8.Out of Bounds 依然として高潮の影響下にある造船所跡は、 現在(いま)、呼吸すら苦しく思えるくらい重々しい空気に包まれていた。 全ては大穴≠謔濶kれてくる苛烈な遣り取りの所為である。 煉瓦造りの古びた建物の中で死闘を演じるアルフレッドとビクトーは、 犠牲≠ニ断罪≠フ是非に決着をつけるべく激烈な言葉をぶつけ合っていた。 『死』の一字と結び付いているだけに両者の声は大きく、 屋外(そと)で戦う者たちの耳にも余さず届いていたのだ。 今日(こんにち)まで委細を知らされていなかったジャーメインも、 バブ・エルズポイントで起きてしまった事故について把握するに至った。 アルフレッドと義兄の交錯を通じて、犠牲≠フ意味を悟ったのである。 それは『在野の軍師』が「生きていてはならない生命」と見做された主因にも通じることであった。 何も知らされずにいたジャーメインは、大穴≠ゥら筒抜けとなった数々の言葉に動揺し、 これを鎮められないまま苦しみ悶えている。 アルフレッドはフィーナたちを身代わりにして生還した――と義兄は詰っていたのだが、 それこそスカッド・フリーダム側の一方的な決め付けだろうとジャーメインは信じている。 彼の人格や行動へ疑念を差し挟むほど、今日までに育んだ絆は脆くはないと言う自負もある。 ジャーメインは仲間たちの犠牲≠ノ狼狽し、感情そのものが絶えてしまう程に慟哭していた。 そして、この過酷な犠牲≠独りで背負い込もうとするアルフレッドのことが何よりも哀しかった。 苦楽を共にしてきた大切な人たちの犠牲≠ナあっても嘆いてはならないと己を律し、 嗚咽も悔恨も、一切の想いを胸の内へと仕舞い込んでいるに違いない。 連合軍の作戦を取り仕切る『在野の軍師』としての責任が不可視の蓋となり、 溢れ出しそうになる葛藤を押さえ付けているのだろうが、 そのような状態で更なる戦いへ臨もうものなら精神(こころ)が磨り減っていくに決まっている。 余人に曝け出すことを躊躇う痛み≠ヘ、傍らに侍るマリスが受け止めていると信じたかったのだが、 彼女も彼女で目に見えない影≠フような存在(もの)と戦っている最中のように思えた。 おそらくは心の内に巣食う影≠ニ向き合っているのだろう。 それはマリス自身にしか乗り越えられない試練に違いなかった。 成長の兆しは仲間としても喜ぶべきなのだが、自分ひとりのことで手一杯のような状態の彼女が、 果たして、アルフレッドの痛み≠ワで受け止められるのだろうか。 現在(いま)のアルフレッドには痛み≠癒し得る救いが必要なのである。 それ故にジャーメインの心は乱れてしまうのだ。誰にも受け止められず、何も救われないまま アルフレッドの自我が崩壊する様など絶対に見たくはない――と。 ジャーメインの懊悩を見て取ったグンダレンコは、攻め手の勢いが明らかに衰えている。 間合いを詰めることは詰めるものの、末妹を気遣う余り加撃を躊躇ってしまい、 確実に命中させられる状況であっても飛び退ってしまうのだ。 ザムシードに刻まれた痛手(ダメージ)の影響から身動きが鈍ってはいる。 それでも、蹴りを打ち込むのに支障はない筈であった。 「メイの台詞じゃないが、私情に呑まれて蹴りが鈍るようなら脇に引っ込んでいるんだな。 ……レン、ここは私に任せてくれても良いんだぞ」 「う〜ん、どうしましょうかぁ〜」と悩ましげに呻くグンダレンコを叱咤しつつ、 着実にジャーメインを追い詰めていくのは、遅れて戦列に加わった闖入者のひとり―― 七導虎のクラリッサ・バルバドスである。 彼女とて旧友≠フ変調には気付いているものの、七導虎としての使命を携えて戦いの場に立った以上、 最後の降伏勧告をも蹴飛ばした相手に容赦は出来ない。 消極的なグンダレンコとは正反対に巧みな足捌きで間合いを掌握し、 水飛沫を散らしながら鋭い打撃を叩き込んでいった。 反撃の右拳打を突き込まれたなら、これを左の五指にて掴み上げ、 次いで半歩ばかり踏み込むと、逆に己の右拳をジャーメインの鳩尾に叩き込んだ。 柔術系に於ける『当身(あてみ)』と言う技法であった。 当身でもって彼女の体勢を崩すと、両手でもってジャーメインの右腕を捕獲≠オ、 これを背面まで回して固めてしまった。右手で肘を、左手で手首をそれぞれ掴み、 巧みに折り畳んだのである。 傍目にはジャーメインの右腕を抱えたようにも見える。 この状態からクラリッサは勢い良く跳ねた。それも宙返りでもするかのような飛び方だった。 跳躍の頂点でいきなり横方向に身を捻ると、この回転へ巻き込むようにしてジャーメインを投げ落とす。 宙返りからの変化によって生じた反動をも利用する『エウロペ・ジュージツ』ならではの武技であった。 クラリッサがうつ伏せのような格好で落下すると、 組み付かれた側は背中から水浸しの石畳に叩き付けられるのだ。 一面を満たす海水によって落下時の威力も相当に緩衝されたが、 衝撃を吸収する物が何もないような場所へ投げ付けられていたなら、 今の武技(わざ)だけで意識を断ち切られたかも知れない。 七導虎の称号を冠するに相応しい投げであったのだ。 しかし、ジャーメインは意識を手放さなかった。 失神せずに堪え切れたからこそ、すぐさま反撃へ移ったのである。 両掌にてホウライを炸裂させ、這い蹲る程に低い体勢から跳ねたジャーメインは、 蛇の如く身をうねらせてクラリッサの股を潜り、一瞬にして背後を奪(と)った。 起き上がりながら後頭部目掛けて左肘を突き上げていくジャーメインであったが、 背後を奪われたクラリッサ当人は、振り向きもせずに身を放り出し、この奇襲を避け切った。 交差するような恰好で肘打ちをすり抜けたクラリッサは、 そのまま水中へと沈み、石畳に背を着けると、間欠泉の如き勢いで両足を突き上げた。 両の足裏でもって胸部を撥ね飛ばされたジャーメインは、苦悶の声を引き摺りながら仰け反った。 この流れの中で、クラリッサはジャーメインの足首を左右の五指にて掴んでいる。 改めて詳らかとするまでもなく両の足首を、だ。 蹴り上げと同時に掴んだ足を引っ張り、ジャーメインを後ろに倒すと、 自らも身を転がしていき、彼女の頭部を挟むような恰好で膝立ちとなった。 ここで右腕を大きく振り被ったクラリッサは、旧友≠フ腹部目掛けて渾身の拳を叩き落したのである。 