6.難民戦争の代償(前編)


 造船所跡の敷地内に立ち並ぶ倉庫のような建物――と一口に言っても、
それ自体が文化財にも等しい価値を有している。
 読んで字の如く、古い時代には実際に木造船が造られていた場所なのだ。
高い天井に通された梁からは資材を吊るしていたであろう鎖や縄などが垂れ下がっており、
職人たちが奮闘していた往時の趣を残している。
 壁際を見れば、長大な木材や船大工の道具などが乱雑に放置されているが、
最早、これらを用いて船を造ろうと言う人間は殆ど居ない。
 今日(こんにち)では木造船そのものが廃れており、
技術を継承する上での修行や、好事家による特別な要請以外の目的で新造されることはごく稀であった。
せいぜいテレビドラマや映画を撮影する際に必要とされるくらいであろうか。
 それらもまた往時の趣を体験することが主眼であり、この地が果たしている役割と広い意味では変わらない。
 この区域全体がビッグハウスの歩んできた刻(とき)≠物語る史跡なのだ。
 造船所に立ち並ぶ煉瓦造りの建物も観光客の要望に応じて開放するのであろう。
往時には存在しなかった電機製の照明器具も天井に設置されていた。
 それでいて壁に古めかしい燭台を残してある辺りに、
此処が史跡としての役割を果たしていることを感じさせる。
 尤も、事前に予約すら入れない突発の客までは面倒を見切れないようだ。
人の気配を感知して起動する種類(タイプ)ではないらしく、
現在(いま)も照明器具は沈黙を保ち続けている。
 薄気味悪い程に暗く、又、埃臭い屋内を照らすものは、
煉瓦造りの壁を突き破って穿たれた大穴より差し込む僅かな光明(あかり)しかない。
 風に舞う粉塵の只中にて、ビクトーは独り咳き込み続けていた。
 折り曲げた上体を大きく揺らし、強く息を吐き出す度に赤黒い飛沫が舞い散るのは、
それだけ左胸に打ち込まれたアルフレッドの蹴りが――
『パルチザン』の威力が凄まじかったと言うことである。
 ホウライに頼らずとも一蹴りで鉄製の柱を断ち切ってしまえるような剛脚の持ち主なのだ。
胸甲を砕いた威力は身体の芯まで達しており、さしものビクトーも面を苦悶に歪めている。
 それにも関わらず、心は昂ぶり、血肉は燃え滾っていた。
鋭く短い吐息には赤黒い飛沫と共に笑気まで入り混じっているのだ。

「……乗ってきたようですね、アルフレッド君も……」

 両足を駆使した投げ技――プロレスで言うところの『フランケンシュタイナー』は、
アルフレッドにとって勝負を懸ける奥の手≠ナあったに違いない。
標的(まと)を確実に捉える為、CUBEによる引っ掛けまで併用したのだ。
 これを外せば後がないと言う覚悟で繰り出した筈だが、
結局は円軌道の技巧(わざ)によって攻撃の『軸』を外され、逆に投げを打たれてしまった。
勝機を手繰り寄せるどころか、最悪の結末を辿った次第である。
 絶対の信頼を置く奥の手≠ェ破られ、致命傷ともなり兼ねない一撃を延髄に受けた――
それでもアルフレッドは踏み止まり、神懸かった反応速度で反撃を繰り出したのだ。
 結果として競り負けた形であるが、己の痛手(ダメージ)よりも何よりも、
アルフレッドの動きが限界を超えて研ぎ澄まされていくことがビクトーには嬉しかった。
 それでこそジークンドーの継承者である。ルーインドサピエンスより旧い時代から続く宿縁にて
ケンポーカラテと結ばれた相手である。両武術の宿命を分かち合える存在である。
 アルフレッド・S・ライアンと言う武術家の潜在能力を限界まで――否、それ以上に引っ張り出したいと
心の底から渇望していた。そして、望んだ通りの筋運びとなったわけだ。
 この状況に昂揚しない武術家など在るわけがなかった。
 ましてや、「宿命」の二字に導かれた好敵手との戦い機会など生涯に於いて二度とはあるまい。

(私がキミの全てを引き出しましょう。……私にケンポーカラテの全てを出し尽くしてみたいのですから)

 武術家としての悔いは決して残さないつもりである。
現在(いま)のビクトーには、ただそれだけで十分であった。
 義の戦士の任務を放棄した罪悪感も、スカッド・フリーダムの変貌に対する迷いと気鬱も――
煩わしい思いは心に宿った炎が跡形もなく焼き尽くしていた。
 薄暗い屋内に靴音が響いたのは、アルフレッドが待つ大穴の外へ戻るべく上体を起こした直後のことだった。
呼吸を整えんが為の大きな吐息を、タイルを蹴る音が弾いたのである。
 床に敷き詰められた大理石のタイルは、経年劣化を感じさせる梁や壁などと比べて真新しい。
造船所が史跡≠ニして使われるようになってから新たに設置されたのであろう。
 タイル張りの床は建物の外よりも高く、未だに浸水の影響を受けていない。
それ故に水溜りを踏むような音が混ざらないのだ。
甲高い靴音は天井にて撥ね返り、ビクトーの頭上へと降り注ぐのである。
 実際、微かに聴こえる水のせせらぎは、その靴音よりも後ろへ控えているように思えた。
 その靴音はビクトーの立つ位置へと一直線に向かってくる。
 顔を確かめるまでもなかろう。この状況でビクトーを追い掛けてくる人間など、
アルフレッドを措いて他には考えられなかった。

「わざわざお出で頂かなくとも、こちらから伺いましたのに……」
「こんな茶番、さっさと終わらせたいんだよ、俺は。貴様に付き合っているほど暇でもない。
……何回でも言ってやる。いい加減、お前の妄念には辟易しているんだ」
「そう言う割には随分と技が冴えてきましたよ。今の回し蹴りは殊更に効きました。
当たり所が悪ければ、今頃は家内に哭(な)かれていたかも知れません」
「嬉しそうに何をほざく」

 大穴より差し込む光を背に受けながら姿を現したアルフレッドは、
やはり右脇腹に左手を添えている。ビクトーによって肋骨を折られた箇所を、だ。
 重い足取りには疲弊の深さが透けて見えるようである。
面も銀髪も流血で赤く染まり、青痣に至っては全身に及んでいるのだ。
立っていられるのが不思議と思える状態であった。
 その一方で、奥の手≠破られた動揺は全く引き摺っていないらしい。
深紅の眼光は依然として鋭く、先程よりも更に冷たく研ぎ澄まされているように見えた。

「貴様は自分の任務だけでなく、家族まで裏切ったわけだな。
『当たり所が悪ければ、家内に哭(な)かれていた』……だと? 
自分だけが満足すれば周りなどどうなっても構わないと、そう言いたいのか」
「語弊があったようですね。こう見えて愛妻家なのですよ? 何もそんなつもりで言ったのでは――」
「――煩い、黙れ」

