15.皇国の残滓


 地上の攻防に敗れた味方が安全な場所へ退避するまで、
何としても戦乙女の進撃を食い止めなければならない――その決意を胸に秘めてクトニアは起っている。
 一方、彼と相対したフィーナは面食らったように双眸を見開き、呆然と立ち尽くしていた。
 フィーナひとりだけではない。地上に於いて怖気が走る程の猛攻を繰り出していたタスクとニコラスでさえ、
顔面に狼狽の色を滲ませ、これを見合わせているのだ。
 フィーナとタスクは佐志軍として、ニコラスはギルガメシュのエトランジェ(外人部隊)として、
それぞれ熱砂の合戦に加わっていたが、少年兵とは初めて遭遇したのだ。
 しかも、目の前の少年は両刃剣を携えている。
敵味方と立場は異なり、容貌も似ているとは言い難いのだが、
どうしてもシェインの姿が重なってしまうのだ。年の頃も彼と大して変わらないだろう。
 少年兵の隣に浮かぶ仲間の幻像(まぼろし)を除くとしても、
年端も行かない相手に銃口を向けることは、どうしても躊躇われるのだ。

「……恥を知りなさい、ギルガメシュ……ッ!」

 ニコラスと顔を見合わせた直後からタスクは肩を震わせている。
頭頂から爪先まで激烈な憤怒で満たしている。
 こんな子どもまでテロ行為に駆り出すとは、ギルガメシュはそれ程までに人材が不足しているのか。
それとも、欠いているのは良心のほうか。彼のような子どもこそ暴力の世界から遠ざけ、
守り抜くのが大人の責任と言うものであろう――
長らくマリスに仕え、育てることに力を尽くしてきたタスクにとって、
如何なる理由があろうとも少年兵の動員など認められないのだった。
 尤も、タスクの憤慨は矛盾を孕んでいる。そもそも少年兵≠批判するのであれば、
シェインが決死隊の要員(メンバー)に加わっていることこそ問題視するべきであろう。
 フィーナとて本来ならばハイスクールに通っているような年齢だ。
戦場の真っ只中で銃を構え、己の手を血で穢していることが異常なのである。
 年端の行かない者であっても、戦場に駆り出されたならば平等――ただそれだけの現実(こと)である。
 しかし、それもまた理屈に於いてのこと。戦場に立つ者は誰しもが平等≠ネどと
容易く割り切れないのが感情と言うものなのだ。
 タスクが自分たちの抱える矛盾を失念し、少年兵に対する義憤に駆られたのも、
まさしく人としての情が深ければこそ。そして、人は感情には逆らえない生き物だ。
一度、シェインの姿が重なって以来、決死隊の三人は明らかに戦意が萎んでいる。
 フィーナもニコラスも、それぞれの得物を敵に向けられなくなっていた。
 クトニアの側とて拍子抜けと言った面持ちで立ち尽くしているのだが、それも無理からぬ話であろう。
これまで幾度となく別働隊を脅かし、先程も僅かな時間で前衛を壊滅させた死神≠ナあると言うのに、
今になって何を躊躇っているのだろうか。
 「敵の狙いは何だ」と目配せで以て尋ねると、アルコルは小首を傾げて見せた。
彼もまた戦乙女たちの真意を測り兼ねている様子であった。
 エプロンドレスの上にボディアーマーを装着すると言う珍妙な出で立ちの女性が
何事か呟いたようにも見えたが、彼女たちが立つ位置からはそれなりに離れている為、
語句のひとつとて聞き取ることが出来なかった。
 こうなると、敵が何を思って足を止めたのか、いよいよ分からなくなってしまうのだ。

「な、何なんですの? 何なんですの? ……え? 皆様、お知り合いか何かでありまして?」

 アンジーは――アルトにて編制された決死隊ではなく
ノイへ到着した後(のち)に加わったロンギヌス社のエージェントは、
フィーナたちとクトニアたち、双方の顔を見比べつつ、どう言うことかと眉を顰めている。
 前衛を突き崩したことで自分たちは勢いに乗っていた。
馬を降りて此処まで敵勢を追い掛けてきたのだから、
寄せ手の鉄則に則って一気に攻め抜くべきだったのだ。
 それなのにフィーナたちは足を止めてしまった。見れば、面に動揺の色まで滲ませている。
閉所でも戦えるようレディオブニヴルヘイムの柄を小槌の丈に調整したと言うのに、
肝心の戦乙女が戦意を鈍らせていてはアンジーも動きようがあるまい。
 無論、双方は知り合いなどではない。カメラで戦乙女の姿を確認していたギルガメシュ側はともかく、
フィーナたちは相手の顔を見たことすらなかった。
 それに関わらず、攻撃の手を止めてしまった。アンジーが不思議に思うのは当然であろう――が、
その理由を説明するのがフィーナたちにはもどかしく、低く重く呻くことしか出来なかった。
 ただひとり、レナスだけは不気味なくらい落ち着き払っていた。
平素と変わらない微笑みを浮かべたままクトニアが持つ逆三角形の盾を目で追い掛けている。
より正確に表すならば、そこに刻まれた七星の紋章を凝視しているのだ。
 古風な意匠を手掛かりとして、これに当該する情報を記憶の底から引き揚げようとしているらしい。
数秒の後(のち)に彼はひとつの答えに行き着いた。

