7.難民戦争の代償(後編)


「――生きていてはいけない生命だとキミに言ったこと、憶えておいででしょうか」
「普通、忘れるのは言った側だ。余程のお人好しでもない限り言われた側は絶対に忘れない。
特に俺は根が暗いんでな。二度とは忘れないぞ」

 「愚問でしたね」と答えつつ頭を垂れるビクトーだが、
大穴≠謔闕キし込む微光(ひかり)によって照らされた面には、
己の言動を愧じるような想念など全く浮かんでいない。
 血塗れた頬に帯びるのは、処刑人≠ノ似つかわしい冷たい殺意のみである。
そして、その想念を怖気が走る程に研ぎ澄ませるのは、
『在野の軍師』を絶対悪と定める『義』の心であった。
 スカッド・フリーダムの有り様に絶望し、その気鬱から逃げ出すように武術家としての愉悦に昂ぶり、
任務を放り出してアルフレッドと立ち合ったケンポーカラテの継承者≠セが、
七導虎の魂は燃え尽きてなどいなかったのである。
 本隊への不信感に蝕まれ、壊れてしまったとばかり思っていた『義』は、
実は心の奥底にて眠っていただけであり、現在(いま)は完全な形で目覚め、
ビクトーの心身を隅々まで満たしている。
 これこそ恥ずべきことなのだが、『義』の覚醒を促したのは、抹殺対象である『在野の軍師』なのだ。
彼の声によって七導虎の魂が揺り起こされなかったなら、
ケンポーカラテの継承者≠ニしての愉悦に酔い痴れたまま、
取り返しの付かないところまで突き進んでいたに違いない。
 『義』の心は常に己と共に在るのだと、あろうことか敵≠ゥら教えられたのだ。
何よりの恥と思い、己の浅慮を悔い改めなくてはなるまい。
 無論、ビクトーはアルフレッドへの感謝も忘れない。
宿縁で結ばれた相手であろうとも、抹殺すべき敵≠ナあろうとも、
堕落する寸前で引き止めてくれたのは、目の前に立つこの青年なのである。
 だからこそ、私闘≠ヨの執着を一切捨て去り、
処刑人≠ニして――『義』の任務を帯びたスカッド・フリーダムの七導虎として、
アルフレッドに向き合わなくてはならなかった。
 感謝の念を酷薄な殺意に換えるのは、矛盾の極みかも知れないが、
これがビクトーなりの責任の取り方であり、アルフレッドに対する償いなのである。
 互いの『義』を賭して戦い抜くことこそが『在野の軍師』が望む決着なのだ。

(――償いはお互い様かも知れませんね。キミも未来の希望を消してしまった罪を背負っているのですから)

 スカッド・フリーダムが掲げる『義』に於いて、
何があっても『在野の軍師』を討たなくてはならないと感じた理由――
これを詳らかにする中で、ビクトーの殺意は際限なく膨らんでいった。
 仮に感謝の念を除いたとしても、その義憤のみで殺意は破裂したことだろう。

「……キミの言うお人好しとは、例えば――フィーナ・ライアンのことですか?」
「……なに……」

 よもや、この場でフィーナの名前を出されると思っていなかったアルフレッドは、
双眸を僅かに見開き、深紅の瞳に動揺の色を滲ませた。
 そもそも、ビクトーがフィーナを知っていたこと自体が驚愕なのだ。
しかも、為人(ひととなり)まで把握しているかのような口振りではないか。
 身辺調査の一巻として近親者まで嗅ぎ回られたのだろうか――
そう推察したアルフレッドは瞳に滲む色を動揺から憤激へと塗り替えた。
満面に貼り付けるのは「嫌悪」の二字である。

「少し前のことになりますが――キミの仲間とお会いする機会がありましてね。
そのときにフィーナさんともお話しをさせて頂いたのですよ」
「……そうか、『ワヤワヤ』で遭遇したスカッド・フリーダムと言うのは貴様だったのか」
「今はコクランさんも佐志に留まっておられるのでしょう? 
私は彼と一緒にワヤワヤに伺ったのですが……」
「トレイシーケンポーはともかく、貴様の名前など一度たりとも出なかったがな」
「それは寂しいですね。私としてはそれなりに親しくなったつもりでおったのですけれど」
「貴様の独り善がりだな。……大体、『ピーチ・コングロマリット』とつるむような人間など
信用するわけないだろうが。コクランだって莫迦じゃない」
「言うにこと欠いて、そこを突きますか……ピーチ・コングロマリットとの連携は、
あくまでも難民支援が第一条件。この点ではロンギヌス社の方針とも一致しているのですから、
コクランさんに嫌われるハズはありませんよ。……私はそう信じています」
「何度も言わせるな。そんなものは貴様の独り善がりに過ぎない」