狙われた箇所の真上にて両の拳を交差させ、危険な一撃を受け止めたジャーメインは、 左足を振り上げて反撃を試みた――が、流石は七導虎と言うべきか、 自身の技が防がれた直後には膝を突いた状態から大きく跳ね飛び、 『ムエ・カッチューア』にとって有利な間合いを離脱していた。 ジャーメインが操る『ムエ・カッチューア』は至近距離でこそ真価を発揮する格闘術である。 両腕で頭部を押さえるようにして組み付き、相手の身動きを封じた上で打撃を加える『首相撲』は、 有利な間合い≠象徴する技術とも言えるわけだ。 接近戦と言う状況そのものは『エウロペ・ジュージツ』にも共通するのだが、 クラリッサの場合は相手に飛び付きながら仕掛ける武技を数多く備えている。 そう言う意味ではジャーメインよりも有効射程が長いのである。 ならば――とジャーメインも石畳を蹴って跳ね、右の飛び膝蹴りでもってクラリッサを追いかけた。 アルフレッドに倣って足裏にてホウライを炸裂させ、突進の速度を飛躍的に跳ね上げている。 これに対してクラリッサは、突進してくるジャーメインに向かって敢えて飛び掛かっていった。 正面切って彼女を迎撃しようと言うのだ。 「そんなにあの男が大切なのか、メイッ!? 仲間の犠牲≠燗・み躙る男がッ!」 「――うるさいな! 黙ってよっ!」 今まさに己の身に突き刺さろうとしていた右膝を踏み付けにし、 中空にて更に跳ねたクラリッサは、この勢いを以てジャーメインの背後まで回り込むと、 無防備になっている首へ両腕を巻き付けた。 「やっ……んっ……ふぅ……っ!」 「……頭を冷やすんだなッ!」 抱え込むような形で首を締め付けたクラリッサは、互いの身を旋回させながら素早く投げを打ち、 ジャーメインを再び石畳の上に急降下させた。 自慢の飛び膝蹴りを撃墜(おと)されたジャーメインは、 即座に跳ね起きて仕切り直しを図ろうとしたが、 このときには既にクラリッサが眼前まで迫っており、蹴りを放って弾き飛ばすどころか、 後方へ逃れることしか出来なかった。 飛び退る間際に足が縺れそうになり、ジャーメインは顔を顰めて歯噛みした。 表情こそ険しいものの、クラリッサとの攻防に競り負けたことを焦っているわけではない。 己と七導虎の間に歴然とした実力差があることは最初から承知しているのだ。 現在(いま)のジャーメインには疲弊と言う如何ともし難い現実が圧し掛かっていた。 身体は鉛のように重く、呼吸も乱れ切っている。 これでは技の拍子を読んでくれと言っているようなものであろう。 身のこなしだけならばホウライによって瞬間的には補えるのだが、 その代償として体力を激しく消耗してしまう。今にも尽き果てようとしている体力を、だ。 『ホウライ外し』で効果を打ち消される可能性も低くはなかった。 無意味な消耗こそ最悪の筋運びであり、絶対に避けなくてはならない。 諸刃の剣≠ノ喩えるとしても、圧倒的にジャーメインの分が悪いと言うわけだ。 (……踏ん張れ、あたし……ッ! ここを突破した先が本番なんだからッ!) 軋む身体を強引に揺り動かすジャーメインだったが、跳ね飛んだ先にはグンダレンコが回り込んでいた。 クラリッサと連携を取り、ジャーメインに追撃を仕掛けるつもりなのだろう――が、 行く手こそ阻んだものの、グンダレンコ当人は蹴りを打ち込むべきか否か、未だに迷い続けている。 これ以上、末妹を追い詰めたくないと言うのが偽らざる本心なのだ。 しかし、姉の心など知る由もないジャーメインは挟み撃ちにされることを警戒し、 グンダレンコの顔面を掠めるようにして左手甲を振り抜いた。 「今のはアブないですよぉ、メイちゃ〜ん。メガネに当たったら大変よぉ〜」 「危ない目に遭わされてるのはあたしのほうなんだけどっ!?」 「ギルガメシュよりも危険な男に洗脳されているんだ。災いを呼び込むのは必然じゃないか――」 「なっ……!」 横薙ぎ一閃の裏拳でもってグンダレンコの接近を封じるジャーメインではあったが、 その間にクラリッサの姿を見失ってしまった。 グンダレンコのような迷いを持たず、七導虎の使命を携えてこの場に臨んでいるクラリッサが 腕組みしながら姉妹の戦いを眺めている筈もない。ジャーメインが裏拳を放ったと認めるや否や、 残像すら映さない程の速度で疾駆し、彼女の背後を取ったのである。 「――これ≠ェ終わったら辞書を贈るから、それで『自業自得』の意味を調べなさい」 ジャーメインと背中合わせで立ったクラリッサは、彼女の左腕を右手一本で掴み、次いで肩に担ぐと、 そのまま変則的な背負投(せおいなげ)を繰り出した。 ジャーメインが引き戻すよりも早く裏拳に用いた左腕を捉えたと言うことである。 そして、そこから投げに転じるまでの身のこなしも異常な程に鋭い。 己の身に何が起こったのか、ジャーメインにも理解出来なかった――と言うことではなかったが、 しかし、踏ん張りを利かせられないまま両足が地を離れたのは事実である。 投げられた直後に中空で身を捻り、辛うじて着地に成功したが、僅かでも反応が遅れていれば、 これまでの投げとは比較にならない程の痛手(ダメージ)を被っていた筈なのだ。 只今の背負投は右手一本にて打たれている。対の手は完全に自由であり、 投げを仕損じた直後にはジャーメイン目掛けて直線的な拳打を放っていた。 左腕を担いだ瞬間に拳を握ったことからも察せられる通り、 本来は投げ落としたところへ追撃として振り落とす構えだったのだろう。 尤も、変化した後(のち)の拳打も効果の程は大きい。 反撃に移ろうとしていたジャーメインの眉間を一直線に打ち、その場に釘付けにしてしまった。 このとき、クラリッサの視線は旧友≠フ後ろに立つグンダレンコへと向けられていた。 今度こそ義の戦士の務めを果たすよう目配せしているわけだ。 「何の為にビッグハウスくんだりまでやって来たのか」と問い詰めているようでもあった。 スカッド・フリーダムの責任まで質されては相応の態度を示さないわけにはいかず、 『義』の心に追い立てられるようにして、グンダレンコは右の前回し蹴りの体勢に入った。 蹴り足には蒼白い稲光まで纏っており、これを以て義の戦士としての覚悟を表すつもりでいるらしい。 程なく背後から末妹へと忍び寄り、左脇腹に不意打ちを見舞おうとした――が、 結局は腰を捻り込む直前で足を引き戻してしまい、前回し蹴りは不発に終わった。 それだけならまだしも、グンダレンコが帯びていたホウライの稲光は蹴り足から離れて海面を這い、 ジャーメインの真横をすり抜けた挙げ句、危うくクラリッサに命中するところであった。 