5.Gone Into the Flame


 アルフレッドとビクトーが再び睨み合いとなった頃には、バロッサ家の姉妹も攻防を再開していた。
 ザムシードを相手に絶え間なく蹴りを打ち込み続けてきたグンダレンコはともかくとして、
イリュウシナのほうは「鬼をも殺す」と言う寝技を解いて以来、
実の妹――ジャーメインへ攻めかかることを躊躇っているようにも見えた。
 攻め手を考え倦ねていると表すほうが正確に近いのかも知れない。
それとも、七導虎の任務を投げ棄ててしまった夫の変調に混乱しているのだろうか。
 いずれにせよ、開戦前後の猛襲が嘘のように攻撃の手が止まってしまっている。
 頭部や両肩の痛手(ダメージ)が回復する時間を得られたのだから、
ジャーメインにとっては思い掛けない幸運である――が、さりとて状況が好転したわけではない。
攻撃が止まっているだけであって、イリュウシナ自身は進路を遮る壁≠ニして立ち続けているのだ。
 これを突破しない限り、アルフレッドに加勢することは出来ない。
格上のビクトーへ懸命に抗ってはいるものの、血の色に染まった銀髪を見る限り、
やはり地力の勝負では劣勢なのだろう。誰かが助けに入らなければ、いずれ押し切られるのは明白だった。
 何があっても見殺しにはしない――痺れを切らしたジャーメインの側からイリュウシナに攻め寄せ、
姉妹の戦いは更なる激化を見せたわけである。
 生半可な技では満足に痛手(ダメージ)も与えられず、突貫しかないと考えていたジャーメインだが、
このときには致命傷以外の防御を完全に捨て、攻め抜くことに全神経を集中していた。
 玉砕覚悟の特攻のようなものである。一撃を叩き込む代償に数発は新たな痛手(ダメージ)を
刻まれると言う無茶にも程がある戦い方であった。
 対するイリュウシナは、左右の掌打でもってジャーメインを迎え撃ち、
側頭部を――否、脳を激しく揺さ振っていく。
 その全てをジャーメインは気迫ひとつで耐え凌ぎ、
横薙ぎの拳打に肘鉄砲、中段蹴りと強撃を繰り出し続けた。

「あくまでも抗うとは思っていたのだけれど、……良い覚悟ね。悪くないわよ、ジャーメイン」
「自分がどれだけ甘えてたか思い知ったからね。全力全開の――更に上乗せで行くよッ!」

 左右の掌底が殆ど同時に打ち込まれた瞬間などは、先ず自身の両腕で受け止め、下方へと弾き飛ばし、
肩の上を滑らせるようにして右肘を喉に入れ、更には腹部目掛けて左膝まで突き込んだ。
 捨て身の攻撃に気圧されたのであろうか。ここまで圧倒的に優勢を保ってきたイリュウシナは
無防備のまま二発の強撃を被ってしまった。
 無論、切り替えは早い。自身に突き込まれていた肘を左掌でもって押さえ付け、
半歩ばかり踏み入りつつ、対の右腕で肘鉄砲を見舞った。
目には目を、肘には肘を――とでも言うような反撃である。
 しかも、この報復はジャーメインの左腕を直接的に狙っている。
 肘を突き込むことで強制的に折り畳ませた左腕を胸部へと押し付けるようにして力を掛け、
これによって両手の可動を完全に封じてしまった。
イリュウシナの左掌は依然としてジャーメインの右腕を押さえ込んでいる。

「なん……のォーッ!」

 この直後に左の下段蹴りでもって右足を払われ、横転させられたジャーメインであるが、
痛手(ダメージ)を度外視している彼女は、この状況に於いても受け身を取ることより反撃を優先させた。
 石畳へ背中から落とされながらも左足を振り上げ、イリュウシナの腰に蹴りを見舞ったのだ。
 体勢が崩れ過ぎていた為に力も入らず、有効な加撃とはならなかったが、
追い討ちへ移らんとする動きだけは堰き止められた。
 ほんの一瞬の足踏み状態であったが、ただそれだけでもジャーメインには十分である。
瞬時に起き上がると、忌々しげに顔を顰めているイリュウシナへ直線的な右拳打を速射した。
 確かに鋭く疾(はや)いのだが、余りにも単調な拳打であった為か、
イリュウシナは首を横に振ることで容易く回避してしまった。
 ジャーメインも避けられることは見越していたのだろう。
そこに右の膝蹴りを重ねようと図った――正確には膝を突き上げる挙動(うごき)を見せた。
 足を浮かせるか否かと言う微かな動作であったのだが、
イリュウシナの眼力はこれを完全に見極め、反射的に後方へ退ろうとした――その瞬間、
ジャーメインは突き込んでいた右拳を開き、五指でもって姉の頭髪を掴んだ。
 この状態から取り得る手段はただひとつ。棗紅の髪の毛を力任せに引っ張るのみである。
片目を潰すべく頭突きを放ち、ビクトーから「ラフプレー」と言われたアルフレッド以上に荒々しかった。
 ジャーメインもイリュウシナから血が滲むほど強く耳を引っ張られている。
あるいは、その仕返しも含めているのかも知れない。

「――いっけぇぇぇェェェーッ!」

 イリュウシナの頭部を自身の有効射程圏内まで引き付けた瞬間(とき)、
ジャーメインの足元で巨大な水柱が立った。それも間欠泉の如き勢いである。
 傍目には海底火山の爆発のようにも見えたことだろう。
それ程までに凄まじい水柱であったのだ。

「……屁はもう少し控え目にするものじゃないかね。溜まりに溜まっていたのか?」
「ちょっとちょっと〜、御下劣なジョークは禁止ですよぉ。何より女の子に失礼です〜っ」

 グンダレンコと打撃の応酬を繰り返していたザムシードも、
この水柱には驚愕したらしい――が、ジャーメイン自身の動作(うごき)を見極められなかった為、
的外れとしか言いようのないことを口走っている。
 しかも、その内容が下品であった為にジャーメインの実姉たるグンダレンコから
怒りの一蹴りまで浴びせられてしまった。
 例によって腰を落としながら繰り出される軌道の低い回し蹴りである。
 両足を一気に刈ろうとする蹴りを軽い跳躍でもって避け、
続けざまに反撃の拳打を打ち下ろしながらも、ザムシードは小首を傾げている。

(……リュウ姉さん、大丈夫かしら――メイちゃん、本気なんてものじゃないわよぉ)