「その紋章――まさか、きみは『メルカヴァ』の貴族なのか?」

 答え合わせを求めるかのような声は普段よりも幾分大きく、離れた位置に立つクトニアの耳にも届いた。
彼らに聞こえるような声を発した言うのが正確であろう。
 レナスが『メルカヴァ』と言う国名(な)を口にした瞬間、
アンジーは「めるがびょッ!?」と素っ頓狂な声を上げ、
首の筋を痛めたのではないかと心配になる程の勢いでレナスに顔を向けた。
 一体、この男は何を言い出したのか――そのような困惑を満面に浮かべている。
 ノイで生まれた人間にとってメルカヴァと言う国名(な)は仰天せざるを得ないようなものであった。
事実、アンジーは耳を疑い、「そんなこと有り得るんですの!?」と裏返った声でレナスに質している。
 視線をレナスのほうに移したアンジーとは異なり、正面の敵を捉え続けていたフィーナたちは、
クトニアとアルコルの表情(かお)が切り替わっていく瞬間も見逃さなかった。
 七星の盾を構えたクトニアは慙愧の念を堪えるように歯を食い縛り、
隣に立つアルコルは深い憐憫を瞳に湛えている。
 これこそレナスが求めた答え合わせの結果≠ニ言えよう。
 ふたりの変調を見て取ったレナスは、メルカヴァとは嘗てノイのエンディニオンに存在していた
最悪の軍事国家である――と、フィーナとタスクへ口早に説明していく。
 自分の質問に答えないどころか、頭越しに他の人間へ声を掛けたレナスのことが
アンジーには不愉快で仕方なかったが、これで不貞腐れるほど彼女も無分別ではない。
アルトで生まれたフィーナたちがメルカヴァのことを知っている筈もなく、
誰かが概要を伝えなくてはならなかったのだ。
 レナスが見せたような配慮こそ何よりも優先されるべきと飲み込んだアンジーは、
「独裁政権が好き放題やりまくった挙げ句に反乱が起きて、
最後には国土ごと吹っ飛んだんですの」と自らも必要な説明を補足していった。

「現物を見るのは初めてでありますけど、……そうですか、あれがメルカヴァの七星でございますのね……」
「腐ってもロンギヌス社のエリートっつーことかよ。意外と物知りなんだな」
「ニコラスさんもご存知ではありませんこと? ニュースや新聞で皇帝と親族が大写しになるとき、
必ず目に入ると思いますことよ?」
「学がなくて悪かったな。大体、胸糞悪ィ連中のコトなんざ、いちいち記憶してねぇっつーの」

 断片的にも憶えていなかったニコラスに対し、アンジーの側は七星の紋章のことを完全に想い出していた。
 イシュタルの名のもとに自らの地位を神聖化し、身分制度に基づいて絶対的な権力を誇った皇帝と、
それに連なる有力貴族六家が君臨していたメルカヴァ皇国――
七星の紋章は支配階級の権威を意匠化した物であり、
国章とは別に皇帝と有力貴族六家が用いていたと言う。
 言わずもがな、自らの権力(ちから)を誇示するのが目的であり、
これ以上の悪趣味を知らないとアンジーは忌々しげに吐き捨てた。
 その紋章によって少年兵の出自が明らかとなったわけだ――が、
だからこそ、レナスもアンジーも驚愕させられたのである。
 反乱によって滅亡した軍事国家の残党が――「ならず者国家」とまで忌み嫌われた皇国の貴族が、
テロ組織たるギルガメシュに与するとは、悪い冗談としか思えない。
武力でしか物申せない者の末路としては、あるいは必然の運命と言うべきであろうか。
 レナスとアンジーの説明によって概要を理解したタスクは、
半首(はっぷり)によって覆われた眉間に一等深い皺を寄せた。
「祖国の滅亡によって行き場を失った貴族の御曹司をテロ組織が買った」とでも解釈したのであろう。
 フィーナはフィーナで、独眼竜に率いられたチャイルドギャングのことを想い出している。
目の前の少年兵も独眼竜と同じように生きる糧を得る為、
暴力の世界へ身を投じざるを得なかったのだろう――と。
 タスクもフィーナも、子どもにまで武器を持たせ、血を浴びさせてしまう乱世が堪らなく虚しかった。
 これはノイの世界に限った問題ではない。ギルガメシュが攻め寄せてきたアルトでは、
最早、子どもが戦闘に加わることも常態化しつつあるのだ。
 しかも、この少年兵は災いの種たるギルガメシュに属している。争乱の時代に加担してしまっている。
フィーナとタスクの目には、看過し得ない悪循環として映っているのだった。