無論、故意にクラリッサを狙ったわけではない。半端な技によって生じた過失であり、 グンダレンコは真っ青な顔になって「ご、ごめんなさぁい!」と平謝りした。 「……そう言う手で来るか。幾ら妹をサポートしたいからと言って、やり方くらい考えて欲しいな。 今みたいな騙まし討ちは地味に傷付くぞ」 「そ、そうじゃないってば〜。狙いが外れちゃっただけなのよぉ〜」 「どうだかな。お前ほどの人間が的を外すとは思えないぞ。 人だろうと何だろうと確実に撃墜(おと)す――だろう?」 「私なんて、そんな……クラちゃんだって、きっと大丈夫よ?」 「何が大丈夫なものか。……今だって仕留め損ねている。それほど手を抜いているわけではないのだがな」 「……自虐的にならないで。諦めずにお見合いパーティーへ通い続けたら、いつかは――ね?」 「――ちょ、ちょっと待て! 今の流れから、どうしてその話になる!? 自虐にも何も私は……!」 「あらぁ? 『人をオトす』って言うから、てっきり、こないだのトラウマがぶり返したのかと……」 「違う! 何もかも違う! ……大体、この間のアレはトラウマでも何でもないと言っただろう!? 昨日だって、ちゃんとメールを貰ったんだ。今度、新発見された水晶の原石を見せてくれる約束を――」 「それ、詐欺じゃない!? ねぇ、詐欺じゃないの!? クラリッさん、ホント、大丈夫!?」 「メ、メイも余計な話に首を突っ込むんじゃない! 向こうはプロの宝石商なんだぞ!? その彼が飛び切りの宝物だって言うんだから、私は……ッ!」 「これ、また弁護士先生に泣きつくパターンだよッ!」 「メイちゃんもそう思うでしょう〜? クラちゃんったら相談料だけで赤字なのよぉ〜」 「――そうか、解せた! 先程の騙まし討ちを誤魔化すつもりなんだな!? 私を無駄に混乱させてな!」 「だから、それは誤解だって言ったのにぃ〜」 グンダレンコから放たれた蒼白い流れ弾≠ノ 呆れ顔のクラリッサ――ジャーメインも彼女の発言に呆れ返っているが――ではあるものの、 次の瞬間には旧友≠ノ対する親しみを滲ませ、「……メイ、これ≠ェお前の帰る場所だよ」と呟いた。 「今の道を進み続ければ、本当に後戻りが出来なくなるんだぞ。 里心がついて帰りたくなっても、もう二度とは帰れない――それで良いのか? ……もう一度、冷静に考えてみることだ」 今まで以上に表情を引き締めたクラリッサは、 まるで世の中≠知らない子どもに諭すような調子で言葉を紡いでいく。 正面に見据えたジャーメインへ静かに語りかけていく。 「耳の痛い話だろうが、敢えて繰り返すぞ。……入れ揚げるにしても相手を選べ。 アルフレッド・S・ライアンは人を人とも思わない外道。仲間さえも平気で殺める人間なんだぞ」 「クラリッさん、それは……ッ!」 「彼が仲間を身代わりにしたか、ただ単に見殺しにしただけなのか、それは誰にも分からない。 だが、犠牲≠踏み台に――いや、踏み躙って生き残ったのは事実だ。 そこから目を逸らすんじゃない」 『エウロペ・ジュージツ』の武技よりも静かに語られる言葉のほうがジャーメインを苦しませていた。 クラリッサとは旧知の間柄だが、しかし、バロッサの家族ではない。 それ故に発せられる言葉には強い客観性が伴っている。 主観を挟まない冷静な視点からの意見としてジャーメインも受け止めてしまうのだった。 現にクラリッサの言葉は冷酷な程に本質を突いている。 『在野の軍師』は自分が生き残る為に仲間を犠牲≠ノしたのだ――と、 先程と同じ内容を繰り返しているように見えて、実は別のところに本旨を置いているのだ。 クラリッサは「これ≠ェお前の帰る場所だよ」と呟いていた。 これ≠ヘ子どもの口喧嘩めいた遣り取りを指しており、同時に心の奥に根差した郷愁にも通じている。 故郷――タイガーバズーカにて暮らしていた頃は、ふたりの姉を交えてクラリッサと親しく交わっていたのだ。 だからこそ、敵と味方に別れて相対した現在(いま)も、悪ふざけのようなやり取りを楽しめたのである。 これもまた故郷と言う存在の延長である。 そして、人間にとって故郷とは、例えどんなに忌まわしいものであろうとも、 決して捨て去ることが出来ないのだ。 故郷との繋がりを全く断ち切ると言うことは、己の全存在を否定する行為にも等しかった。 このまま『在野の軍師』に随いていけば、その通りの事態に陥ってしまうのだとクラリッサは諭していた。 スカッド・フリーダムを裏切るばかりではなく、故郷との繋がりまで永遠に失うだろう――と。 ジャーメイン自身、今し方の他愛のない遣り取りや、ふたりの姉との再会に郷愁を覚えてはいる。 里心と呼ぶ程に深刻ではないものの、このまま故郷の空気に浸っていたいと思わなくもないのだ。 「今が決断のときだ、メイ。アルフレッド・S・ライアンか、それとも、タイガーバズーカか。 どちらか片方を選びなさい。……いや、どちらを捨てなくてはならない――」 心に染み出した郷愁がクラリッサの言葉に反応し、ジャーメインを激しく動揺させていた。 もう一方の屋外戦(たたかい)も複雑な情勢となりつつある。 件の大穴≠謔阨vの悲鳴が聴こえてきてからと言うもの、 イリュウシナは眼前の敵に――ザムシードに全く集中出来なくなってしまったのだ。 気も漫(そぞ)ろとしか例えようがなく、義の戦士には有るまじき情況であったが、 それも無理からぬ話であろう。造船所跡全体へ響かんばかりの大音声であり、 尚且つ、尋常ではない苦しみ方だったのである。 人間の言語(ことば)として全く成り立っていない呻き声が、 刻み込まれた痛手(ダメージ)の深さを表しているようであった。 心技体を鍛え抜いたビクトーは、滅多なことでは痛みを表に出さない。 内臓を損傷して血を吐こうが、骨を叩き折られようが、柔和な微笑を湛えながら立ち続けるのだ。 その夫が聞いたこともないような悲鳴を上げたのである。 致命傷か、それに匹敵する痛手(ダメージ)を被った可能性が高く、 イリュウシナの狼狽は人間として自然な反応と言えよう。 思い詰める余り、眼の前の戦いを放棄して夫の救援に駆け出してしまうイリュウシナであったが、 その行く手をザムシードは悉(ことごと)く遮り、得意の拳打でもって押し返し続けている。 双子の妹――グンダレンコだけは取り逃がしてしまったものの、 現在(いま)も壁≠フ役割を果たしているわけだ。 それが証拠にイリュウシナは壁≠乗り越えられないまま立ち往生を余儀なくされている。 