと喩えるべきか、シェインが他の者たちと共に渡ったとされるノイについて、
ラドクリフはゼラールから検証と分析を命令されている。
 アルトとノイ――ふたつのエンディニオンは、元々はひとつの世界だったのではないかと
ゼラールは考えており、この仮説の裏付けをラドクリフに求めたわけである。
 ラドクリフは古代民族マコシカの出身(うまれ)だ。
そして、そのマコシカはルーインドサピエンスよりも更に旧い時代の知識や秘儀を保管してきた民族である。
「ひとつであった時代のエンディニオン」に辿り着く鍵(てがかり)は、
マコシカの伝承に残されている可能性も高いのだ。
 軍団が留め置かれているルナゲイトをギルガメシュの任務と関係のない理由から離れ、
マコシカの集落まで戻ることは不可能である為、
ラドクリフの頭に蓄えられた知識だけがゼラールの頼りであった。
 『閣下』から寄せられた期待に応えるべく、ラドクリフは記憶の水底を全力で浚っている最中であるが、
現時点では仮説の裏付けとなるような伝承などは思い当たらず、
自身の勉強不足を責める日々が続いている。
 おそらくシェインたちの安否にも直結する事態と知れば、
制止を振り切ってでもマコシカの集落に戻り、ふたつのエンディニオンの真実に迫ることだろう。

(……うぅ、寂しがってばかりじゃダメだね。次に会ったときに胸を張れるような成果を出せなくちゃ、
シェインくんにもジェイソンくんにも笑われちゃうよ……)

 親友たちを襲った災難――外的要因に基づくニルヴァーナ・スクリプトの転送事故など
知る由もない現在(いま)のラドクリフは、在りし日に深めた友情へと思いを馳せるばかりである。

「――アルフレッド・S・ライアンとやらはどうだ? 
ダインフレフ様やバスターアロー君の学友の、あの青年だ。
モニター越しに顔を見ただけだが、あれは知恵も勘も働く面白い男だと思ったが?」
「……ライアンさん――ですか……」

 親友たちを追想している最中に不快な名前を持ち出されたラドクリフは、
思わず顔を顰めてしまった。
 尊崇する『閣下』と親しいこともあって、ラドクリフはアルフレッドに対して並々ならない反感を持っている。
先日の同窓会≠ナは言葉巧みに旧友(ボルシュグラーブ)の心理を操っており、
これを目にした実妹から「クソ兄貴」とまで扱き下ろされたのだ。
 それ以前にも捕らえた敵兵への拷問や、轟沈寸前の敵艦に対する執拗な砲撃命令など、
アルフレッドの無慈悲で卑劣な姿ばかり見ている。ラドクリフの中で印象が好転するわけもあるまい。
 「知恵も勘も働く面白い男」と言うムラマサの見立てにも、曖昧に相槌を打つばかりであった。

「軍師は素手の戦いが得意でなればならないのか――と、そのようなことを言っていただろう? 
そのとき、俄かに触れたのもアルフレッド・S・ライアンだと思ったのだがな」 
「ええ、……その通りです」
「何しろ同類として挙げられた男だ。大いに興味を惹かれるぞ。
仲間の輪が生まれるタイプと言うよりは、兵を巧く転がしていくほうが得意なように見えたがね。
弁も立てば、度胸もある。……この特徴だけでは軍師と言うか弁護士だな」
「あの人が立てた作戦にはぼくも一度だけ参加しましたけど、用兵術の類には慣れているようでしたね。
自分で先陣を切って突撃していたので、指揮官としてどうなのかなって思いますけど……」
「なんだ、そこ≠煌ワめて似ていると言ってくれたんじゃないのかね。
私だって帷幕の中でジッとしているのは好かんぞ」
「そんなこと言われても知りませんよ。あなたと一緒に合戦したことだって一度もないのですから」
「しかし、ますます興味深いな、アルフレッド・S・ライアンと言う青年。
あのダインフレフ様が特別に目を掛けているのも面白い。
我らの進める策を見抜かれ、破られぬよう気を張っておかねばならんな」
「……我らの=H あなたが勝手に進めている策略じゃないんですか?」
「バカを言え、『プール』と『緬』の討伐は我が軍団≠フ急務。
その証拠にバスターアロー君のカミさんや馬軍の小娘にも苦労を掛けておるのだ。
……それにライアンが身を置く佐志とやらは、一度は『プール』を騙っている。
我らが討つべき軍勢の動向にも敏感と言うことだよ」
「はぁ……」
「『プール』や『緬』と戦うつもりで支度を整えておったのに、
いざ合戦場に到着したときに佐志軍が現れた――と言う事態は避けねばな。
騙し騙されは兵法の常だが、我が軍団≠フ大一番を邪魔されては敵わんよ」

 バブ・エルズポイントを奇襲した折と同じようにギルガメシュの目を欺く謀略が
アルフレッドには――『在野の軍師』には可能であろうとムラマサは評しているのだ。
 隻眼の老将がアルフレッドを褒めれば褒めるほど、ラドクリフには皮肉にしか聞こえなかった。
その『在野の軍師』が捲土重来を賭して立案した史上最大の作戦≠破綻に追い込んだ張本人こそ、
他ならぬムラマサではないか。
 軍師としての器量はアルフレッドと比して数段上手のように思える。
数え切れない合戦を潜り抜けてきたと言う経験も踏まえれば、
あるいは『在野の軍師』如きでは手の届かない程の高次に在るのかも知れない。
 アルフレッドに反感を持つ者としては溜飲の下がる思いであり、
また、連合軍と相対するギルガメシュの側としても、これほど頼もしく感じられる存在(もの)はない。
 しかし、ゼラール軍団は心底からギルガメシュに服従しているわけではないのだ。
『閣下』が更なる高みを目指す為の踏み台に過ぎず、
そもそもテムグ・テングリ群狼領から送り込まれた間諜(スパイ)と言う立場なのである。
 その立場からすれば、底知れないムラマサの器量を喜んで良いものか、警戒すべきなのか。
少なくとも、油断のならない相手と言う点は、初めて顔を合わせた瞬間から些かも変わっていない。

「――して、ライアンとやらも打撃系を得手としておるのか?」
「……は?」
「体術の様式(スタイル)だよ。同類と言っても、よもや、私と同じ空手ではなかろうが……」
「あ、ああ――えっと、ぼくが見た限りでは打撃系と考えて良いと思いますよ。
投げとか関節技は使ってるところを見た憶えがありませんでした。
……でも、空手ではないハズです。キックをたくさん使っていましたけど、あれは拳法の一種なのかなぁ」
「ほう……ますます相性が良さそうだ。機会があれば、手合わせ願いたいものだよ」
「あの人のことを褒めるのは癪ですけど、……掛け値なしに強いですよ。あれは只者じゃない」
「それならば願ってもない」