「……余計に分からなくなりましたわ……タスクさんの言葉をお借りするなら、
『恥を知りなさい』ってところでございますでしょう――」

 彼女たちの隣で得物を構えていたアンジーの心中にも、
少年兵がメルカヴァ貴族の生き残りと確認した直後から何とも言えない感情が芽生えていた。
 クトニアの境遇を想う憐憫(あわれみ)とは正反対の義憤が沸々と燃え滾っていた。

「――反乱に乗じてメルカヴァを滅ぼしたのは、ギルガメシュじゃねぇでございますかッ! 
てめぇ様にどんな理由があるかは知ったこっちゃありませんけれど、
……いいえ、何を背負っていようが、仇に命乞いして媚び諂(へつら)うなんて、
故郷に対する裏切りではありませんことッ!?」

 アンジーが迸らせた義憤の吼え声を受けて、
ようやくフィーナとタスクも事態(こと)の重大さを悟った。
少年兵の身分を知った瞬間、彼女は信じられないとばかりに大仰な反応を見せたが、
それも当然のことであろうと今なら頷ける。
 七星の紋章を掲げる貴族の末路として、これ程までに凄絶なものはあるまい。
アンジーが「裏切り者」と蔑んだことも、嫌悪と言う負の感情の発露の上では仕方がなかろう。
心と言う仕組みを備える人間(ヒト)として生まれたからには、
こればかりは抑えようがないのである。
 罵声を浴びせられた側が平然としていることが余計に物悲しかった。
仇敵に降ってから今日(こんにち)まで、幾度も幾度も同じように嘲られてきたのだろう。
全人生を否定される痛罵も聞き慣れ、激昂するまでもないことと処理しているわけだ。
 未(ま)だ一〇年程度しか生きていない少年の姿として、それは余りにも痛ましいではないか。

「我が名は『ジョワユーズ』――副司令ティソーンの副官である。
……既に滅んだ祖国に用などない。我が使命は副司令を守り抜くこと。 
それ以外には何も必要とされていないのだ。私自身が何も望んではいない。
己の身を副将の盾≠ノ換えて、誰ひとり、この先には行かせないッ!」

 そのクトニアはギルガメシュから与えられた異称(コードネーム)を名乗った。
メルカヴァ貴族の残党ではない『ジョワユーズ』としての使命を高らかに唱えたのである。
 単なる宣戦布告ではなかった。あくまでも自分はギルガメシュの将――そのように知らしめたかったのだ。
明らかに戦意を鈍らせている戦乙女たちに対し、
「子ども相手に戦うことは避けたい」と言う感傷などは一切不要と予め切って捨てたのである。
 一等哀しげな面持ちとなったアルコルは、重苦しい溜め息を吐いた後(のち)、
「祖国などと口にしないほうがよろしい」と静かに諫めた。
彼の若さ≠ェ言わせたに違いないが、
それでは敵方から浴びせられた罵声を肯定したようなものであろう。

「アルコル・オブライエン。さしずめジョワユーズ様の執事とでも思って貰おう。
……こんな自己紹介などは、そもそも要らない筈だが――」

 クトニアに釣られてアルコルが名と所属を述べている最中のことであった。
 アルコルが全てを言い終わらない内に、いきなりレナスが階段を蹴って飛び降りたのだ。
 跳ね飛んで蹴りに――否、敵に踏み付けにして動きを封じ、確実にパイルバンカーを叩き込むつもりである。
相手が少年だろうとフィーナたちのように躊躇うことはなく、平素と同じ薄ら笑いを浮かべたまま。
その様は見る者の背筋に冷たい戦慄を走らせるのだった。