脇見をしながら退けられるほど馬軍の将は生易しい相手ではなく、 摩訶不思議な軌道を描く拳打によって幾度も顔面を脅かされていた。 しかも、だ。拳打にばかり気を取られていると、 その間隙を縫うようにして投げ技に持ち込まれてしまうのである。 変則的な拳闘と馬軍の伝統武術が誇る豪快な投げ――二種の技を組み合わせた攻め手によって、 イリュウシナは着実に痛手(ダメージ)を重ねられていた。 ビクトーを助けなくてはならないと言うときに自分のほうが傷を増やして動けなくなったなら、 それこそ愚の骨頂であろう。 イリュウシナ当人とて実妹を相手に戦っていたときのような遠慮はない。 容赦する理由もない為、関節を圧し折るべく四肢の捕獲≠本気で試みるのだが、 意識の集中を伴わない技など容易く外されてしまい、逆に反撃の拳打を浴びるのみであった。 「察するにお前さんが長女らしいが、それにしては不甲斐ないんじゃないか? 妹さんたちのほうがずっと骨があったぞ。ぶっちゃけた話、こっちはラクでラクで仕方ないくらいだ」 「クッ――とんだ侮辱を……!」 「ああ、そうとも。誰も何も楽しくない当て擦りってヤツさ。 しかしだね、当て擦り≠ニ言うモンは必ず事実が基になっているのだよ。 ……さァて、どう言う意味だろうねェ?」 「誰も何も楽しくないなら、回りくどい真似なんかしないで言葉通りとキッパリ言いなさいなっ!」 「それでは皮肉にならんだろう? 相手の嫌がる顔を拝まないことには意味があるまいよ」 「馬賊≠轤オい下劣な性格ね……!」 「お前さんの場合は、腕自慢の割に言い訳ばかりが先に出てくるのだな。 いや、待て、そうか――スカッド・フリーダムはアウトローも説得しなくちゃならん。 口舌の鍛錬が最優先でも何ら不思議ではないか」 「このッ――ああ言えば、こう言う……!」 手厳しい痛罵を浴びせられようともイリュウシナには言い返すことが出来ない。 今し方もザムシードの所作(うごき)を見極められず、喉元を一撃されたばかりだったのだ。 スカッド・フリーダムが用いるだんだら模様の腰巻は、爪先近くにまで達するほど裾が長い。 これを掴むと見せかけておいて、突如として前方への跳躍に変化し、 腕を直角に曲げたまま右拳を突き上げ――ザムシードが頭上を大きく飛び越える間際、 イリュウシナは強撃でもって喉を抉られていた。 その直後には背後から腰の帯を掴まれ、次いで高々と持ち上げられ、真っ逆様に投げ落とされている。 物心つく前から体術の修練を積むタイガーバズーカの人間にとっては、屈辱としか言いようがあるまい。 「――大好きな妹と戦わのおて済むゆう思うたら気が抜けたんじゃないかな。 気持ちは分からんでもないけど、大事な任務なんじゃけえ、しっかりして貰わんと困るよ」 「ロ、ロクサーヌっ! あんたまで私をコケにしようって言うの!?」 「別にコケにゃあしとらんよ。見てて微笑ましいもん。バロッサ家はみんな仲良しじゃけえね」 罵声の応酬に割り込んできたのは、イリュウシナが名を呼んだ通り、ロクサーヌ・ホフブロイである。 己を蟷螂に見立て、身体を小刻みに揺すりながら両手を鎌の如く振り下ろす彼女も、 ザムシード相手に不覚を取ったばかりであった。 拳打と共にイリュウシナを飛び越え、続けて投げ落とした直後を狙い、 ロクサーヌは馬軍の将へ奇襲を仕掛けていた。自身の射程圏内に彼を捉えた直後の攻撃である。 己の身をムササビに見立てたロクサーヌは、飛膜の如く両腕を広げながら跳ね上がり、 ザムシードに体当たりを試みたのである。 しかも、ただ肉弾(からだ)をぶつけるだけではない。ザムシードの頭より更に高く跳ね、 背面から覆い被さるようにして飛び付いていったのである。 ザムシードの身を素早く取り押さえ、その間にイリュウシナから追撃を仕掛けさせようと言うわけだ。 飛び掛かる間際には、彼女に「コンビネーション、よろしゅう!」と目配せまでしている。 この段階では不覚を取ったのはザムシードの側であったが、 流石は集団戦にも慣れた猛将と言うべきか、ロクサーヌの奇襲にも即応し、 正面切って体当たりを受け止めるや否や、腰の帯を掴んで彼女の身を振り回し始めた。 駒の如き回転によって遠心力を得たザムシードは、その勢いを以てロクサーヌから自由を奪うと、 腰を捻りつつ身を放り出し、彼女を背中から急降下させた。 ロクサーヌからすれば、当初の思惑とは正反対の結果に終わったわけだ。 押さえ込まれたのは自分のほうであり、更には追撃の拳まで鳩尾に振り落とされている。 すぐさまイリュウシナが助けに入ったので直撃を被ったのは一度きりであった――が、 もしも、これが一対一の勝負であったなら、豪腕でもって組み敷かれた挙げ句、 息絶えるまで拳打を浴びせられたに違いない。 長時間に亘ってグンダレンコと打撃戦を繰り広げ、 数え切れないほど蹴りを受けて両足にも痛手(ダメージ)が蓄積されている筈なのだが、 ザムシードの身のこなしは極端には鈍っていなかった。 多数の敵と同時に戦うほうが得意だと豪語していたザムシードだが、 このような状況のほうが本当に実力(ちから)を発揮し易いのかも知れない。 「どいつもこいつも――どうしようもなく皮肉が上手いわねぇッ!」 文句を引き摺りながらもロクサーヌに目配せし、彼女と同時にザムシードへと突進したイリュウシナは、 右側頭部に狙いを定めて左掌底を突き込んでいく。 このとき、反対側からはロクサーヌも攻め寄せている。 己を虎にでも見立てているのか、身を低く沈ませつつ踏み込んでいき、両拳の乱打を加えようと身構えている。 頭部を狙うイリュウシナに対して、こちらは胴を脅かすつもりなのだ。 異種の拳打を組み合わせた挟撃でもって、今度こそザムシードを捉えるつもりなのだ。 こうした連携(コンビネーション)こそが、多数でひとりを攻める際の利と言うものである。 「慣れない連携なんてものは自殺行為にも等しいのだがねェ――」 生半可な戦士であったなら、どちらから先に対処すべきか惑っている間に討ち取られたことだろう。 しかし、ザムシードは不敵な笑みさえ浮かべながら双方を同時に迎え撃った。 左側面から攻め寄せてきたロクサーヌの眉間に直線的な右拳打を突き込み、 一発のみで彼女の挙動(うごき)を押し止めたザムシードは、 その場で素早く宙返りを披露すると、少しばかり遅れて飛び込んできたイリュウシナの掌打を避け切った。 