 相変わらず昂揚した様子のビクトーが癪に障って仕方がなかったのか、
彼の足元に向かってアルフレッドが何か≠投げ付けた。
 何らかの金属片であるらしく、それは石のタイルに擦れて耳障りな音を立てた。
 満足な光源(あかり)を確保出来ない為に屋内は極端と言えるほど視界が悪く、
奥まった場所など殆ど何も見えない。そのような環境下であっても、
足元に叩き付けられた物の正体がビクトーには即座に判った。
 パルチザンによって破壊された胸甲の残骸である。
 蹴り足を受け止めた中央の部分は大きく深く陥没し、そこから無数の亀裂が走っている。
見るも無残とは、まさしくこのことであろう。殆ど原形を留めていないような壊れ方である――が、
装甲の表面に記された字だけは辛うじて読み取ることが出来た。
 そこにはスカッド・フリーダムの精神を象徴する一字が記されているのだ。

「……目を見開いて良く見てみろ。そこに何と書いてある。何と書いてあるんだ!?」
 
 仮に塗料が剥げかかっていたとしても、義の戦士として志を立てた者であるならば、
その一字を視る≠アとが出来る筈であった。
 スカッド・フリーダムの隊員だけに使用を許される胸甲には、
猛々しい『義』の一字が書き込まれているのである。

「惨めに壊れたものだな」
「それ程までにキミの蹴りが優れていると言う証しではありませんか。実際、あの技は堪えましたよ」
「本物の莫迦か、貴様は。……持ち主の有り様を表しているとは思わないのか」

 有りっ丈の憎悪と侮辱を込めて、アルフレッドは胸甲の残骸へ赤い物の混じる唾を吐き捨てた。
 スカッド・フリーダムの精神とも言うべき『義』の一字に向かって唾棄したも同然であった。
 アルフレッドが真の義の戦士≠ニして認めるシルヴィオが今の行為を目にしようものなら、
怒号程度では済まなかっただろう。その場で私闘――否、死闘が宣言された筈である。
 スカッド・フリーダムに身を置く者にとって、これに勝る侮辱はあるまい。
 それにも関わらず、ビクトーは顔色ひとつ変えずにいる。
この期に及んで、尚もひとりの武術家≠ナ在り続けようと言うわけだ。
 ビクトーの様子を見て取ったアルフレッドは舌打ちを披露し、次いで両肩を小刻みに震わせ始めた。
無論、畏れや怯えの類ではない。果てしない憤怒が全身を駆け巡っているのだ。

「俺はこんなこと≠フ為に戦っているんじゃないぞ、ケンポーカラテ。
……いや、俺だけじゃない。こんな下らないことに付き合わされる貴様の仲間も良い面の皮だな」
「『下らない」とは、些か言い過ぎでしょう、アルフレッド君。
これはルーインドサピエンスよりも旧い時代から続く宿縁の――」
「――それが義の戦士のすることかッ!?」

 アルフレッドはビクトーの反駁を銃弾よりも鋭い一声(ひとこえ)で遮った。

「貴様は何の為にビッグハウスくんだりまでやって来た? 俺を始末するのが目的じゃなかったのか? 
自分の復讐を果たす道具として連合軍を操っていると言う男を――!」
「任務(それ)は任務(それ)、仕合(これ)は仕合(これ)ですよ。
この勝負に下劣な思想は持ち込みたくないのです。ましてやキミはジークンドーを受け継ぐ者。
キミの名誉を貶める真似など私には出来ません」
「その隊服を身に纏う貴様に、そんな言い分が許されると思っているのかッ!?」

 アルフレッドの怒号が薄暗い室内に反響し、天井に弾かれてビクトーへと降り注いだ。
 静粛を命じる裁判官の木槌の如く、彼の鼓膜を――何よりも、その心を打ち据えた。

「スカッド・フリーダムの使命は何だ? 貴様らは護民官だろう? 
法律無用のならず者やクリッターから人々を守るのが貴様らの務めではないのか!? 
……では、俺は何だ!? 貴様ら、スカッド・フリーダムにとって、この俺は何なんだッ!?」
「アルフレッド君は……アルフレッド君ですよ」
「ケンポーカラテにとってのジークンドーなど訊いていないッ! 
答えろ、スカッド・フリーダムの『七導虎(しちどうこ)』ッ! 
復讐に狂って、戦争を――殺戮を繰り返す俺のことを何と呼ぶッ!?」
「……言ったでしょう。キミに不名誉な仕打ちは出来ないと……」
「煩い、黙れッ! 貴様の『義』は本当に砕け散ったのか!? 
その胸甲と同じように、最早、使い物にならないのかッ!?」
「……私は――」
「貴様の私闘(わがまま)に付き合うのはうんざりだと言ったばかりだッ!」

 もし、この場に傍観者が居合わせたなら、アルフレッドは自ら破滅の道を選んだように見えたことだろう。
 現在(いま)のふたりは、処刑人≠ニ抹殺対象ではなく武術家同士として向かい合っていた。
アルフレッド当人の意思はともかく、ジークンドーとケンポーカラテ――両武術の継承者が
技を競い合う構図であったのだ。
 どちらがより優れた武術家であるか――この一点にのみビクトーの意識が注がれていたからこそ、
全円の打撃によって延髄を打たれた折にもアルフレッドは致命傷を免れたと言えよう。
 アルフレッドの側からすれば、ある意味に於いては「付け入る隙」なのである。
 「生命を奪うまでもない仕合」と捉えるビクトーに対し、確実に息の根を止めようとするアルフレッド――
この意識の隔たりは極めて大きい。心の働きと言うものは、繰り出す武技にまで影響を及ぼすのである。
 相手を庇う意識が働いていては、何時まで経ってもアルフレッドは斃せまい。
反対にビクトーには殺傷を突き詰める蹴りが絶え間なく襲い掛かるのだ。
生命の遣り取りを最期に制するのはどちらか、その理屈は改めて詳らかにするまでもなかろう。
 その利をアルフレッドは自ら放棄し、血みどろの殺し合いへ回帰しようとしている。
「生命を奪うまでもない」と考えるケンポーカラテの継承者を、
本来の処刑人≠ノ立ち戻らせようとしているのだ。
 そもそも、だ。抹殺対象の側が義の戦士の任務を諭すと言う状況自体、異常以外の何物でもなかった。

「屋外(そと)で戦っているジャーメインも、此処には居ないトレイシーケンポーも、
……貴様が連れてきた仲間だって、それぞれの『義』を全うしている。
子どものように私闘(わがまま)を繰り返しているの貴様だけだ、ケンポーカラテッ!」

 ルーインドサピエンスよりも旧い時代に結ばれた両武術の宿縁――そこに端を発する決闘は、
義の戦士の任務を忘れさせる程に心躍るものであり、武術を志す者にとって無上の喜びであった。
 その思いでビクトーは臨んでいるのだが、これを分かち合える唯一の相手は、
ジークンドーとケンポーカラテによる崇高なる決闘を「わがまま」の一言で切り捨てた。
そればかりでなく、忘却の果てに追いやろうとしていたスカッド・フリーダムの『義』を
わざわざ揺り起こそうとするのである。
 まるで両武術の宿縁を全否定するような言行であろうが、
しかし、ビクトーは敢えて反駁を飲み込み、押し黙ったまま『在野の軍師』の怒号を受け止めている。
 ほんの数分前まで全身に漲らせていた闘志も、今では急速に萎みつつある。
その面を見れば、己の所業を愧じるように口を真一文字に結んでいるではないか。