 水柱の正体が全く分からない様子のザムシードに向けてわざわざ解説するつもりもないのだが、
ジャーメインが何をしたのか、グンダレンコは一目で見抜いていた。
 イリュウシナの顔面に狙いを定めたジャーメインは、
残像すら映さない速度で数発もの右飛び膝蹴りを放ったのである。
 それは光の速さにも匹敵すると恐れられる程の鋭さであり、
余人の目には膝を一度だけ突き上げたようにしか見えなかった筈だ。
 この勢いで水柱が立った次第である。一秒にも満たない刹那に幾度となく地を蹴り、
膝を突き上げるのだから生じる衝撃もまた凄まじく、水中の石畳にも大穴が穿たれていた。
 技名を『タイガーファング』と言う。本来は『首相撲』の状態から繰り出すものであり、
ジャーメインにとっては最強の切り札≠ナあった。
 寸分違わず全く同じ箇所を狙撃し続ける為、その破壊力は絶大であり、
例えフルフェイスのヘルメットを被っていようとも全くの無意味。
どれほど堅牢な装甲であっても確実に貫き、粉々に打ち砕くのである。
 尤も、ジャーメインは滅多なことではこの技を使わない。
首を押さえ込み、逃げられない状態にした上で繰り出すと言う性質上、
直撃された相手は顔面が惨たらしい有様(ありさま)となってしまうのだ。
 それが為に使用そのものを憚ってしまうのである。
肉親のグンダレンコでさえ目の当たりにするのは久方ぶりであった。
 姉妹としてジャーメインの技を識(し)り、動作(うごき)と呼吸を見極めているイリュウシナでなければ、
タイガーファングが放たれた時点で勝敗は決していただろう。
 イリュウシナも最初の内は両の掌を重ねて受け止めていたのだが、
幾度目かで遂に防御(ブロック)を弾かれ、最後の一撃でもって顎を撥ね上げられてしまった。
 それもまた強烈な飛び膝蹴りではあるものの、しかし、一撃のみでは必殺≠ニは成り得ない。
水柱が波紋の只中へ還る頃にはイリュウシナも体勢を立て直していた。

「まさか、その技にお目に掛かるとは思わなかったわね。メガネが飛ばなかったのは奇跡ね」
「こんなときまでメガネにこだわんなくてもいいでしょーがっ!」
「腕の感覚が殆どなくなった――と言えば満足かしら? 
……少しでも勘が鈍っていたら、こうしてお喋りすることも出来なかったのは確かよ」

 無数の飛び膝蹴りで弾かれた左右の手は、指先に至るまで痺れてしまっている――
そのように仄めかしながらも、掌打の速度は全く衰えていなかった。威力とて同様である。
 今度は自分が攻める番とばかりに、ジャーメインの側頭部へ掌打を見舞っていった。
 その合間にもイリュウシナは攻め手を巧みに変化させていく。
直線的に掌底を突き出して腹部を抉り、水平に閃く手刀で脇腹を打ち据え、
頭部だけでなく胴への痛手(ダメージ)も着実に重ねていった。
 そうして妹の意識を上体へ釘付けにしておいて、更に下段攻撃へと転じる。
左膝の打ち込みと右足裏による踏み付けを連続して繰り出し、
ジャーメインの右足を破壊しようと図ったのだ。
 この際の左膝蹴りは、下方へと力を掛けてジャーメインの挙動(うごき)を押さえ込むのが狙いである。
その上で右の膝関節を踏み付けにし、一気に圧し折るつもりであった。
 『骨法(こっぽう)』と言う武術の基礎に則った流れるような攻撃ではあるものの、
決定的な痛手(ダメージ)を一向に与えられない。
それはつまり、イリュウシナが最後≠ワで踏み込むことを躊躇っている証左と言えた。

「浅いよ、リュウ姉ッ!」

 互いの膝がぶつかり合った瞬間、ジャーメインは姉の技を力任せに押し返し、
続く踏み付けを躱し切ったのである。
 如何にイリュウシナと雖も、大きく体勢を崩されていては命中精度も低下するだろう。
 これはジャーメインにとって反撃の好機でもある。
報復とばかりに右の下段蹴りをイリュウシナの左膝へ叩き付け、
重心が崩れたと見て取ると己の両腕を姉の脇下に滑り込ませ、
互いの身を密着させるようにして組み付いた。
 イリュウシナの背面にて左右の五指を組み、完全に捕獲≠オている。
強力無比な骨法ではあるものの、この状態が得意とは言い難い。
これはムエ・カッチューアの間合いであった。
 掌底でもって肩甲骨辺りを叩くなど懸命になって抗うイリュウシナであったが、
どれほど反撃を加えられても、ジャーメインは捕獲を解こうとしない。
 最初から痛手(ダメージ)など度外視しているのだ。肩甲骨が軋もうとも気に留める必要はなく、
代わりに腰を捻り込んで姉の胴へと膝を突き入れていった。
 回し膝蹴りの要領で脇腹を抉り、イリュウシナが足を持ち上げて防御を図れば、
互いの軸足を絡ませるようにして勢いよく倒れ込む。
 果たして、水柱を立てて落下したイリュウシナは、石畳へ後頭部を強かに打ち付けてしまった。

「――く……ゥ……ッ!」

 骨法の達人たるイリュウシナも後頭部の強打は堪えたらしく、
投げ落とされた直後は上体を起こすことさえままならない。
 捕獲を解いたジャーメインは悶え苦しんでいるイリュウシナの上部へと即座に回り込み、
その脳天を右膝でもって脅かした。転がったままの姉の頭部を両手で挟み、
石畳に突けた左膝を軸として、全身全霊の右膝蹴りを放ったのである。
 膝頭が石畳を擦り、水面に赤い線を引いたものの、
大打撃を与える好機に在って、瑣末なことになど構ってはいられない。
 この難敵を下す好機は今しかないと己に言い聞かせるほどジャーメインの精神は張り詰めていた。

「これで決まれぇぇぇェェェーッ!」

 裂帛の気合いと共に振り抜かれた右膝はイリュウシナの脳天を鋭角に突き刺さり、彼女の身を撥ね飛ばした。
瓦斯灯の柱に激突して止まっていなければ、その先に在る溝≠フ底へ沈んでいただろう。
 高潮によって造船所跡全体が浸水した現在は他の場所と見分けが付かなくなっているのだが、
その溝≠ヘ小一時間前まで敷地内を縦断する水路であったのだ。
 当然ながら他の場所よりも遥かに深く、石畳と間違えて足を滑らせようものなら、
生命の無事さえ知れない程の事態にまで発展する筈である。
 このような状況を把握した上で、ジャーメインは容赦なく実姉を蹴り飛ばしたのだった。

(今、倒さなくちゃアルのところまで行き着けないから……――ッ!)