「レ、レナスさん!? ちょっと待ってッ!」

 既にレナスは跳ね飛んだ後であり、今さらフィーナが制止を叫んでも間に合うわけがない。
愕然とした面持ちで彼の背中を見送ることしか出来なかった。
 無論、レナスの側も攻撃を止めるつもりはない。
 標的はクトニアである。急降下の勢いを乗せて七星の盾を踏み付けにし、
そこから全体重で圧し掛かれば、自分よりも遥かに小柄な少年兵など簡単に屈服させられるだろう。
彼が幾ら鍛錬を積んでいるとしても、頭ふたつ分以上の体格差は如何ともし難いのである。
ここにパイルバンカーの重量まで上乗せとなれば、とても耐えられるものではない。
 クトニアの眉間へ鉄杭を突き入れている内に、フィーナたちも引き摺られて攻撃を開始する筈だ。
少年兵との交戦に躊躇を覚える彼女たちも、年長者のアルコルならば仕留め易かろうと
レナスは判断したのだった。

(汚れ役はおれが引き受ける……それでよろしいのですね、皆さん――)

 レナスを衝き動かしたのは、またしても奉仕≠フ精神である。
同志たちを逡巡させる要因は自分が全て引き受け、これを潰してしまおう――
その想いを以て少年兵に飛び掛かっていったのである。
 咄嗟のことでクトニアの後方に控えた兵士たちはライフルを撃発することも出来なかった。
その上、急降下の速度も尋常ではなく、照準を合わせる遑さえなかったのだ。
 誰よりも早く反応したのはクトニアである。自分が狙われていると見極めるや否や、
段違いで両足を踏ん張り、七星の盾でもってレナスを受け止めようと試みた。
踏み付けにされた瞬間に炸裂する威力を耐え凌ぎ、そこから彼の身を弾き返そうと言うのである。
 その様を見て取ったレナスは「なかなか鍛えられているね――」と中空から称賛を飛ばした。

「――だけど、世の中には覆せない現実があると、……最期に学びなさい」
「傲慢な……! 試してみなくちゃ、分からないッ!」

 七星の盾でもってレナスを弾き飛ばした後(のち)、
反撃の両刃剣を繰り出して首を討たんと考えたクトニアであるが、
その戦術はアルコルによって遮られてしまった。
 地上にて踏ん張るクトニアと、中空から踏み付けにしようと図るレナスとの間に回り込み、
両の掌を前方に突き出したのである。
 アルコルが左右の腕を一度ずつ伸ばした瞬間、掌から凄まじい衝撃波が発生し、
中空に在ったレナスの身を後方へと撥ね飛ばしてしまった。
 これは突風の如きもので、フィーナたちが立つ位置まで轟々と吹き荒んだ。
タスクなどはロングスカートを押さえながら「痴漢で訴えますよ!」と悲鳴を上げたものである。

「えーっと、言いたいことは分からなくもないけど、
別にあの人、スカートめくりをしたかったわけじゃないと思うよ」
「フィーさんの仰る通りですわ。タスクさんったら良い年齢(とし)して、
ちょっとばかり自意識過剰ではございませんこと?」
「ね、年齢は別に関係ないと思いますけどっ!?」

 女性たちの姦しい遣り取りを飛び越える形で弾き返されたレナスは、
中空で身を捻って着地した――が、しかし、反撃に転じようとする動きさえ、
アルコルの放つ衝撃波によって押さえ込まれてしまっている。
 絶え間なく襲い掛かって来る衝撃波は、直接的な痛手(ダメージ)こそ微々たるものだが、
これを浴びせられる側にとっては厄介極まりない。完全に身動きが取れなくなってしまうのだ。
 レナスは言うに及ばず、ニコラスもガンドラグーンの照準を合わせられずに立ち往生するしかなかった。
 砲身が振り回されては一大事だ。必殺のヴァニシングフラッシャーを放とうにも、
衝撃波の一撫でによって砲門が反対側に向けられてしまったなら、
エネルギーの奔流が味方へ降り注ぐことになるのである。
 フィーナが突撃銃やモーゼル・ミリタリーを構えても、
タスクが短刀を投擲しても、同様の危険性が付き纏うのだった。

「クト――ジョワユーズ様、ここは私が食い止めます。一秒でも早くお退き下さい」
「莫迦を言うな! この期に及んで敵に背を向けられるわけがないだろうッ!?」
「体勢を立て直されよッ! その時間は必ず自分が稼ぎますッ! ……さあ、お急ぎあれッ!」

 アルコルの一喝を合図として、クトニアたちは地上に続く階段を逆戻りし始めた。
 クトニアは敵前逃亡へ最後まで抵抗していたが、別の兵士たちに腕を掴まれ、
次いでアルコルの指示に従うべきと促され、悔しげに唇を噛み締めながら転進していった。
 すかさず追い掛けようと身を乗り出すフィーナであったが、
やはりアルコルの掌より発せられる衝撃波に妨げられて前に進むことも叶わない。

(何とか銃だけでも構えられたら……風を裂いてでも両腕を撃ち抜けるから……ッ!)