 アルフレッドが打撃系の武術を会得していることもムラマサには愉快であった。
 立場は違えども、互いに『軍師』などと呼ばれる種類の人間だ。
これに加えて武技まで似通うとは、奇妙な親近感を覚えずにはいられない。
 空手の神髄とは一撃必殺であり、ムラマサとて豪拳ひとつで粉砕し得なかった相手とは久しく戦っていない。
それは空手と言う闘技の本質を体現している筈なのだが、
一方で物足りなさも感じてしまうのが武術家の性分なのである。
 一撃必殺を破ってくれる程の猛者と戦い、極限の緊張の只中にて心身を引き締めなくては、
長年に亘って磨き上げた武技も錆びて朽ちゆくのみであろう。
 大いなる矛盾であるが、一撃必殺と言う空手の神髄を全うすることが、
却って武技の冴えを鈍らせる原因ともなり得るわけだ。
 己の同類≠ニ思しきアルフレッドは、ラドクリフの言葉を信じるならば、
これまで待望してきた猛者≠ノ当て嵌まるようだ。
豪拳一発で粉砕出来ない相手であろうと想像しただけで、ムラマサの口元は笑気で歪むのだった。

「どうして、そんな嬉しそうにしてるんですか。どうせなら、知恵で争ったら如何です?」
「理詰めで物事を考え続けておると、ときには何もかも吹き飛ばしたくなるものよ。
決して褒められた衝動ではないが、私にとってはそれが空手なのだよ。我ながら不純な動機だがね」
「ライアンさんはどうだろう――あの人の場合、武術もひとつの手段≠ニ捉えていたんじゃないかなぁ。
自分の計略を優位に進める為の……」
「おお、そこだけは遠く離れていて欲しいと願っておったのよ。
何もかも同類≠ナは、立ち合ったところで得るものは限られるでな。
武技への向き合い方、哲学は正反対と言うくらいで丁度良い。それが心地良い」
「……冗談かと思いましたけど、本当に仕合をしたいんですね」
「出来れば、どこかの戦場で見(まみ)えることが望ましいがな。ただの仕合ではつまらん」

 隻眼の老将――この場では隻眼の空手家と呼ぶべきであろうか――は、
同類≠アとアルフレッドとの立ち合いを本気で望んでいる。
 理論や計算に基づいて知恵を絞り、一分の隙もないほど緻密に作戦や策謀を練り上げるのが
軍師と呼ばれる者の務めであろう。周囲もこれを期待し、蜘蛛の巣の如く張り巡らされた智略に耳を傾けるのだ。
 戦わずして敵を降すことこそ最善の勝利――と、古(いにしえ)の軍略でも説いている。
それにも関わらず、敢えて拳の語らいを欲するなど矛盾の極みと言うものであった。
 ムラマサの思考はラドクリフには理解に苦しむものである。
 その一方で、純粋な体術のみの勝負であれば、アルフレッドの側に分があるとラドクリフは見ていた。
 熱砂の大合戦、トルーポの暗殺未遂騒動と、幾度かアルフレッドの戦う姿を目にしているのだが、
いずれの場に於いても尋常ならざる猛襲であったとラドクリフは記憶している。
 しかも、音に聞くタイガーバズーカの秘技――『ホウライ』をも完璧に使いこなしたのだ。
触れることなく岩を砕くと言うムラマサの技は確かに驚異的だが、
その程度であればアルフレッドとて難なくこなしてしまう筈である。
 意地の悪い見立てになるものの、アルフレッド当人には他にムラマサに勝る部分がなさそうだった。
才能と経験を兼ね備えた老将が相手では、如何なる計略を謀ろうとも容易く見透かされることだろう。
 怜悧冷徹な計算を否定する一撃必殺の衝動――この矛盾にムラマサ自身が呑み込まれたとき、
初めてアルフレッドは勝機ある戦いへ臨めるわけだ。皮肉としか言いようがあるまい。

「意味が分からぬと言う顔だな?」
「分かる人のほうが少ないと思いますよ。絶対に勝てる分野(こと)でだけ勝負したほうが得だって、
あなたくらい頭が良いなら分かるでしょう? ハッキリ言って、矛盾してますよ」
「そう、大いに矛盾しておるな。だが、人生に矛盾は付き物だ。上手く付き合っていかねばならん」
「答えになってませんよね」
「答えなどないのだよ。これも、そう――あと一〇年も生きたら沁みてくる」
「……煙に巻こうとしてません?」
「一〇年後には、その煙も晴れておろう」

 ラドクリフの頭を帽子越しに撫で付け、闊達に笑ったムラマサは、間もなく夕暮れを迎える空を仰いだ。

「矛盾と言うものは解決出来ぬ難題を抱え続けるのと同じこと。
迷宮を彷徨うかの如く心を蝕む――が、この不快な念でさえ、ときとして人を大きく進ませるものよ。
念とは力。闇の只中に道を開かんとする意思にも通ずるのだ」
「……人生哲学……ですか?」
「いやいや、クソジジィの戯言だ。そう真剣に聞かずとも良い」