 今一度、己に言い聞かせ、追撃を仕掛けるべくイリュウシナへ向かったジャーメインの心中には、
或るひとつの違和感が芽生えていた。
 鬼をも殺せる寝技を仕掛けた前後と比して、イリュウシナの殺気は明らかに萎(しぼ)んでいる。
それどころか、強力無比である筈の関節技を一切使わなくなってしまったのだ。
 掌打を主体とする打撃技は依然として脅威なのだが、
関節を極められる心配がなくなれば、それだけでも格段に戦い易いと言えよう。
思い切って組み付いていくことも可能となったわけだ。
 当のイリュウシナは、ジャーメインに対して最も有効な武技を切り捨てたようなものである。
 関節技を織り交ぜて攻守を組み立てていれば、最強の切り札≠使わせることなく封殺出来ただろうに、
現在(いま)の攻撃は通り一遍と言うしかない。
 変則的な技を得意とするザムシードでもない以上、
打撃技と言う一分野の中で動作の複雑化を試みても、やはり限界があるのだ。
 相手に組み付き、そこから仕掛ける技と言うものは、打撃に対して方程式のような関係にある。
掛け合わせの工夫次第で動作の幅が限りなく広がり、相手に破られ難くなるのだ。
 これこそが現在(いま)のイリュウシナに欠けるものであり、そこにジャーメインは突破口を見出していた。
 今や明確に感じ取れるのだが、イリュウシナは実の妹を相手に非情に徹し切れずにいる。
口では冷たく突き放すものの、いざと言うときには、どうしても止(とど)めを踏み止まってしまうのだ。
 「鬼さえも殺す」とされる寝技を解いてしまったのが、攻め切ることの出来ない証左であろう。
この技でジャーメインを組み敷いた頃、造船所跡の浸水が始まったのである。
寝技を維持したままでは流れ込んできた海水によって溺死し兼ねないと判断し、妹を解放したわけだ。
 しかし、当のイリュウシナは処刑≠フ妨げとなり得る人間を退けると言う任務を帯びて
造船所跡に立った筈なのだ。この点と照らし合わせるならば、
敵℃d留める好機を自ら手放したとも言えるだろう。

「ムリして突っ張っても、リュウ姉さんはメイちゃんが大好きだものねぇ〜」

 もうひとりの姉――グンダレンコの言葉がジャーメインの脳裏に蘇る。これこそが答えである。
 ジャーメインの側からすれば姉の愛情に付け込むようなものであり、心苦しくないと言えば嘘になる。
卑劣な振る舞いだと己を愧じる気持ちもある――が、今だけは一切の迷いを切り捨てなければならなかった。
 ありとあらゆる手段を講じて臨まなくては突破出来ない相手なのだ。
 生命の遣り取りか否かはともかくとして、妹を沈黙させるべく本気で打撃を繰り出していることは間違いない。
しかし、水が引かない間は二度と寝技は使うまい。
 無論、立ったままで仕掛けられる関節技も骨法には在るのだが、
「死ななければ良い」と言う気迫で戦うジャーメインには有効とは言い難い。
腕の一本を折ったところで止まる筈もなく、強制的に意識を奪わない限りは決着を付けられないだろう。
 極端に言えば、首を極めるような技でもなければジャーメインには効果がないのである。
 だからこそ、イリュウシナの攻め手は単調にならざるを得なかった。
掌打で脳を揺さ振りつつ、胴に痛手(ダメージ)を重ねて屈服させる以外に選択肢もなかった。

(……ごめんね、リュウ姉……)

 瓦斯灯の柱を頼りに立ち上がろうとしているイリュウシナのもとへ水飛沫と共に駆け寄ったジャーメインは、
慙愧の念を抑えつつ追撃を繰り出していった。
 何時でも首相撲へ持ち込めるよう時機を計りつつ、中間距離から怒涛の如く拳と脚を連射していくのだ。
直線的な突き込みでもってメガネごと顔面を打つと見せかけおいて、中段蹴りに変化して脇腹を抉るなど、
精彩を欠くイリュウシナとは対照的に打撃の鋭さも増している。
 「好き勝手にやってくれるわね……」と呻くイリュウシナは、顔面に血の化粧を施されていた。
 その呟きを合図に、イリュウシナは反撃に移る。
左右の掌打を同時に繰り出してジャーメインの両腕を押さえ込もうと試みたのである。
 ジャーメインの側も姉がこうした手段に出るものと予想していたのだろう。
力ずくで押し返そうと図り、前方(まえ)に出ようとする勢いに乗せて頭突きを見舞った。
 この反撃に即応したイリュウシナは、右手を掌打から手刀の形へと変化させつつ半歩踏み込み、
眉間でもって頭突きを受け止めるや否や、ジャーメインの左脇腹に横一文字を閃かせた。
 速射砲のような頭突きと横薙ぎの手刀――相打ちとなった姉妹は、間合いを取るべく後方に跳ね飛んだ。

「メガネが壊れなくて良かったわ。尤も、半端者の技でダメになるような安物は使っていないのだけど」
「何回も繰り返してると強がりにしか聞こえなくなるよ、リュウ姉」
「……悪かったわね」

 妹から指摘されるまでもなく、イリュシナも己の言行が虚勢に近いことは自覚していた。
 攻め手が鈍っているのは、ジャーメインに対する気遣いばかりが原因ではない。
 アルフレッドを助けるべく必死になって戦う一途なジャーメインに対して、
イリュウシナの心は千々に乱れているのだ。任務を放棄したとしか思えないビクトーを諌めるべきか、
彼を信じて課せられた壁役≠遂行し続けるべきか――最も正しい判断とは何か、定められずにいるのだった。
 スカッド・フリーダムの『義』を貶める所業としか考えられず、
ジャーメイン自身は最初からアルフレッドの抹殺に反対であったのだ。
忌むべき任務を取り止めに出来るのであれば、これほど望ましい筋運びはなかった。
 義の戦士ともあろう者が任務の途絶を望むこと自体、正常(まとも)ではあるまい。
このような情況へビクトーの変調に対する戸惑いまで加われば、
心が定まらなくなるのは当然であり、技の乱れもまた必然であった。

(――アルフレッド・S・ライアンの抹殺を引き受けたのは、
あの日≠ノ出会った女の子の為だって、あなた、言っていたじゃない……)