 アルフレッドとビクトーが揃って口にした『ワヤワヤ』とは、
嘗てテムグ・テングリ群狼領に属していた小村である。
 一口に「嘗て」と言っても、そこに至る経緯は極めて複雑であった。
テムグ・テングリ群狼領から見れば、ワヤワヤは現在も馬軍の領土なのだが、
肝心の土地の所有権自体はロンギヌス社に移ってしまっているのだ。
 領有権を主張するテムグ・テングリ群狼領と、土地そのものの権利を有するロンギヌス社の間で
大きなねじれが生じた形である。
 ロンギヌス社からすれば、正式な取り引きを経て買い取った土地なのだ。
テムグ・テングリ群狼領から干渉を受ける謂れはないと言う立場を貫いており、
この問題は現在も解決されてはいなかった。
 そもそもの発端は、有史以来最低の悪徳企業とまで忌まれるアルトの総合商社――
ピーチ・コングロマリットである。
 組織の体質として両親を持ち合わせていないとの風聞が立つようなピーチ・コングロマリットに対して、
ワヤワヤの側から土地の売却を持ちかけたことが引き金だ。
 そのピーチ・コングロマリットが手に入れた土地を最終的に買い上げたのがロンギヌス社なのだ。
そして、スカッド・フリーダムは両社の仲介を果たしたのである。
 即ち、アルトの土地を異世界(ノイ)へ売却する斡旋を執り行ったことになるわけだ。
 この取り引きに於いて信用を保証したのが、スカッド・フリーダムの『義』である。
 力弱き人々の護民官≠スる義の戦士が後ろ盾を務める企業であれば何ら害はないと信じ、
ワヤワヤは異なる世界の企業へ土地を譲り渡した次第であった。
 ロンギヌス社が買い取った土地は、原則的に本来の住人たちに自治を委任しているのだが、
その交換条件としてノイの難民の受け入れを課していた。
 村落に居住区を新設し、そこに難民を迎え入れ、ふたつのエンディニオンで共存すること――
これが大前提と言うことである。
 難民の受け入れに要する費用もロンギヌス社が全面的に援助しており、
工事等で人手が足りなくなった場合は、人材派遣業も営むピーチ・コングロマリットが
有償で貸し出し≠トいた。
 異世界(ノイ)より迷い込み、何の保障も持たないまま荒野を流離うことになった難民の救済は
スカッド・フリーダムも全力を傾けている最中であり、そうした背景から二社との連携が成立したのであった。
 黒い噂≠フ尽きないピーチ・コングロマリットはともかくとして、
スカッド・フリーダムとロンギヌス社は難民救済と言う大目的で結束しているのである。
七導虎たるビクトー自身が語ったように、だ。
 己を犠牲にしてでも人命を救わんとする事業は賞賛されるべきであろう――が、
斬り従えた領土を思うが侭に蚕食されるテムグ・テングリ群狼領の視点では、
断じて認め難い行為(もの)である。これは歴(れっき)とした侵略なのだ。
 ワヤワヤは馬軍が手中に収めた領土なのである。
如何なる題目があろうとも、取り引きに関する手続きが適正であろうとも、
宗主の許しも得ないまま勝手に土地を売買することなど叛逆以外の何物でもなかった。
 エルンストさえ健在であったなら、全軍を率いて叛逆者たちを屈服させたことであろう。
ロンギヌス社による領土の蚕食を止められないのは、
御屋形様≠ェギルガメシュへ降った為に馬軍の武威を満天下に示すことが叶わないからである。
 そして、それこそが離反を招く最大の原因であった。
 エルンスト・ドルジ・パラッシュと言う偉大な御屋形様≠欠いた今、
テムグ・テングリ群狼領に昔日の力はない。
そのような宗主に頼っていては遠からず破滅することになるだろう――と、
ワヤワヤの者たちは判断を下したのだ。
 テムグ・テングリ群狼領はワヤワヤに裏切られたのではない。見限られたのだった。
 この弱り目を突くようにしてロンギヌス社は土地の買収を進めていく。
最大の後ろ盾を失って動揺する小村にとっては救世主にも等しかったのであろう。
宗主を見捨てることに対する罪悪感よりも生存を期した画策が優先されるのは当然であった。
誰だって死にたくはないのだ。
 即ち、フィーナたちが居合わせたのは、ワヤワヤの存亡を賭した極限の狭間と言うことである。
 寄る辺を失って瞑想していたワヤワヤに手を差し伸べたのがロンギヌス社のヴィンセントであり、
その仲介を担ったのがスカッド・フリーダムのビクトーだった。

 ビクトーの話によれば、このときにフィーナと巡り会ったそうだ――が、
互いの見知った人間について触れたと言うのに、彼の面に殺意以外の想念が混じることはなかった。
ワヤワヤでの交錯を明かすわけでもなければ、それを独りで懐かしむこともない。
 そもそも、だ。現在(いま)のアルフレッドの前でフィーナの名を口にするのは
相当に勇気が要ることである。他ならぬ彼自身が封印しているくらいなのだ。
 何故、フィーナの名を忌避しなくてはならないのか――
その背景など『在野の軍師』の身辺を嗅ぎ回っていれば厭でも行き着くだろう。
 つまり、禁句と認識していながら、敢えてビクトーはフィーナ・ライアンの名を
アルフレッドに突き付けたと言うことである。

「独り善がりとはご挨拶ですが、私に言わせれば、それはキミのほうでしょう、アルフレッド君。
フィーナさんの想いを継ごうともせず、寧ろ、踏み躙ってばかりいる。
それこそ独り善がりと言うものではありませんか?」
「……貴様に何が分かる……」
「大切なことから目を逸らし続けるキミよりはフィーナさんを理解しているつもりですよ」
「煩い、黙れ……!」
「フィーナさんがワヤワヤで何を考え、どのように勇気を振り絞ったか、本当にご存知なのですか?
……彼女は本当に立派でしたよ。我々のやり方に対する反論は子供騙しのようなものでしたが、
ワヤワヤの逼迫した現状を受け止め、自分に出来ることを探し求めておられました。
そのようにお見受けいたしましたが――そのとき、キミは何をしていたのですか?」
「訊かなくても分かっているだろうが。低レベルな厭味に答えてやるつもりはない」
「ええ、戦争を続ける工作に奔走されていましたよね。降伏を促す使者を迎えた頃でしょうか。
それでも、キミはギルガメシュを滅ぼすことしか考えていない。それしか見ていない」
「訳知り顔で抜かすな。何回、言わせれば気が済むんだ」
「キミはエンディニオンで起こり得る全ての事態を見透かしたつもりのようですが、
実際には何も分かってはいない。いえ、何ひとつ見ていない」
「能書きを垂れているばかりで現実から目を背ける貴様らと一緒にするな。
ギルガメシュを滅ぼさなければ何も変えられない。いや、始まりもしない。
……現状を認識していないのは貴様のほうだ、ケンポーカラテ。
そもそも、統一政権自体を理解出来ていないだろう?」
「目が曇っていることは私も否定はしません。スカッド・フリーダムがおかしくなっていることも認めます。
……そんな半端者の我々と比べて、フィーナさんは遥かな未来(さき)を見据えておられたのですよ」
「フィーを語るなッ! 貴様がッ!」

 とうとう堪え切れなくなったアルフレッドは、鋭く踏み込みながら右拳を繰り出した。
怒りに任せた衝動的な攻撃であったのだろう。酷く直線的な拳打であった。
 アルフレッドの攻撃を左拳でもって迎え撃ったビクトーは、
双(ふた)つの拳の衝突を以ってアルフレッドの『軸』を崩し、同時に後方へ撥ね飛ばすと、
これを追い掛けるように天井の寸前まで跳躍し、そこから急降下を伴う蹴りを試みた。
 時計盤に例えるならば、頂点たる一二時から五時の位置へと滑空する形である。
 両腕を交差させて防御を試みたものの、完全には威力を受け止め切れず、
弾き飛ばされてしまったアルフレッドを「キミの傲慢も目に余りますね」と言うビクトーの罵声が追いかけた。

「キミこそフィーナさんについて語る資格があるのですか? 
ふたつのエンディニオンを結び付けたいと言う彼女の想いも継がず、
あまつさえ異世界の難民まで連合軍の餌にしようとしたキミに?」
「貴様……ッ!」

 「ふたつのエンディニオンを結び付けようとする想い」などと言う口振りから察するに、
スカッド・フリーダムは『ゼフィランサス』のことまで調べ上げていたようである。
 その村は逸早く難民を受け入れ、ノイの技術を積極的に学び、共に繁栄を築いていた。
言わば、ふたつのエンディニオンが共存し得ることを示す最大の成功例なのだ。
 ワヤワヤを離れた後にフィーナもゼフィランサスを訪ねており、
そこで目の当たりにした共存の在り方は、彼女に強い影響を――否、希望を与えていた。
 「フィーナはギルガメシュ討滅後の未来(さき)まで見据えていた」と言うビクトーの指摘は、
決して誤りではない。他ならぬアルフレッド自身がそのように感じていたのだ。
 ワーズワース難民キャンプの悲劇を経た後(のち)、希望への意志は一等強まっていたに違いない。
 しかし、そのようなことまで詳細に把握しているビクトーがアルフレッドには気味悪く、
同調するどころか、忌々しげに「ストーカー・フリーダムにでも改名しろ」と吐き捨てるのみであった。
 どのような痛罵を浴びせられようとも、「貴様がフィーの名前を口にするな」と大喝されようとも、
ビクトーは一瞬たりとも口を噤まない。フィーナ・ライアンと言う名を発する度に
全身に纏わせた昏(くら)い殺気が膨らんでいくようでもあった。
 肋骨の折れた箇所を左前回し蹴りで狙い、これをアルフレッドが右下腕で受け止めると、
『軸』が外れたか否かを確認するよりも早く対の右足でもって前回し蹴りを繰り出した。
どちらもビクトーが得意とする半円を描く技巧(わざ)だ。
 先に繰り出した蹴りが中段であったのに対し、右の前回し蹴りは上段の軌道を描いている――が、
これは頭部を撃つのが目的ではない。蹴りの威力で頚椎を捻じ切ろうとしていた。
 事実、アルフレッドは己の首が軋む音を聞いている。
左右往復による二連続の前回し蹴りは、処刑人としての技≠ニ言えなくもなかった。

「正直に申し上げましょう。ワヤワヤでフィーナさんと相対したとき、
私は自分の現状(こと)が恥ずかしくて仕方がありませんでしたよ」

 仕留め損ねたと見て取り、即座に構えを取り直すビクトーの脳裏には、
嘗てフィーナより突き付けられた問い掛けが蘇り、何時までも消えることなく残響し続けている。

「……正義って、なんですか――」

 この穿つ問い掛けは、透き通ったガラスの破片の如くビクトーの心に刺さったままである。
 ワヤワヤにて対峙したフィーナは、テムグ・テングリ群狼領への侵略行為を止めるべく
戦おうとした仲間たちを抑え、武器を取る代わりにスカッド・フリーダムの正義を
ビクトーへ問い質したのである。
 ロンギヌス社とピーチ・コングロマリットによる画策とは、
紛れもなくテムグ・テングリ群狼領への侵略であった。
『万国公法(ばんこくこうほう)』と言うノイの国際法を根拠に土地を買い漁り、
エルンストが斬り従えた領土を食い散らかしていったのだ。
 ギルガメシュは連合軍を打ち負かし、エンディニオンの覇権を掌握した。
それ故にノイの側の国際法がアルトにも適用されるのだとピーチ・コングロマリットの人間は語ったが、
殆ど詐欺紛いの出鱈目な理屈である。
 難民救済と言う尊い志はともかくとして、実際に手を染めていることは侵略以外の何物でもない。
正義とは言い難い行為であり、「人々を守る為に戦う」と言うスカッド・フリーダムの本質からも
大きく掛け離れてしまっている。
 だからこそ、誰に対しても詭弁めいた言葉しか掛けられなかったのだ。
自分たちの『義』に堂々と胸を張れなかったのである。
 詭弁によって誤魔化していたのは、正義を疑う己自身であった。
 そして、そのようなときにフィーナから真っ直ぐに正義を質されたのだった。
 スカッド・フリーダムそのものを否定されたと言えなくもないのだが、
侮辱と捉えて腹を立てるどころか、ビクトーは嬉しく思えてならなかった。
 エンディニオンに正義の心は絶えていないと強く感じられたのである。
例え、小さく未熟であっても、まっさらな正義を体現する者が存在してくれたのだ――と。