 やはり、意味が良く分かっていない様子のラドクリフを目の端で見つめたムラマサは、
もう一度、愉快そうに笑った。





 ムラマサが見上げた空の彼方――『ビッグハウス』の造船所跡では、
彼の語った「矛盾」の二字が当て嵌まる死闘が今なお続いていた。
 『在野の軍師』を世界秩序の敵と見做すスカッド・フリーダムより差し向けられた処刑人≠ナありながら、
果たすべき任務を疎かにして『ケンポーカラテ』の宿命に呑み込まれたビクトーと、
これを迎え撃つことになったアルフレッドの激突は熾烈を極めている。
 ケンポーカラテと深い宿縁で結ばれたジークンドーの継承者として、
また義の戦士に狙われる『在野の軍師』として――ふたつの側面からアルフレッドは絶対に負けられず、
スカッド・フリーダムが誇る『七導虎(しちどうこ)』を相手に懸命に食い下がっていた。
 ジャーメインとイリュウシナ、ザムシードとグンダレンコ――残る二組の戦いも未だ決着を見ていない。
 ジャーメインのふたりの姉は、処刑≠フ執行を補佐するべくビクトーに従っているのだ――が、
そもそも、アルフレッドを世界秩序の敵と断定したこと自体、
スカッド・フリーダムによる一方的な決め付けに過ぎず、抹殺指令にも法的な根拠は全く介在していない。
 上層部(うえ)の決定であるから従ってはいるものの、
私刑同然の任務に対してイリュウシナは疑念以外を持ち得なかった。
『義』を掲げる戦士が私刑を強行するなど矛盾に満ちているではないか――と。
 他方では彼女の夫たるビクトーが何ひとつ躊躇うことなく凄まじい勢いでアルフレッドを攻め立てている。
 処刑人≠ニ言う大役を任された以上、例え得心のいかない任務であろうとも
一途に果たそうとしているのだ――と、最初の内はイリュウシナも見ていたのだが、
海水が石畳を浸し始めた頃から変調を感じるようになったのである。
 最初の内は微かな違和感であった。それは時を刻む毎に大きくなり、今や焦燥を伴うまでに至った。

「――あのさ、リュウ姉。気のせいかも知れないけど、義兄さん、様子がおかしくない?」
「……気のせいだと思うなら、その通りなのでしょう。私は特に何も感じないけど……」
「そう? 義兄さん、やたらイイ笑顔見せてるけど。ちょっとキショいよ、アレ」
「待ちなさい、ジャーメイン。人の旦那を捕まえて気色悪いとは何事なのっ?」
「実際、キショいじゃん。ハイになってるんじゃない? ……何か理由があるのかなァ」
「……そろそろ任務完了だって喜んでるのよ、きっと、うん、そう……――」

 直接的に対峙する実妹――ジャーメインからビクトーの変調を指摘されても、
イリュウシナは歯切れが悪い答えしか返せなかった。
 ケンポーカラテの後継者が背負う宿命に夫が呑まれたことを誰よりも早く把握したのは彼女なのだ。
 それはつまり、スカッド・フリーダムの任務よりも燃え滾る武術家としての魂が
優先されたと言うことである。『義』の規範となるべき七導虎が任務を放棄したと言うことなのである。

(あなた、やはりこの任務を――)

 相対すべき任務とは異なる世界≠ノ精神が向かってしまうと言う事態は、
『在野の軍師』抹殺の指令を納得尽くで承知したわけではないことを示す何よりの証左であろう。
 今でこそ武術家の血潮に囚われたビクトーではあるものの、
課せられた使命に真(まこと)の『義』が宿っていたとすれば、
悠久の時を超える宿命と、これを渇望する想いすら七導虎の矜持でもって抑え込んだに違いない。
元来の彼は、無責任で誠意を欠く人間とは対極に在るのだった。
 今や守護者たる七導虎でさえ信じ抜けなくなる程に
スカッド・フリーダムの『義』は壊れてしまったのだろうか――そう悲嘆せずにはいられなかった。
 アルフレッド抹殺は戦闘隊長のエヴァンゲリスタが強く推したものである。
彼がシュガーレイに代わってスカッド・フリーダムの舵を取り始めて以来、
『義』の在り方を疑ってしまうような局面にばかり出くわしているのだ。
 堪り兼ねて俯き加減となってしまったイリュウシナをザムシードは鼻で笑って見せた。

「任務云々が関係あるとは思えんがね。単純に人をいたぶって愉しんでいるだけだろうよ。
実益も兼ねているのだから、これ以上ないほど良い趣味≠セな」
「……何を言いたいのかしら?」
「謎掛けなど別に込めてはいないつもりだったが? ……言ったままの意味だよ。
正義の名のもとに人を追い詰めるのが愉しくて堪らない――
成る程、スカッド・フリーダムの本性を体現していると言えような」
「随分と歪んだ受け取り方をするものね。生命を遣り取りする間に身も心も沸騰するのは、
戦士として自然な反応よ。それを狂人のように貶めるなんて、呆れて物が言えないわ。
ましてや、私たちはスカッド・フリーダム。使命に臨んで『義』の魂が昂ぶるのよ」
「前半だけなら分からなくもないが、後半に関しては、こちらこそ呆れて仕方ない。
使命に臨んで、何が昂ぶるって?」
「『義』よ。スカッド・フリーダムの魂よ。『義』の使命に昂揚して何がおかしいのかしら?」
「それはそれで良い趣味≠セとは思わないかね、義の戦士殿? 
……自分らにとって邪魔な人間を喜々として暗殺するのが『義』の使命と来たもんだ。
遊び半分の私刑、おまけに満面の笑みとは――重ねて言うが、あれこそスカッド・フリーダムの本性だろう」
「く……っ!」

 ザムシードから手酷く謗られたイリュウシナであるが、
徐々に反論の勢いが衰え始め、ついには満足に言い返すことも出来なくなってしまった。
 馬軍の将より浴びせられた罵倒は、イリュウシナ自身が心中にて懊悩していることなのだ。
暗殺も私刑も義の戦士として恥ずべき振る舞いである。
この任務に納得尽くで臨んでいる者は、少なくともバロッサの家中には誰ひとりとしていない。
 口を衝いて出た「『義』の使命」など建前に過ぎず、それ故にイリュウシナは反論を紡げずにいるわけだ。

「うちのリュウ姉さんをいじめないでください〜。それだけは私も怒っちゃいますよぉ〜」
「図星を指されて暴力でやり返すとは、いやはや、立派な『義』もあったものだよ」

 今やイリュウシナは苦しげに呻くばかりであり、それがザムシードに虐められているようにも見えたのだろう。
双子の片割れを庇うようにして彼の正面まで回り込んだグンダレンコは、
抗議の念も込めて下段蹴りを放ったのである。
 これを飛び退って避けながらも、ザムシードは「どう繕おうが、一度剥がれた化けの皮は戻らんよ」と
イリュウシナへ更なる罵声を飛ばした。

「またおじさんは失礼なことをっ! 義兄さんがキショって言ったのはあたしだし、
今のスカッド・フリーダムなんかクソ喰らえとも思うけど、そんなにリュウ姉を責めなくたっていいでしょ! 
どうせなら、タイガーバズーカに乗り込んでテイケン総帥に直接ブチかましてよっ!」

 鬼をも殺す寝技によって極められていた両肩を回し、
痛手(ダメージ)の回復を促しながら反撃に転じる機会を窺っていたジャーメインも、
ザムシードの暴言だけは聞き捨てならなかったようだ。
 攻撃対象である筈のイリュウシナを庇い、実姉に成り代わってザムシードに言い返している。