 イリュウシナの脳裏に蘇るのは、この忌むべき任務をビクトーに決意させた一番の動機≠ナあった。
 『在野の軍師』を「生きていてはいけない生命」とまで罵ったのは、
スカッド・フリーダムの決定を遵守すると言う意思の表明ではない。
ましてや、バロッサ家の名誉を回復する為の虚栄でもない。
あくまでもビクトー自身が発した言葉であった。
 ケンポーカラテの宿命に飲み込まれるまでのビクトーは、
憎悪にも似た想念を抱いてアルフレッドと対峙していたのである。
 その動機≠ノついてビクトーは、或る少女の無念を受け止めたから――とイリュウシナに語っていた。
『在野の軍師』の所為で運命を狂わされた犠牲者に報いなくてはならないのだ、と。

「……どうして、ここまで無理をするの――いいえ、彼の為に戦えるの、メイ?」

 僅かな逡巡の後(のち)、イリュウシナはこれまでの凛然とした態度が幻であったかのように
弱々しい声を絞り出した。妹に対する呼びかけも「メイ」と言う愛称に戻ってしまっている。
 精神的に不安となっていることは間違いなく、
ジャーメインは敵味方と言う立場も忘れて姉に気遣わしげな顔を向ける。
これ程までに気鬱を露にするイリュウシナの姿を嘗て見たことがなかった。
 それと同時に脳裏には数え切れない程の疑問符が浮かんでいる。
 どうして、アルフレッドの為に戦えるのか――このようなことを改めて問い掛ける理由が
ジャーメインには分からない。

「どうしても何も……仲間がやられそうになってるんだよ? 助けるのが普通じゃない。
いけ好かない部分もたくさんあるけど、……それでも、アルはあたしにとって大事な仲間なんだから」

 姉が何を語りたいのか、その意図を掴めないまま、ジャーメインは至極当然と言う返答(こたえ)を口にした。
共に戦う仲間に対して、不当としか言いようのない抹殺指令が下されたのである。
黙って見過ごせるわけがあるまい。
 ところが、だ。誰もが納得するであろう返答(こたえ)を受け止めた途端、
イリュウシナは一等悲しげな表情(かお)を見せた。その面には妹に対する憐れみすら滲ませている。

「彼は――アルフレッド・S・ライアンは、自分の仲間を犠牲にしてまで戦争を選んだのよ。
あなただって、いつか見殺しにされるか知れない。それなのに、どうして……」
「……ちょっと待って。それ、どう言う意味――」

 その言葉をイリュウシナが発した瞬間、ジャーメインの思考は灰色の霧に包まれ、
間もなく歪な形に氷り付いた。認識と言う脳の機能(はたらき)すら停止させるように、だ。
 この姉が語る内容(こと)を、ジャーメインの心身全てが拒絶したと言っても過言ではなかった。
 アルフレッドは自分の仲間を犠牲にした――姉の言葉はジャーメインを幻惑させる為の偽りに違いなく、
それ故に脳が危険と判断して理解を拒んでいるのだ。それ以外には考えられないのだ。
 友を喪う怖さを誰よりも知っているアルフレッドが、
戦いの為だけに仲間を犠牲にすることなど絶対に有り得ない。

「先に逝った者たちに報いるのは戦士の務めだ。……ライアンは気も狂わずに良く戦っているよ。
古くからの仲間を何人も喪ったと言うのに決して折れんのだからな」
「……盗み聞きは感心しないわね。それとも、『流石はテムグ・テングリ』と言うべきかしら。
他人のものを掠め取るのは大得意よね」
「私のことは何とでも言ってくれ。……但し、ライアンの覚悟を貶すことは断じて許さん」
「だ、だから……おじさんまで何を言ってるのッ!?」

 離れた位置より一足飛びで接近し、その勢いを乗せた渾身の右ストレートにて
グンダレンコを撥ね飛ばしたザムシードは、横目でイリュウシナを睨み据えると、
戦士の務め≠果たさんとするアルフレッドの覚悟を称えた。
 どうやら、ザムシードの耳にもイリュウシナの言葉は届いていたらしい――が、
彼の口にした賛辞はジャーメインの混乱を更に加速させるものであった。
 「古くからの仲間を何人も喪った」と、ザムシードは語った。
 馬軍の将が発した言葉の意味するところは、ここに至る経緯(いきさつ)を顧みれば、
ただひとつしか思い当たらない。

「……だって……アル……そんなことは一度も――」

 戦闘の最中であることさえ忘れてしまったのか、
膝から崩れ落ちたジャーメインは呆けたように頭を振り続けている。
 全く無防備となった今こそ止(とど)めを刺す好機であろうが、
やはりイリュウシナは攻撃を踏み止まってしまい、痛ましそうに妹を見つめるのみであった。

「メイちゃん、もしかして、彼から何も――」

 ザムシードに打たれた腹部を右掌で押さえながら立ち上がったグンダレンコは、
面から血の気が失せた妹に駆け寄ろうとした――が、不意に吹き抜けた熱風に頬を撫でられ、
堪り兼ねて仰け反ってしまった。

「――な、なんですかぁ〜、一体〜っ?」

 そもそも、熱風が発生すること自体がおかしい。現在の造船所跡は高潮の影響で全体が浸水しており、
寧ろ冷気が垂れ込めているわけだ。そのような場所へ誰が灼熱の吐息を吹きかけると言うのだろうか。
 何事かと一斉に振り返れば、アルフレッドと格闘戦を繰り広げていた筈のビクトーを
紅蓮の炎が脅かしているではないか。
 天を焦がさんと逆巻く炎が熱風を起こし、グンダレンコの――否、皆の頬を撫でたのである。

「ビクトーッ!?」

 中空にて爆ぜた後(のち)、ビクトーを呑み込まんと迫る爆熱の塊は、
イリュウシナの絶叫をも焼き尽くしていった。


 冷気で満たされた造船所跡に奇怪としか思えない紅蓮の炎が熾ったのは、
ジャーメインの思考が灰色の霧に包まれ、凍て付いていく最中のことであった。
 それより少しだけ遡ると――ビクトーは円軌道の技巧(わざ)を見破ったと言うアルフレッドと対峙し、
互いの出方を窺っていた。剣匠の誉れ高いフェイ・ブランドール・カスケイドと
ビクトーが似ていると言う雑談を交わしていた頃である。

「自慢と思われたら心外だが、俺はフェイ・ブランドール・カスケイドも倒している。
たった一度きりだけどな。……だからこそ、お前のような愚物には負けられない」
「ええ、存じておりますとも。スカッド・フリーダムのほうで色々と調べさせて頂きましたので。
フェイ氏を降した功でキミは連合軍の作戦を預かる権利を獲得した――でしたね。
重大事を決闘の褒章にしてしまうのはどうかと思いますが……」
「貴様らはストーカーか」