 たったひとりの為に戦局を動かせなくなったと歯噛みするフィーナであったが、
その突風の如き衝撃波は何の前触れもなく止まった。
余韻の如きそよ風が吹き抜けると言うこともなく、一瞬にして全く収まったのである。
 何事かと驚いてアルコルの様子を窺うと、彼は両腕を引き付けつつ、肺一杯に空気を吸い込んでいた。

「――ごおおおぉぉぉォォォあああぁぁぁァァァッ!」
「なっ、何……ッ!?」

 一種異様な姿をフィーナたちが捉えた直後のことである。
アルコルは野獣の如き吼え声を迸らせ、この密度が濃い空間を烈震させた。
 「烈震」と言うのは、もしかするとフィーナたちの錯覚であったかも知れない。
彼が大音声を張り上げた瞬間、堪えることすら叶わないまま全身が竦み上がってしまい、
器官と言う器官が、更には脳までもが震わされたように思えたのだ。
 血気に逸るクトニアと比してアルコルのほうは物静かな印象だった為、
大声を上げること自体が意外であったのは確かだ――が、
それにしても、単なる驚愕では全身の血が凍るような戦慄までは感じまい。
 フィーナたちは本能の部分でアルコルを恐怖していた。
そのようにしか表しようのない状態に陥っていた。
 筋肉も関節も――身体の機能が全て委縮し、油の切れた機械のように動かなくなっていた。
鼓膜を通じて良からぬ気≠ェ体内へ入り込み、裡から不可視の糸で縛られたかのようである。
 アルコルの姿が掻き消えたのは、フィーナたちがもがき苦しんでいる最中のことであった。
金縛りのような状態は数秒程度しか持続しなかったが、その間に皆の視界から居なくなったのだ。
 間もなく全員の肉体が自由を取り戻したものの、誰ひとりとしてアルコルたちを追い掛けようとはしなかった。
意識だけは階段を下りた先へと向かっているのだが、軋む四肢がこれを阻んだのである。
 皆が皆、全身に冷たい汗を掻いている。戦慄が流させる類の滴が全身に纏わり付き、
肌を滑り落ちる度に恐怖を反復させるのだった。
 せめて早鐘を打つ心臓が落ち着くまでは、この場に留まらねばなるまい。
現在の状態でクトニアたちに追い付いたところで動揺が枷と化し、
全力を発揮し得ないまま返り討ちにされてしまうことだろう。

「な、何だったんですの、今の……? 一体全体、さっぱり分かりませんことよ……!」

 荒い息と共に絞り出されたアンジーの呟きは、この場の誰もが思い浮かべたことであろう。
アルコルから如何なる技を仕掛けられたのか、説明出来る人間がひとりも居ないのだ。
 錯覚を引き起こすだけの幻術にしては、身の裡に沈み込んでいくかのような倦怠感は余りにも生々しい。
気を抜くと視界が回りそうになるのは、脳が物理的な衝撃でもって揺らされた証左と言えよう。

「副司令にも辿り着いていない内から結論を出すのは早いかと存じますが、
現時点で考えられる一番の難敵は、何と申しましてもアルコルと言う御仁でしょう。
あの妙な技を使われる前に総力戦を仕掛けて、……果たして、それで間に合いますか……」

 正体の掴めない技巧(わざ)よりもタスクが恐れているのは、アルコルが発揮した超人的な速度である。
クトニアたちが通路まで抜けたことを見て取るや否や、その後を追い掛けたに違いないのだが、
残像を空間に焼き付けることもなく一瞬で掻き消えるなど尋常ではあるまい。
 この場さえ凌ぎ切れば二度と遭遇しないと言うような相手には、そこまで深刻に身構える必要はない。
しかし、アルコルは此処で必ず戦わなければならないのだ。現実として眼前に迫る脅威なのである。