「貴様自身の『義』をぶつけてきたのなら、お互いに晴れ晴れとした気持ちで戦えただろう。
その戦いで討たれるのなら、俺だって悔いはない。
……だが、今の貴様にくれてやる生命など持ち合わせてはいないッ!」

 アルフレッドの大喝に、ビクトーの裡の『義』が疼いていた。
 『在野の軍師』の発する一言一言が、
ビクトーの脳裏にバロッサ家の重鎮――ノラの訓示(ことば)を蘇らせるのだ。

「どんな時代であろうとも、己の信念に嘘を吐いてはならんぞ。それは己自身を否定するのと同じことじゃ。
己が信念を受け入れ、最後まで貫けるかは、心を磨けるか否かに懸かっておるのじゃよ」

 最も強くビクトーの『義』を揺さ振り、呼吸が止まる程に胸を締め付けたのは、
在りし日にノラより授かり、今日まで生きる指針と定めてきた訓示(ことば)である。
 その中でバロッサ家の重鎮は「己の信念だけは絶対に裏切るな」と繰り返し諭していたのだ。

(……大婆様、私は――)

 大婆様≠フ訓示(ことば)を頼りに戦い、義の戦士の最高位である七導虎に上り詰めた男は、
今、何をしているのか。その拳を何の為に揮っているのか。
 全ての同志の規範として一秒たりとも忘れてはならず、
一歩たりとも逃げてはならないもの――それが『義』の心であった筈だ。
 その『義』の心に対して、ビクトーが仕出かしてしまったことは何か。

(――私なりに心を磨いたつもりでしたが、……それは慢心でしかなかったようですね……)

 タイガーバズーカに生を受けた人間にとって、
太陽のように燦然と輝く導であったスカッド・フリーダムの『義』は、今や醜く歪んでしまった。
 その一字には人として守るべき節義が宿っていた筈なのに、
今のスカッド・フリーダムは道徳とは真逆の任務を発しているではないか――
『義』と言うものを全く信じられなくなったビクトーは、
耐え難い気鬱を一秒でも忘れたくて『私闘』と言う名の逃げ道に飛び込んだのである。
 これは紛れもない逃避であった。両武術の宿縁などと仰々しく説いてはみたものの、
所詮は現実から目を背ける為の口実に過ぎないのだ。
 アルフレッドより浴びせられた「わがまま」と言う痛罵は、
今のビクトーの有り様を最も的確に表すものであった。
 それ故にビクトーの心を最も深く、惨たらしく抉る言葉となる。
 結局のところ、彼が仕出かしたことは自己否定に他ならないのだ。
 ルーインドサピエンスよりも旧い時代から続く宿命とやらを口実にして己を欺き、
バロッサ家の重鎮より授かった訓示(ことば)を踏み躙り、
今までの人生を賭けて磨いてきた筈の『義』の心に嘘を吐いた――これらの所業を省みた瞬間、
ビクトーは果てしない虚しさに襲われた。
 その虚しさに蝕まれ、己の全存在を見失いそうになったのである。
意識の消失などと言った生易しいものではない。積み重ねてきた人生が無価値としか思えなくなったのだ。
無論、そこには生きる意味≠煌ワまれている。これから未来(さき)を生きていく理由が、だ。
 スカッド・フリーダムの七導虎としても、ひとりの武術家としても――否、
ビクトー・バルデスピノ・バロッサと言う人間が存在する意義さえ解らなくなっていた。
 存在意義を否定したのは、他の誰でもない己自身である。
だからこそ、果てしない虚しさが身も心も蝕んでいくのだ。

「どうした、黙りこくって。……少しは自分の莫迦さ加減が沁みたか」
「ええ、……改めて、目を醒まして頂いたようです――もう遅いような気もしますがね」
「手遅れになったのなら、それも自己責任だ。貴様の莫迦は、それだけ重い≠ニ言うことだな」
「返す言葉もありません……」

 自己否定と言う揺るがし難い事実を突き付けられて、それでも妄念にしがみ付いていられるほど
ビクトーも恥知らずではない。ここに至る過ちを恥じ入り、その身を震わせるばかりであった。
 義の戦士に立ち戻ったか否かは定かではないが、少なくとも、忌々しい妄念だけは消え失せたようである。
その様を確かめたアルフレッドは、憐れみにも似た目を向けながら静かに溜め息を吐いた。

「俺の中の『義』は、スカッド・フリーダムとは決して相容れないだろう。
俺は戦い続けなくてはならない。例え、他人からどんな中傷を受けようとも、
今日のように生命を狙われることになろうとも戦い抜く。それが俺の『義』だ」
「復讐の為に――ですか?」
「何とでも言え。例え、地の底まで逃げても、必ず探し出してギルガメシュを根絶やしにしてやる。
……その為なら、どんな犠牲を払っても構わない」
「犠……牲――」
「何を犠牲にしてもギルガメシュを滅ぼす。その為だけに俺は生きている」

 『在野の軍師』にとって決して譲れない『義』の表明を受け止めたビクトーは、
糸のように細い目を――左目は血に塗れて塞がっている為、右目のみであるが――大きく見開いた。
 その瞳は哀しみに染まっていた。そして、一握の失望をも宿している。
 アルフレッドが口にした「犠牲」とは、護民官≠スる義の戦士には看過出来ない事態であった。
 現在(いま)は紛れもない戦時である。このような乱世に於いては、
合戦するだけの力も持たない人々こそ真っ先に犠牲となってしまうのだ。
 事実、アルフレッドは『攘夷思想』のもとに殺傷された難民たちを情報戦に利用している。
二重の犠牲を強いたようなものであろう。
 このような事態を防ぐ為にスカッド・フリーダムは起ち、護民官≠フ使命を貫いてきたのだ。
 しかも、だ。アルフレッドが語る「犠牲」は、共に生きる仲間へと向けられている。
互いの背中を預け、支え合うべき仲間を犠牲にしてもギルガメシュを滅ぼすつもりだと口走ったのである。
 そこには一片の『義』も存在しない。アルフレッド自身は『義』の一字を用いて言い繕ったが、
人として守るべき道徳など全く感じられない。ましてや、目指すべき導として人々に示すべきではない。
 戦いの果ての殉職ならばいざ知らず、犠牲を出すことを前提にして戦局を論じるなど外道そのもの。
義の戦士の立場から見れば言語道断であった。

「……正義って、なんですか――」

 アルフレッドが「犠牲」の二字を語った瞬間には、ビクトーの脳裏に或る少女≠フ声が蘇っていた。
嘗て遠い異境で巡り会い、未来への希望を確かに感じさせた少女の声が――だ。
 その直後、心の底から義憤が湧き起こった。『在野の軍師』に向けて抹殺指令の経緯を説いた折、
「キミは生きていてはならない生命なのです」とも言い放ったのだが、
この結論に導かれる要因ともなった憤激が再び押し寄せてきたのである。
 ビッグハウスへ至る道程にて霧散したとばかり思っていた『義』の心は、
どうやら完全には消滅していなかったらしい。