「時々、キミがどちらの味方か分からなくなる瞬間があるよ。何だろうね、この居た堪れなさは」
「メイちゃんはいつだってお姉ちゃんたちの味方だもんね〜。他所の人にはアウェー感バリバリで当然ですぅ〜」
「……レン、今のジャーメインは敵なのだから、あまり誤解を招くようなことは……」
「庇って貰えて嬉しいくせに〜。リュウ姉さん、意地張ってないで、もっと素直になっていいのよぉ〜」
「そ、そんッ――なことはないわよっ!」
「……この調子だと、水嵩が膝まで来る頃には集団リンチに遭っているかも知れないな。
仲良し三姉妹も数の暴力になると厄介だ」
「またこの人は無粋な横槍を入れて、もう〜」

 ザムシードによる心ない暴言を断ち切るべく次々と蹴りを繰り出していくグンダレンコだが、
内心ではイリュウシナ同様に今度の任務を――否、私刑を嫌悪している筈だ。
 処刑≠フ舞台に立つバロッサ家の三人は、誰ひとりとして己の『義』を昂ぶらせてはいない。
最早、任務自体にも真摯に臨んではいなかった。

 橋向こうに在る二組の言い争いなど耳にも入らないのか――
互いに構えを取ったまま、アルフレッドとビクトーは暫し睨み合いを続けている。
 抹殺対象と見做されたアルフレッドは、処刑人≠フ挙動(うごき)を
一瞬たりとも逃さないよう精神を研ぎ澄ませつつ、脛の辺りにまで達した水面に蒼白い稲光を走らせていた。
 言わずもがな、『ホウライ』である。トラウムの具現化に必要なヴィトゲンシュタイン粒子を
純粋なエネルギーに変換し、己の身と武技を強化せしめるタイガーバズーカの秘術である。
 タイガーバズーカの出身者であるビクトーとてホウライの使い手だ。
相手が使用したホウライの効力を強制的に解除してしまう外し方≠ノも長けており、
八方塞となりつつある現在(いま)のアルフレッドにとって最も相性の悪い相手と言える。
 最早、ホウライは戦局を左右する切り札とは成り得なかった。
『ホウライ外し』を操るビクトーには一切通用しない――それが解っていながら敢えて蒼白い稲光を纏ったのだ。
何らかの計略に絡めてくると捉えて間違いあるまい。
 これを迎え撃つ側のビクトーは、満面に浮かべた喜色を一等濃くしている。
 滑り落ちる吐息は熱を帯び、まるで新しい玩具を前にした子どものような無邪気さすら感じられる。

 傍目には不気味としか思えない笑みを貼り付けたビクトーを正面に見据え、
アルフレッドは嫌悪も露に舌打ちを叩き付けた。

「いちいち不愉快な男だ……」

 これは偽らざる本心である。ビクトー・バルデスピノ・バロッサと言う存在は
アルフレッドにとって憎悪の対象でしかない。
 ただ間近に立つだけでも心の奥まで弄られるような不快感が噴き出してくる相手なのだ。
それにも関わらず、ビクトー本人には親しげに笑いかけられるのだから堪ったものではあるまい。

「つれないですねぇ。キミには誰よりも親しみを感じていると言ったではありませんか」
「……ジークンドーとケンポーカラテの因縁のことを言いたいのは分かった。
だが、俺たちは敵と味方。そのことに変わりはない。
貴様がどう思おうが、それに応えてやる義理はないと言うことだ」
「では、その気≠ノなるよう私のほうでも努めてみましょう。
こう言うコトは、お互いがその気≠ノならないといけませんからね」
「もう一度、繰り返す。貴様はいちいち不愉快だ……!」

 幾らアルフレッドに撥ね付けられてもビクトーは意に介さず、身内同然の友人に接するような態度を崩さない。
 橋向こうにてジャーメインと相対するイリュウシナが危惧した通り、
その姿は何処をどう見ても処刑人≠ナはない。七導虎の矜持からも果てしなく掛け離れていた。

(キミの全てを見せて頂きたいのですよ、アルフレッド君――)

 攻防の再開はビクトーの側から仕掛けた。効かないと判り切っているホウライを敢えて発動させた意図――
その謀略の全てを披露するようせがむつもりなのだろう。
 呼吸を整えられる程度に離れていた間合いを一気に詰め、
アルフレッドを射程圏内に捉えるや否や、右足を高く振り上げる。
一連の動作(うごき)には代償の水飛沫を伴っていた。
 その飛沫が火花のようにも見えたのは、蹴り上げられた右足に蒼白い稲光を纏っていたからだ。
ホウライの輝きが水晶の如き一粒にまで及んだと言うことである。
 さしものアルフレッドもこればかりは想定していなかった。
今までの攻防の中でビクトーの側からホウライを発動させたことは一度としてなかったのだ。
 先に蒼白い稲光を帯びたのはアルフレッドなのだが、ここに至るまでの攻防を振り返っても、
ビクトーが自分と全く同じ手段で応じるとは考えられなかったのである。
 蒼白い稲光は『ホウライ外し』の瞬間にのみ煌くのだろうと言うアルフレッドの見立ては大外れであった。
 尋常ではない破壊力を持つ蹴りにホウライが加わると言うことは、
迎撃する側にとっては死の宣告にも等しかった。
万が一にも折られた肋骨へ強撃を重ねられようものなら即死は免れまい。
 蹴り上げ自体は後ろに退って避け切ったものの、ビクトーの右足は垂直落下の挙動(うごき)を見せている。
間を置かず追撃の踵落としが閃くに違いない。足先には依然として蒼白い稲光を帯びている。
 防御と言う選択肢はアルフレッドも最初から捨てている。
両腕を交差させて受け止めようとしても、ホウライを纏った踵など凌げるものではない。
振り落とされた瞬間に左右の手が使い物にならなくなるだけであろう。
 取るべき選択肢は最初からひとつ――回避のみである。
 舌打ち混じりに左方へと跳ね飛び、縦一文字の踵落としを避け切ったアルフレッドは、
ビクトー目掛けて「この程度の脅かしで崩れるとは思うなよ!」と吐き捨てた。
 このとき、アルフレッドは両の足に蒼白い稲光を帯びていた。
 ホウライの発動に要するヴィトゲンシュタイン粒子が海水に溶け込み、
何らかの作用を及ぼしているのか、彼が下肢を動かす度に進行方向の水が裂けていく。
船首が海面を切り裂き、白波を起こすかのように、だ。
 即ち、水圧による抵抗を殆ど受けないと言うことである。
圧が掛からないので身のこなしも通常と遜色がなく、速度も最大限まで発揮することが出来る。
水に濡れたジーンズは確かに重いが、挙動(うごき)を妨げる程でもなかった。
 しかし、ビクトーは違う。ホウライを攻撃力の増幅にのみ使用した為、
アルフレッドのように水圧を取り除くことは出来ていない。
 格闘戦に於いて水の抵抗による影響は非常に大きく、この瞬間のみはアルフレッドの速度が勝っていた。