時間差を置いて畳み掛けると言うような作戦を取っていたわけではない。 イリュウシナの攻撃が遅れたのは、ただ単純に彼女の肉体が思うように動かなかったからである。 攻撃に移行したのはふたり同時であったが、イリュウシナの側は見るからに満身創痍。 疲弊の色など微塵も感じられないロクサーヌの動きに随いていけなくなるのは自明であろう。 ここ≠ワでの筋運びを一瞬で見極めたザムシードは、先ずロクサーヌを迎え撃ち、 その上で敢えてイリュウシナに隙を見せたのだった。相手から攻撃させて返り討ちにする計画である。 案の定と言うべきか、イリュウシナはロクサーヌとの連携に遅れ、あまつさえ掌打まで躱されてしまった。 夫の窮地に気を取られて技が乱れ切っている現在(いま)の状態では、 義の戦士に有るまじき醜態も当然の結果と言えよう。 相手の心に焦りを植え付け、これを増幅させるのも壁≠フ役割である。 イリュウシナの技が著しく鈍ったことを見て取ったザムシードは、 中空にて腰を翻し、彼女の脳天目掛けて左拳を振り落とした。 腕全体を鞭の如く撓らせる猛烈な一撃である。 しかも、脳天には先にジャーメインの膝蹴りを受けており、その痛手(ダメージ)とて激甚だったのだ。 負傷箇所(ここ)に強撃を重ねられようものなら、如何に義の戦士と雖も一溜まりもあるまい。 敵兵を素手で屠るような男の鉄拳を、よりにもよって最悪の箇所に喰らわされたイリュウシナは、 脳天を貫く衝撃に耐え切れずによろめき、苦悶の声と共に片膝を突いてしまった。 「老婆心ながら言っておくと、急拵えのコンビほど戦い易いものはないんだよ。 合戦場では味方の足並みが揃わないことは死を意味する―― せめて、呼吸(いき)の合った姉妹同士でやるべきだったかな」 「……くっ……ぐうぅ……ッ!」 「――たまたま一回、ええがいに行かなかったばっかしで全否定されとぉないけぇっ!」 苦しみ悶えるイリュウシナを庇うようにして、ロクサーヌは両者の間に滑り込んだ。 己の身を鷲にでも見立てているのか、翼を広げた状態を模るようにして両腕を構えている。 左右の膝を折り曲げる恰好で身を沈ませ、更に踵をも浮かせた姿勢は、 獲物を狙って飛び立つ寸前の猛禽(とり)を彷彿とさせた。 大鷲が翼を羽撃(はばた)かせる動作(うごき)まで模倣しており、 構えだけならば猛々しい――が、ザムシードはこれを一笑に付し、 大振りの拳打を突き込んでロクサーヌを撥ね飛ばしてしまった。 当然ながら彼女の背後に在ったイリュウシナも巻き込まれ、 ふたりまとめて海面を滑ることになったのである。 「……随分、調子が悪そうじゃない。何か厄介事でも抱えているのかしら……?」 互いの身を支え合いながら歯を食い縛って立ち上がったイリュウシナは、 心中に湧いた疑問――と言うよりも、懸念と言うべきかも知れない――をロクサーヌの耳元へ囁いた。 戦列に加わったばかりなので体力も気力も充分である筈なのだが、 何故だかロクサーヌの身のこなしが重いように感じられたのだ。 同じ条件で駆け付け、苛烈な程にジャーメインを攻め立てるクラリッサとは正反対である。 獣の生態を取り入れた独創的な武術――『象形拳(しょうけいけん)』を体得したロクサーヌは、 七導虎の座にこそ就いてはいないものの、隊内でも指折りの使い手なのだ。 その気になれば、地を這う野獣や空を翔ける猛禽の如き複雑怪奇な所作(うごき)を以てして、 相手の技を悉く封殺してしまうのである。 ところが、現在(いま)の彼女にはそれ≠ェない。技巧(わざ)も冴えているとは言い難い。 最後まで攻め切れていないように見える――と言うよりも、攻め切らない≠ニ表すほうが正しかろう。 ザムシードへ果敢に向かっていくように見えて、拳や脚を打ち込むと言う肝心な局面に於いて、 あと一歩≠踏み込まないのだ。 討つべき相手を正面に見据えながらあと一歩≠踏み止まってしまうのは、 末妹を気遣って蹴りを打てないグンダレンコにも近い状態と言えよう。 何が何でも攻め切ろうと言う意志が欠けているからこそ、 痛手(ダメージ)の蓄積によって不利な筈のザムシードにも打ち負かされてしまうのだ。 「んん〜……? ……や、別に厄介事ってわけじゃないんじゃが……ね」 「厄介事を抱えているのか」と言う問いかけに対するロクサーヌの返答は、やけに歯切れが悪かった。 些か遠回しではあるものの、イリュウシナは今回の任務――『義』の心から掛け離れた抹殺指令について、 賛成か否かを質しているのだ。 そして、この歯切れの悪い返答(こたえ)を聞いた瞬間にロクサーヌの本心を察したのである。 イリュウシナとて『在野の軍師』を抹殺することが真っ当な任務とは思っていない。 夫の覚悟やバロッサ家の立場など様々な事情に縛られ、 已むなくこの場に立っている――それだけに過ぎないのだ。 だからこそ、同じ迷いを抱えている人間には敏感になってしまうのだ。 真価を発揮し得ない現在(いま)の象形拳は、 乱れ切った『義』の有り様を顕しているように思えてならなかった。 「……ライアンの身辺調査はロクサーヌの仕事じゃない。今になって何を迷う理由があるのよ。 あの男は始末するしかない――そう見極めたんでしょう?」 「いやいや、別に何も言うてんじゃろ?」 「自分は何も言っていない」と返すロクサーヌに対して、イリュウシナは口を真一文字に結んで見せた。 一瞬の沈黙を以てして、「はぐらかさなくてもいい」と告げていた。 「……任務≠カゃけぇ。ウチ個人の考えやぁ置いとくしかありゃあせんよ」 「考え……ね」 「それでも任務じゃけぇ、やるしかありゃあせん」と気丈に振る舞うロクサーヌであったが、 その言葉は「不承知」と言う本音を暗に肯定したようなものである。 イリュウシナが抹殺指令に賛同していないことはロクサーヌとて察している。 同じ迷いを抱えた者同士と言う共振≠ゥら気が緩み、つい本音を洩らしてしまったのだろう。 即ち、イリュウシナとロクサーヌは心の乱れ切った二人組と言うことになる。 そのような者たちの技がザムシードと言う分厚い壁≠ノ通じる筈もなかった。 「手が止まっているぞ、お嬢さんがた――」と冗談めかして言うや否や、 ザムシードはふたりのもとまで一足飛びで接近し、次いで左右の拳を同時に突き出した。 イリュウシナとロクサーヌをまとめて攻撃しようと言うのである。 「ここはウチに任せて先に進んで――たぁ言えんけぇ」 「分かってるわよ。ひとりでどうにか出来る相手じゃないわ……!」 