「……今は――その言葉を聞きたくありませんでしたよ。良い目覚ましにはなりましたが、ね……」

 まさしく、覚醒の瞬間である。ビクトー・バルデスピノ・バロッサと言う男は、
今、己が存在する意義を取り戻していた。
 スカッド・フリーダムと言う組織に抱いていた迷いも、己の『義』を否定してしまった後悔も――
ありとあらゆる気鬱を突き抜け、七導虎の芯たる魂が揺り起こされたのである。





 ビクトーの魂がアルフレッドの言葉によって震わされる中、
煉瓦造りの壁を突き抜けた屋外(そと)では、依然として二組の格闘戦が継続されていた――が、
その様相は大きく変わり始めている。
 対決する組み合わせは先刻と同じなのだが、ジャーメインとイリュウシナによる姉妹の攻防は、
ほんの数分の間に壁≠フ役割が入れ替わってしまっている。
 『パルチザン』によって吹き飛ばされたビクトーを案じ、
加勢に向かおうとするイリュウシナのことをジャーメインが壁≠ニなって喰い止めると言う構図なのだ。
 全くのあべこべであった。己の身を壁≠ノ見立てて行く手を遮った姉を突破するべく
懸命に足掻いてきたジャーメインは、この事態に「二対二で勝負しても構わないよ!?」と憤りすら滲ませている。

「目的地は一緒なんだし、なんなら駆けっこでもしようか!? 足の速さなら負けないよ!」
「減らず口ばかり叩いていないで道を開けなさい、メイ!」
「分かり易いくらい全力でテンパッてるし! ……流れで訊くけど、あたしが道開けてって頼んだとき、
リュウ姉はどうしたのさ? 自分がやったことを想い出してみなよッ!」
「まさか、意趣返しのつもり!? 人間性を疑われるくらいレベルが低いわよ!」
「真に受け過ぎ! 余裕のなさが丸分かりだから!」
「い、いいから退くのよ!」
「冗談! 今のアルじゃふたり相手は保(も)たないからね! 
どうしてもって言うなら、ガチで追いかけっこだよッ!」

 半ば揉み合いへ近付きつつある姉妹の対決を目の端に捉えたザムシードは、
「いちいち五月蝿いお嬢さんたちだな。漫才を見せたいのなら別の場所でやってくれ」と鼻を鳴らした。
 ザムシードとて大穴の向こう側の状況が気懸かりで仕方がない。
一刻も早くアルフレッドのもとへ駆け付けるべく、もうひとりの壁役≠フ突破に全力を傾けているのだ。
 妹への愛情から技が鈍り、あまつさえ夫の窮地に狼狽(うろた)えてしまったイリュウシナとは異なり、
グンダレンコと言う名の壁≠ヘ難攻不落そのものであった。
 おっとりとした立ち居振る舞いとは裏腹に、グンダレンコは技の拍子を決して崩さない。
旋回を伴う動作(うごき)でもってザムシードの拳を軽やかに避け、
身を翻すや否や、変幻自在の蹴りを繰り出して彼の足元を脅かすのである。
 最も多く叩き込まれたのは左右の足を狙う下段蹴りだった。
急所から外れているので即座に致命傷となるわけではないが、
痛手(ダメージ)は着実に蓄積されており、自覚出来る程に膝の可動が鈍り始めている。
 「義の戦士が聞いて呆れるような底意地悪い攻め方」と言わんばかりに、
ザムシードは正面に立つグンダレンコへと舌打ちをぶつけた。
 変則的な拳闘(ボクシング)を得意とするザムシードは、
舞踊の如き足捌きでもって相手を翻弄し、
予測不可能とも思える挙動(うごき)から強撃へ転じるのだ――が、
このまま両足に痛手(ダメージ)が積み重なっていくと、
己の様式(スタイル)すら維持出来なるかも知れなかった。
 決着を急がなければ、拳を突き込むどころか、身動きさえ取れなくなる可能性もある。
 そして、これこそがグンダレンコの大得意≠ネのであろう。
幾度となく下段蹴りを重ねることによって両足を潰し、
身動きを取れなくしたところで確実に仕留めると言うわけだ。
 グンダレンコはホウライを直接攻撃の手段としても巧みに使いこなしている。
蹴りの軌道より降り注ぐ電撃の鞭≠ェ身を打つ度にザムシードの生命力は削り取られていた。
 それが為に彼の面は焦燥に歪むのである。
 現在(いま)のアルフレッドは心身ともに限界に達している筈なのだ。
火のCUBEを併用してまで仕掛け、敢えなく破られてしまった技は、
彼にとって奥の手≠フひとつに違いないとザムシードも察している。
 アルフレッドは件の投げ技を以ってして
スカッド・フリーダムの元隊員――ミルドレッドのことだ――を仕留めたが、
その戦いにはザムシードも居合わせていたのだ。
 フェイたちを撃破した光輝く竜の顎(あぎと)――『ドラゴンレイジエンター』も
己の双眸にて確(しか)と見届けている。
 このふたつの技がアルフレッドの切り札≠ナあろうと馬軍の将は考えていた。
そして、絶対の信頼を置く技を破られたことで精神的にも相当に堪えただろうと気を揉んでいるわけだ。
 まるで、ごく親しい親類のようにザムシードはアルフレッドの身を案じていた。

「……ライアンの間抜けめ。あからさまに罠じゃないか。わざわざ飛び込んでいく神経が信じられん――」

 しかしながら、同志を心配するにしても限度がある筈だ。
正面切ってグンダレンコと打撃の応酬を演じている最中にも関わらず、
ザムシードはアルフレッドが入っていった建物へ顔を向けたのである。
 戦いの場に於いて眼前の敵とは別のモノへ意識を取られると言うことは、それ自体が死を意味するのである。
ましてや、敵に肉迫して拳や脚を繰り出すような状況だ。
そこでの余所見など、自殺行為と謗られても反論は出来まい。
 無論、これを看過する理由などグンダレンコは持ち合わせていない。

「いけませんよぉ〜。一度(ひとたび)、対峙したからには脇目も振らずに戦うのが相手に対する礼儀です〜」

 滑り込むようにして身を沈めたグンダレンコは、次いで右足を横薙ぎに繰り出し、
対角線上に捉えたザムシードの左足を一気に払おうと試みた。
 だが、これは馬軍の将を惑わす為の引っ掛けである。
右足払いと見せかけておいて対の軸足で垂直に跳ねると、そのまま飛び後ろ回し蹴りへと変化した。
 しかも、だ。蹴り足には蒼白い稲光まで纏わせている。
高速旋回から繰り出す一撃でもって、ザムシードの首をあってはならない方向に捻るつもりなのだろう。
 彼の両足には十分過ぎる程に痛手(ダメージ)を与えており、
最早、開戦直後と同等の速度は発揮出来ないものと見做している筈である。
 足を攻めると思わせて意識を下段に引き付けておけば、
飛び回し蹴りへ転じたときに彼の肉体(からだ)のほうが随いてこれないだろう――
そこまで計算した上で二段構えの技を仕掛けたに違いない。
 果たして、グンダレンコの右足はザムシードの頚椎に迫ろうとしていた。