「……私は己の『義』をフィーナさんに誇ることが出来ませんでした。
恥ずかしくて、とてもそんな真似は出来なかった……」

 まっさらな正義を体現するフィーナを振り返る内に己自身の行いが恥ずかしくなったのだろうか、
自ら攻めに転じようとしたビクトーの挙動(うごき)が僅かに鈍り、
直後にアルフレッドの右足裏でもって左膝を踏み付けられてしまった。
 ほんの一瞬ながらビクトーの身動きが完全に止まった。その場に釘付けにされた。
 彼の『軸』を逆に押さえ込んだアルフレッドは、すかさず左肘を振り抜いて横っ面を打ち、
続けざまに右のアッパーカットで顎を撥ね上げ、すかさず同じ側の手甲を首筋に叩き落とす。
 斜方に閃く右裏拳でもってビクトーの身を傾がせ、更に対の左掌打を振り落とした。
 右肩を叩いた掌底は、単なる打撃ではない。掌が触れた部位に凄まじい重量が発生し、
これがビクトーの体内を通るようにして垂直落下したのである。
 無論、ビクトーの錯覚などではない。『勁』と呼ばれるアルフレッドの技巧(わざ)のひとつだった。
先程と同じように不可視の錘≠ナもって彼の姿勢を崩しに掛かったのだ。
 そうして片膝を突かせたところに、容赦なく左蹴りを見舞った。
鮮血によって塞がれたままの左目を今度こそ潰すつもりなのだ。

「――恥と言うものを少しでも感じられる人間とは思えないがな」
「執拗に弱点を狙っておいて、恥を語りますか……!」

 危険極まりない蹴りを右手刀で受け止めつつ、『軸』を外そうと試みるビクトーであったが、
その所作(うごき)よりも先にアルフレッドは追撃の右前回し蹴りを繰り出していた。
 左側の視界が閉ざされているビクトーにとって、これは死角からの攻撃である。
絶対的に不利な側から蹴りを打ち込み、またしても左目を潰そうと図ったわけだ。
これでは「執拗に弱点を狙っている」と罵られても仕方あるまい。
 しかも、だ。アルフレッドは右足に蒼白い稲光まで纏わせている。

「清々しいくらい容赦がありませんね――」

 流れに逆らわないよう右方に大きく跳ねて前回し蹴りを避けたビクトーは、
上体を起こしつつアルフレッドから浴びせられた「恥を感じる人間とは思えない」と言う罵声を反芻し、
その重み≠ノ俯き加減となった。
 視線は薄暗い床へと向けられている。大理石の床は表面が鏡の如く磨かれており、
ビクトーはそこにフィーナの幻像(まぼろし)を映していた。

(――そう……ですね。フィーナさんと比べたら、恥知らずも良いところですからね、私は……)

 スカッド・フリーダムの『義』を疑いながらも心が先に折れてしまい、
一歩を踏み出すことも出来ずにいたビクトーとは正反対に、フィーナは行動の人≠ナあったと言える。
 ただスカッド・フリーダムへ疑念を叩き付けるだけではなく、自らの足でゼフィランサスなどを経巡り、
エンディニオンの未来を真剣に模索していったのだ。
 戦争とは確かに重大な局面ではある――が、長い歴史の中に於いては、ひとつの状況≠ノ過ぎない。
誰もがひとつの状況≠ヨ意識を囚われる中に在って、
フィーナは新しい時代そのものを切り拓こうと奔走していたのである。

「まるで言い訳のように仰々しいことを話しているが、所詮、自分のことしか考えていないじゃないか。
自分だけを基準に物事(もの)を語っている。……貴様のような人間には反吐が出るんだよ」

 一方のアルフレッドは、ビクトーが何かを喋る度に苛立ちを増幅させている。
 他人(ビクトー)に言われるまでもなく、フィーナが常に希望と共に在ったことは
アルフレッドが誰よりも一番解っているのだ。どれほど絶望的な状況に陥ろうとも、
彼女は決して「希望」の二字を手放さなかった。
 己自身の窮状に対しても、そして、他者の未来に対しても、だ。
道を踏み外したと思しきフェイと向き合う決意さえ彼女は迷わなかったのである。
 それこそがフィーナと言う少女の強さであった。
自分が傷付くことも厭わずに人間の可能性を信じ抜き、手を差し伸べられる高潔な魂とも言えよう。
 その強さが育まれる様をアルフレッドは誰よりも近くで見守り、愛しく想ってきたのだ。
だからこそ、フィーナの強さを訳知り顔で語るビクトーのことが許せなかった。
今すぐに首を圧し折ってやりたいと欲する程の憎悪が全身を駆け巡っていた。

「……反吐が出ると言うのは、私の台詞ですよ、アルフレッド君……」

 アルフレッドの言葉が一等哀しかったのか、ビクトーは無念の面持ちで頭(かぶり)を振った。

「自分だけを基準に――とキミは仰いますが、では、キミ自身はどうなのですか。
キミはフィーナさんから何も学んでいないようにお見受けしましたよ。
……いえ、こう言ったほうが正しいか――」
「いちいち、勿体付けるなッ!」
「――キミは何も感じなかったのですね、フィーナさんの死に」

 そして、その言葉がアルフレッドの心を貫いた。
 ビクトーが込めた批難は真芯から逸れてしまったようだが、
しかし、『死』の一言は今までで最も激しくアルフレッドを動揺させていた。
 最早、深紅の瞳には何処を見つめているのかも定かではなかった。

(……感じなかった……? 何も……? フィーの犠牲に……俺は……何も――)

 今日と言う日に至るまでの数多の『死』が、アルフレッドの裡を駆け巡った。
 故郷を旅立ってから途絶えることなく続いてきた戦いの中で、
彼にとって掛け替えのない大切な生命が幾つも犠牲≠ノなっていた。
 争乱に巻き込まれた親友と、光の中に消えていった最愛の少女の顔が――否、幻像(まぼろし)が、
暗闇の中に浮かび上がる。
 アルフレッドだけが感じ取れる心の闇の只中に、ふたつの幻像(まぼろし)が現れたのである。
それ≠ヘ見る者の心臓を凍て付かせる程に無表情であり、生気と言うものを微塵も感じさせなかった。
 ふたつの犠牲≠ヘ等しくアルフレッドの歯車を狂わせた――その筈であった。
 己の母親の手に掛かって親友が斃れたときは完全に正気を失い、復讐に取り憑かれてしまった。
怨敵の血を全身に浴びようとも、決して満たされることのない虚しい戦いであった。
 世界を超えて絆を結んだもうひとりの親友に救われなかったなら、
あるいは最大の仇を滅ぼしても心の飢餓は止められなかったかも知れない。
破壊の衝動をぶつける敵≠ひたすらに求め、虚しい戦いへ狂奔したに違いなかった。
 そして、その狂気を突き抜けた先にビクトーの問いかけが在ったのだ。
 もうひとりの親友によって癒された傷だらけの魂は、次なる犠牲≠ノ何を見たのか。
最愛の少女の『死』に何も感じなかったのか――と。

(……フィーのときは、どうだった? 俺は、一体、何を感じた……?)

 バブ・エルズポイントに於いて転送装置の事故が発生した瞬間――フィーナは光の中に消えていった。
二度と手の届かない場所へ去ってしまった。
 アルフレッドにとっては、この世の誰よりも大切な存在であった。
彼女が自分のもとから離れてしまったなら、きっと正常(まとも)ではいられなくなるだろう。
 それ程に深い想いで結ばれた相手だったのだ。
 ならば、再び正気を失っても不思議ではあるまい。
今度こそ後戻りが不可能な程に狂乱していなければおかしかった――が、
二度目の喪失≠フ折には冷徹に状況を整理し、ひとつの結果として犠牲≠受け入れてしまった。
 己の為すべき務めと、最愛の少女の犠牲≠分けて考えてしまったとも言えよう。
 それはつまり、彼女の『死』に何ひとつ感じなかったと言うビクトーの面罵にも通じることなのだ。
親友の亡骸を掻き抱いたときには、『死』の一字が復讐の衝動に直結していたのである。
 しかし、今度は違う。真逆と言っても良かろう。想念が行動に優先する瞬間さえなかった。
 傷だらけの魂は喪失≠フ痛みにも慣れてしまったのだろうか。
確かにアルフレッドは僅かな間に大切な存在を幾つも失っている。
今ではもうひとりの親友さえも光の彼方に去っていたのだ。
 それとも、親友たちや故郷と異なって、アルフレッドが最愛の存在と信じてきた少女は、
復讐の想念を引き起こす程の犠牲≠ナはなかったと言うことなのだろうか―― 

(――違う! 違う! 違うっ! 違うッ! ……違う。フィーがいなくちゃ俺は……)

 ――喪失≠ノ対する心の振幅が絶無であったことを否定し続けるアルフレッドであるが、
容易く気持ちが整理出来てしまったことは事実である。
『在野の軍師』としての使命を阻むような要素を速やかに排除した現実だけは揺るがし難い。
 まるで許しを乞うように「違う」と唱え続けるアルフレッドの面を、
目の前に立つ幻像(まぼろし)は無表情に見下ろしていた。

「案の定……ですか。残念でなりませんよ、アルフレッド君――」

 今まで生きてきた意味が崩壊し兼ねない情況にアルフレッドは混乱し、
その様子をビクトーは「図星を指されて狼狽している」と捉えた。
やはり、『在野の軍師』は或る少女の『死』に何も感じていないと受け止めてしまったのである。
 果たして、ビクトーは悲憤を宿した右拳でもってアルフレッドの顔面を打ち据えた。

「――やはり、キミは生きていてはならない生命(いのち)なのです……ッ!」

 闇の中の幻像(まぼろし)に囚われていたアルフレッドは、無防備のままビクトーの拳を直撃されてしまった。
 反射的に両の拳で撃ち返すものの、焦点の合わない双眸は現実の世界を見てはおらず、
必然的に狙いも定まらない為、どれほど腕を振り回したところで空を切るばかりだった。
 しかも、だ。アルフレッドは亡霊に怯える子どものように四肢を萎縮させながら拳を打ち出していた。
このように半端な攻撃が七導虎へ届くわけがあるまい。
 拳や脚を大振りに繰り出そうものなら目の前に立つ幻像(まぼろし)を傷付けてしまうと、
半ば強迫観念にも近い錯覚に見舞われているのだ。
 今やアルフレッドは自らの心が作り出した幻覚に惑わされてしまっていた。

「私たちとは比べ物にならないくらいフィーナさんは未来を見据えていましたよ。
ただただ真っ直ぐにね。……私とロンギヌス社はカネで過ぎませんが、
あの方は心を以てして、ふたつの世界に寄り添っておられました。
フィーナさんこそエンディニオンの未来を託すのに相応しい人物だったのです――」

 言わずもがな、ビクトーはアルフレッドの復調を待とうとはしない。
 左の中段蹴りでもって彼の腰を打ち、『軸』を外して身動きを堰き止めるや否や、
左右の拳による乱れ打ちを放った。一撃一撃が精確に顔面を捉えている。

「――それなのに、生き残ったのはキミだ。復讐と言う名の過去に囚われたキミが還って来た。
……イシュタル様も残酷ですよ。どちらが生きるべきだったか、考えるまでもないでしょうに――」

 罵声と共に放たれる処刑人≠フ拳打は、アルフレッドに崩れ落ちることも許さなかった。
 左右を往復する拳でもって彼を振り回し、少しでも身が傾くと掬い上げるような一撃で上体を撥ね飛ばす――
この繰り返しでもってアルフレッドの生命を削り取っていくのだ。
 一撃一撃が攻守の『軸』を操るものである為、最早、アルフレッドには為す術もない。

「――未来の可能性を潰してまで生き残りたかったのですか? 
何も生み出せないキミが。殺戮以外には能のないキミが。……卑劣ですね」
「煩い……黙れ……」
「どうやって帰還したのか、ありのままに打ち明けて頂きましょうか。
まさかとは思いますが、フィーナさんを身代わりにしたのではないでしょうね?」
「貴……様ァ――ッ!」

 アルフレッドの吼え声が屋内に響いた直後、彼の全身を蒼白い稲光が走り抜け、
『軸』を外されたことで虚脱状態に陥っていた肉体を強引に揺り動かした。
 電流が流れることで筋肉は反応するものだが、これと原理は同様である。
身の裡にホウライの稲光を通し、身体機能の限界を上回ったのだ。
 さしものビクトーもこればかりは反応し切れず、ホウライ外しを試みることさえ出来なかった。
 尤も、アルフレッド自身は反撃の合図たる吼え声さえ無意識であったらしい。
それが証拠に深紅の瞳は未だに焦点が合っていない。半ば本能で応戦したような状態なのだ。
 実際、傍目には意識など欠片程度しか残されていないようにも見える。
横薙ぎの右拳打を受けて上体が大きく傾いでおり、
それ故にビクトーもホウライなど使えまいと判断したのである。
 そこに油断が生じ、思いも寄らない反撃を許してしまった。
 上体を傾がせたまま、アルフレッドは己の右足を左方へと振り抜いた。
振り回された勢いを利用してビクトーの左足首を刈ろうと言うわけだ。
 己に掛かった力の作用を吸収しつつ、螺旋を描くようにしてビクトーの左足を掬い上げ、
その身を引っくり返そうと試みたのだ――が、武技に優れた七導虎だけに簡単には引っ掛からない。
 「これも勁≠フ一種でしたね」と看破された挙げ句、
螺旋を描かんとしていた足払いを耐え切られてしまった。
 アルフレッドは相当に無理な状態から蹴りを打ち込んでいる為、姿勢そのものは極めて不安定だ。
渾身の力で踏ん張りを利かせれば、凌ぐことは大して難しくもなかった。
 だが、アルフレッドはビクトーの身を一瞬でも釘付けに出来れば十分であった。
即座に上体を引き起こし、その勢いに乗って彼の懐へと飛び込んでいったのだ。
 迎撃の右拳を顔面に受けようとも構わず踏み込み、互いの腕を交差させるようにして左手を突き出していく。
そこから狙うのは掌打や拳打ではない。五指でもってビクトーの顔面を力任せに掴んだのである。
 極めて原始的な技だった。掴まれた直後には「これもまた『師匠』の得意技でしょうか」と
考察していられたビクトーだが、そのような余裕など直ぐさま吹き飛ばされる。
ホウライの恩恵を受けていないにも関わらず、凄まじい握力が発揮されており、
五指が頭部に食い込み始めたのだ。
 原理が単純なだけに効果も覿面である。耳障りな音を立てて頭蓋骨に亀裂が走り、
五指に掴まれた部位からは鮮血が噴き出した。どうやら、こめかみを走る血管まで破れたようである。

「…やけに……必死ですね……そうですか……後ろめたいのですね……フィーナさんに……」

 頭部への圧迫はビクトーを着実に蝕んでいた。
 それもその筈と言うべきか、掴み掛かった側のアルフレッドは左腕一本で彼の身体を持ち上げているのだ。
今やビクトーの両足は大理石の床からも離れてしまっている。
 尋常ならざる力としか例えようもあるまいが、「限界」の二字が脳から抜け落ちたとすれば、
ある意味に於いては得心が行くだろう。「限界」を失念している分だけ体力も余計に消耗するのだが、
そのようなことは現在(いま)のアルフレッドには関係ない。
 頭蓋骨へ指がめり込むほど強くビクトーの頭部を掴みながらも、
野獣の如く荒い息を吐く彼の意識は、依然として遠い彼方の幻像(まぼろし)に向けられていた。

「……キミはフィーナさんの死から何も受け取っていない……何も変えていない。
ですから……私はキミを殺しておかなくてはならない……!」

 何としても己の意識を繋ぎ止めるべく、ビクトーは処刑人≠ニして罵声を搾り出し続けた。
 深い縁で結ばれ、ひとりの武術家として認めたアルフレッドを貶すことも大変な苦痛なのだが、
七導虎の名のもとに託された使命を果たすには、これ以外に選択肢がなかった。
 また、痛罵に合わせて足掻くように両膝を突き出し、アルフレッドの腹や鳩尾、顎を打ち据えていく。
両足が浮いており、又、満足に身動きも取れないので円軌道の打撃を試みても本来の威力は引き出せず、
小手先の技にしかならないものの、この状態から脱出するまでは撃ち続けるしかなかった。
 何とか頭蓋骨が粉砕される前に蹴り剥がさなくてはならない――時間との勝負でもあるわけだ。

「……生きてさえいれば……フィーナさんはきっと大勢の人間の力になれたでしょう……それをキミは――」

 幾度目であっただろうか、アルフレッドの顎を膝で撥ね上げたとき、ようやく頭部に掛かる圧迫が緩んだ。
 今こそ好機とばかりに縦一文字の裏拳を脳天に叩き落とし、アルフレッドの身を傾がせたビクトーは、
膝を折り曲げつつ両の足裏を彼の胸部に宛がい、その状態から後方へと一気に跳ね飛んだ。
 両膝の屈伸でもってアルフレッドを弾き飛ばしたと言っても良い。
しかも、先んじて激甚な痛手(ダメージ)を刻んでおいた胸部を狙ったのである。
 胸部を踏み台にされたアルフレッドは、左の五指による捕獲≠フ維持も叶わずに弾かれ、
着地と同時に前のめりに倒れ込んでしまった。反撃に出ようとした瞬間に両足から力が抜け落ちたのだ。
 胸部へ痛手(ダメージ)を重ねられたことも相当に堪えたのだろう。
赤黒い飛沫を吐きながら悶え苦しんでいる。
 それでも起き上がろうとするのだから、執念にも匹敵する破壊の本能と言うべきであろうか。
 一方、ようやく圧迫から解放されたビクトーは、目の前でアルフレッドが転がっているにも関わらず、
どうしても追撃に移ることが出来なかった。後退(ずさ)るようにしてよろめき、
その場に片膝を突いてしまったのである。七導虎として桁外れな肉体を持つビクトーが、だ。
 それ程までに頭部へ被った痛手(ダメージ)は深刻と言うことである。
一時的な影響であろうが、平衡感覚は損なわれ、視界も歪んでしまっている。

「――それを……アルフレッド君が――」

 だが、処刑人≠ヘ立たなければならない。如何なる苦悶が降り掛かろうとも耐え凌ぎ、
断罪すべき者の前に厳然と立ちはだからなければならないのだ。
 そのように己に言い聞かせ、歯を食い縛って立ち上がったビクトーは、
片膝を突いたまま床の上に赤黒い斑模様を噴き付けているアルフレッドに対して、
右の人差し指を突き出した。

「――キミがフィーナさんを殺したのです、アルフレッド君ッ!」

 その一言が心を貫いた瞬間、アルフレッドは不思議な解放感に包まれた。
 どう言うわけか、痛みも何も感じなくなった。全ての感覚が――否、思考まで含めて
真っ白≠ノなったとしか表しようがなかった。

(……俺は……俺が――)

 気付けば、ふたつの幻像(まぼろし)も見えなくなっている。
心の底の闇までもが真っ白≠ノ塗り変えられてしまっていた。
 それ故にアルフレッドは己の頬を濡らすものにも気付かなかったのだ。
 双眸から溢れ出し、頬を伝って滑り落ちていくのは血の涙であった。
 あるいは、その赤い雫によってふたつの幻像(まぼろし)は洗い流されてしまったのかも知れない。
 そして、目の前から消えてしまった幻像(まぼろし)を――
最愛の少女と親友を追いかけようと言う気持ちさえ今のアルフレッドには起こらなかった。
 何もかも、真っ白≠ネのだ。

「……ア、アルフレッド君……」

 処刑人≠ニして厳然と立つつもりであったビクトーも、血の涙を目の当たりにしてたじろいだ。
 ビクトーは以前にも一度だけこれ≠ニ同じ情景に直面したことがあった。
ギルガメシュとの戦いで同胞を犠牲≠ノしてしまったシュガーレイが自責の念から戦闘隊長を辞し、
タイガーバズーカをも去ろうとする間際、アルフレッドと同じ涙を流したのである。
 「殉職は『義』の戦士の宿命であり、己自身で責任を引き受けるもの。
一時の感情に流されてスカッド・フリーダムの『義』を裏切ってはならない」と、
ビクトーも親友を慰留したのだ。隊の離脱も辞さない彼を力ずくで捕まえて、だ。
 しかし、シュガーレイは「仲間の仇も討たずに何が正義なのか」と首を横に振り、
今日(こんにち)の有り様に至るのだった。

「戦いの場に立つ人間にとって死は当然の結果――そんなこと、誰に言われるまでもなく身に沁みている。
『義』の使命を果たしてこそ殉職者の弔いになると言う理屈だって思考(あたま)では分かっている。
……だが、自分の心に言い訳は出来ない」

 血の涙と共に絞り出された声は、今もまだビクトーの鼓膜にこびり付いたままなのだ。
 現在(いま)、ビクトーは心臓が凍り付くような思いであった。
アルフレッドとの決着に処刑人≠ニして臨もうと気負う余り、
禁忌すべき言葉を次々と並べ立て、彼の心を無慈悲に蹂躙してしまったのだ。
 フィーナ・ライアンと言う未来の可能性を犠牲≠ノしたことだけは追及されなくてはならない。
その為には悍(おぞ)ましいとさえ思える醜い言葉も欠かせなかったのだ――が、
しかし、人には超えてはならない一線と言うものがある。
 何があっても守らなければならなかった一線を、遂にビクトーは踏み破ってしまったのだ。
 それが為にアルフレッドは血の涙を流していた。嘗て別れた親友と同じ慟哭を曝け出していた。

(――私は……何と言う真似を……)

 取り返しの付かない過ちを犯してしまったことを悟り、慙愧の念に全身を貫かれ、
ようやくビクトーは我に返ったのだ。
 仮にも『義』の戦士を名乗る者が血の涙を伴う程の慟哭を抉り出したのである。
七導虎として――否、ひとりの人間として有るまじきことではないか。

(……『義』は誰かを傷付ける為にあるのではない――ッ!)

 押し寄せる罪悪感がビクトーの思考を著しく鈍らせ、ほんの一瞬ながらアルフレッドの姿を見失ってしまった。
あるいは、正面に捉えていた筈の『在野の軍師』が突如として掻き消えたと言うべきかも知れない。
 果たして、それがビクトーにとって最悪の失態となった。次の瞬間、彼の右目は光を失ったのだ。

「――ぎッ……ひぐッ!? がッ……あぎ……ッ!」
「喚くな」

 瞬時にして間合いを詰めたアルフレッドが左の人差し指と中指をビクトーの右目に突っ込み、
そのまま眼窩(あな)に二本指を引っ掛け、大理石の床へ後頭部から投げ落としたのである。
 ビクトーの身に馬乗りとなったアルフレッドは右の五指でもって首を掴み、渾身の力で絞め始めた。
最早、ジークンドーも何もない。ただただ力任せに頚椎を圧し折るつもりであった。
 人間業とは思えない力で頚動脈を絞められ、同時に気管まで潰されている。
首の骨が折れるのが先か、窒息するのが先か、
もしくは血流の停滞によって失神するのが早いのか――いずれにせよ、死は間近まで迫っていた。
 アルフレッドは執拗であった。首を絞めつつ右膝を横隔膜の辺りに押し付け、全体重で圧迫しているのだ。
呼吸にも関わる部位を潰すことで、より確実に息の根を止めようと言うのである。
 その上、だ。アルフレッドは対の左拳をビクトーの顔面へと振り落としている。
 地に倒した相手を殴り付ける『パウンド』と呼ばれる攻撃であるが、
当然ながら一切の容赦もなく、鼻の頭を潰し、眉間を突き破り、
血管の裂けたこめかみに痛手(ダメージ)を重ね、拳全体が鮮血に塗れても構わず殴り続けていった。
 馬乗りの状態で下方に拳打を放つ為、アルフレッドの身も大きく振動するのだが、
これに伴って垂直に落としている右膝は撹拌にも似た恰好となり、
一等深くビクトーの横隔膜を刺激するのだった。
 あらゆる動作が狂気的な殺意へと収束する中、しぶといビクトーに痺れを切らしたのか、
アルフレッドは両手に青白い稲光まで纏い始めた。
 同じ秘術を会得したタイガーバズーカの人間には通用しにくい筈なのだが、
当のアルフレッドは『ホウライ外し』を使われても構わないと考えているようだ。
即ち、効果を打ち消される前に仕留めるつもりなのである。
 首の骨は聞くに堪えない軋み音を立て始めていた。
 今にも自分が殺されようとしている状況を、ビクトーはただ耳で聞くのみであった。
 視認したくても何も見えないのだ。依然として左目は流血で塞がれており、
右目に至っては二度と視覚を取り戻すことはあるまい。
 火花の散るような音を聞けば、アルフレッドが蒼白い稲光を帯びていることも察せられるのだが、
視界を完全に閉ざされてしまっては、『ホウライ外し』の好機(タイミング)を計ることも不可能であった。
 勘を頼りに数度ばかりホウライを打ち消したところで、再び発動されては元も子もなかった。
 首への圧迫から逃れるべくアルフレッドの右手を引き剥がそうとはするのだが、
それは真っ暗闇の崖道にて次の一歩を踏み外しはしないかと探るようなものであり、
如何に四肢を動かせば望ましい効果を得られるのかも定められない。
 しかも、だ。僅かでも腕を動かそうものなら、
その都度、首を絞めるのとは逆の左拳で叩き落とされてしまうのである。
 現在(いま)のビクトーは、文字通り、手も足も出ない状況に在った。
せいぜい殺気を感じ取って両掌を繰り出し、『パウンド』を弾く程度の抵抗しか出来ず、
それも完全とは言い難かった。直撃される回数のほうが圧倒的に多い。

(報いと言うものでしょうね……あのような過ちを犯した……)

 最後に見たアルフレッドは、深紅の瞳に狂気を宿していた。
彼に血の涙を流させるのは、慟哭の果てに現れる狂気であろう。
 これこそが『在野の軍師』をエンディニオンの災いと見做す根拠――
ロクサーヌが調査報告の中で述べていた復讐の狂気≠ノ違いない。
 この狂気を以てしてギルガメシュを殺戮し、連合軍を復讐の道具として操っているのだ。
 両目を使えないビクトーに確かめる術はないのだが、
おそらくアルフレッドは猛獣の如き眼差しで獲物(じぶん)≠見下ろしている筈である。
 光を失う前の左目が捉えたアルフレッドは、遠い彼方ではなく獲物(じぶん)≠睨み据えていた。
 怖気が走る程の狂気ではある――が、しかし、これを引き摺り出したのは他ならぬビクトーであった。
無論、彼自身も己の所業を心底から愧じている。
 慟哭の果てに発露した狂気を根拠に挙げて、抹殺指令を正当化したくはなかった。
「これ程の狂気を秘めた人間は、必ず世界の秩序を壊す」などと強弁するつもりもない。
 彼は禁忌とすべき言葉でもって心を抉られたのだ。アルフレッドでなくとも醜く歪むに決まっている。
血の涙と共に狂気が溢れ出すのは必然と言えた。

(ですが……)

 それでも、ビクトーは死ぬわけにはいかなかった。
禁忌の一線を踏み越えてしまったと言う慙愧の念に苛まれてはいるが――否、だからこそ、
最後まで処刑人≠フ使命を貫かなければならなかった。
 アルフレッドを復讐の狂気で歪ませてしまった責任は果たさなければならない。
互いの全て≠出し尽くし、その先に決着をつけることが処刑人≠フ務めであり、又、償いでもあるのだ。

「……出来れば……これだけは……使いたくなかったの……ですがね――」

 その呟きが合図となったのか――暗闇の中に幾筋もの光線が走り、
糸の如く結び合わさりながらビクトーの身に向かって収束していった。
 紛れもなくヴィトゲンシュタイン粒子である。アルフレッドを透過していく光の糸は、
トラウム発動の前兆に他ならないのだ。
 ビクトーの身に異変が起きたのは、その直後のことである。
そして、その怪異は首を絞めるアルフレッドの右手へ直接的に伝わってきた。
ヴィトゲンシュタイン粒子の燐光が収まるや否や、突如としてビクトーの首が二回りほど太くなったのだ。
 よもや、光の糸を吸収することで肉体が膨張でもしたと言うのだろうか――
件の現象は秒を刻む毎に加速していき、とうとう五指では掴み切れない程の太さになってしまった。
 変貌を遂げたのは首回りだけではない。肉体そのものが際限なく巨大化しているのだ。
 馬乗り状態のまま『パウンド』を続けようとしていたアルフレッドを撥ね飛ばし、
徐に立ち上がったビクトーの身の丈は、今や五メートルを超えている。
 最早、誰も目の錯覚とは思うまい。武術家に付けられる異名や比喩などではなく、
ビクトーは本物の巨人になろうとしていた。

「これが私の切り札=c…『フーリガン・ストナー』です――」

 死の宣告の如き語調でトラウムの名を告げたビクトーは、
次いで右腕を無造作に薙ぎ払い、これによって生じた突風をアルフレッドに浴びせた。
 突風と言うよりは、寧ろ衝撃波に近い。堪えることも叶わず吹き飛ばされたアルフレッドは、
倉庫の出入口を閉ざしている鉄の扉を突き破り、そのまま屋外(そと)まで転がされていく。
 彼の名を呼ぶジャーメインの声が轟いたのは、ビクトーの頭が天井を貫通した瞬間と殆ど同時であった。




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