 自分はあのフェイ≠ノも勝てたのだ――と、一種の自己暗示のつもりで口にした呟きに対して、
思い掛けない答えをビクトーより返されたアルフレッドは、流石に面食らってしまった。
 身辺を探られているとは想像していたが、ビクトーの口振りから察するに
怖気が走るほど入念であったらしい。最早、変質的と言っても差し支えはあるまい。
 情報戦に長じたヒューやセフィがビッグハウスに同行していたなら、
スカッド・フリーダムの追跡とて迎え撃てただろうが、両者は揃って佐志にて待機中。
それでは手の打ちようもあるまい。

「調査と言っても、別に私が指示したわけではありませんよ。戦闘隊長からレポートを押し付けられたのです」
「シュガーレイの後任、か。伝聞でしか知らないが、ろくでもない人間らしいな」
「――残念ながら、否定出来るだけの材料がありませんね」

 その言い方がアルフレッドには引っ掛かった。
 シュガーレイが脱退した後に戦闘隊長を引き継いだ男――エヴァンゲリスタ・デイナ・シュマンツのことを
謗られたにも関わらず、ビクトーは擁護の言葉ひとつ返さなかったのである。
 戦闘隊長とは、総帥に代わって義の戦士を統括する立場であると言う。
ビクトーにとっては上役になる筈だが、「ろくでなし」と言う痛罵を否定するどころか、
エヴァンゲリスタに対する悪感情すら覗かせたのだ。
 ほんの一瞬の遣り取りではあるが、そこにスカッド・フリーダムの内部事情が
表れているように思えてならなかった。
 義の戦士が聞いて呆れるが、内輪揉めでもしている様子である。

(任務を投げ出して私闘へ走る七導虎に、求心力も何もない戦闘隊長か。
トレイシーケンポーを爪弾きにしたこともそうだが、
内側はガタガタで結束もバラバラ――案外、転がし易いのかも知れないな)

 如何にも『在野の軍師』らしい胸算用を経たアルフレッドは、
「フェイにも勝てたのだ。だから、負けられない」と改めて己を奮い立たせた。
 スカッド・フリーダムを攻略し得る手掛かりを掴んだところで、
この戦いに生き残れなくては元も子もなかろう。

「どんなろくでなしであろうと、言いなりになっている時点で貴様も同罪だ」
「……それも否定は出来ません」

 心底よりの侮蔑を吐き捨てるアルフレッドは、再び両足に蒼白い稲光を帯び始めていた。
これは水面にも移り、先程と同じ閃光を走らせている。
 今度も水圧の影響を取り除かんとしているのだろう。
ヴィトゲンシュタイン粒子に基づいて発動されるホウライならではの効果である。
 果たして、アルフレッドが下肢を動かす度に進行方向の水が裂け、
平素と変わらない速度を発揮する。そこに水圧の影響は感じられなかった。

(……伸るか、反るか――ッ!)

 瞬時にして間合いを詰め、水飛沫と共に左足を振り上げたアルフレッドは、
足裏でもってビクトーの鼻頭を踏み付けにした。
 引っ掛けも何もなく、極めて大きな所作(うごき)であったのだが、
膝の屈伸を生かして一気に蹴り足が伸びた為、さしものビクトーも反応し切れなかったのである。
 蹴り足を追い掛けるようにして上体を捻り込み、横薙ぎの右拳を繰り出していく。
ビクトーの左目は流血によって塞がれている。死角側から不意打ちを仕掛けた形だ――が、
やはり、片目を封じた程度で七導虎を翻弄することは叶わず、
左拳の突き上げでもって簡単に弾かれてしまった。
 すぐさまに身を翻したアルフレッドは、右の上段後ろ回し蹴りを繰り出す。
 死神の大鎌の如く振り抜かれた蹴り足が躱されると、
巧みに体勢を修正し、同側の足でもって上段蹴りを放った。
後ろ回し蹴りとは逆方向に身を捻り、ビクトーの左側頭部を脅かそうと言うわけだ。
 これもまた防がれてしまったものの、ビクトーが反撃に出ようとすると、
蹴り足を地に着けないまま左の軸足でもって半歩ばかり進み、
自身に打ち込まれようとしていた右足――その膝を足裏でもって踏み付けにした。
 そうして挙動(うごき)を封じておいて、再び右足を跳ね上げたアルフレッドは、
肩目掛けて垂直に踵を落とし、次いで中段蹴りに変化して胴を揺さ振ったのである。

「ぐゥ……ッ!」
「内臓のひとつでも潰れてくれたら助かるのだがな……ッ!」

 ビクトーが身を傾がせたと見て取るや、轟然と左掌打を突き込んでいった。
ホウライこそ纏ってはいないものの、紛れもなく必殺の一撃――ペレグリンエンブレムであった。
 迎え撃つビクトーは先程と同様に念力ひとつで『ホウライ外し』を試み、
アルフレッドの両足から稲光が潰えるよりも早くケンポーカラテの連打を見舞った。
 先んじてアルフレッドの左側面へと身を移し、自身の左下腕でもって掌打を受け流すと、
すかさず横薙ぎの右拳を背面へと突き込み、更には逆回転の裏拳にて左脇腹を打ち据える。
 この流れの中でビクトーは彼の左腕を両手でもって捉えている。
右手を肘の内側に滑り込ませ、対となる左の五指にて手首を掴んだのだ。
 左手を押し出し、反対に右手でもって引き付け――アルフレッドの左腕を折り畳むや否や、
滑り込ませるような所作(うごき)で自身の左肘を振り抜き、彼の顎に強撃を見舞った。
 肘を突き入れた直後には、アルフレッドの左腕から右の五指を離している。
次の瞬間には大きな半円を描く右拳が閃いていた。
 自由を取り戻した左下腕を振り上げ、横薙ぎの右拳を防ごうと試みるアルフレッドであったが、
左腕を伝って肉体の芯にまで浸透した衝撃によって重心が乱され、体勢まで大きく崩れてしまった。
 アルフレッドの頭部に痛手(ダメージ)を重ねることが狙いだったのではない。
最初から『軸』を外す為に放たれたのだ。
 全くの無防備となったアルフレッドの面前でビクトーは身を翻し、彼に対して背を向ける恰好となった。
 これもまた一種の予備動作(しかけ)である。四半円の軌道を描くように己の身を振り回し、
左半身がアルフレッドに向いた直後、鉄槌の如き左拳を下腹部へ、右掌を喉元へ同時に叩き込んだ。
 言わば、全身で円軌道を描く技である。重心を乱された為に踏ん張りの利かせられないアルフレッドは、
拳打と掌打による同時攻撃を受けて後方へと撥ね飛ばされた。
 すぐさまに両足で石畳を踏み締め、大きく引き剥がされないよう留まろうとするアルフレッドであったが、
そこへ止(とど)めとばかりに右足が蹴り込まれる。
 相手に対して半身を開いた状態から足の外側を突き入れると言う強撃である。
鋭い槍でもって一突きするようなものであり、腹部を鋭角に抉られたアルフレッドは、
堪り兼ねて赤黒い霧を噴いてしまった――が、
直撃を被った瞬間には、これ≠ェ『止(とど)め』でないことを悟っている。
 威力と衝撃が肉体の芯まで浸透し、重心が崩れて瞬間的に脱力してしまったのだ。
槍の如く鋭い横蹴りもまた『軸』を外して次の一撃に繋げる為の布石だったのである。

(――この間合い……このタイミングを待っていたッ!)