「――そうだな、普通は余所見などしないものな!」
「あらまぁ――」

 死をもたらす蹴りが命中するかに思われた寸前、
ザムシードの右腕が鞭のように撓り、グンダレンコの胴に突き刺さった。
横方向より襲い掛かる蹴り足よりも先に彼女の左脇腹を抉ったのである。
 それは予備動作のない拳打であった。少なくとも、グンダレンコには速射の瞬間が察知出来なかった。
 ひとつだけ確信を持てたのは、アルフレッドを追いかけるようにして首を振る≠ニ言う動作自体が、
この状況を作り出す為の陽動(さそい)だったことである。
 撃墜と言う事態に至って、ようやくグンダレンコは裏を掻かれたと悟ったのであった。
 勿論、ザムシード当人はアルフレッドの身を本気で案じている――が、
百戦錬磨の馬軍の将は、ただ感情に流されるのみではなく、
同志の窮地と言う状況をも罠として利用したのだ。
 アルフレッドに対する過剰な気遣いを見せ付け、
目の前の戦いにも集中し切れていないとグンダレンコへ信じ込ませた次第である。
気もそぞろな相手ほど倒し易いものは他になかろう。
 相手の意識を他方へと引き付け、そこに攻め入る隙を見出したのはザムシードの側であったわけだ。
 引っ掛けから有効打に繋げる技術そのものも卓抜している。
余所見と言う一瞬の動作の間にグンダレンコの身のこなしや双方の位置関係を誤ることなく把握し、
拳を叩き込む時機(タイミング)まで計ったと言うことだ。
 駆け引きの果てに中空のグンダレンコを撃墜したザムシードは、
彼女の着地を待たずに間合いを詰め、そのまま組み付き、袋詰めの重荷でも放るかのように後方へ投げ捨てた。
 単に後方≠ニ表すよりは、ジャーメインとイリュウシナが接近戦を繰り広げる方向と、
明確に示すべきかも知れない。

「あら〜、リュウ姉さん、ちょっと避けてもらえるかしらぁ」
「な、なに言って――」

 結局、放り捨てられたグンダレンコはイリュウシナに衝突し、
ふたりして不恰好に倒れ込んでしまった――と言うよりも、
最初からザムシードは投げ付ける標的をただひとりに絞り込んでいたのだろう。
 バロッサ家の双子が仲良く尻餅を突いたと見て取ったザムシードは、
大穴を指差しつつジャーメインに向かって「走れッ!」と叫んだ。

「この場は私が引き受ける。ライアンのもとまで辿り着くんだ」
「お、おじさんっ!」
「そうだ、こんなむさ苦しい中年(おっさん)よりも可愛いカノジョに助けて貰ったほうが、
あいつだって気持ち良いだろうからな」
「こ、この期に及んで、そんな冗談いらないってのッ! ……でも、ありがとっ!」

 即ち、ここまで≠ェザムシードの狙いであったのだ。
バロッサ家の双子の動きを封じ、ジャーメインを走らせる――
その為にグンダレンコをイリュウシナ目掛けて投げ付けた次第である。
 ザムシードの意を酌んだジャーメインは、大穴≠フ穿たれた建物を目指して一直線に駆け出した。

「リュウ姉さん、避けられないなら、せめてカッコ良く受け止めてくれないとぉ〜」
「バカなことを言ってる場合じゃないわ! 早く立ちなさい、レンっ!」

 遠ざかっていく末妹の背を睨みつつ、
もうひとりの妹を押し退けるようにして起き上がるバロッサ家の長女だったが、
このときには既にザムシードが正面まで回り込んでいた。
 ジャーメインを追い掛けたいのであれば、先に自分を倒してからだ――と言わんばかりに、
右の親指でもって己を示している。ここからはザムシードが壁≠フ役割を果たすと言うわけだ。
 分厚い壁≠ノは違いないが、しかし、一秒とて足踏みしてをいられないイリュウシナは、
両の掌打も経由せず、大きく踏み込みながら直接的に右肘を突き込んでいった。
 姉の挙動(うごき)に合わせて、グンダレンコも動いている。
水飛沫を上げつつ石畳を滑り、半ば屈んだ状態から左後ろ回し蹴りを放った。
ザムシードの身動きを封じるつもりなのか、金的に狙いを定めていた。
 上段と下段に対して同時攻撃を仕掛けた次第である。
流石は双子と言うべきか、ふたりの技は完璧に呼吸(いき)が合っていた――が、
ザムシードは左拳で姉の肘を、右脚でもって妹の蹴りをそれぞれ弾き飛ばし、
「全部、お見通しだ」と余裕を見せ付けた。

「悪くない連携だが、その程度でテムグ・テングリの将を突破出来るとは思わんことだ。
合戦場では何十人と同時に襲い掛かってくるのだぞ? 
それと比べれば、お前たちのは児戯(おあそび)も良いところだ」
「レンひとり仕留め切れなかったクセに偉そうな口を叩くじゃない……!」
「リュウ姉さん、その言い方じゃあ、私がとんでもない足手まといみたいよぉ〜」
「人間(ひと)には本領と言うものがあるだろう? 
戦場暮らしが長い私と、一対一の勝負が得意なスカッド・フリーダムでは、
受け持つ領分が違う――ただそれだけのことだな」

 多人数との戦いのほうが慣れていると断言するザムシードであるが、それは決して慢心などではなかった。
事実、同時攻撃を弾いた瞬間の動作(うごき)に無駄はなく、姉妹の呼吸まで読み切っていたのである。
 グンダレンコの蹴りによって両足に痛手(ダメージ)は蓄積されており、
開戦当初ほどの速度は発揮出来ないものの、
ジャーメインがアルフレッドのもとへ辿り着くまでの時間稼ぎであれば十分に務められるだろう。
 その間にもバロッサ家の末妹は件の大穴≠ヨ到達しようとしていた。

(あとちょっと……待ってて、アル――)

 あと一歩でアルフレッドを助けられると確信した直後、
ジャーメインの足は止まってしまった――否、止まらざるを得なかった。
 バロッサ家の双子に対するザムシードと同じように、
或る人影がジャーメインの進行方向に立ち塞がったのである。