(……仕掛け≠ヨ入る前に、ひとつ試してみるか――)

 あくまでもアルフレッドは慎重であった。通用しない筈のホウライを敢えて発動させると言う奇策へ移る寸前に
別の思考が働いたのである。勝敗を分けるかも知れない計略だけに、万難を排して取り掛かろうと言うわけだ。
 その胸算用を知ってか知らずしてか、ビクトーは左方へ跳ねたアルフレッドを
右の飛び後ろ回し蹴りでもって追いかけた。踵落としから石畳を踏まず、そのまま身を逆回転させた次第である。
 肋骨の折れた右脇腹を背後から打ち据えようと言うのだ。
無論、後ろ回し蹴りの軌道には蒼白い火花が飛び散っていた。
 罠を仕掛ける前にアルフレッド自身が選択肢を誤れない局面となった。
全円を描く蹴り技である。このようなものを骨折箇所に直撃されようものなら致命傷は免れまい。
 右下腕で回し蹴りを防ぐとしても、定石通りに『ホウライ外し』を行えば、
その瞬間から水の抵抗を受けることになる。ホウライを別々の用途へ同時に用いることは、
現在(いま)のアルフレッドには不可能な領域なのだ。
 尤も、そのような芸当を使いこなせる人間はタイガーバズーカにも殆どいないとローガンから教わっている。
「自分で使(つこ)うてみて分かったやろうけど、ホウライは制御だけでもごっつムズいねん。
ふたつのコトをいっぺんにやってまう天才はスカッド・フリーダムの幹部にも居てへんやろ」と
聞かされたのである。
 ビクトーとてひとつの用途にしかホウライを使っていない。
「使っていない」のではなく、「ひとつの用途にしか使うことが出来ない」と言うべきであろう。
 それ故に水の抵抗を受けて速度が僅かに鈍ったのだ。
ならば、己にのみ許された利を生かすのみ――この結論へ至った瞬間、彼は防御から回避に切り替えた。
 両足のバネを極限まで引き出し、前方へと跳ねて飛び後ろ回し蹴りから逃れるや否や、
中空にて身を捻り、逆にビクトーの側頭部に左の横蹴りを加えた。
 続けざまに右足裏でもって頭部を踏み付けにし、更なる跳躍でもってビクトーの射程圏内から離脱した。
気が遠くなるほど脇腹は軋んだが、即死を免れるには他に有効な方法もない。
 しかし、ここまでがビクトーの陽動(さそい)であった。
 死を招く全円の蹴りから逃れるべくアルフレッドは中空へと跳ねたのだが、
これはつまり、攻守の要たる『軸』を定められない状態に陥ったと言うこと――
即ち、ビクトーによって『軸』を外されたと言っても過言ではないわけだ。

(――そうだ。露骨にも程があるものな、お互いに……ッ!)

 ビクトーが『軸』を操作しに掛かることはアルフレッドも想定しており、
具体的にどのような状況に持ち込まれるか、又、その折の対処まで頭の中で練り込んでいた。
 万難を排して勝負≠ヨ出るには、ありとあらゆる状況を考えておかなくてはならないのである。
 それ故、先程の攻防と同じように中空にて『軸』を外させた≠フだ。
これこそがアルフレッドの陽動(さそい)と言うわけであった。
 『軸』を外したと見れば、ビクトーは高い確率で強撃を仕掛けてくるだろう。
それが予想出来ていれば、逸早く有効な迎撃体勢を整えられると言うものである。
 しかも、だ。中空に飛んでいる間は水圧を考慮する必要がない。
それはつまり、ホウライを別の用途に切り替えられると言うことであった。
 一方のビクトーは着地と共に腰を捻り込み、左の前回し蹴りへと転じている。
 これもまた半円を描き、尚且つホウライを帯びた強撃であった。
右の後ろ回し蹴りによって生じた勢いも生かし、威力と速度を高い水準で両立させていた。
 今度は正面切って右脇腹を――現在(いま)のアルフレッドにとっての最大の弱点を狙い撃ちするつもりだ。
 この前回し蹴りを凌ぐことにアルフレッドは蒼白い稲光を用いた。
右掌でもってビクトーの蹴り足を受け止め、接触の瞬間に『ホウライ外し』を試みようと言うのである。
 少なくとも、傍目にはそう見える≠謔、に右掌を蒼白い燐光で包んでいた。

「止めてみなさい、アルフレッド君――」
「止めるのではない。……これで断ち切るつもりだッ!」

 挑発を飛ばすや否や、ビクトーは身のこなしを急激に変化させた。
 折れた肋骨を狙っているとしか思えなかった中段の前回し蹴りが直撃の寸前になって上段蹴りに転じ、
アルフレッドの右側頭部を打ち据えたのである。
 あからさまな急所狙いは、この上段蹴りへ繋げる為の引っ掛けに過ぎなかったと言うことだ。
続けざまに両の拳を横に薙ぎ、左右のこめかみを精密に打ち抜いていく。
 反復運動を伴う連続攻撃にて脳をも揺さ振られたアルフレッドであるが、
こうなることは『軸』を外させた℃椏_で計算していた為、何とか意識を手放さずに堪えられた。
予(あらかじ)め覚悟を決めていれば、痛みも衝撃も耐え抜けると言うものだ。
 あからさまに『ホウライ外し』の構えを見せびらかし、更にはビクトーの挑発にまで応じた。
彼が強撃を繰り出すように仕向けておいて、そこから反撃に転じるのがアルフレッドの狙いである。
 陽動(さそい)も引っ掛けも、互いに似たようなものであろう。
肋骨の折れた右脇腹をビクトーが執拗に狙ったのも、別の箇所へ強撃を命中させる為の仕掛けに他ならないのだ。
 誰の目にも明らかであるが、現在(いま)のビクトーは、最早、処刑人≠ネどではない。
スカッド・フリーダムの七導虎でもなく、ひとりの武術家に立ち戻ってしまっていた。
 それはつまり、アルフレッドの生命を奪う理由まで消滅したと言うことでもあるのだ。
敢えて弱点を叩く必要がなくなったとも付け加えられるだろう。
 それでも右脇腹を狙い続けるのは、死に直結するような弱点を脅かすことによって相手の姿勢を崩し、
無防備となった箇所へ強撃を叩き込む為であった。腕による防御を下げさせる際には最も有効な手段と言えよう。
 これは近接戦闘に於いて基本的な戦術のひとつである。
そして、ビクトーがただの武術家≠ノ立ち返ったことを確認する為の良き指標でもあった。
 金的や頭部を狙って防御を惑わし、がら空きになった脇腹へ蹴りの一発でも見舞えば、
ただそれだけで処刑人≠フ任務は果たせるだろう――が、
武術家としての優劣に拘泥している様子のビクトーは、こうした手段を今のところは見せていないのだ。
 アルフレッドにとっては幸いとしか言いようのない状況である。
 追撃はともかく、最初に狙われる標的(まと)が絞られたことで、
ビクトーの挙動(うごき)や思考(かんがえ)を見極め易くなっていた。
これもまた「怪我の功名」と言うものであろう。