「……アタクシも噂話程度にしか聞いたことがありませんのですけれど――
ギルガメシュの兵士の中には人体改造を施す人間もいるそうですのよ。
尤も、薬物(クスリ)か何かを使ったくらいで、あんなに人間離れしたスピードまで行き着くとは、
アタクシにはとても信じられませんが……」
「純粋に身体能力が桁外れと想定して立ち向かったほうが賢明のようですね。
私やフィーナ様、ニコラス様で何とか足止めをして、
残るお二方に接近戦まで持ち込んで頂くと言うのは如何でしょう?」
「さりげなく無茶振りですよ、タスクさん。あの人を捉えるのは骨が折れそうだなぁ……」

 フィーナたちが論じたのは作戦と呼べるほど上等なものではなかったが、
連携に当たっての段取りだけでも付けておかないことには、とても戦いようがなさそう相手なのだ。
最優先でアルコルを撃破する――この意思統一が出来ているか否かで、
今後の戦いは全く違う展開になるだろう。
 戦乙女も気を引き締め直した。階段(ここ)へ到着する前に残弾も確認してある。
今すぐ交戦状態に突入しても十二分に対応し切れる筈だ。
 ひとつだけ気掛かりなのは、アンジーから聞かされた敵兵の人体改造≠フことである。
 自分たちが遭遇あるいは見聞きした範囲に於ける判断ではあるものの、
ギルガメシュ本隊には改造を施された兵士など居なかった筈だ。
 さりながら、アルトはギルガメシュにとって壮大な遠征先=B
高度な手術に必要な装置などを持ち運び出来るとは思えなかった。
そのように貴重な機械(もの)は本拠地たるノイに据え置くのが常識的な判断であろう。
 あるいは、別働隊は人体改造手術を施せるだけの施設を何処かに隠しているのかも知れなかった。
 アルコルが改造人間であるかは判然としないが、
タスクの言う通り、万が一の可能性だけは頭の片隅に置いておくべきだった。
 相対した敵を裂帛の気合いのみで金縛り同然の状態に陥らせる化け物≠ネど聞いたこともない。

「……そろそろ行くか。まだちょいとフラつく気もするけど、タイムロスがデカくなって来ちまったしな」

 頭を左右に振って調子を確かめたニコラスは、己が立つ位置より数段高い場所に在る筈のレナスを仰ぎ、
そこに見つけたものに声を失った。
 先程から一言も喋らないと思えば、レナスはその場に蹲(うずくま)り、
全身を小刻みに震わせているではないか。呼吸は病的に荒く、例によって意味不明な呪文を唱え続けている。
階段の踏み面に額を付けている為、顔色を視認することは叶わないが、
血の気が引いていることも、脂汗を流していることも容易に想像出来る。
 傍目には瀕死の重傷を負ってしまったようにも見えるのだ。

「お、おい……なんだ!? どうしちまったんだ!?」

 いけ好かない相手とは思いつつも、打倒ギルガメシュを目指す同志≠ノ変わりはなく、
ましてや、息も絶え絶えとしか言いようのない人間を放ってはおけない。
異変を見て取ったニコラスは――否、皆が彼のもとに歩み寄ろうとしたが、
その挙動(うごき)をレナス当人が押し止めてしまった。
 適切な処置を施さない限り、このまま息を引き取ってしまうかも知れないような状態にも関わらず、
「……おれのことよりも先を急いで下さい」と彼は言い張るのだ。

「……メルカヴァ貴族に従っていた……何とかと言う執事の技で……驚いてしまっただけですから……
すぐに落ち着きますよ……そしたら……追い掛けますから……」
「……まさかと思うが、あんた、心臓の病気なんじゃねぇだろうな」
「……いいえ……そんなものではありません……心配されるようなこと……何ひとつ……ないのです……」
「ゼーゼーと息しながらじゃ、幾ら強がったって説得力ねぇぞ……」

 例え、蹲っているのが同志≠ナなかったとしても、
もだえ苦しむ人間を放置していくことは良心が許さないのだが、
おそらくレナスは仲間たちが応急処置を試みようとしても頑として受け付けないだろう。
 その場限りの同情になど流されず、使命を果たすべし――この一言だけを繰り返すに違いない。

「……ギルガメシュが……ここまで……守りを固めていると言うことは……
ティソーンまで確実に……近づいていると言うこと……この機会を……逃さないでください……
おれひとりの安否と……世界の危機と……どちらが優先か……考えるまでもないでしょう……」」