「なッ――」

 その人影は後方から追い縋ってきたのではない。
高潮の影響によって通路との境目が分からなくなった水路の底より飛び出してきたのである。
 水柱を立てながら高く飛び上がった人影は、ジャーメインの面前に降り立つや否や、
残像すら見えないような速度で拳や蹴りを次々と繰り出してきた。
 それも直線的な打撃や横薙ぎ、縦一文字の突き上げなど数種の技を巧みに織り交ぜる猛襲である。
全ての所作(うごき)を一瞬の内に済ませる速射と、体重を乗せた威力重視の強撃を使い分けており、
又、打ち込む箇所も一定ではない為、技の拍子を読むことは不可能に近い。
 こうした打撃を立て続けに――それも瞬きより速く叩き込んでくるのだ。
接近戦に長じたジャーメインでさえ致命傷を受けないよう防御(ガード)するだけで精一杯である。
 顔面を狙われた瞬間、咄嗟に右拳を突き出してしまったのだが、
その直後に人影の動作(うごき)が急変し、突如としてジャーメインに飛び懸かった。
しかも、「拳打(これ)を待っていた」と言わんばかりの速さで――だ。
 右側面へ回り込ながら拳打を避けた人影は、突き出された腕を自身の両手でもって掴み、
次いでジャーメインの右太股を同じ側の足裏にて踏み付け、ここから一等高く跳ねる。
 掴んでいた腕へ左足を引っ掛けると、その流れの中で左手をもジャーメインの首へ移す。
これを後ろから首に巻き付け、更には五指でもって顎を掴むと、
互いの身を振り回し、彼女を石畳へと一気に投げ落とした。
 左手で捕獲≠オた首を支点に据え、ジャーメインの身を回転させると言う豪快な投げ技である。
 ジャーメインを仰向けに倒すと、変形の『腕拉(ひしぎ)十字固め』に移行する。
両足でもって右肩辺りを挟み、これと同時に可動域の逆側へ腕の関節を反り返らせるのだ。
右の五指で完全に捕獲≠キる為、一度(ひとたび)、関節を極められると脱出は困難であった。
 腕を極めるのは己の右手一本である。左手は依然として顎を掴んでいるのだ。
掌底を顎に引っ掛けつつ、ジャーメインの右腕を上方へ引っ張り上げる形であった。
 通常の腕拉(ひしぎ)十字固めは相手に対して横方向から技に入るのだが、
こちらは肩の上――即ち、斜め上方向より腕を極めに行くのである。
 予(あらかじ)め片方の足を右腕に引っ掛けておいたのは、速やかに関節技へ移る為の布石であろう。
 跳躍も含むと言う極めて複雑な所作(うごき)を経由して仕掛けられた腕拉十字固めであるが、
ジャーメインの右手が軋む前に技は解かれ、そのまま人影は後方に飛び退った。
右腕を圧し折ることも出来ただろうに、敢えて人体破壊を避けたように思える。
 技の性質上、互いに石畳へ背を着けることになるのだが、
言わずもがな、現在(いま)は造船所跡全体が高潮で浸水している最中だ。
そのような状況で寝技に持ち込もうものなら、仕掛けた側まで溺れてしまうのは必定である。
 余程の間抜けでもない限り、寝技を試みる前に水中へ沈むことは分かるだろう。
 先程は関節を極める寸前で技を解くと言う不可解な行動を取っていたが、
どうやら、その疑念もここ≠ノ帰結するようだ。浸水と言う状況から寝技を維持出来ないと分かっていながら、
敢えて§r拉十字固めに持ち込んだのである。
 それはつまり、最初から腕を折る意思がなかったことを意味している。

「ほんの挨拶代わり――いや、警告と言っておこうか。
腕の一本くらい折ってやっても良かったのだろうが、それではお前の姉君たちに恨まれるだろうな……」
「くッ――!」

 その人影は――否、その女性もまたスカッド・フリーダムの隊服を身に着けていた。
パトリオット猟班のように一部の装備を勝手に換えるようなことはなく、
本隊から支給された物を全て揃えている。
 その女性隊員はジャーメインの血縁などではない。ましてや、親類でもない。
てっきり討手にはバロッサ家の一族だけが選抜されたものとジャーメインは思い込んでいたのだが、
それ以外の人間も要員(メンバー)に含まれていたようである。
 世の中には「水も滴る良い男」なる決まり文句が存在するが、
この隊員の姿を――濡れそぼった出で立ちを見た者は、一度は必ず件の言葉を思い浮かべるだろう。
無論、美男子に見えるだけで性別は間違いなく反対である。
 短く切り揃えられた頭髪に切れ長の双眸、そして、凛々しく引き締められた口元と、
男装の麗人≠ノ喩えられる要素を全て揃えた女性隊員は、名前をクラリッサ・バルバドスと言う。
 ビクトーと同じく『七導虎(しちどうこ)』の一角に数えられる強豪であった。
 バロッサ家の三人を差し向けておいて、独りで高みの見物を決め込んでいたのか。
それとも、戦局を見極めつつ伏兵として潜んでいたのか。
いずれにせよ、最悪の状況で出現したことは確かである。

「どうして此処に――って、訊くまでもないわね……」
「愚問と答えたかったのだけど、その必要もなさそうだな。
生きていてはならないエンディニオンの癌=\―アルフレッド・S・ライアンを抹殺する。
それが私たちに課せられた使命だ」
「もう聞き飽きたわよ、その台詞」
「そのようなことを言うお前も今や抹殺の対象。だが、同郷の誼は捨てきれるものではない。
だから、警告≠ノ留めておいたのだよ。……抵抗を諦めて降伏するなら、
七導虎の名に於いて身の安全は保障するぞ、メイ」
「……愚問だって答えて欲しい?」
「フッ――私としたことが……」

 新たに飛び込んできた人影がクラリッサ・バルバドスであることは、
猛攻を受ける最中にはジャーメインも認識していた。
 タイガーバズーカで暮らしていた頃から親しく接しており、何よりふたりの姉の友人でもあるのだ。
クラリッサと他の人間とを見間違える筈もなかった。
 そして、旧知の間柄であるからこそ背筋に冷たい戦慄が走るのだ。
 この麗人が操る武技は『エウロペ・ジュージツ』と呼ばれており、
ケンポーカラテと同様にルーインドサピエンスより旧い時代に興った格闘術である。
ジュージツ≠ニは柔術の系統であることを指しており、
電光石火の打撃と、これに連なる投げ技や関節技を豊富に揃えている。
 先程、披露した『飛び関節』に代表される鮮やかな武技を最も得意としており、
ザムシードの拳闘に勝るとも劣らない変則的な挙動(うごき)でもって相手を捉えるのだった。
 猛禽の如く空を翔け、強靱な爪≠ナ捕まえた後(のち)、
地に組み敷く様は、さながら獲物を嘴にて啄ばむようなものであろう。
 七導虎の一角を担うだけあって尋常ならざる戦闘力の持ち主である。
スカッド・フリーダムに所属していた時分にはジャーメインも稽古を付けて貰っていたのだが、
模擬戦に於いて一度たりとも勝てた憶えがない。
それどころか、ふたりの姉もクラリッサには敵わなかったのである。
 クラリッサと互角の勝負を演じた人間は、ジャーメインが記憶する限りでは、
同じ柔術系の技を使うミルドレッドしか思い当たらなかった。
 尤も、義兄(ビクトー)と立ち合うクラリッサの姿などジャーメインは見たこともない。
そもそも、七導虎同士の模擬戦とて前例を聞いたことがなかったのだ。
 七頭の虎が実力伯仲であることは間違いなく、実際に立ち合えば血みどろの潰し合いにまで発展するだろう。
そのような事態を意図的に避けているのだと義の戦士たちは考えていた。
 即ち、七導虎でもない限りは誰も歯が立たないと言う証左である。
アルフレッドがビクトーを相手に善戦出来ていることさえ驚異なのだ。

(実力は折り紙付き……しかも、向こうは体力気力ともに万全……参ったわね……)

 エウロペ・ジュージツの飛び関節から解放されたのは、まさしく同郷の誼に依る温情であろう。
そのような手加減がなければ、何が起きたのかも判らない内に片腕を潰されていた筈である。

(こんなに強くて、女のあたしから見てもドキッとしちゃうくらい美人なのに――)

 名実共にスカッド・フリーダムの七傑なのだが、どう言うわけか、クラリッサは婚期を逃し続けている。
引く手数多と思いきや、異性の友人すら絶無と言う状況に置かれ、心の底からへこたれている。
 酒を呑む度、「お見合いおばさんにまで呆れられた気持ちなんか、分かられてたまるかッ!」と、
ふたりの姉に泣き付く姿ばかりがジャーメインには想い出されるのだ。
 別に「自分より強い男と結婚したい」と言う条件を掲げているわけではない。
本人曰く、ハードルは下げに下げているそうだ――が、
巡り合わせと言うものか、絶望的に男運がなく、しかも、同性にばかり慕われる悪循環に陥っていた。
 「大事なお話があります」と言う恋文を貰い、喜び勇んで指定された場所へ向かってみたら、
差出人が同性であり、尚且つ応援の品を渡されるのみだったと言う結末は、
ジャーメインが知る限りでも一〇〇回は超えている筈だ。
 軽薄な人間から「孤高の虎」などと冷やかされる姿を目撃したことは一度や二度ではない。
そのような輩をエウロペ・ジュージツで懲らしめる度に、武技の冴えに憧れる同性のファンが増えてしまうのだ。
 まさに悪循環そのもので、このままでは何時まで経っても婚期など巡っては来ないだろう。

「こ、ここ、婚期は関係ないだろうっ!? ウソでも良いから、そこは慰めるようにっ!」

 無言でクラリッサの為人(ひととなり)を振り返っていたつもりだったが、
最後の部分だけ無意識に呟いてしまったらしい。
流石のジャーメインも大慌てとなり、両手でもって口元を覆った。
 その様子にも「過剰に悪いことしたいみたいな顔をされると、それはそれで傷付く!」と
注意を飛ばされてしまったが、これ以上はどうしようもあるまい。

「ちょっとちょっと〜、ルール違反ですよぉ、クラちゃ〜ん。
これは私たちの戦いなんですからぁ。クラちゃんの出番はライアンさんが逃げ出したときでしょう〜」
「そうも言っていられなかったと見えるのだが? ……まんまと裏を掻かれただろう」

 後方から駆け寄り、クラリッサの真隣に並んだのは、
その独特な喋り方からも察せられるようにグンダレンコである。
 つまり、あの分厚い壁≠突破して此処まで辿り着いたと言うことである。
クラリッサに注意を払いつつ、つい数分前まで留まっていた場所へ目を転じると、
そこでは壁≠フ役割を担うべきザムシードが義の戦士たちと激烈な攻防を繰り広げている。
 間違いなく義の戦士たち≠ナある。ザムシードに立ち向かうのはイリュウシナだけではないと言うことだ。
いつの間にか、もうひとりの女性隊員が戦いに加わっていた。
 クラリッサと同じく造船所跡の何処かに潜んでいたようだが、
彼女の動向(うごき)に合わせてイリュウシナの加勢に入ったものと考えられる。
 どうやら、闖入者は獣の動きを模する拳法――象形拳とも呼称されている――の使い手のようだ。
イリュウシナの掌打を避けようとしたザムシードの側面に回り込み、
野猿(さる)の如く両手の爪でもって彼の横っ面を引っ掻いている。
 当然ながら、その隊員にもジャーメインは見憶えがある。
ロクサーヌ・ホフブロイ――七導虎の一員ではないものの、
優れた密偵である為に幹部からの信頼がすこぶる厚く、
総帥あるいは戦闘隊長の命令を受けて潜入操作を行うことが多かったと記憶している。
 聞き間違いでなければ、ロンギヌス社のカキョウ・クレサキとも潜入先で遭遇していた筈である。
そして、ビクトーの話に依れば、彼女こそがアルフレッド抹殺の原因を作った張本人と言えるのだ。
 ロクサーヌ自身はスカッド・フリーダムの任務――『在野の軍師』の身辺調査を果たしたに過ぎないのだが、
彼女が取りまとめた報告に基づき、戦闘隊長は抹殺指令を発したのである。
 ビクトーに「生きていてはいけない生命」とまで言わせたのもロクサーヌの報告書であった。

「『この場は引き受ける』って言ったクセに、ちょっとだらしないんじゃないかなぁ、おじさーんっ」

 思わず軽口を飛ばしてしまうジャーメインだったが、当のザムシードには応じる余裕など微塵もなさそうだ。
激闘によって消耗したバロッサ家の双子ならばともかく、ロクサーヌは万全の状態で襲い掛かってきたのである。
百戦錬磨の馬軍の将とは言えども、流石に分が悪かろう。
 グンダレンコの蹴りによって蓄積された両足への痛手(ダメージ)は、
確実にザムシードの動きを鈍くしている。
 それでも互角に見える戦いを展開出来るのは、本人が語った通りに場慣れ≠ニ言うものであろう。
両側面から同時に攻撃を仕掛けられても巧みに受け流している。
少なくとも、致命傷だけは避けているようだ。

「群狼領で一軍を担うだけのことはある――と、今のところは褒めておこうか、今のところは=c…な」

 クラリッサの言葉がジャーメインには重く圧し掛かった。
 合戦に慣れているザムシードと雖も、息つく間もない激闘によって疲労していないわけがない。
体力も気力も充実しているロクサーヌから一気呵成に攻め立てられたなら、
いずれは押し切られてしまうだろう。
 七導虎と言う肩書きを背負っていないだけで、
ロクサーヌもイリュウシナもスカッド・フリーダムの隊員であることに変わりはない。
心技体全てが常人を遥かに上回る戦士からふたり懸かりで猛攻されて
五体満足でいられるとは思えなかった。
 ジャーメインとてザムシードと同じ状況に置かれているのだ。
寧ろ、条件は馬軍の将よりも更に悪いと言える。
 七導虎とグンダレンコを同時に相手にして、これを突破出来る自信などあろう筈もなかった。

「気障にキメてないで、ルール違反のクラちゃんは脇(そっち)に避けててくださ〜い。
メイちゃんは私が何とかしますから〜」

 「ルール違反」と繰り返すグンダレンコの抗議を受け容れ、
クラシッサが戦いの場から退いてくれないかと、ジャーメインは祈りばかりだった。
 ザムシードと同程度に痛手(ダメージ)が刻まれているだろうグンダレンコとの一対一の戦いに持ち込めれば、
隙を突いて大穴≠ノ突入出来る可能性も低くはない。
 当然、クラリッサは追い掛けてくるだろうが、アルフレッドとの合流が叶えば確実に状況は変えられる。
 多人数を同時に相手にする状況で最も警戒しなければならないのは、背後を奪(と)られることだ。
自明の理と言うものであるが、誰かと背中を預け合うだけでも格段に戦い易くなるのである。
 幾度となく拳を交え、互いの手の内を熟知しているアルフレッドと組めば、
ふたりの姉には及ばないまでも呼吸を合わせて戦っていけるだろう。
 そのアルフレッドには、あと一歩の距離まで迫っている。クラリッサが行く手を阻んでさえいなかったなら、
今頃は合流出来ていたのである。

「身内に甘過ぎるぞ、レン。……大体、ルール違反はお前たちのほうだろうに」

 グンダレンコに対してクラリッサは呆れた調子で溜め息を吐き、これ見よがしに大きく頭を振った。
その仕草は「ルール違反」と言う抗議が却下されたことを物語っている。

「特にリュウは酷いものだったよ。妹相手に危険な技を使えないのは分かる。それは仕方ない。
しかしな、わざわざ攻撃の手を休めてメイに回復の時間まで与えるのはやり過ぎだ。
正直、その時点で飛び出そうと思ったよ」
「あらまぁ〜。もしかして、戦闘隊長さんに報告されちゃう?」
「……慙愧の念に堪えないが、それが私の務めだ」

 苦々しげな口振りからクラリッサの務め≠察したジャーメインは、
いよいよ昏(くら)い想念に蝕まれ、スカッド・フリーダムに対する憤激も頂点に達した。
 クラリッサはバロッサ家の監視役として同行を命じられたのである。
同志の規範となるべき栄えある七導虎が、だ。

(何様のつもりなのよ、新しい戦闘隊長は……ッ!)

 スカッド・フリーダムの『義』を裏切るような人間を出してしまった以上、
バロッサ家の動向が隊内で警戒されるのは仕方ない。家族の立場を悪くしてしまったのは自分だが、
今はその過ちを悔いるよりクラリッサ――監視役のことである。
 事情はどうあれ仲間同士で監視を付けるなど、あってはならないことであろう。
誰がどう考えてもおかしく、何よりも『義』の心を踏み躙る行為ではなかろうか。
 事実、クラリッサとて本心から監視役を望んでいるわけではなさそうだ。
シュガーレイの後任の戦闘隊長――エヴァンゲリスタから強制されたようにも見える。
 史上最大の作戦を展開する上で、『在野の軍師』も諸将が互いを監視する体制を構築したのだが、
それは烏合の衆を繋ぎ止める為の措置である。仰々しく連合軍を称したところで寄せ集めに変わりはなく、
どうしても厳格な規律を設けなくてはならなかったのだ。
 しかし、スカッド・フリーダムと連合軍では体質からして全く違う。
『義』の精神のもとに結び付いた同志を疑い、監視まで付けるとは言語道断である。
 同志の監視を命令されたクラリッサは、自らの『義』を叩き壊すよう強いられたも同然である。
薄汚い任務など許し難いと撥ね付ければ、『義』を裏切った片割れとして処断されたことだろう。
 そのような体制に正義など在るものか。そもそも、体制に当て嵌めること自体が隊の性格に反している。
志を同じくする戦士の結び付きこそがスカッド・フリーダムの本質であった筈だ。
 『義』に反する体制を布いたものと思しき戦闘隊長は言うに及ばず、
テイケン総帥も、彼を補佐する実の父も――エヴァンゲリスタの企てを黙認する全ての人間に
飛び膝蹴りを叩き込みたい気持ちであった。

「……不満そうだな、メイ」
「そりゃあもうメチャクチャねッ! 今すぐ何かを蹴りたいくらいだよッ!」
「まったく……結局はライアン、ライアンか……」

 行く手を阻まれたことがジャーメインには不満なのだと誤解したクラリッサは、
顔を顰めながら、「結婚詐欺に遭うタイプとは思わなかったよ……」と頬を掻いた。

「それは聞き逃せないよぉ〜。メイちゃんとクラちゃんを一緒にしないで欲しいなぁ」
「わ、私だって結婚詐欺はまだ一回しか遭ってない――じゃなくて、
熱を上げるにしても相手は選んだほうがいいと言ってるんだ! 
……アルフレッド・S・ライアンは自分以外の人間を道具としか思っていないのだからな……っ!」
「クラちゃん、それは……」

 グンダレンコが遮ろうとしたが、クラリッサは決して口を噤もうとはしない。
それどころか、聞こえよがしに声を荒げていく。

「事実だろう。仲間を見殺しにして自分だけが助かるような男だ。
メイだって使い捨ての駒にされて終わりだよ」
「み……ごろ――」

 クラリッサの発した「見殺し」の一言にジャーメインは双眸を見開いて呻き、絶句した。
 さりながら、その一言を全く予想していなかったわけではない。
ビクトーやイリュウシナ、あるいはザムシードより浴びせられた言葉から薄々は勘付いていたのだ。
 ただ、どうしても信じたくなくて――否、考えたくもなくて、敢えて意識の外に追いやり、
禁忌の如く接触を遮断したのである。僅かに思い返すことさえ許さず、忘却の彼方に閉じ込めていた。
 その開かずの扉がクラリッサによって解き放たれようとしていた。
彼方に押し込めた禁忌こそが偽らざる真実であり、最早、ジャーメインには封印を保つことが出来ない。
真実とは現実である。例え、それがどんなにも残酷なものであろうが、
現実から目を逸らし続けることなど誰にも能(あた)わないのだ。

「……やはり、聞かされていなかったのか。
彼と一緒にバブ・エルズポイントとやらに突入した仲間たちは
ひとり残らず死んだ――そう言うことだよ、メイ……ッ!」

 最も残酷な現実を告げられた瞬間、ジャーメインは全てを悟った。
 攘夷思想に巻き込まれ、犠牲となった難民たちを謀略に利用するとアルフレッドが口走ったとき、
彼が心の奥底に何を抱えていたのかを――だ。

「何を言われても構わない。……勝つ為には、やれることは全てやる――例え、どんな犠牲を払ってでも……」

 攘夷の名のもとに蹂躙された難民を目の当たりにしたジャーメインは、
アルフレッドが彼らを指して犠牲≠ニ呼び付け、使い易い道具のように考えていると捉え、
激情の赴くままに彼の胸倉を掴み上げたのである。
 しかし、真実は違った。アルフレッドが決然と語った犠牲≠ニは、
攘夷の餌食となった難民のことを指していたのではなかった。
 彼にとって何よりも大切な存在(ひとびと)が犠牲≠ノなっていた。
 故郷が、親友が、妹が――数え切れないものが失われたと言うのに、
それだけでは飽き足らず、運命は尚もアルフレッドから大切な存在(ひとびと)を奪っていった。
 心が壊れてしまうような果てしない慟哭の先に、
それでも、アルフレッドは――『在野の軍師』は戦い抜く意志を貫こうとしていたのである。
 おそらくは己の未来など考えることもなく、ただひたすらに犠牲≠ヨの弔いとして――。

(……アルの……ばか――)

 アルフレッドの見据える現実を思い知ったジャーメインは、一粒の涙を零した。




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