(手品でも何でも、タネさえ暴いてしまえば――)

 円運動の中に相手を呑み込み、攻守の要たる『軸』を操ると言う『竜巻』の術理も
アルフレッドは既に見破っているのだ。
 この『竜巻』と言う例えの通り、アルフレッド自身も轟々と渦を巻く風に
全身を抱かれるような錯覚を覚える瞬間もあった。
それこそが「円運動の中に呑み込まれる」と言う状態である。
 『軸』を外されて身動きが取れなくなり、そこに円軌道の打撃を幾度となく叩き込まれ、
全身が青痣だらけになろうともアルフレッドは考察を繰り返してきた。
僅かな手掛かりからでも起死回生の策を編み出そうと懸命に踏み止まり、
錯覚と言う不明瞭な状況を突き抜けたとき、彼は『竜巻』とは別の例えに至ったのだ。
 攻守の要たる『軸』を外す――『竜巻』によってもたらされる最大の効果へ考えが及んだ瞬間、
アルフレッドは己が時計盤の上に立たされ、踊らされているように思えてきた。
 一例を挙げるならば――アルフレッドが六時の地点から一二時の方角へと一直線に駆ければ、
ビクトーは三時の地点へとすぐさま身を移し、そこから強撃を繰り出すと言うことである。
 一二時の地点に『軸』を据えようとしたところで拳脚を打ち込まれ、
ひとつ飛ばしに一〇時の地点まで弾かれてしまったなら、当然ながらアルフレッドの技は拍子が崩れる。
そして、この直後にはビクトーは一〇時の地点に対して最も有利な場所まで移っているわけだ。
 時計盤に振られた一から一二と言う番号へ相手を強制的に移動させ、
己もまた有効に攻守を組み立てられる地点に移る――これが『竜巻』の法則性であった。

(完全に見切れるわけじゃない。……把握しようとすれば、混乱するだけだ――)

 法則性(これ)はアルフレッドが立てたひとつの仮定であり、
現実に地面の上に時計盤が浮かび上がっているわけではない。
 『竜巻』を作り出しているビクトーの側はどうであろうか。
糸のように細い双眸には、地面だけでなく己と相手が立つ空間に数多の時計盤が視えているのかも知れない。
 円軌道を描く技巧――円と一二の数字によって作り出される時計盤≠フ法則は、
一挙手一投足に至るまで全ての動作(うごき)に当て嵌まるのだ。

「――行くぞ、ケンポーカラテッ!」
「ほう……ッ!?」

 反復運動を伴う連打によって上体を大きく振り回されたアルフレッドだが、
この最中には両の足裏で石畳を踏み締めており、
追撃の右拳で再び側頭部を抉られるよりも速くビクトーの懐へと踏み込んだ。
 裂帛の気合いと共に喰らわせたのは、拳打でも蹴りでもなく不恰好な頭突きであった。
 ビクトーが放った追撃は例によって横薙ぎの拳打であり、半円を描く分だけ動作が大きかった。
これに対してアルフレッドの頭突きは最短距離から速射である。
どちらの技が先に入るかは、改めて詳らかとするまでもあるまい。
 着地と同時に踏み込んでいった為、僅かに姿勢は崩れてしまったが、
ビクトーの顔面を鋭角に捉え、赤黒い飛沫を散らせることが出来た。
 さしもの七導虎もたじろぎ、横薙ぎの拳打も途絶せざるを得ない――
相手の挙動(うごき)を封じつつ有効打を見舞うと言うジークンドーの神髄に則った一撃である。
 しかも、だ。アルフレッドはわざわざビクトーの左目を狙って額を打ち付けている。
 互いの眉間を衝突させたところで、鉢鉄を締めているビクトーに痛手(ダメージ)は与えられまい。
敢えて左目に狙いを定めたわけだ。
 果たして、眉の辺りが裂けて鮮血が噴き出し、ビクトーの左目に流れ込んでいく。
格闘戦に於いて何よりも重要な視覚――その内のひとつを鮮血でもって封じた次第である。

「そう来ますか――似つかわしくないようなラフプレーですね」
「他のヤツにも同じことを言われたが、……俺の師匠はこう言う戦い方も得意でな」

 血を拭う遑さえ与えまいと、アルフレッドは右拳をビクトーの鳩尾に添えた。
 照準を合わせた部位と拳の間は僅かに開いている――それはまさしく『ワンインチクラック』の構えであった。
 時計盤≠フ法則には、ただ一点だけ死角があるとアルフレッドは睨んでいた。
左右の半身をそれぞれ長針と短針に擬えた場合、円軌道の機軸たる真正面は必然的にがら空きとなる。
そして、その一点さえ押さえてしまえば、円軌道の技を封じることが出来るのだ。
この仮定は先程の頭突きによって証明された筈であろう。
 ワンインチクラックはアルフレッドにとって最速の拳打であり、
又、円軌道の機軸へ割って入ることが出来る直線的な攻撃でもあるのだ。

「なかなかの着眼ですが、その程度で破れるほど甘くはありません」

 円軌道の機軸ごと心臓を貫くべく全身の力を右腕に集中させようと図るアルフレッドであったが、
ビクトー当人は左半身を開くことで拳の直進を躱し切った。
時計盤≠ナ例えるならば、右手側を一二時の方向、左手側を六時の方向にそれぞれ移したと言うことになる。
 ワンインチクラックの発動を完全に見極め、右拳が進む方向へと力を受け流し、
アルフレッドの体勢を前方に傾がせた――攻め手の『軸』を大きく外した形である。
 ビクトーが使うケンポーカラテの技巧(わざ)は、
必ずしも円軌道を描いているわけではなく、直線的な打撃も決して少なくはなかった。
 時計盤に記された数字を点≠ノ例えるならば、この直線的な身のこなしは線≠ニ言うことになる。
点%ッ士を結ぶ線≠ヘ時計盤の上へ縦横無尽に走っていることだろう。
さながら幾何学模様の如く、だ。
 線≠フ閃いた先に点≠ェ打たれ、そこに新たな機軸が据えられる。
更にはこの機軸に基づいて円の運動が生じると言う次第であった。
 時計盤≠フ法則に「定型化」と言うことは有り得ない。
線≠ニ点≠ノよって無数の円が形作られ、鎖の如き連環と化していくのである。
 無論、アルフレッドとて直線的な打撃を失念していたわけではない。
それ故に機先を制してビクトーの側の『軸』を粉砕しようと図ったのだった。
 只今の攻防に於いては、互いの技巧(わざ)の術理などは関係ない。
要は地力でアルフレッドが競り負けたと言うことである。
 身体能力で勝るビクトーがアルフレッド最速の拳をも避け切った――ただそれだけのことであろう。
 そして、ワンインチクラックを避け切ったビクトーは、
六時の位置に移していた左拳を十二時の方向へと振り抜く。言わずもがな、半円を描く打撃であった。

「が……あ……ッ!」

 打ち下ろし気味の左拳で右頬を抉られ、堪り兼ねてよろめいたアルフレッドには、
次から次へと追撃が降り注いでいく。
 肋骨を折られていない側――左脇腹をビクトーの右足先が掬い上げ、
次いで蹴りを命中された箇所へ精確に右拳が突き込まれた。
 そうしてアルフレッドが呻いた直後には、ビクトーは右側面まで滑り込んでいる。
 背面より右の回し膝蹴りを放ち、アルフレッドの左膝裏を打ち据えて重心を崩させると、
今度は同じ側の膝に自身の右膝をぶつけた。こちらは正面切って突き上げており、
互いの膝頭を衝突させた恰好である。
 これによってアルフレッドの右足は後方へと弾き飛ばされてしまい、
最早、立っていることさえ出来なくなった。
 それでも即座に体勢の立て直しを図るアルフレッドであったが、
この直後には左の蹴り上げでもって顎を撥ね飛ばされ、続けて首根っこを掴まれた。
 握り拳を解いた左の五指が首筋に食い込んだかと思えば、次の瞬間には仰向けに引き倒される。
その後(のち)に襲い掛かるのは、ケンポーカラテの体系に於いても格段に殺傷力が高い技であった。
 先程も危うい目に遭ったのだが、ビクトーが極めたケンポーカラテは、
倒れた相手に対する追い討ちに容赦と言うものがない。確実に命を絶つべく執拗に攻撃し続けるのだ。
 引き倒されたアルフレッドも左の足先と踵の往復で両の側頭部を強かに打たれ、
止(とど)めとばかりに全体重を乗せた右膝を延髄へ落とされそうになった。
 死を招く膝だけは横に転がって避け、両の掌を石畳に着けて逆立ちしたアルフレッドは、
その体勢を維持しながら左右の足を大きく広げ、これを轟々と振り回し始めた。
 両手を軸に据えて駒の如く回転し、逆立ちしたまま連続して蹴りを見舞おうと言うわけである。
 水面に波紋を作り出す程の勢いで回転蹴りを放つアルフレッドであったが、
標的たるビクトーは直撃を被る前に後方へ飛び跳ねている。
 肋骨の軋みを堪えて繰り出した回転蹴りは、ビクトーに間合いを取らせることが目的であり、
直接的な痛手(ダメージ)は最初から計算に入れていない。
 両の足にて水底の石畳を踏み締め、構えを取り直したアルフレッドは、
やや離れた位置に立つビクトーを睨みながら呼吸を整えていった。

「アルフレッド君、今のは流石に冒険が過ぎますよ。私の技巧(わざ)の原理を見抜いたようですが、
その程度で簡単に破れるようなモノであれば、恥ずかしくてケンポーカラテは名乗れません。
これでも一流派を背負う身なのですから」
「妙なところで小さいんだな。安心しろ、貴様を――いや、ケンポーカラテを見くびったわけじゃない。
反撃の糸口が見つかったと、暢気に喜んだ自分を恥ずかしくは思うがな……」

 ビクトー当人から指摘されるまでもなく、術理を見破っただけで容易く突き崩せるような相手でないことは
アルフレッドにも分かっていた。どうしても地力で競り負けてしまう事実とて身に沁みている。
 七導虎と呼称される者の力量は、やはり数段上に在ると言うことだ。

(正攻法では勝ち目が見出せない以上、……予定通り、罠に嵌めて仕留めるしかないわけだ)

 攻防の最中にも練り続けていた罠≠反芻しつつ見据えたビクトーは、
依然として愉快そうに微笑んでいる。

「……本当に楽しそうだな。正直、羨ましくなってきたよ」
「キミはどうです? そろそろ火が点いてくれると嬉しいのですけどね。
ご覧の通り、私のほうはすっかり熱が入っていますから」
「だから、そうやって嬉しそうに喋るな。自分が阿呆みたいに思えてくる……」

 思わず悪態を吐いてしまうアルフレッドではあったが、
ビクトーがケンポーカラテの宿命に心身を委ねていることは理解していた。
 武術家として生まれついた人間にとって、得難い喜びであることも察している。
そして、その昂揚が全く理解出来ないアルフレッドではない。
 しかしながら、応じる側の心境は複雑そのものであった。
「生きていてはいけない生命」とまでアルフレッドに言い放った処刑人≠ェ、
今ではその任務を放棄してしまったのだ。これほど反応に困る状況も珍しかろう。
 ビクトーが酔い痴れている『宿命』にもアルフレッドは戸惑いを禁じ得なかった。
 ケンポーカラテとジークンドーの間にはルーインドサピエンスよりも旧い時代まで遡る程の深い因縁がある。
これは紛れもない事実である。ジークンドーの誕生にもケンポーカラテの創始者は大きく関わっていると言う。
 ケンポーカラテの創始者とは、ジークンドーを志す者にとっての大恩人なのだ。
この流派と敵対することさえ想像していなかったのである。
 それ故にジークンドーを志す者――アルフレッドは、ビクトーのように心身を滾らせることが出来ずにいる。
任務より個人的な満足を優先させた彼に対する軽蔑を除いても、だ。
 ビクトーが見せる武術家としての昂揚を理解しながらも、己自身の心には迷いが染み出している。
大恩人の流派に敵意の拳を向けることは、ジークンドーそのものを否定する行為ではなかろうか――
その疑念がアルフレッドにはどうしても拭えなかった。

(こちらの気持ちも知らずにヘラヘラと嬉しそうに……羨ましいこと、この上ないな……)

 これがジークンドー最大の仮想敵≠スる『トレイシーケンポー』との戦いであったなら、
精神(こころ)の在り方も大きく異なっていただろう。一点の曇りもなく全力を傾けられたに違いない。
 そもそも、だ。アルフレッドにとってジークンドーは戦闘を勝ち抜く手段に過ぎない。
ケンポーカラテありきで生きている様子のビクトーとは、武術の捉え方にも大きな隔たりがあるわけだ。
この差≠熹゙の迷いを助長させる原因であった。
 いっそ、「ケンポーカラテと自分とは違うのだ」と割り切ってしまえば
気を煩うこともなくなるのだろうが、
それが出来ない辺りにアルフレッドの不器用さ、生真面目さが表れている。
 戦闘手段に過ぎないと言いながらも、祖父より叩き込まれたジークンドーは、
彼にとって間違いなく大きな核≠ネのだ。
 ビクトーは――否、スカッド・フリーダムの場合は、先ず武術を通じて心技体を極めることが大前提であり、
その先に義の戦士と言う道が拓かれる。磨き上げた武技こそがスカッド・フリーダムの隊員たる証明なのだ。
 戦う術(すべ)としての武技ではない。武技を極めなければ、『義』を語る資格すら許されなかった。

(武術の腕があって初めて正義の味方を名乗れる――か。……フェイ兄さんに似てると言えなくもないな)

 スカッド・フリーダムと言う組織の体質を振り返った瞬間(とき)、
アルフレッドの脳裏に嘗ての兄貴分≠ナあるフェイの姿が浮かんだ。
 英雄と名高いフェイ・ブランドール・カスケイドは、その父もまた偉大な人物であった。
ギルガメシュ襲来よりも更に昔――獰悪なギャング団がグリーニャへ攻め寄せたとき、
村民を守る為に果敢に戦い、遂には凶弾に斃れたのだった。
 やがて、フェイは父の遺志を継ぎ、世界に名を轟かせる正義の味方≠ニなったのだが、
その志を実現させたのは類稀なる剣腕であった筈だ。
 如何なる邪悪も断ち切る剣の腕があったればこそ、人々はフェイを頼り、助けを求めて縋ったのである。
 スカッド・フリーダムが隊員の条件として「心技体の兼備」を求めることは、
フェイを英雄たらしめる根拠と殆ど同じ理屈であった。
隊務が隊務だけに、何者にも挫けない強い力が絶対に欠かせないわけだ。
 常人には超えられない高い壁であるが、義の戦士として選ばれる基準は正当なのである。

「どうなさいました、黙りこくってしまって……?」
「……あんたに良く似た昔馴染みを想い出してな。
フェイ・ブランドール・カスケイド――名前くらいは聞いたことがあるだろう」
「それは恐悦至極。面識はありませんが、フェイ氏は義の同志として学ぶことが多い。
一度、膝を突き合わせて――ああ、そうか……アルフレッド君は彼と同郷でしたね」
「胸糞悪い同情だけはするなよ。どうしても憐れみを口にしたいのなら、前言を撤回するほうが先だ」
「……『復讐に狂っている』と言ったこと――ですか」
「スカッド・フリーダムの隊服を纏って戦うからには、せめて、自分の発言には最後まで責任を持て」

 「剣聖」の二字で畏敬されたフェイともアルフレッドは立ち合っていた。
 想い出すだけで肌が粟立つような激闘であった。
可視化する程に闘気を練り上げ、これを刀身に纏う絶技など剣匠以外の誰に出来るだろうか。
ヴィトゲンシュタイン粒子なくしては発動し得ないホウライとも異なり、
己の闘気のみで奇跡を起こしているのだ。
 だが、絶技(これ)を操るフェイ自身の地力はどうであったか。
イーライを交えた三つ巴の決闘では、挙動(うごき)そのものは見失うことなく捉え切れた。
極めて優れた身体能力の持ち主に変わりはないが、しかし、七導虎ほどではないと言うことである。
 ビクトーはフェイとは違う。『竜巻』とも時計盤とも例えられる円軌道の技巧(わざ)は、
術理こそ見極めることが出来たものの、その程度では決して打ち破れない。
 地力に於いても歴然とした差を感じている。背筋が凍り付く程の格の違いを、だ。

「……個人的な興味から伺うのですが、私とフェイ氏はどんなところが似ているのでしょうか?」
「面倒臭いところだ、……色々な意味でな。それ以外は大して似ていない――と言っておこう」
「アルフレッド君こそ前言を撤回して下さいよ。それだけなら『良く似ている』とは言いません」
「煩い……黙れ」

 際どい勝負ながらも剣匠を倒すことは出来た――が、
七導虎との戦いには全くと言って良いほど勝機が見出せない。
 今から仕掛けようとしている罠≠ニて、ビクトーが相手では通用しないかも知れないと思い始めている。
 ビクトーの左目は依然として流血で塞がれたままである。
距離感が狂ってくれたなら幸いだったのだが、右の拳と脚による連続攻撃は全て正確に命中しており、
間合いを見誤った様子もない。片目を潰した程度では戦局には何ら影響がないと言うことであった。
 しかも、だ。拭うのも面倒とばかりにビクトーは左目辺りの出血を放置し続けている。
それでも大して焦るものではないと、暗に語っているようなものだった。
 スカッド・フリーダムの隊員は五感どころか、第六感まで研ぎ澄ませている。
視界の半分が失われたところで、他の感覚で難なく補えるのだろう。
相手の『軸』を外す瞬間の見極めとて仕損じることはあるまい。

(……弱気になるな、アルフレッド・S・ライアン。勝てるかどうかじゃない。やるしかないんだぞ……ッ!)

 厳然たる実力の差がアルフレッドへ重く圧し掛かり、心中には確実に絶望感が芽生えつつある。
この戦いを愉しんでいられるビクトーの余裕(こと)が呪わしく、それ以上に羨ましかった。




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