左右同時の拳をそれぞれ防ぎ切ったイリュウシナとロクサーヌは、 「急拵え」と扱き下ろされたばかりの連携を再び試みる。 ザムシードの正面に向かったイリュウシナは、左右の掌底を絶え間なく繰り出し続け、 その間にロクサーヌは彼女の背後へと回り込んだ。 乱れ飛ぶ掌打はロクサーヌの強撃に繋げる為の仕掛け≠ナあるとザムシードは一目で見抜いている。 それ故に左右の下腕でもって掌打を弾きつつ、両者の動作(うごき)に目を凝らしているわけだ。 仕掛け≠ゥらの変化は、掌打が横薙ぎの手刀へ転じた瞬間に起きた。 後方にて跳ねたロクサーヌがイリュウシナの肩を踏み台にして加速し、 ザムシードに向かって勢いよく飛び掛かったのである。 その動作(うごき)は野猿を彷彿とさせた。ホウライを纏った両手をザムシード目掛けて振り下ろし、 次いで何度も何度も引っ掻いていく。両手の爪――否、蒼白い稲光でもって顔面を斬り裂こうと言う訳だ。 対するザムシードは最初の数回を拳で弾いた後(のち)に飛び退り、 追い掛けて来たロクサーヌを頭突きで迎え撃った。 正規の拳闘であれば、頭突きは完全な反則行為であり、即座に失格と言い渡される可能性も高い――が、 ザムシードが極めたのは、あくまでも合戦場で勝ち抜く為の武技(わざ)である。 試合を没収され兼ねない危険な手段は、寧ろ有効なのだ。 眉間を強打されてよろめいたロクサーヌの足を蹴飛ばし、転ばせた直後、 ザムシードは左方へと裏拳を振り抜いた。 風を切って閃いた左手甲は、側面へ回り込もうとしていたイリュウシナの顔面を捉え、 その動きをも押し止めた。この流れの中で彼女の右腕を掴み上げ、力任せに振り回していく。 不意を突くどころか、逆に体勢を崩されてしまったのだ。 イリュウシナが左側面からの奇襲を試みている間に、ロクサーヌも次なる攻め手へと移っていた。 水中に身を沈めたまま頭上にて両手を組むと、両の爪先でもって石畳を蹴り、 ザムシードの足元目掛けて突進していったのだ。 足のバネを限界まで発揮し、水中に在っても矢の如き速度で直進する姿は、 まさしく獰猛な鮫そのもの。牙の代わりに両拳を突き立てることだろう。 象形拳の体系に於いても、とりわけ変わった種類(もの)であろうが、 攻め抜く意志の宿らない技である為か、やはりザムシードには通用しなかった。 直撃の寸前で両拳を踏み付けたザムシードは、対の右足をロクサーヌの左脇腹へと滑り込ませると、 爪先でもって彼女の身を撥ね上げた。 そうして浮き上がったロクサーヌに向かって、 ザムシードは左手一本で捕獲≠オ続けていたイリュウシナを投げ付けた。 半ば折り重なるようにして身を傾がせたふたりを、 「呼吸(いき)を合わせようとして、そのザマか」と言う嘲笑も追いかける。 否、追いかけたのは嘲笑ばかりではない。このまま止(とど)めを刺そうとでも言うのか、 ザムシードの側から攻め寄せたのである。 「この――時間ないって言ってるじゃないッ!」 「それを聞き入れるとも言っておらんのだがね」 正面切ってザムシードを迎え撃ったイリュウシナは、深く踏み込みながら己の左膝と彼の右膝を重ね合わせ、 更に拳闘の要たる両腕を左右の掌打にて押さえ付けた。 彼女の両足が蒼白い稲光を纏ったのは、その直後のことである。 すると、イリュウシナの身体は地に根を張ったかのように全く動かなくなってしまった。 ザムシードが幾ら力を加えてもビクともしないのだ。 このとき、イリュウシナは両の足裏から石畳にに向かってホウライのエネルギーを放出し、 一種の杭を打ち込んでいたのである。力任せに押しても微動だにしないのは当然だった。 そもそも、ザムシードを釘付けにすることがイリュウシナの狙いである。 この時点で目論みの半分は達せられたと言えよう。 不意にザムシードから頭突きを喰らわされ、一瞬だけ意識に空白が生じてしまったものの、 血が滲む程に歯を食い縛り、完全に崩れ落ちることは堪えた。 瞬きよりも短い時間であったが、この間にザムシードは左腕の拘束から脱し、 彼女が腰に締めた帯を掴んでいる。五指にて銜え込んだと言っても良い。 イリュウシナも即座に反応し、空いた掌をも右肩に当て、尚もザムシードを押さえ込もうと図る。 双方向より直進する力は均衡状態となり、いよいよ両者は動けなくなってしまった。 「……今のでメガネが飛ばなくて良かったわ。ビクトーを助けるときに困るものね……」 ロクサーヌがザムシードの背後に回り込んだのは、イリュウシナが減らず口を叩いた瞬間のことである。 両の拳に蒼白い稲光を纏っており、狙い定めた一撃でもって馬軍の将を討ち取るつもりなのだ。 後ろ足でもって立ち上がった虎を彷彿とさせる構えのまま、ザムシードへ飛び掛かろうとしていた。 身動きを封じられ、尚且つ背後を取られると言う絶体絶命の状況でありながら、 ザムシードは全くと言って良いほど動じていなかった。 何処から死が飛び込んでくるか分からないような合戦場で生きてきた馬軍の将にとっては、 このような状況など大して珍しくもないのか――イリュウシナのほうが面食らってしまうほど平然としている。 「弱い者をいたぶるだけなら、ホウライとやらで事足りる――と言うワケだな」 「なッ!?」 「……相手の得意≠煬ゥ極めずに力ずくで攻め寄せるような程度の低さには呆れて物が言えんよ――」 冷たい侮辱を吐き捨てたザムシードは、左の五指にて掴み続けている帯を横方向へと引っ張り、 この動作によってイリュウシナより掛けられている力の進行を僅かに崩した。 ほんの小さな変化であり、姿勢を崩せたわけでもないのだが、 均衡状態を保っていた力の進行が乱されたことで互いに身動ぎくらいは出来るようになった。 数ミリにも満たないような隙間であろう――が、ザムシードにはこれで十分なのである。 一瞬の身動(じろ)ぎで右腕の自由を取り戻すと、即座に身を沈め、五指でもって腰巻の裾を掴んだ。 最早、手遅れであった。腰巻の裾と帯を掴まれた以上、イリュウシナには抗う術がない。 鋭い気合いの吼え声が鼓膜を打った直後には、彼女の身は天高く放り投げられていた。 地に根を張っていようとも、力ずくで引っこ抜かれては無意味と言うものである。 しかも、だ。放り上げられた高度(たかさ)も尋常ではない。 瞬きを終えるよりも早く地上二〇メートル程度には達し、そのまま放物線を描いて落下していった。 