 ここまでレナスに言われては、フィーナたちも未練を断ち切らざるを得なかった。
 ティソーンを取り押さえることが出来れば、
幾億もの絶望を振り撒く最終兵器が必ずや阻止されるのである。
彼に促されるまでもなく、エンディニオンを掬う為には決して歩みを止めるべきではなかった。
 くれぐれも無理だけはしないようレナスに言い置くと、
他の者たちは已むなくティソーン追跡に戻っていった。
地下まで直通する階段を一気に駆け下り、その先の通路へと突入していったのである。
 同志≠スちの足音が聞こえなくなってからもレナスは自身を蝕む異変≠ニ格闘し続けた。
何としても復調するべく深呼吸を繰り返す彼の脳裏には、
嘗て「モルガン師」より聞かされた話が浮かんでいた。
 額を擦りながら顔だけを正面に向けたレナスは、
「モルガン師」の話を反芻するようにしてアルコルが立っていた場所を凝視していく。

(……偶然とは思うけど……いや……それでは出来過ぎだ……あの身体能力で……あの技と来れば――)

 レナスが想い出したのは、陽之元国が誇る最凶の武装警察――『覇天組(はてんぐみ)』や、
彼(か)の国の正規軍教頭をモルガンが晩餐会に招いた折りの話である。
 このとき、覇天組局長のナタクや陽之元正規軍教頭のバーヴァナと悶着を起こしてしまい、
ふたりから面白い技≠ナ威圧されたと「モルガン師」は語っていたのだ。
 ナタクとバーヴァナは掌から突風の如き衝撃波を発したと言う。
今し方、アルコルが繰り出したものは、モルガン師から聞かされた技と特徴が全く一致するではないか。
覇天組局長が極めたとされる古流武術――『聖王流(しょうおうりゅう)』か、
この分派にて修練を積んだ人間と勘繰っても不思議はあるまい。
 「モルガン師」の説明によれば、彼らに浴びせられた技の名は
『龍旋掌(りゅうせんしょう)』であったそうだ。


 ニコラスが危惧する時間的な損失は、予想以上に敵の有利に働いていた。
持ち得る限りの全速力で階段を駆け下りた筈なのだが、
抜けた先の通路では、既にクトニアたちが隊列を組み終えていたのである。
 幼くともギルガメシュの副官と言うべきか――速やかに迎撃態勢を取り仕切ったのは、
他ならぬクトニアであろう。やや遅れて合流したアルコルの手配りとは思えない。

「……ナメてかからねぇほうが良いってか……ッ!」

 兵たちの先頭に立って此方側を睨んでくるクトニアに対し、
覚悟を決めてガンドラグーンの砲門を向けたニコラスは、
隊列の中に先程までは居なかった筈の顔を見つけた。
 クトニアの右隣に立つアルコルの反対側――左隣に随分と華奢な青年の姿が在った。
わざわざ将兵たちの前面へ立つからには、ギルガメシュ内部では相応の地位に就いているのだろう。
 それにしては、件の青年は挙動不審なのである。見開かれた双眸は極端に大きいのだが、
どう言う理由(わけ)か、ダークブラウンの瞳を忙しなく動かし続けていた。
 何しろ、焦点を一箇所へ固定するような瞬間が全くないのだ。
白目より零れそうなほど大きな瞳は、落ち着きの有無とは異なる挙動(うごき)を見せている。
 この青年は絶えず何かに怯えている様子であった。
一瞥した程度では性別を誤解してしまうくらい中性的な面立ちなので、
臆病者らしい行動が余計に目に付くのである。人によっては女々しいと受け取ることであろう。
 現にアンジーは、件の青年を目の当たりにした瞬間から生理的な嫌悪感が湧き出しており、
「クネクネしていてキモい!」と大声で叫びたい気持ちを押し殺している。
 年少者であり、且つ血気に流行っている筈のクトニアのほうが落ち着いて見えるくらいだった。
闘志を秘めて剣と盾を構えた少年の真隣に立っていることもあり、
地に足の付かない狼狽ぶりが余計に際立つのだ。
 とても人の上で采配を揮うような者には見えなかった。
人に使われること≠ナさえ満足にこなせるか、甚だ疑問に思えるくらいである。
 クトニアたちがわざわざ戦いの場に連れてきた理由も分からない。
両の眉毛が常に山形を描いているような臆病者に何が出来ると言うのだろうか。
 出で立ちも珍奇と言うか、この世の者ではないような雰囲気すら醸し出している。
毛髪は真っ白だが、これは老化によるものではなかろう。人工的な発色であることは瞭然であった。

「どう見るよ、タスク?」
「少なくともこちらを惑わす芝居のようには見せませんね。……それだから、余計に判断に困るのですが」
「分かり易過ぎる相手ってのもやり辛ぇんだな」

 度を越した挙動不審は油断を誘う為の芝居(ワナ)なのか。
これを見極めるべくタスクとニコラスが新手を睨み据えていると、
クトニアが「これ以上は通さん! ここで何としても食い止めんッ!」と大音声を発した。
 律儀にも宣戦布告をしようと言うわけだ。隊列を完全に立て直して待ち構えながら、
階段を駆け降りてきた直後――無防備となったところを狙い撃ちもしなかったのは、
正々堂々と決着をつけようとする潔さの表れであろう。
 誇り高いと言うべきか、育ちが良いと言うべきか。
フィーナたち決死隊の面々が戦った本隊では見たこともない相手だった。
アンジーには故郷への裏切りなどと謗られてしまったが、
貴族たるべき高潔な魂は今も捨ててはいないらしい。
 この少年も、あるいは已むにやまれぬ事情からギルガメシュに与しているのかも知れない。
 先ほどまではシェインの姿に重なると言う理由から少年兵(クトニア)との戦いを躊躇ったフィーナだが、
今は別の意味で銃爪(トリガー)を引かんとする指が重くなっていた。

「戦乙女などと呼ばれて舞い上がったのか、愚か者め! 
そもそも、お前たちは難民を救わんとする志に楯突くような外道じゃないか! 
今、危機に瀕している生命へ手を差し伸べんとする我らを妨げるなど言語道断だッ!
よくも、そのような分際で恥知らずなどと言ったもの――貴様らこそ恥を知れ、俗物ッ!」
「難民!? お坊ちゃんの口からその台詞を聞くなんて、ちゃんちゃらおかしいじゃねーですの! 
……国を失う痛みを知ってるお坊ちゃんが、どうして同じ痛みを人に強いるのか……ッ! 
そんなもんは志じゃねーんですわよ! ただの独り善がりでございますことよッ!」
「独善でも人は救えるッ! 俗物風情には分からないだろうけどなッ!」
「ハッ――お話しになりませんわァッ!」

 執事を標榜するアルコルは、七星の紋章の盾を掲げながら勇ましい口上を述べ、
反抗するアンジーと舌戦を演じるクトニアを横目で見詰めつつ、口元に薄い笑みを浮かべている。
その表情は、どこか誇らしげでもあった。
 その間にも件の青年はボソボソと何か喋っているが、全く聞き取れない。
誰にも聞いて貰えずに不安が増幅されたのか、いよいよ奇声まで漏らし始め、
何とも見苦しい有り様となってきた。
 この期に及んで正気を失うとは、いよいよ何の為に戦いの場に連れて来られたのか、分からない。
 だが、その姿を目の当たりにした瞬間にニコラスの肚は決まった。
敵は一人でも少ないほうが良いだろう――と言う判断(こと)である。

「ニコラス様、サポートをお願いできますか。私は――」
「いやいや、わざわざ分散する必要もねぇだろ。
……どうやら狙いは一緒みてぇだ。ここは一気にツブしちまおうや」
「考えることは同じでございますね……」
「あんなもん、見せられたらなァ」

 これについてはタスクもニコラスと同じ考えだ。隊列の前方に立つからには副官級であることは間違いない。
あのような有り様を晒すような人間に満足に応戦する能力があるのかも疑わしいが、
逸早く仕留めることが出来れば、他の将兵に動揺を与えられるかも知れないのだ。
 敵中を突破してティソーンへ迫るにしても、先ずはクトニアが仕立てた隊列を乱さなくては始まるまい。

「ロンギンスの姉ちゃんよ――」
「ア・ン・ジーですわッ! いい加減、憶えてくださいませんこと!?」
「あんたはガキを相手してくれ。相当ムカついてるみてェだし、打ってつけだよ」
「……やぶさかではありませんけど、それは……」
「あんたにしか頼めねぇ役目ってこった」

 おそらくフィーナではクトニアを仕留められないと考えたニコラスは、
アンジーに少年兵を攻めるよう言い置くと、タスクと共にパニック状態の青年へ突撃していった。
 レナスが戦列に復帰するまで待ってはいられない。それまでに出来る限り、敵は減らしておくべきであった。
敵の隊列が崩れたと見れば、フィーナも掃射を開始することだろう。
少年兵は狙えずとも、他の将兵ならば仕留め易いとの判断だった。

「志を阻む者たちを迎え撃つんだッ!」

 両刃剣を振り翳したクトニアの号令を受けて、兵士たちがライフルの照準を合わせていく。
白刃が振り落とされるのを合図として、一斉に撃発される筈だ。
 しかし、ニコラスにもタスクにも恐れはない。致命傷を負う前に標的を倒し切れると確信しているのだ。
何しろ相手は恐慌状態に陥っている。防御も回避も不可能と見えた。




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