 布石の次に待ち構える猛襲へ警戒するべきところであろうが、
アルフレッドの口元には薄い笑みが浮かんでいた。
絶対的に不利な状況にも関わらず、深紅の瞳には不敵な光まで宿している。
 ビクトーは更に踏み込みつつ、左の前回し蹴りを放とうと構えているのだ。
どう考えても、薄笑いなど浮かべていられる状況ではない――
そのようなときに何の前触れもなく紅蓮の炎が出現したのである。

「な――ッ!?」

 ビクトーから見れば怪奇現象以外の何物でもなかろう。
火種と成り得るものがひとつとして存在しない空間から突如として爆炎が噴き出したのだ。
 アルフレッドの仕掛けであることは疑いないが、しかし、原理までは解らなかった。
 ホウライの応用によってヴィトゲンシュタイン粒子を火炎に変換させたのではないかと、
ほんの一瞬だけ考えたものの、このような現象は前例がないのだ。
 エネルゲイア型に分類されるトラウムと同じように自然現象を操ることなど、
ホウライを編み出したタイガーバズーカの人間でさえ不可能であろう。
 これではまるで、マコシカの民に伝わる秘術――『プロキシ』ではないか。

「いえ、……そう来ましたか――」

 奇怪であることに変わりはないが、今し方の現象についてはプロキシと仮定すれば説明が付けられる。
 アルフレッドはマコシカの出身(うまれ)ではない。
彼(か)の民の『レイライナー(術師)』を仲間にもしていたようだが、
ロクサーヌの調査によれば、その男も今は傍には居ない筈である。
 或る少女≠竭シの仲間と共に遠い彼方≠ヨ旅立ってしまったのだ。
 だが、マコシカの民でなくともプロキシ自体は使用することが出来る。
 その鍵となるのが神秘の結晶体、『CUBE』である。
 CUBEは炎や冷気と言った自然界のエネルギーが立方形に凝固したものとされており、
ここから力を引き出すことによってマコシカの秘術を再現させられるのである。
俗に「魔力の産物」とも呼ばれる所以であった。
 尤も、CUBEひとつで万能と言うことではない。ごく僅かな術のみに限られる上に、
結晶化したエネルギーに対応するものしか発動出来ないのだ。
 ひとつのCUBEに宿る力は、当然ながら一種類である。
 おそらくアルフレッドは、炎の力を結晶化したCUBEを何処かに隠し持っているのだろう。
 その身を『竜巻』によって引き裂かれながら温存し続けたものの、
ここに至って遂に打つ手がなくなり、破れかぶれで切り札≠使ってしまったのだろうか。
 しかし、『在野の軍師』ともあろう青年が、そのような失態を演じるとは思えない。
ここまで耐えに耐え、狙い定めた末に今こそ逆転を図る好機と見極めたのか――
身を焦がす程の熱風に煽られながらも、ビクトーは灼熱の塊の先に立つアルフレッドのみに
意識を集中させていた。

(一瞬でも構わない。ヤツの意識を逸らせれば、それで事足りる……!)

 果たして、ビクトーの見立ては正解であった。
アルフレッドはジーンズのポケットの中に火の力を結晶化したCUBE――『MS‐FLM』を忍ばせており、
これを以ってして紅蓮の炎を作り出したのである。
 発動させたプロキシは、火炎弾を打ち込む『ファランクス』であった。
 バブ・エルズポイント内部に設えられた転送装置よりノイのエンディニオンへ突入する――
この作戦に当たって、今まで手に入れてきたCUBEは全て決死隊へ預けられる手筈となっていた。
 さりながら、全ての要員(メンバー)へ行き渡るほど大量に所有しているわけでもない。
その為、必要な人間にのみ配られることとなり、アルフレッドには火のCUBEが割り当てられたのである。
 現在、アルトの側に残っているのは、アルフレッドが隠し持ったMS‐FLMと、
マリスに手渡された水のCUBE――『MS‐WTR』の二種類のみだった。
 己の手元に火のCUBEが在ったことをアルフレッドは僥倖のように感じている。
 高潮と言う状況下であれば、寧ろ、水のCUBEのほうが相性は良さそうに思えるのだが、
「全てが焼き尽くされる恐怖」は生き物の本能を揺さ振るものであり、
より効果的に心理的な圧迫を与えられるのだ。
 七導虎を名乗るビクトーとて、この恐怖からは逃れられない。
アルフレッドより送られた念によってファランクスが空中で炸裂し、
散弾の如く辺り一面に飛び散った瞬間、彼は両腕でもって顔面を庇ったのである。
 この反応こそアルフレッドは待ち続けていた。
 攻勢が完全に止まり、優れた五感を以ってしても周囲の状況が判らなくなる――その一瞬を見極めた彼は、
足裏にてホウライを炸裂させると、火傷を負うのも構わずに爆熱の塊を突き抜け、
ビクトーの頭上まで一気に跳ね飛んだ。
 ここまで≠ェアルフレッドの仕掛けた罠≠ナある。
 打撃の応酬を挑み、わざと『軸』を外させ、ビクトーにとって絶対的に有利な状況を作り出しておいて、
最後の最後に虚を衝くと言う奇襲作戦である。
 骨身が軋む程に痛手(ダメージ)を重ねられてしまったが、
この場に於いて最も重要なことは「生き残る」と言う一点のみ。
絶対に負けられない敵≠突破さえ出来れば、己の身が壊されようとも構わなかった。
 そして、ここまで≠ヘ全てアルフレッドの思惑の通りに運んでいるのだ。
 ビクトーの名を呼ぶ悲鳴に追い掛けられようとも、最早、止まることは許されない。
アルフレッドは死命を決する覚悟で飛翔したのである。

「――おおおぉぉぉォォォッ!」

 ビクトーに気取られるよりも早く両の太股でもって彼の頭部を挟み込んだアルフレッドは、
この状態を維持したままで跳躍の頂点に達し、振り子の要領で全身を反り返らせた。
 中空を舞うアルフレッドの身に強烈な遠心力が働く。
宙返りの勢いを以ってして、捕獲≠オたビクトーを大地へ叩き落そうと言うのだ。
 嘗てミルドレッドをも破った奥の手≠フひとつであった。
ジークンドーともサバットとも異なる荒業であるが、これもまた祖父より授かったものである。
 両足を駆使した投げ技と言う性質上、蹴りからの派生と奇襲にも適しており、
アルフレッド自身、勝負所で放つことが殆どだった。即ち、名実共に奥の手≠ニ言うことだ。
 ビクトーの頭部は両足にて完全に捉えている。決して逃すことはあるまい。
高空より急降下し、全身の骨を粉砕することにのみアルフレッドも意識を集中させていた。

(――これは……一体……ッ!?)

 ところが、だ。今まさにビクトーを投げ落とさんとしていた彼の身に、あってはならない異変が起きた。
何の前触れもなく四肢の自由が利かなくなってしまったのだ。
 中空にて身動きが取れなくなる事態とは、翼に風を受けて飛ぶ鳥が揚力を喪失する状況と同じである。
姿勢の制御すら不可能となり、錐揉みをしながら墜落するのみであった。
 絶対的な信頼を置く奥の手≠ナある。技の仕掛け方を誤ったとは思えない。
 ただ一点――宙返りへ移る寸前、腰の辺りに奇妙な違和感を覚えたのだ。
アルフレッド当人が錯覚と判断して捨て置いたほど小さな変化である。
 上体を反り返らせようとする間際に、どう言うわけか、内側へ引き込まれるような力の働きを感じたのである。
 だが、錯覚とばかり思っていた違和感は急速に強くなっていき、
今や不可視の穴に向かって吸引されるような戦慄すら帯び始めている。

「迂闊でしたね――」

 ビクトーの声が鼓膜を打つ頃には、アルフレッドが掌握した筈の遠心力は完全に反転してしまっていた。
言わずもがな、彼自身の意思とは無関係に、だ。
 見えざる手によって、宙返りを試みた方向とは逆側に振り回されたとしか言いようがない。
あるいは、身体の何処かに一本の機軸を捻じ込まれ、これを支点として逆回転させられたと例えるべきか。
 いずれにせよ、誰の仕業であるかは疑うまでもなかった。
 投げ技へ移らんとする一瞬の内にビクトーが『軸』を外し、
己の円運動へとアルフレッドを呑み込んだのである。
 相手が跳ねようとしていた方向とは逆側に上体を反らすことで――ただそれだけで『軸』を外したに違いない。
 不意打ちを受けると言う状況の中、それも四肢の自由が利き難い中空で、
半ば決まりかけた技を物理的に引っくり返したのである。およそ人間業ではあるまい。
 如何に見下げ果てた相手とは雖も、七導虎と言う事実に変わりはないのだ。
寧ろ、このような離れ業を使いこなせる人間はビクトーを措いて他には居ないと述べることが正解であろう。
 さしものアルフレッドも、この事態には愕然としていた。
 起死回生を期して放った筈の奥の手≠ェ敢えなく失敗してしまったのだ。
今まで誰にも破られたことがない祖父直伝の必殺技を、
あろうことか、初見の相手に外されてしまったのである。
 如何にビクトーが、ケンポーカラテが円軌道の技巧(わざ)に長けていようとも、
人間の要たる頭を押さえてしまえば、『軸』も外しようがあるまい――そう計算して勝負に臨んだのだが、
結局、絶望的な力量差を覆すには至らなかった。
 頭部を捉えておきながら反り投げでもって迎撃され、自分のほうが石畳に叩き付けられてしまった。
それも、顔面から落とされると言う醜態であった。
 落下の寸前、両掌を石畳に叩き付けて衝撃を緩衝し、肋骨の折れた箇所だけは庇ったものの、
現在(いま)は肉体への痛手(ダメージ)よりも精神的な動揺のほうが深刻だ。
 アルフレッドは攻め手を封殺されたようなものである。
ありとあらゆる打撃を凌がれ、奥の手≠ウえも円軌道の技巧(わざ)によって外されてしまった。
火のCUBEを使った不意打ちとて、もう二度とは通用しないだろう。
 もうひとつの奥の手≠ナある『ドラゴンレイジエンター』も、おそらくビクトーには効かない筈だ。
 剣匠の誉れ高いフェイ、馬軍の将たるビアルタ――二度に亘って強敵を退けた大技なのだが、
著しくホウライに依存すると言う性質上、スカッド・フリーダムに対しては何の役にも立たないわけである。

「莫迦な……ッ!」

 全ての牙≠折られたにも等しい事実は狼狽を生み、僅かながらアルフレッドの動きを鈍らせた。
 そして、生と死が紙一重ですれ違う次元の戦いに於いては、
ほんの少し出遅れが致命的な状況を呼び込むのである。
 よろめきながらも彼が起き上がろうとしたときには、既にビクトーの追撃が迫っていた。

「私も相応の技で向かいましょうッ!」

 残像すら映さない速度でもってアルフレッドの背後まで回り込んだビクトーは、
無防備な延髄目掛けて轟然と左手甲を振り抜いた。
 神速にも達する旋回より繰り出された裏拳は、まさしく全円を描く打撃であった。
 ビクトーが極めたケンポーカラテと、シルヴィオの操るトレイシーケンポーが
共有する円軌道の技巧(わざ)とは、呼んで字の如く円の運動に基づいて強烈な遠心力を生み出し、
同時に全身のバネを極限まで引き出し、「城を破る」と喩えられる程の強撃を放つものである。
 即ち、所作(うごき)の中に回転を含めている裏拳は、
この円軌道の技巧(わざ)の特性を最大限に生かせると言うことだ。
 最強の威力に達した円軌道の打撃を、アルフレッドは無防備のまま人体急所に喰らってしまったのである。

「アルッ!」
「ライアンッ!」

 ジャーメインとザムシードの絶叫が同時に木霊したが、
アルフレッドは反応ひとつ返さない――否、返せるわけがなかった。
 現在(いま)もビクトーが処刑人≠ニしてアルフレッドと相対していたなら、
おそらくこの一撃で即死していたに違いない。
 現在(いま)のビクトーはひとりの武術家であった。
宿命の邂逅に決着さえつけば生命を奪うまでもないと言う心が働いたからこそ、
彼は頚椎の破断を免れたのである。
 尤も、「ただ即死を免れた」に過ぎない。夥しい神経が通う部位に「城を破る」ような一撃を被れば
行動不能に陥るのは必定である。打ち所が悪かったなら、後遺症さえ覚悟しなくてはならなかった。
 いずれにせよ、誰の目にもアルフレッドの敗北は明らかであった。
 これ以上の戦闘は不可能――そのことは今にも崩れ落ちようとしている彼自身が一番良く解っている筈だ。
もしかすると、自身の敗北を認識する機能さえ闇の中に沈んでいるのかも知れない。

(……ここまで……なのか――)

 混濁していく意識の中で、アルフレッドは同郷の兄貴分と再び巡り会った。
先刻、自己暗示を掛けるべく思い浮かべた稀代の英雄と――だ。
 だが、今にも消滅しそうな意識の中に現れたのは、嘗て慕った「フェイ兄さん」などではない。
自分に剥き出しの殺意を浴びせかけ、あまつさえ罪もない難民を死に追いやったとされる悪魔が立っていた。
 スカッド・フリーダムと同じように正義を掲げ、
力弱き人々の為に戦ってきた英雄が狂気に歪んだ姿であった。
 ハンガイ・オルスにて立ち合ったときのことであるが、
口汚く「死ね」と吼えながらツヴァイハンダーを振り落としてきた「フェイ兄さん」の貌(かお)は、
忘れたくても忘れられない。「人間らしさ」と言う喩えから遠く掛け離れた面相を晒していたのだ。
 堕ちた――と思わざるを得なかった。
 ワーズワース難民キャンプへ銃器を持ち込み、暴動のきっかけを作った張本人として彼が疑われたときなど、
「フェイ・ブランドール・カスケイドは正常(まとも)な人間なのか」と、
ヴィンセントから面と向かって問われてしまったのだ。
 しかも、その場に居合わせた誰もが口を揃えて「フェイは狂っている」と断言したのである。
 故郷の誇りとも言えた英雄は人の道を踏み外し、許されざる過ちを犯してしまった。
人の命を弄ぶ罪に塗(まみ)れて正義を――己の志を裏切ってしまった。
 難民への被害が拡大する前にフェイを粛清すべきだと仲間たちから迫られたとき、
アルフレッドは遂に言葉を失ったのである。
 その沈黙自体がフェイの発狂を認めてしまった証左に他ならない。
彼を実の兄の如く慕ってきたアルフレッドにとって、これほど哀しい情況(こと)はなかった。
 しかし、誰もが堕ちた偶像の狂乱を罵る中に在って、その過ちを正すと何処かの誰か≠ェ声を上げた筈だ。
 そして、何処かの誰か≠ヘ、「これは私たちの戦いなんだよ」とまで言い切ったのである。

「フェイさんが道を誤ってしまったなら、もう自分でも止まれなくなっているのなら――
そのときは身体を張ってでも食い止めるよ。フェイさんも私も、グリーニャで生まれ育った家族だもん。
何があっても、その絆は断ち切れないから……ッ!」

 堕ちた偶像のことを自分たちの家族と呼んだのは、見知らぬ誰か≠ナはない。
 フィーナが言ったのだ。同郷の家族が犯してしまった過ちを必ず喰い止めると、フィーナ・ライアンが――。

(……フィー……)

 最早、二度と聞くことは叶わないと思っていた最愛の声が、アルフレッドの心の中で弾けた。
それは一瞬にして闇を引き裂き、彼の前に進むべき光の道を拓いた。
 死に瀕して押し寄せてくると言う幻覚(まぼろし)などではない。
最愛の存在を確かに感じ取ったからこそ、
意識を手放すことなく生への執着にしがみ付くことが出来たのである。

(――フィーッ!)

 その刹那、アルフレッドの右足がこれまでにない疾(はや)さで動いた。

「――ここでは死ねないッ!」
「アルフレッド君――ッ!?」

 死の影をも咬み砕かんとするアルフレッドの大音声が響き渡り、
次の瞬間には必殺の後ろ回し蹴り――『パルチザン』がビクトーの左胸を捉えた。
しかも、直撃の瞬間に蒼白い稲光を炸裂させ、攻撃の威力を撥ね上げている。
 只今の攻防の中で考え得る最高にして最強の反撃であった。
 惜しむらくはパルチザンの直撃した部位であろうか。
神速すら超越したようにも思える後ろ回し蹴りは、『義』の一字を記した胸甲に当たってしまったのだ。
 無意識であり、且つ、倒れる間際と言う状態から繰り出した為、
精密に狙いを定めることは不可能であったのだが、
装甲で守られていない部位に直撃していたなら、より大きな痛手(ダメージ)を与えられた筈である。
 それでも、ビクトーを弾き飛ばすには十分であった。
 『義』の胸甲の残骸と共に宙を舞った彼は、造船所跡に立ち並ぶ建物の一棟へと到達し、
間もなく煉瓦造りの壁を突き破った。
 直撃した部位はともかくとして、「城を破る」と喩えられる円軌道の技巧(わざ)にも匹敵するか、
あるいはそれを凌駕する程の威力であったことは間違いない。

「……ビクトー……」

 その様を目の当たりにしたイリュウシナは、震える声で夫の名を呟いた。
 スカッド・フリーダムの猛者をも狼狽させるような威力を発揮したのだ。
ビクトーとて胸甲が砕けた程度では済まないだろう――が、
アルフレッドも直ぐに追い討ちへ走ることは出来なかった。
 無理な姿勢からパルチザンを放った所為で骨折箇所が軋み、
思わず蹲りそうになるくらいの激痛に苛まれていたのである。
 傷が悪化しているのは間違いなく、今や右脇腹の感覚は完全に麻痺していた。

(……まだ死ぬわけにはいかない……何を犠牲にしてでも――犠牲にした生命に報いると誓ったのだから……)

 歯を食い縛って堪えたアルフレッドは、ビクトーが吸い込まれていった建物――穿たれた大穴を睨み据えた。
その闇の先にてビクトーは待ち受けていることだろう。
 黙殺して立ち去ると言う選択肢も頭を過ぎったが、
ケンポーカラテの宿命に酔い痴れる彼が敵前逃亡など許す筈もあるまい。
 アルフレッドの側から闇の向こうへと赴き、全て≠ノ決着をつけるしかないのだ。

「ま、待って、アルっ! あんたには訊きたいことが――」

 水面を漂っていた『義』の胸甲の残骸を拾い上げ、
身を引き摺るようにして大穴へ向かっていくアルフレッドには、
ジャーメインの声は届かなかった。




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