そのまま落下すれば、水面を割って石畳に叩き付けられ、即死にも近い痛手(ダメージ)を被るだろうが、 高度(たかさ)が頂点へ至る頃には、イリュウシナも最悪の事態を脱するべく回避行動を取り始めている。 身を翻して姿勢を整え、両足のバネでもって落下時の負荷を吸収し、 鮮やかに着地して見せた――その先は、水没の影響によって通路との境目が判別し辛くなっているものの、 ふたつの区画の間に架けられた石造りの橋の中央付近である。 目当ての建物が所在する区画へ最短距離で辿り着くには、どうしても此処を通過するしかなかった。 橋向こうでは、ふたりの妹とクラリッサが言葉もなく睨み合いを続けている。 あと一歩の距離だった。もう少しでビクトーのもとまで駆けつけることが出来た。 為す術もなく投げられたのは義の戦士に有るまじき失態であるが、 大穴≠ノ程近い場所へ落とされたことだけは怪我の功名≠ニ言えよう。 全力で駆ければ、大穴≠ヨ飛び込めるような位置なのである。 さりながら、何の考えもなくザムシードが敵にとって有利な場所へと投げを打つ筈もあるまい。 足元に自分以外の人影を見つけ、何事かと上空を仰ぐイリュウシナであったが、 そのときには既にロクサーヌの身が眼前まで迫っていた。 改めて詳らかとするまでもなく、彼女もまた馬軍伝統の武技(わざ)によって放り投げられたのである。 先程と似たような状況であった。その折にはロクサーヌではなくグンダレンコを投げ付けられており、 ふたり揃って折り重なるように尻餅を突いてしまったのだ。 このとき、グンダレンコからは「避けられないなら、せめて受け止め欲しい」と不満を言われていた。 またしても同じ状況に立たされ、瞬間的に妹の言葉を想い出したイリュウシナは、 先程の失敗を繰り返すまいと、今度は抱きかかえるようにしてロクサーヌを受け止めた。 巧く受け止めて貰ったことで石畳へ衝突せずに済んだロクサーヌであるが、 どう言うわけか、精神的に深い痛手(ダメージ)を被ったらしく、 両手で顔を覆って「アカン……乙女心が悲鳴を上げとる……」と嘆いて見せた。 「うう〜、お姫様だっこは結婚式まで取って置きたかったんじゃよ。それなんにあんまりじゃ……」 「このまま落とすわよ!? 大体、あんた、そんな相手だっていないでしょーがっ!」 「ウチのこと、クラリッサさんみたいにゆわんで欲しいんじゃが……」 「私だって好きで独りでいるんじゃないッ!」と言う金切り声が 聞こえてきそうなロクサーヌの愚痴はともかく―― 何時までも冗談めいた遣り取りをしていられるほど、ふたりにも余裕があるわけではなかった。 イリュウシナがロクサーヌを受け止めた直後にはザムシードも橋の袂まで辿り着き、 中央に在るふたりを見据えながら両腕を組んでいる。 この仕草ひとつでイリュウシナはザムシードの企図を読み抜いた。一目瞭然と言うべきかも知れない。 目的の場所へ到達するには絶対に通過しなくてはならない一本道にふたりを追い込み、 その上で行く手を塞いだのである。まさしく壁≠フ如く――だ。 これ以上にイリュウシナの焦燥を煽り立てる状況もあるまい。 迂回していては到着が更に遅れる。だからと言って、一足飛びで水路を渡ることも不可能であろう。 それをザムシードが許すとは思えなかった。 この馬軍の将を倒してしまうことがロクサーヌの目的である。 処刑≠フ妨げになる存在を排除することこそ、補佐を任された者の務めなのだ。 対して、イリュウシナの心は夫を助けることだけに向かってしまっている。 処刑≠ニ言う任務などは関係なく、愛するビクトーのもとに辿り着くことしか考えていない。 即ち、ザムシードはイリュウシナひとりを足止め出来れば良いわけだ。 極端な例えではあるが、ロクサーヌの場合は馬軍の将さえ退けられたなら 何処が戦場になろうと構わないのである。 「……してやられたわ……いいえ、形ナシって言うべきかしら……ッ!」 ロクサーヌを橋の上に降ろしながら、イリュウシナは悔しげに歯噛みした。 ここまでの攻防を振り返る限り、イリュウシナの力では――否、ロクサーヌと連携を組んだとしても、 ザムシードに競り勝つことは難しそうだ。しかも、ただでさえ劣勢だと言うのに、 今度は一本道と言う状況にまで追い込まれてしまった。 格闘戦に於いても、戦局の計算に於いても、テムグ・テングリ群狼領に上≠行かれてしまったのだ。 一対一の勝負に長けた義の戦士と、合戦場を渡り歩く馬軍の将―― その差と言うものを厳然と突き付けられた次第である。 ザムシードが壁≠ニして立ちはだかる限り、橋の上の戦いが膠着状態に陥るのは必至であろう。 それはイリュウシナにとって最悪の展開であった。 そのイリュウシナが目指す建物からアルフレッドが飛び出してきたのは、 屋外(そと)の戦いに停滞の気配が垂れ込め始めたときである。 ビクトーを追い詰めたものと思われていた『在野の軍師』が鉄の扉を突き破り、 激しく飛沫を上げながら石畳を転がっていき、やがてうつ伏せのまま水中に沈んでしまったのだ。 絶息しているのか否か、傍目には判らない。 最悪の事態と捉えたジャーメインなどは、狂わんばかりの声色で彼の名を呼び続けた――が、 その絶叫も次の瞬間に起こった轟音によって噛み砕かれてしまう。 アルフレッドとビクトーが激闘していた建物の屋根が突如として抜け落ち、 瞬く間に倒壊してしまったのである。 件の建物が崩落した後(のち)には粉塵が舞い上がり、辺り一面が土煙に包まれた。 「お、おい……何だ、今のは!? 何の冗談だ!? 私の目がおかしくなってしまったのか……!?」 息も出来ないような砂埃の只中にて、ザムシードは誰に聞かせるでもなく当惑の呟きを洩らした。 混乱し切った調子からして、「誰に聞かせるでもなく」と言うよりは「誰に問うでもなく」と 表すほうが正確であるのかも知れない。 屋根が抜け落ちる寸前、ザムシードは建物を倒壊させた主因を見極めていた。 それが為に我が目を疑ったのである。 俄かには信じ難いことであるが、人間の頭が屋根を突き破っていた。紛れもなくヒトの頭頂部が、だ。 果たして、数秒後にはザムシードは己の見間違いではなかったことを悟る。 俄かに起こった突風によって土煙が吹き飛ばされ、その先にビクトーが立っていた。 瓦礫を踏み付けにして屹立する彼の身の丈は、 魁偉と言う呼び名の領域さえ突き抜けて、一〇メートルを遥かに超えている。 その威容(すがた)は『巨人』と喩えるしかあるまい。 先程の突風(かぜ)も自然現象などではなく、おそらくはビクトーが起こしたのだろう。 山の如く聳え立つ現在(いま)の彼には造作もないことであった。 「スカッド・フリーダムの隊員は誰も彼も人間離れしているとは言うがね、 ……何もここまでブッ壊れる必要はないと思うぞ」 天を衝かんばかりの巨体を仰いだ後(のち)、地上に落ちる大きな人影へと目を転じたザムシードは、 大仰に肩を竦めて見せた。今、この瞬間に於いては他に示すべき反応など思い付かなかった。 人類の天敵たるクリッターの中にも巨大な亜人(デミヒューマン)が存在している。 ギガント型と呼称される種族は、総じて一〇メートルを優に超える巨躯であり、 腕利きの冒険者の間でも「遭遇したが最期、生命を諦めるしかない」と恐れられていた。 しかし、ザムシードだちの前に現れたのは、ギガント型のクリッターなどではない。 処刑人=\―ビクトー・バルデスピノ・バロッサに他ならないのだ。 「――ビクトーッ!」 ジャーメインに続いて悲鳴を上げたのはイリュウシナであった。 それも無理からぬ話であろう。最愛の夫は右目から鮮血を噴き出させているのだ。 永遠に光を失ってしまったことは誰が見ても明らかである。 しかも、流血によって左目まで塞がれている。 そのように痛ましい姿を目の当たりにして、狼狽するなと強いるほうが無理と言うものであろう。 「あらまぁ……ビクトー君にトラウムまで使わせるなんてねぇ……」 ビクトーの足元に在るグンダレンコは、義兄(かれ)とアルフレッドを交互に見つめながら、 何とも例えようのない嘆息を零している。 巨大化と言う人智を超えた変貌がトラウムに依るものであることはグンダレンコも承知しており、 それ自体に驚くことはない――が、同時にこれ≠アそがビクトーにとって最大の切り札≠ニも解っている。 義の戦士の筆頭たる七導虎が、隊内でも随一と謳われる猛者の義兄(かれ)が、 切り札≠使わざるを得ない状況まで追い詰められたことにグンダレンコは瞠目させられたのだ。 そもそも、スカッド・フリーダムの隊員にとってトラウムとは頼りにすべきものではない。 テムグ・テングリ群狼領のように禁忌としているわけではないのだが、 ヴィトゲンシュタイン粒子を純粋なエネルギーに変換させると言う性質上、 トラウムの発動最中はホウライが一切使えなくなるのだ。 トラウムとホウライの併用など余程の天才にしか不可能であった。 残念ながら、その領域にまで達した人間は七導虎の中にさえひとりも居なかった。 だからこそ、二者択一を迫られるのだが、自らを巨人と化すビクトーのトラウムは、 他の隊員とは少しばかり事情が異なっている。 一度(ひとたび)、この規格外の力を振るおうものなら、 対峙した相手を一方的に蹂躙してしまう恐れがあった。 このような振る舞いは『義』の心に著しく反するものであり、 それ故に滅多なことでは発動せず、封印されているのだった。 その封印された切り札≠『在野の軍師』は解放させたと言うことである。 抉られたと思しき右目だけでなく、ビクトーは全身に深手を負っている。 ここまで追い込まれた義兄の姿をグンダレンコは未だ嘗て見た憶えがなかった。 (……まだ立ち上がれるんですね――それも当たり前かぁ。決着、ついていないですもんね……) 瞠目するグンダレンコの目の前でアルフレッドが――絶息さえ疑われた『在野の軍師』が立ち上がった。 彼もまた見るに堪えないほど満身創痍なのだが、両足が浸った水面には今も蒼白い稲光を走らせており、 闘志が潰えていないことは明白であった。 「――アルッ!」 「煩い、黙れ。お前の声はいちいち頭に響く」 「だ、だって――」 クラリッサに阻まれていることも忘れて、 反射的にアルフレッドのもとへ駆け寄ろうとするジャーメインであったが、 彼の面を見つめた瞬間、息を呑んで立ち止まってしまった。 「……アル――」 余人には計り知れない程に深い慟哭が、アルフレッドの面に顕れていた。 それ故にジャーメインは手を伸ばすことさえ憚ってしまうのだ。 何かひとつ軽はずみな言葉を掛けただけでも、 アルフレッドの心を更に深く傷付けてしまうと、そう思えてならなかった。 「一先ず安心しましたよ。起き上がって貰わないと、私もただの間抜けになってしまいますからね」 「立つに決まっているだろう。立たなければならないんだよ、俺は」 「ほう……? フィーナさんたちの犠牲≠フ上に立つキミの言葉だけに重みがありますね」 「どんな犠牲≠払ってでも戦う。それが俺の『義』と答えた筈だ。 貴様は俺の――いや、俺たちの『義』を愚弄した。何があっても許すつもりはない」 左目を塞いでいた血を手の甲で拭い取り、片側のみではあるものの、ようやく視界を取り戻したビクトーは、 その瞳に処刑人≠ニしての覚悟を――絶対的な殺気を宿し、眼下の敵を睨め付けた。 『在野の軍師』の頬を滑り落ちる赤黒い涙は、未だに止まってはいない。 「アルフレッド君、報いを受けるのはキミ自身ですよ。己の罪の深さを悔い改めなさい……!」 言うや、ビクトーは五指を伸ばした右掌を胸元の辺りに持ち上げ、 水平に開いた左掌を腹の辺りで引き付け――地響きと共に胡坐を掻いて座した。 摩訶不思議としか言いようのない構えであった。左掌を天に向けているのは、 そこに『在野の軍師』の遺骸を載せようと言う意図なのだろうか。 アルフレッドが識(し)る限り、このような構えはケンポーカラテの体系にはなかった筈だ。 遥かな時代(とき)を経る中で新たに編み出された技巧(もの)かも知れないが、 しかし、両手の形から正体を見抜くことは不可能であろう。 考察に要する材料は己の身を晒して引き出すしかなかった。 アルフレッド自身、ビクトーを相手に睨み合いを続けているつもりもない。 「『報い』は貴様にこそ相応しい言葉だ。犠牲≠フ意味さえ解ろうとしない貴様にな」 片目を潰しただけでは足りなかった。真っ白≠ノなった心は何も満たされなかった。 尤も、生きたままビクトーの頭蓋骨を引き抜き、息絶える様を見届けたところで、 真っ白≠ニ化した世界に変化が現れるとも思えなかった。おそらく波紋のひとつも起こらないだろう。 それでも、ビクトーの心臓を抉り出したいと欲する衝動だけは抑えられなかった。 そうしなければ犠牲≠ノ報いることは出来ないと、理性を超えた何か≠ェ訴えかけていた。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |