6.月下の大橋


 鉱山から流れ出した大量の湧き水を生活用水に利用する工夫が凝らされているポディーマハッタヤには、
他の町村と比べて格段に大量の水路が設置されている。
 家屋に隣接する小川へ水車を設けて古風なカラクリを稼動させる住民も少なくはなく、
郊外には電力を得る為の水力発電施設も建造されていた。
 水車に毛が生えた程度の簡素な発電施設では一度に得られる電力もごく微量であり、
採掘作業に用いるドリル等の重機へ充てるには到底足らないものの、
日常生活を送る上で使う分にはむしろ十分過ぎるほどで、水力発電は主に各家庭へ配されているのだ。
 とかく“鉱山の街”と言えば、砂と埃に塗れた乾燥し切った場所を先入観にしてしまうものだが、
ポディーマハッタヤに限って言えば、乾燥どころか湧き水とそれを利用する水路のお陰で
乾くどころか潤いに満たされていた。
 生活の知恵とも称えるべきか、自然環境に沿うライフスタイルを確立させたポディーマハッタヤの住人たちは、
水と土の恩恵を存分に引き出したと言える。

 街の至る場所を流れる水路は人々の生活を成立させる大事なライフラインなのだが、
夜ともなるとそれとは別の顔を覗かせ、風流人たちを喜ばせていた。
 生活の音が途絶え、街中がシンと静まり返る夜には、街中の水路が透明感溢れるアンサンブルを奏でるのだ。
 魚の跳ねる音、小川独特の囁きのようなせせらぎ、急流の押し寄せるような激しい音等が
石やセメント、アスファルトと言ったポディーマハッタヤの町並みに反響して奇妙な音色を紡ぎ出し、
星や月と宵闇のダンスホールで踊り明かすのである。
 昼間によく耳にする鉱夫たちの威勢の良い笑い声も活気が宿っていて大変に魅力的だが、
夜のポディーマハッタヤが奏でる静かで厳かでどこか寂しげな音色は、
一定(いちじょう)でない水の流れとあいまって世の無常さを映し出し、えも言われぬ風情を醸すのだ。

 とりわけ大量の湧き水が流れ込む川にはトニーゴンザレス・ブリッジなる橋梁が架かり、
今時珍しいこの総木造の橋梁は、ポディーマハッタヤ随一の観光名所でもあった。
橋の真ん中まで歩を進めると、ちょうどドライラム・マウンテンを一望できる大パノラマになっている点も
トニーゴンザレス・ブリッジを人気の観光名所たらしめる大きなポイントの一つ。
 川辺にホタルの舞う夏場にはトニーゴンザレス・ブリッジは昼夜問わず訪問客が大挙する状況へ陥るのだが、
今現在はオフシーズン。橋の上には人影らしい人影は見当たらなかった。
 ………ただ一人を除いては。

「………最近の俺はこう言う役回りが多い気がするな………」

 件のトニーゴンザレス・ブリッジの欄干に凭れ掛りながら独り寂しげにボヤくのは、
全裸にコートのみを羽織った変質者―――ではもちろんなく、夜が更けてもなおグラウエンヘルツから
変身の解けないアルフレッドだった。

 ハーヴェストを向こうに回し、ムルグと共にサルーンを飛び出したハズなのだが、今、彼は独りぼっちである。
 すぐさま彼らの後を追いかけたフィーナを含めて、最低でもこの場に三人と一羽は居合わせなくてはおかしいのだが、
どういう理由(わけ)か、彼は、今、独りぼっちなのである。

「………二枚目を気取るつもりは無いが、それにしても………くそぅ………っ………」

 何をそうボヤいているのか、また、どうして独りぼっちでいるのか―――二つの疑問に答えは一つだ。
 大切な恋人を横から奪い取って行こうとする憎きハーヴェストと雌雄を決しようと
勇んで飛び出したまでは良かったのだが、追いかけてきたフィーナにさんざんに叱られる内、
最初こそ強気だった反論がだんだん弱まっていき、「周りの人の迷惑を考えないで暴力に走るなんて最低だよっ」と
呆れられる末期には、あれほど対抗意識を燃やしたハーヴェストにまで平身低頭と言う状態に成り下がっていた。
 ここで侠気(おとこぎ)を見せて「黙って俺に随いてこい」と大見得を切れれば、
ハーヴェストに傾いていたフィーナの気持ちを一気に引き戻すことも出来たのだろうが、
不器用で口下手――こう言った類の感情表現では特に――な彼には、どうしてもその機転が利かず、
言われるままにやり込められた末、フィーナにもハーヴェストにも、おまけに結託していたムルグにまで見放されて
独りぼっちの夜の虚しさを噛み締めることとなったのだ。

 勿論、宿を締め出された訳ではないので、部屋に戻ればフィーナたちとも顔を合わせられるのだが、
彼にも彼なりの“男のプライド”がある。
 嫉妬をフィーナに呆れられ、束縛をハーヴェストに詰られ、怯惰をムルグに蔑まれ………好き放題に言われる原因が
自分にあったとアルフレッド自身も認めているが、だからと言って、その全てを受け止めるつもりはない。
 向こうにもアルフレッドの言い分へ耳を貸さないと言う非があった訳だから、それについての謝罪があるまでは
今度の論争を進展させようとは考えていなかった。顔を合わせるのもまっぴらだ。

 ………バツが悪くて部屋に帰りづらいのか、はたまた、ほとぼりが冷めるまで
時間を潰そうとしているだけなのかも知れないが、彼なりの“男のプライド”に配慮して、
その辺りの裏事情にはあえて深く触れないようにしておこう。
 世の中には知らないほうが円滑に行く人間関係もあるのだから。

 かくして意地の張り合いの様相を呈してきたパーティ内部の揉め事にアルフレッドの溜め息は尽きず、
強硬な女性陣への不満を噛み潰しながらほっつき歩く内、トニーゴンザレス・ブリッジへ辿り着いた次第である。

 先に述した通り、グラウエンヘルツから未だに逃れられずにいるアルフレッドは、
夜の闇に同化してしまいそうな色合いのロングコートを今も身に纏っている。
 日中はさんざんに好奇の目を向けられて参ったこの出で立ちだが、薄く雲のヴェールが掛かった三日月が
東へ傾く頃ともなればさすがに誰の視線も気にしなくて済む。
 なにしろ遠くに見える広場の時計台は深夜二時を差しているのだ。
 いかに鉱夫たちが派手派手しい夜遊びを好むとは言え、翌日の採掘に響くような真似はしないし、
そのような時間帯に世間話をする主婦など居るハズがなかった。
 シーズン前のトニーゴンザレス・ブリッジにはアルフレッド以外の人影も見られず、
人目から逃れる必要がなく、かつ、独りで思案に耽るシチュエーションが期せずして彼の前に拓けていた。

「正義―――か………」

 不倶戴天の敵の口癖を諳んじながら、アルフレッドはそこに込められた彼女なりの言い分を反芻する。
 フィーナのことが大切なら、成長を阻害せずに自由に羽ばたかせてやるべきだ―――
その言い分は理解できる。自分が本当にフィーナの足枷となっているのなら、
事後をハーヴェストへ任せて身を引くことも考えるだろう。

 だが、人の心と言うものは、得てして理屈では推し測れないものだ。
 理屈では、アタマではハーヴェストの言い分を受け止めてはいるものの、
昨日今日出逢った人間に何が解るのかと言うのがアルフレッドが本音とするところである。
 自分のほうが数倍も―――いや、比べようも無いほどに深くフィーナのことを理解し、愛している。
その自信は絶対に揺らがないとアルフレッドは胸を張って断言できる。
 確固たる想いが裡で燃えている以上、ハーヴェストの言い分を鵜呑みにしてフィーナを送り出すことなど
アルフレッドには出来ようハズも無かった。

 旅立ちの前夜に父と交わした約束を、どうしてどこの誰とも知れない馬の骨に託せるものか。
誰よりも一番に想うフィーナを、どうして自分以外の誰かに委ねなければならないのか。
 男の傲慢と罵倒されようとも、成長を阻害する自分勝手だと軽蔑されようとも、
フィーナの傍に立ち、あらゆる困難から守り、進路に迷う手を握り締める―――それがアルフレッドの全てだ。
 彼にとって、まさしく生きる全てなのだ。

 生き甲斐の全てを奪おうとする者の手を振り払おうとするのは、人間として当然の行為だ。
 ハーヴェストも、フィーナも、それが解っていない。解ってくれない―――そうアルフレッドは独りボヤき、
ボヤきながら素直にその想いを伝えられない自分の不甲斐なさを悔やんでいた。

「―――随分と融通の利く正義もあったもんだわな。っつーか聴いて呆れらぁ。
正義とか言うもんさえ掲げてりゃあ、どんな野郎でもブッ殺してOKなんざ、ガキの言い草だぜ。
手前ェの都合よくカッコいいお題目を捻じ曲げてるだけじゃねーか」
「―――――――――ッ!?」

 ―――“正義”を論じた呟きへ次なる言葉が添えられた…が、只今の声はアルフレッドのそれではない。
 粗暴な性格が如実に表れた野太い声の持ち主に、誰に発した訳でもない独り言に反応を返してきた人影の正体に、
アルフレッドはたった一人だけ思い当たるフシがあった。
 餓えた肉食獣さながらに獲物求める血走った瞳は恐ろしく、獰猛なる気性が巨岩のような強面に表れた男だ。
 油断なく攻撃体勢を整えながら横槍の突き入れられたほうを窺うと、そこには予想していた通りの人影が認められた。

「………貴様は………ッ!」
「狐に摘まれたって声出しくさりやがって。そんなシケた空気まとわす野郎じゃつまんねーだろうが」

 街灯を浴びつつ橋のたもとからアルフレッドを睨んでいるのは、スマウグ総業との騒動を皮切りに
彼と二度もの立ち回りを演じた無頼漢―――フツノミタマだった。
 殺劫の碑文たるスカーフェイスと、交差する傷痕の間隙に灯った二つの妖光の爛々と輝く様は、
フツノミタマのシンボルとも言えるものであり、例えシルエットが宵闇に塗り潰されていたとしても
決して他の何者かとは見間違えないだろう。

 ましてドスを右手に携えているとなれば、いよいよフツノミタマ本人の証しである。
 こちらもアルフレッド同様に臨戦体勢に入っており、右手に握ったドスを最速で口元まで持っていけるよう
姿勢が前傾気味だった。
 勿論、向こうに回した銀髪の青年よりの先制攻撃を警戒し、押っ取り刀で戦闘準備を整えたわけではなく、
フツノミタマは最初からアルフレッドと殺り合うつもりで前傾に姿勢を作り、得物のドスを構えていた。

 ここトニーゴンザレス・ブリッジにて戦端が切って落とされたなら、この体勢から一足飛びに
アルフレッドの懐まで潜り込み、色白な首筋へと得意の居合抜きを振り抜くことだろう。
 二度もの手合わせでフツノミタマが操る居合抜きの恐ろしさを身をもって学んでいるアルフレッドにとって、
彼の動きは身じろぎ一つたりに至るまで見逃せなかった。
 鞘を口に咥えた状態から俊速果断で白刃を抜き放つフツノミタマの居合術は、
それほどまでの警戒を張り巡らせてもまだ不足と冷汗するような鋭さを秘めているのだ。
 僅かでも視線が別の物に移った瞬間、首を飛ばされるだろうとの畏れがアルフレッドにはあった。

「貴様、シェインのトラウムに打ちのめされたんじゃなかったのか? 
気色悪い虫ほどしぶとく、往生際が悪いと言うが、まさに貴様のことを指した言葉だな」
「あんときゃさすがのオレも死ぬかと思ったぜ。バカでけぇ鉄の塊が飛んで来やがったわけだかんな。
―――だがよ、あれくらいでスクラップになるようじゃ、この世界、渡って行けねぇのよ」
「つまり、ダメージは軽微と言うわけか。………実力か悪運かは、この際、論外にするとしても大した生命力だな」
「軽微なもんかよ。あのクソガキの出したナックルパート、骨の髄まで響きやがったぜ。
お陰で全治二週間だ、この野郎ッ! 責任取ってくれやがれってんだッ!」
「殺すつもりで突っ込んできた人間に賠償しろとでも言うつもりか。盗人に追い銭ほどバカげたモノは無い」

 全治二週間と本人は申告しているが、左腕は最初から包帯で吊っているし、
それ以外の目立った外傷と言えば顔面を走る二筋の痕――それも大分古傷――くらいである。
 外見的な変化が感じられないにも関わらず全治まで二週間を要すると謳ったと言うことは、
よほど内臓へダメージが響いたということなのだろうが、当人は血色も今まで以上に優れており、
溌剌と話すフツノミタマからは損傷を被った内臓を庇う痛みや事後の疲弊は全く感じられなかった。

(………やはり狙ってきたか………何度も何度もしぶとく………!)

 スマウグ総業の残党を全滅させた先日の戦いの折にグラウエンヘルツとのリターンマッチへ
執心していたフツノミタマが再びアルフレッドの前に姿を現したと言うことは、つまりそう言うことなのだろう。
 しかも、現在、アルフレッドはグラウエンヘルツに変身している。“猫”との決着を望むフツノミタマにとっては
これを置いて他に無い絶好の機会である。

 手薬煉引いてその機会を待ち侘びていたフツノミタマの姿が瞼の裏に浮んできそうだ。
 ハーヴェストに吹っかけられたような正義の論議を、フツノミタマの前で交わした記憶がアルフレッドには無かった。
おそらくサルーン、もしかするともっと早くから尾行され、会話の一切を盗聴されていたのだろうが、
一体、いつどこで盗聴されていたのか、全く心当たりがない。
 完全に気配を消してすぐ近くにまでにじり寄っていたフツノミタマの器量へアルフレッドは改めて戦慄を覚えたが、
いつでも殺せる距離にありながら、それを抑えてあえて一対一の勝負に持ち込もうとする変質的な固執にこそ、
本当の意味で身震いを禁じえなかった。

 何故、そこまでグラウエンヘルツとの勝負にこだわるのか―――それをフツノミタマに問い質したところで
納得できる理屈が返ってくるとは思えなかった。
 理論や理屈で行動や動機の説明できる人間であれば、破滅的な振る舞いへと走る前に
理性と言うストッパーが意識下に作用し、暴走を食い止めるよう出来ているものだ。

 フツノミタマには、それが決定的に欠損している。
 スマウグ総業の社員どもを煽動して体の良い尖兵に仕立て上げると言った悪辣な知識や経験は豊富なようだが、
人間のリミッターとも言うべき理性はおよそ持ち合わせてはいない。
 裏返せば、人間としてのリミッターやストッパーの類を持ち合わせていないからこそ、
重犯罪者とは言え、娑婆に戻って働いていたスマウグ総業の社員たちを捨て駒のように扱えたと言えよう。
 それも個人的な目的達成の為に他者の命を使い捨てられるのだから、相当に人格が破綻していると断じざるを得まい。

 勝つか、敗れるかの二択しか想定していないフツノミタマは、ある意味においては誰よりも潔いのかも知れず、
実はこれほど御し易い相手もいなかった。

「狙いはやはり俺か? ………今は貴様の望んだ通りの姿でいるしな」
「何度も同じことを言わすなやッ! 当たり前ェだろうがッ! コケにされたまんまでいられるか? ………いられるかァッ!!
オレをコケにしくさりやがった“猫”をブチ殺してこそ、本当のケリがつくってもんだぜッ!!」
「貴様をコケにした覚えは無いのだがね」
「そう言う態度がコケにしてるっつってんだよ、クソガキがぁッ! おまけにとっておきまで出し渋りやがってよォッ!
こちとらおっぱじめた喧嘩にケリつけてぇだけなのによぉ、てめぇが余計なことしやがるから、
どんどん話がこじれるじゃねーかよ。どうしてくれんだ、オラッ? あァんッ?」
「逆恨みも甚だしいな。大体、決着をつけてどうなる? 目に見えない自己満足の為に非生産的な戦いをしても
お互いに無為な労力だろう?」
「抜いたヤッパが鞘に落ち着くときは、刃先向けた相手がおっ死ぬか、
鯉口切ったオレ自身がおっ死ぬかのどちらか一つなんだよ。………どっちが強ェかを決める。
刀の前ではコレしか占えねぇんだよッ!!」

 グラウエンヘルツに変身したアルフレッドとフツノミタマ、どちらがより強いのかを見極めたい。
首尾一貫してフツノミタマが主張している望みを、アルフレッドは鼻白んだ気持ちで聴いていた。
 合理主義者に近いアルフレッドにとっては力と力の激突による勝敗や序列など無意味の長物であり、
何の魅力も涌かなかった。

「………脳味噌が筋肉で出来ている人間は言うことが違うな………」
「てめぇ、オラァッ!! またオレをコケにしやがったな、コラァッ!! 
言っとくがなぁ、オレぁてめぇらよりずっと年上なんだぞッ!? 敬いやがれよッ! 尊びやがれやッ!」
「戯言に付き合ってやる気は無いが………望み通りに勝負はしてやる。それで貴様の気が済むなら、
いくらでも掛かって来い。全て完璧に叩き落してやる」
「ようやっとノッて来やがって………スロースターターにも程があるぜッ!」
「ただし、俺たちがお前らに勝ったら、………もう二度と俺や俺の仲間たちの前に姿を出すな。
これで本当の決着だ」
「上等ッ! ケリつけるってのは、やっぱこうでなくちゃあよォッ!!」

 この一言だけで問題は万事解決に向かう。
 ただ短絡に両者間の優劣を決するよりも“副賞”を設けたほうがよほど発展性があるではないか。
いかにフツノミタマの居合術がスピードに長じているとは言え、シュレディンガーとドスでは勝敗は知れている。
 こちらにとって好都合な条件をフツノミタマに呑ませた上で撃退せしめれば、
今後の旅における後顧の憂いも断てると言うものだ。

 彼が好みそうな挑発に織り交ぜながら条件をちらつかせてみれば、案の定、フツノミタマ本人も気乗りし始め、
アルフレッドの謀った計略は上手い具合に効力を発揮していった。
 あとはこの小煩い蝿を撃破すれば計略は完了である。いや、撤退させるのみに留まらず、
いっそこの場でもって完全に消滅させてしまうのが得策ではなかろうか。
 昂ぶった猛牛の如く目の前の獲物にのみ意識を囚われてしまい、
短慮にも自分が口車に乗せられていることにも気付かないフツノミタマが相手では、
そうした胸算用も容易く思えるから不思議だ。
 心の裡で舌なめずりさえしている己を省みて姿恰好以上に“猫”らしいと自嘲するものの、
こうも完璧に計略が成っては、笑みだって自然と込み上げるだろう。

 フツノミタマの持つ飽くなき闘争心と潔さに付け入って好条件の勝負をしてやろうと
アルフレッドが、一歩、前に踏み出した直後―――

(―――これは………まさかッ!?)

 ―――あってはならない異変が彼の身に起きた。
 アルフレッドの身体を中心として夜の闇を塗り変えんばかりの眩い光爆が起こったのだ。
 突如として常なる軌道を逸した太陽が、本来なら安らぎ静寂(しじま)にあるべき世界へ
時の法則にそぐわぬ旭日の光をさらしたかのような光爆だった。
 実際、朝の訪れと勘違いしたニワトリが、寝坊したとばかりに大慌てで自分の使命を果たし始め、
鉱夫たちが叩き起こされると言う二次災害的な珍事も同時発生していた。

「てめぇって野郎は………どこまでも人のコトをコケにしねぇと気がすまねぇタチみてぇだな、オラァッ!!
あんまナメてっと、生きてるのがイヤになるくれぇギッタンギッタンにすっぞ、あァッ!?」

 何の脈絡もなく発生した光爆によって白んだ視界が元の彩りへ復する頃、
今度は地響きもかくやと思わせる怒号がアルフレッドを見舞った。

 例によって例の如く凄まじき怒号は、カルシウムが足りないにも程があるフツノミタマから
発せられたものだった。
 光爆はグラウエンヘルツの変身が解けた合図であり、そのタイミングと言うのが、
今まさにフツノミタマが望む“猫”との決着へ踏み出した直後だったのだ。
 グラウエンヘルツとの決着を了承してやった直後に変身が解けてしまったのだから、
またしてもコケにされたとフツノミタマが短髪を掻き毟っても無理からぬ話である。
 嬉々として鞘を口に咥え、喜び勇んで初太刀を抜き放とうとした直前に起こったこのアクシデントには、
さしものフツノミタマも顔面からズッコケていた。

「わざとだろ? なぁ、今度のはわざとだろ? そこまでオレをバカにして、てめぇは何が楽しんだッ!?
楽しくねぇんだよッ!! ギャグだとしたら、全く笑えねぇッ!! てめぇ、芸人の才能ゼロだわァッ!!」
「わざとと問われれば、不可抗力としか答えられないのだが………」
「―――ってぇことは何か? オレと戦る段になったら、またティビシ・ズゥが悪戯心出したってのか?
………信じられるわけねーだろッ!!」
「だよなぁ………」

 ティビシ・ズゥとは幸運を司る神人であるが、フツノミタマが喩えに挙げた通り、
その神人がイタズラ心でわざとアルフレッドを困らせているしか思えなかった。
 なにしろ狙ってやっているとしか思えないタイミングでの変身解除である。
飼い慣らしていない主張したところで、フツノミタマに信じて貰えるかはとてつもなく疑わしい。
 出鼻を挫かれ、最大限まで高まった闘争心をコケにされて………頭に血が昇っているだろうから、
余計に話がこじれる可能性も考えられた。

「だが、オレだってバカじゃあねぇ。てめぇがこうやってオレをコケにしくさりやがったときのことも
ちゃんと想定しておいてやったぜぇ………」

 だったら必要以上にがなるなと言ってやりたいところだが、ここは自分に非がある。
意思に反した変身解除であったとしても、だ。
 彼の怒りを尤ものものとし、黙って付き合ってやろうとアルフレッドは反論を引っ込めた。

 その殊勝な態度に満足したのか、わなわなと震わせていた肩から怒気を消し、
口元を微かに吊り上げたフツノミタマは、やおらズボンのポケットから何かを取り出すと、
長さにして五センチにも満たない小さな筒をアルフレッドに向けて掲げて見せた。

 だが、如何せん足元も覚束ないような暗がりでは、月光や街灯の助けを借りているとは言え、
小さな物体を見極めるのは至難である。
 しかもアルフレッドとは数メートルも距離があるのだ。
 いくつも重なった悪条件の下でほんの小さな筒を見極めろと言うほうが土台無茶な要求であった。

「コレが何だかわかるか、てめぇ?」
「お前はバカか? この暗闇の中でわかれと言うほうが無茶な要求だ。
俺には貴様がピースしているようにしか見えない」
「あぁンッ!? こっちが雰囲気出して謎かけてやってんだから、ニュアンスで察しろやッ!!
誰がピースなんかするかッ! 記念撮影か、バカがッ!!」
「言うにことかいてそれか。相変わらずバカ丸出しだな」
「―――ケッ!! そーやって気取ってられんのも今のうちだかんな、クソガキがぁッ!!
コイツの正体を知って腰抜かしやがれってんだッ!!」

 あまりにも頭の足りそうにないフツノミタマが用意したものだ。いかに自信満々であっても
どうせ大した代物でもあるまい…と高を括っていたアルフレッドだが、
それは彼の予想を大きく覆すモノであり、正体を耳にした瞬間、あまりの衝撃に言葉を失った。

「水銀だ―――」

 ガラス製の小さな筒の中には水銀が注入してあるとフツノミタマは言った。

「―――コイツをこの橋から垂れ流したら、ポディーマハッタヤはえらいことになるわな。
下流には居住区。さて、何人がくたばって、何人が後遺症に苦しむことになるやら」
「正気か、貴様ッ? 一体、何の目的があってそんな暴挙を………ッ!」
「目的ィ? てめぇは若年性健忘症かぁ? ………“猫”を出しやがれっつってんだよ」
「………………………」
「“猫”と戦うのがオレの目的だ。それをてめぇは何度もコケにしてくれやがってるけどなッ!」

 ここに至ってアルフレッドは、フツノミタマの本質を失念していたことを悔やんだ。
 勝負事に対して非常に潔いタチかも知れないが、相手は根っからのアウトローだ。イリーガルの徒なのだ。
 例えば水銀を流されたくなければグラウエンヘルツに変身するよう脅迫して来たとしても、
何ら不思議な話ではない。
 そうした悪辣な手段を平然とやってのけるのが、アウトローのアウトローたる由縁なのである。

 何しろフツノミタマはスマウグ総業の社員たちを捨て駒のように扱える非情さを見せている。
ともすれば、先に思い浮かべた脅迫を実際に使ってくるのは想像に難くなかった。
 彼にとってポディーマハッタヤの住民すら脅迫の切り札に過ぎない。
 その脅迫の為に、自分勝手な要求の為に、ポディーマハッタヤにどれだけの犠牲が出ようが
彼は少しも良心の呵責を感じないだろう。
 悪辣を極めた凄味が、水銀をチラつかせるスカーフェイスから噴出しているようにアルフレッドには思えた。

「決着だのケリだのとほざいてやがるが、てめぇがマジにならなきゃ始まらねぇ話だ。
いつまでも余裕こいて変身しねぇっつーなら、この街の、罪も無い皆サマが、てめぇの為に死―――」
「―――させるものか………ッ!」

 果たして予測した通りの脅迫でもってグラウエンヘルツへの変身を強いてきたフツノミタマへ
アルフレッドは拳でもって返答した。
 ティビシ・ズゥのいたずらが再び起こり、もう一度、グラウエンヘルツに変身できることが最適な解決なのだが、
そんな奇跡が都合よくもたられないことをアルフレッドは誰より一番理解している。

 ならば、取るべき手段はただ一つ。
 水銀がポディーマハッタヤの水を冒す前に全速力でフツノミタマを打ち倒し、
毒液の納められたガラスの筒を奪取するしかない。

「貴様もわからない男だな。グラウエンヘルツは俺の意思に関係なく発動し、解除される厄介者だ。
それを水銀で脅迫しようとは全くの無意味。脅迫と呼ぶにはあまりにお門違いだ…ッ!」
「てめぇの都合なんざ知るかッ! 飼い慣らしてねぇってんなら、今ここで調教しやがれやッ!
………そうだ、しつけちまればいいじゃねぇかよ。人間ってのはよぉ、追い詰められりゃ、
大概、奇跡を起こすだろ? 今こそ手前ェの限界を超えてみせろや、なぁッ!?」
「随分と格好の良いことを言う………ッ! それで要求が理不尽でなければ、子供も魅了できただろうなッ!」

 猛然と突撃してくるアルフレッドから明確な闘志と宣戦布告を受け取ったフツノミタマは、
水銀の入った筒をポケットへ仕舞い込むと、正面切って迫る銀髪の宿敵を出迎えるように
自らも俊足で駆け出した。
 すれ違い様に居合抜きを繰り出し、先ほど浴びせ損ねた初太刀を決めるつもりなのだろう。
 グラウエンヘルツに変身こそしていないものの、
アルフレッドが並みのレベルを超えた猛者であることに変わりは無く、
強敵と切り結ぶ愉悦へと向かうフツノミタマの表情(かお)は、半ば陶酔に歪んでいた。
 それでいて口元を歪めるあたり、口内にアドレナリンの苦い味が広がっているのかも知れない。

 果たしてトニーゴンザレス・ブリッジの中央にて馳せ違った両者は、
絶妙の身のこなしでもって互いの攻撃をかわし、着地するなりこれに用いた足を機軸として急速旋回、
向き直るや再び切り結ぶ。
 通じて三度目の戦闘ともなれば互いの癖と言うものが読めてくるらしく、
フツノミタマが逆手に構えてドスを振り上げても、剣閃が起こるより早くアルフレッドによって払い落とされ、
反撃とばかりにアルフレッドが脇腹を狙った肘打ちを仕掛けたとしても、
フェイントとして織り交ぜたジャブの段階でフツノミタマに防がれている。

 肘打ちの直撃を諦め、返す刀でバックスピンナックルを繰り出すアルフレッドだったが、
逆に右の肘打ちで手首を打ち据えられ、体さばきをフツノミタマに制されてしまった。
 ほんの一瞬のことだ。だが、ほんの一瞬のアドバンテージが勝敗を分けるのである。
 アルフレッドの身動きを封殺せしめたフツノミタマは、肘打ちを繰り出した右手に握り締めたドスを勢いよく振り抜く。
逆手に構えたまま腕を伸ばすようにして切っ先を走らせた為、自然、斬ると言うよりも突き刺す恰好となった。
 眉間を狙って繰り出された鋭角な刺突だが、これはド本命に見せかけたフェイントである。
ドスを振り抜くと同時にフツノミタマはアルフレッドの脛を蹴り上げて足元を払い、転倒を図った。
 バックスピンナックルの封殺から至近距離での刺突を連続して撃ち込まれ、
ただでさえ体勢を崩しかけていたアルフレッドは、フツノミタマの足払いには対応し切れず、
ついに横倒しに転ばされてしまった。

 フツノミタマの狙いはここにあった。
 いかにバランスを崩しているとは言え、アルフレッドは体術のプロフェッショナルだ。
バックスピンナックルが封殺されても、その体勢からでもフツノミタマの右手首を掴むことは可能だし、
掴むことさえ出来れば、投げ技なり関節技なりを繰り出して窮地を脱する方策を思い付くに違いない。
 そこでフツノミタマは先手を打って体勢を完全に崩し、横転させようと図ったのである。
 いかに体術に優れるアルフレッドと言っても、転倒させられてしまっては満足に技も使えまい。
 横倒しになりながらも払われた足で浴びせ蹴りを繰り出すなど、執念とも言える反撃を試みるアルフレッドだったが、
さすがに無理な体勢からの攻撃では狙いが定まらず、頬をかすめる程度のダメージしか
フツノミタマには与えられなかった。

 体勢を崩し、攻撃力を激減させてしまえば、最早、アルフレッドもまな板の上の鯉。
煮るなり焼くなり自分の好きになる―――そう考えていたフツノミタマではあったのだが、
アルフレッドの修得した格闘技術は、彼の考えていたよりも遥かに豊富で、卓越されていた。
 地面に背をつける恰好で横転したアルフレッドは、何を思ったのか、その体勢のまま足をバタつかせ、
尻を左右に振りながらフツノミタマに迫っていった。
 子供が駄々をこねるゼスチャーに見えなくもないが、足の動きはアトランダムなものでなく、
バタつく度に腹、膝、脛とフツノミタマの身体を正確に打ち据えていく。
 珍妙な動きとは裏腹に、それも立派な蹴り技であった。

「リバースビートル―――見た目が無様だから、あまり使いたくない技なんだがな」
「ひっくり返された昆虫がもがいてる様子にも似てるがよぉ、まさかそのまんまな命名してやがるとはな。
てめぇ、センスがあるのか無ぇのか、わかんねぇぜ」
「放っておけ。名前など便宜上付けているに過ぎない」

 隠し芸のような蹴り技でまんまと虚を突かれ、隙をこじ開けられたフツノミタマは
アルフレッドに立ち上がる好機を許してしまったが、こればかりは仕方あるまい。
 そう納得せざるを得ないほど、アルフレッドの動きは想像の範疇を超えていた。
 フツノミタマ自身、全く想定していない技を次々と披露してくれるアルフレッドの底知れなさを
心底称賛しているくらいだ。
 先ほどよりも更に嬉しそうに吊り上がった口元がその証拠である。

「てめぇは本当に面白ェ男だぜ。これで“猫”になってりゃ言うこと無ぇんだがなァ―――」

笑みに歪む口に咥えた鞘へ再びフツノミタマのドスが納められる…が、戦いの終結を体言した訳ではない。
言わずもがな十八番の居合抜きを繰り出す為の納刀だ。

「―――まァ、せいぜい毒を奪えるよう足掻いてみせるんだなァッ!!」
「言われるまでもない…ッ!」

 ドスの鯉口を切り、いつでも抜刀出来る状態を整えたフツノミタマだったが、
アルフレッドの懐へ一足飛びで踏み込みながらもそのまま斬りかかりはせず、いきなり横へと飛び跳ねた。
 それをフェイントと見たアルフレッドは油断なくフツノミタマの動きを追跡していたのだが、
彼が橋の欄干を背にした直後、それまで目で追えるレベルだったスピードが急激に加速した。
 通じて二度の戦いの中でフツノミタマの発揮できすスピードまで見抜いた気でいたアルフレッドは、
この急激な加速に対応し切れず、超速でもって繰り出された一閃をついに肩口へ喰らってしまった。

「デケェ口を叩きてぇなら、それに見合うだけのモンをもってこいやッ!! あァッ!? ハンチク野郎がぁッ!!」

 続け様にフツノミタマが繰り出したのは、コマの如く高速回転しながらドスを振り回し続ける、
『殲風(せんぷう)』なる剣技である。
 ガードごと血肉を抉り取るような回転斬りの前にアルフレッドは苦慮し、腕、太腿と傷を増やしていく。
 このままではいずれ頚動脈まで持っていかれると判断したアルフレッドは、死中に活を求め、
斬撃の渦中へ、フツノミタマの懐へと飛び込んだ。
 敵が得意とする間合いに飛び込むと言うことは、すなわち殺してくれと懇願しているようなものだが、
攻撃の起こった直後に繰り出される刃を受けぬよう身を屈めば、頭上を白刃が掠めるのみで直撃を被ることはない。
 勿論、言うほど簡単なことではなく、一歩踏み込みを誤れば必死確定だ。
アルフレッドの反射神経あってこその芸当である。

 剣閃から外れた低い位置から猛然とタックルをぶちかましたアルフレッドは先ほどのお返しとばかりに
フツノミタマの体勢を崩し、怯んだところへ得意の『ワンインチ・クラック』を叩き込んだ。
 抉り取るような回転斬りの威力は確かに痛烈だが、それだけに極めて大振りで、
一度、間合いを詰められると小回りが利かない弱点があった。
 アルフレッドはその弱点を見抜き、的確に突いたのである。

「二度も小細工は通じんぞッ!」

 大音声で吼えるアルフレッドが見抜いたのは『殲風』の弱点だけではなかった。
 『ワンインチ・クラック』で吹き飛ばされたその身を空中で翻し、橋の欄干まで後退したフツノミタマを
アルフレッドは正面切って迎え撃つ。
 直後、フツノミタマが先ほどと同等の超速で突進してきたのだが、二度も直撃を被るアルフレッドではなく、
大音声にて宣言した通りに今度は半身を反らして斬撃をかわし切った。
 竹がしなる要領で反らした半身から強烈な肘打ちを振り下ろそうと試みたものの、
反撃が起こる前にはフツノミタマは対角線上の欄干にまで到達しており、これは失敗してしまった。

 超速の斬撃を回避されたフツノミタマは舌打ち混じりに身を翻し、欄干を背にするや再び斬りかかっていく。
 バカの一つ覚えのような突進の連発だが、三度目の攻撃からは突っ込む度にスピードに緩急が付けられている。
対角線上を往復する突進を続ける中で意図的にスピードを調整し、アルフレッドを惑わそうと言う腹なのだろう。
 しかし、そうした小細工もアルフレッドは見抜いており、緩急切り替わる斬撃の全てを巧みに受け流した。
 想定していた以上の成果を挙げられずに苛立ちを増していたフツノミタマの舌打ちが最高潮に強まったとき、
ここが頃合とばかりにアルフレッドは攻めに転じた。
 それまで棒立ち状態で突撃に対応していたのだが、十六度目の斬撃を回避するなりフツノミタマに倣って
橋の欄干まで一気に飛び跳ねた。対角線上に屹立する欄干を背にして両者向かい合った恰好である。

 フツノミタマが十七度目の突撃を繰り出したのを見て取ったアルフレッドは、欄干を蹴って飛び掛り、
迫り来る剣殺士の血刃に正面から突っ込んだ。
 フツノミタマの舌打ちがより一段と強くなる。「種がバラされたかッ!」。苦々しく歪んだ表情が
無言の内にそんな主旨(こと)を物語っていた。
 フツノミタマの急激な加速は、ここにカラクリがあった。身体能力を強化させるような秘術を用いたのでなく、
彼は欄干を蹴って物理的にスピードを跳ね上げていたのだ。
 バレてしまえば、何てことのない単純な細工だ。単純な細工ではあるものの、
実力が伯仲した者同士の格闘においては、些細な変化が勝敗を分けるものである。
 フツノミタマもそれを期して小細工を弄したのだが、今度ばかりはアルフレッドのほうが一枚上手だったようだ。

「てめ………ッ!」
「なんとも易い手品だったな。これが貴様の切り札だとしたらあまりに粗末で嘲笑う気にもならない」

 加速のカラクリを見破った上に全く同じ小細工を用いて突撃してきたアルフレッドに
せめて一太刀浴びせてやろうと得意の居合抜き『棺菊(かんぎく)』を放とうとするフツノミタマだったが、
飛び掛りながら空中で身体を捻って繰り出された後ろ回し蹴りとドスではリーチに差があり過ぎた。
 十八番である『パルチザン』でフツノミタマの眉間を蹴り付けたアルフレッドは、
それを踏み台にして後方へ跳ね返り、鮮やかな身のこなしで欄干の上に着地した。

「クッ………ソがあああぁぁぁァァァッ!!」

 カラクリを見破られた上に踏み台代わりに使われ、あまつさえ冷たく侮辱までされたフツノミタマは、
怒り心頭に達した形相で欄干の上のアルフレッドを追う。
 剣技も何もあったものでない大振りの横薙ぎを別な欄干へ飛び移ってかわしたアルフレッドは、
鼻息荒く睨んで来るフツノミタマを冷ややかに見下ろし、その猪突猛進ぶりを再び嘲笑った。
 更にアルフレッドは欄干から欄干へ身軽に飛び移り、律儀に追いかけてくるフツノミタマを翻弄しながら、
その都度、冷ややかな嘲笑を浮かべてみせる。

 フツノミタマを上手くかわしながらの挑発は、さながらマタドールの舞踏だ。
 愚弄されていることに逆上したフツノミタマはまさしく猛牛そのものの有様で、
アルフレッドが頭上を飛び交うと見るや、彼めがけて角の代わりにドスを投擲した。
 いくら腹に据えかねるものがあったとは言え、剣士がその魂を放り出すとはとても褒めれたことではなく、
武芸を嗜む者にとっては軽蔑すら抱く醜態である。

 しかし、アルフレッドは違った。
 軽蔑の代わりに薄ら笑いを浮かべながらフツノミタマの醜態を見下ろし、
闇夜裂いて向かい来るドスを半身反らして難なくかわして見せた。
 当然、フツノミタマは更に憤激して夜天を舞う銀翼の烏を口汚く罵るが、
この醜態をこそアルフレッドは狙っていたのだ。

 飛び移った先の欄干へ着地するや、アルフレッドは今度はより低空を、
向かってくるフツノミタマを目指して突進していく。
 ハメられたことに気付くも時既に遅く、急ブレーキをかけて踏ん張ろうとする
フツノミタマの延髄へアルフレッドは強烈な蹴りを見舞った。
 屈強な男と言えども、脳へ直接衝撃の届く延髄を打ち据えられてはひとたまりもなく、
フツノミタマはその巨体をぐらりと揺らす。
 それでも気を張って踏みとどまり、卒倒を免れたのは、さすがと賞賛すべきだが、
今回に限ってはその胆力がかえって不幸を招いたかも知れない。

 延髄蹴りによって大きく揺らいだフツノミタマの鼻っ柱へアルフレッドは追い打ちを喰らわせ、
次いで横っ面、更に首、だめ押しの鎖骨…と着地するまでの間に都合七発もの蹴りを直撃させていった。
 最後に見舞ったローアングルからの足刀は特に甚大なダメージを与えたらしく、
鋭角に喉仏を突き、とうとうフツノミタマに片膝をつかせた。

 激しく噎ぶフツノミタマの様子に勝機を見出さぬ者はなく、アルフレッドもトドメとばかりに
前回し蹴りを繰り出した…のだが、何を思ったのか、一撃必殺を望める人体急所には目もくれず、
フツノミタマの腰あたりに強撃を喰らわせていた。

 てっきりフィニッシュブローを打ち込まれるものとばかり思っていたフツノミタマも
何が起こったのか分からずきょとんとしていたが、次の瞬間にはアルフレッドの狙いを察し、
「こざかしい真似しやがらぁ!」と盛大に頭を掻きむしった。

 ふと蹴りの打ち込まれた箇所へ目を配れば、フツノミタマの腰の下、
ポケットの設けられた部分に何かで濡らされたような丸い染みが出来ていた。
 物の弾みでフツノミタマが粗相をしてしまったわけではない。
 アルフレッドへの脅迫材料にと持ち込まれた水銀が漏れ出してしまったのだ。
 フツノミタマが水銀を納めていたのは何の変哲もないただのガラスの筒である。
特殊加工のされた強化ガラスでもないのだから、強い衝撃を与えられれば割れてしまうのは当然であった。

「さあ、どうする? なおも毒に頼りたいのなら、ズボンを脱いで川に浸すしかないな。
その場合は公然わいせつ罪も付帯されるがな」
「る、るっせぇッ! みみっちい真似しくさりやがって………漢だったら奪いに来やがれやッ!」
「阻止するとは言ったが、奪い取るとは一言も言っていない。
バカ正直に正面突破を信じ込むとは足りないヤツだ」

 フツノミタマが強化ガラスの筒を持ち込んでいないという確信は無かったが、
彼の潔さ、転じてバカ正直な性格を鑑みれば、そこまで周到な用意をしてくるとも思えない。
 確率にして五分と五分だが、アルフレッドは筒の直接破壊を試み、
そして、その賭けに勝ち得たと言うわけである。

「こなくそがぁぁぁぁぁぁッ!」

 これで水銀がポディーマハッタヤを冒す心配はなくなったが、
徹底的にコケにされたフツノミタマの怒りは心頭に達している。
 夜天に放ってしまったドスの代わりに白木拵えの鞘を握りしめて殴りかかってくる彼を
どう打ち倒すか………ここからが本番だ。

「ブッ殺すのは決まってるとしても、とりあえず一発殴らねぇと気が済まんッ!
オラッ! 顔出せや、コラァッ!」
「そう言って俺が本当に首を差し出すとでも思ったか? 
自分からむざむざ殺されに行くようなバカがいるものか。そんな思慮すら足りんようだな」
「っくあーッ! 本当に可愛くねぇな、てめぇはッ! グダグダウダウダと屁理屈ばっかりよォ!」
「根本的なことを誤っているぞ。俺のは理屈で、お前のが屁理屈だ」
「うっせぇ! うっせぇッ! 漢なら身体一つで勝負しやがれッ!」
「しているだろう、初戦から。全く、お前と言う男は本当に………」
「可哀想なモノを見る目と溜め息はやめやがれッ!」

 轟々と風を切る辣腕を捌きながら、アルフレッドは一計を案じていた。
 フツノミタマはグラウエンヘルツとの決着を渇望してここまでやって来た。
これを最後の勝負にするとの条件を提示して開戦に及んだものの、
初っぱなから自分はグラウエンヘルツの変身を解いてしまっている。
 不可抗力での変身解除ではあるのだが、それを言い訳にしても彼は素直には引き下がるまい。
 あるいはグラウエンヘルツと戦えなかったのを理由に、
約束を反故にして再び襲ってこないとも限らない。

 港町で仕掛けられたような夜襲は二度と御免被りたいし、ハーヴェストの乱入によって
ただでさえ調子を崩しているのだ。
 ニコラスの為にも、これ以上、マコシカへの道中に危険を呼び込むことはできなかった。
 必ずここで決着をつけ、二度と付きまとわれないよう取り計らわねば………

「しゃあッ!! 取ったァッ!!」

 決着の手段へ思考を巡らせ、集中が散漫になりがちだったアルフレッドをフツノミタマがついに捉えた。
 豪腕でもってアルフレッドに抱きついたフツノミタマは、そのまま彼を羽交い締めにした。
 締め付けられた瞬間は、このまま絞め殺すか、あるいは背骨でもへし折るつもりかと
アルフレッドも考えたのだが、それにしては力の加減が妙だ。
彼の全身を覆う隆々とした筋肉や先程まで繰り出していた豪腕の素振りを見るに、
ドスを持て余すほどの相当な筋力を有しているハズなのだが、締め上げられているにも関わらず、
こちらから力を加えれば振りほどけそうな余裕を感じるのである。
 そうした”余裕”を残しながらもアルフレッドの身動きを完全に妨げ、封じ込めているあたり、
フツノミタマはこの技に相当手馴れているようだ。

 手加減しているのか、それとも全く異なる意図があるのかを探るアルフレッドの耳を
ふと何かの飛来する風切り音が打ったのはそのときだった。
 はっと脳裏に閃くものがあったアルフレッドは、フツノミタマから掛けられている力のベクトルが
上向いた瞬間を狙って大地を激しく踏み付け、一気に後方へ跳ね飛んだ。
いわゆる震脚の技法を応用したジャンプである。
 想定した以上の力が上方へ集中的に作用したことでバランスを崩してしまい、
それに乗じて羽交い絞めを振り解かれたフツノミタマは、アルフレッドの太腿を抉った飛来物を拾い上げるや、
口惜しそうに舌打ちして見せた。
 あるいは、“振り解かれた”のでなく自らの意思で羽交い絞めを解いたのかも知れない。
 ドス黒い血の付着した飛来物とは、フツノミタマが激昂のあまり、夜天へ投擲した月明星稀であった。

「飛刀術か。………小賢しいのはどちらだ」
「けっ、聡い野郎はこれだからウゼェぜ。そこは喰らっとけや」

 羽交い絞めに掛けられた不自然な力加減の理由がここに来てようやく氷解した。
 フツノミタマは、自身の放ったドスが万有引力の法則に従って自由落下するのを見越した上で、
アルフレッドを落下地点と目される場所に組み敷いておこうとしていたのだ。
 羽交い絞めに見られた奇妙な“遊び”は、自身がドスの落下に巻き込まれる前に
飛び退けるようにと置いた布石であろう。
 手馴れた手付きからして、同様の手口で既に何人もの敵を葬っているに違いない…が、
だとすると、この男、ますます侮れない。

 どの場所にどのような場所に、どれほどの速度で落下するかまでを正確に計算できなければこの技は成立せず、
少しでもズレが生じた場合、あらぬ方角へ自ら武器を捨てる結果に終わってしまうからである。
 自らが得物とするドスの特徴や重量を知り尽くし、己の備えた技量を短所に至るまで熟慮して
初めて完成される困難な飛刀術を、フツノミタマはいとも容易く操って見せた。
 技が外れたにも関わらず、意外とケロッとしている様子を見るに、迸った激昂や憤激も
アルフレッドをこの飛刀の罠に陥れる為の演技だったのだろう。
 何事につけて怒鳴らずにはいられない短気な性格を加味しなくてはならないが、
それすら罠に利用してアルフレッドをあと一歩のところまで欺いた手腕は、見事と言うよりほかあるまい。

 事実、短慮の激昂を猪突猛進のそれと思い込んでいたアルフレッドの表情(かお)、
「まんまと一杯食わされた」と非常に険しい。
 背筋に冷たい汗が伝っているのだ。これでにこやかであれと言うほうが無理な話ではないか。
 フツノミタマの放った飛刀術『天涙(てんるい)』はアルフレッドの左の太腿へ深い傷を刻んでいる。
蹴り技を得意とする人間にとって軸足を痛めつけられることは何よりも恐ろしい危機であった。
 利き足の問題ではなく、片方の足が健在であれば良いと言うものでもない。
軸足の動きが鈍ると言うことは、蹴りの全てが総じて弱体化する事態なのだ。
 つまり、軸足の踏ん張りが利かなければ、どれほど屈強に筋力で固めても蹴り技の真価を
発揮できないと言うことである。

 今、自分の状態はどうだ。
 考えの足りないヤツだと見下し切っていた相手に思いがけず一杯食わされたことへのショックは
明らかに平常心を乱しているし、深く抉られた左の太腿は動きの大幅な鈍化が予想される。
 対して、フツノミタマの状態はどうだ。
 確かに眉間や鳩尾、鎖骨、喉仏と言った各所に重大なダメージは被っているものの、
致命傷は一つもなく、痛みさえ堪えてしまえば何の差し障りもなく戦いを続行できる。
 冷静に考えてもアルフレッドは自分の不利を、形勢逆転の現実を認めざるを得なかった。

 再び手元に戻ってきたドスでもってフツノミタマが猛然と逆襲を開始し、
これを防ぐべくアルフレッドは彼の右の手首と腕を押さえ込んでいるものの、
やはり左の太腿に力が入り切らず、少しずつ少しずつ後退を余儀なくされている。
 正面から力と力でぶつかり合う戦いへもつれ込んだ場合、アルフレッドの勝ち目は薄いだろう。

 だからと言って勝敗を諦めるアルフレッドではない。
 力で押して敗れるのなら、技で翻弄して勝ちを得るまで…とフツノミタマの背後を奪ろうと
押しつ押されつの駆け引きを試み、もつれ合い、肘や肩を突き合わせる取っ組み合い、
………その末に、いつの間にかフツノミタマと背中合わせと言う状況になっていた。

「………………………」
「チィ………ッ! こーゆーシチュエーションが一等イラつくぜッ!! ったくよォッ!!」

 背中合わせに互いを牽制するアルフレッドとフツノミタマだが、どちらも迂闊には動けない状態だ。
左の太腿に走る鋭い痛みに身震いしようものなら、そこに生じた一瞬の隙に付け入り、
逆手に構えたドスがアルフレッドの心臓を一突きに仕留めるだろう。
 反対にフツノミタマが不用意に動いたなら、『ワンインチ・クラック』あたりで胸を強打された挙句、
頚椎を粉砕するような蹴りを、最後の力を振り絞った渾身の蹴りを叩き込まれるに違いない。
 蹴りに頼らずとも首を極めたまま地面へ落下させて頚椎をへし折るなど、
この状況に即した殺人技はいくらでもある。

 だから、動けない。動くに動けない。
 一つ打つ手を間違えたなら、その時点で生命に終止符を打たれてしまうのだ。
 じっとりとした汗が緊張として発露する様を相手の背中に感じ取らなければならない二人は、
そのなんとも言えない不快感に顔を顰めた。

「こんなグダグダな流れになるとわかってたらよぉ、ハナから仕掛けなかったのによぉッ!!
があああ〜〜〜ッ!! くそったれがぁッ!!」
「いちいち騒がしい男だな。自分の劣勢がそれほど苛立たしいか」
「つーか、てめぇだ、コラァッ! ようやく変身したてめぇと思う存分戦(や)り合えると
思ったのにこのザマだ。こっちゃ不完全燃焼なんだよッ!」
「不甲斐ない飼い主で申し訳ないが、そこは一つ諦めてくれ」
「いいや、諦められねぇな。オレを痺れさせたのは“猫”だ。その“猫”が相手でなけりゃ、
いまいち燃えねぇぜ。ああ、燃えねぇッ!!」
「………………………」
「しかも、代役はシケた面のクソガキと来たもんだ。二度もスカされてりゃ、イヤにもなるっつーんだよッ!!」

 背中越しに殺気をぶつけ合いながら、相手の出方を伺うアルフレッドだったが、
ここに来て、先程も胸を波打った違和の揺らぎが再び押し寄せて来るのを感じていた。

(………また猫か………なにがいいんだ、グラウエンヘルツの………)

 それは、何とも形容し難い、憤りにも似た揺らぎで、意識さえしなければ
全く気にならない程度の微弱なものだ…が、
一度、心に起こった波紋はなかなか鎮まってはくれなかった。

「黙って聴いていれば、猫だの変身だのとバカの一つ覚えみたいに言いやがって………」
「あァん?」
「先程から貴様と肉薄しているのは誰だ? 貴様と接戦し、貴様を追い詰めている相手は?」
「何言ってやがんだ、てめぇは?」
「貴様と背中を合わせているのは誰かと訊いているんだ。グラウエンヘルツに焦がれるあまり、
貴様はその幻を見ているのか? じゃあ、俺はなんだ? 貴様にやられたこの傷、この血は?」
「………てめぇ」
「人をコケにするのも大概にしろだと? ………それはこちらの台詞だッ!」

 心に感じる揺らぎと波紋を持て余しながら発したこの言葉も謀略の一つであった。
 グラウエンヘルツを餌に出来なくなった以上、自分自身へ変身に見合うだけの価値を
付与させるしかなく、その為にプライドの高い格闘者を装い、
フツノミタマの潔い闘争心を刺激しようと言うのだ。

「条件を変えさせて貰う。グラウエンヘルツなど関係ない。
俺が、アルフレッド・S・ライアンが貴様に勝ったら、もう二度と俺たちに付きまとうな。
………ただし、この勝負が終わった後に、まだ俺の頭越しにグラウエンヘルツを見るようなら、
貴様が追ってくるまでもなく、こちらから貴様を倒しに向かう」
「………………………」
「………これ以上の侮辱を許すつもりはない………ッ!」

 熱い言葉を投げかければ、この単純な男のこと、興が乗ってくるに違いない、と。

「へッ―――安心したぜ。てめぇがスカしただけのつまらねぇ男だったら、
ブッ殺したって寝覚めが悪ィだけだもんよ」
「こちらは既に寝起きが悪い。初戦から今日までにさんざん侮辱されたのだからな」
「面白ぇじゃねーか。猫を相手にできねぇのはちと心残りだが、
てめぇの心意気を尊重して、その条件、呑んでやらぁッ!」

 案の定、フツノミタマはアルフレッドを一人の格闘者として認め、
グラウエンヘルツ抜きでの戦いでも最初に提示した条件を呑むと了承した。
 潔い闘争心を逆手に取って言いくるめた、アルフレッドの作戦勝ちである。

(………何を苛ついているんだ、俺は………?)

 ………だが、全て謀った通りに物事が進んでいるにも関わらず、
どう言うわけかアルフレッドの心中は満たされるどころかますます乾いていく。
 しかも、心に湧いた揺らぎはグラウエンヘルツを、フツノミタマが求める餌を話題へ挙げるにつれて
ますます大きな波紋となっていくのだ。
 自分の心だと言うのに、そこに涌き上がった感情(もの)の正体がどうしてもわからないアルフレッドの表情は、
謀略を成功させた後とは思えないほど苦み走っていた。

 正体不明の感情を持て余したままではあるものの、さりとてそればかりに囚われてはいられない。
謀略を完成させるには、あと一手、フツノミタマを撃退する必要があるのだ。
 膠着を破るきっかけを得る為、「このままジッとしてても始まらねぇ。五つ数えて動くぞ。
ぼちぼちケリつけようじゃねぇか」とのフツノミタマの提案を受け入れたアルフレッドは、
彼と声を合わせて決着へのカウントダウンを数え始めた。

「………五つ―――」
「―――四つ―――」
「―――三つ―――」
「―――二つ―――」

 決着の機会が近付く度、フツノミタマの肩が震動を小刻みにしていくのがわかる。
 背中越しに伝わるこの揺れは、アルフレッドを恐れる弱気の震えなどではない。
猛者との激突に歓喜する武者震いだ。
 ますます強まる身震いこそ、グラウエンヘルツではなくアルフレッドをこそ
倒すべき猛者と認めている証だ―――

(くそッ………さっきから何だと言うんだ、一体………!)

 ―――そう思えば思うほど、アルフレッドの胸がズキリと疼いた。
 何とも言い難い気持ちの悪い波紋に心の奥底をまさぐられた。

「………一つ………」

 焦りと憤りとを混ぜ込んだような鬱屈を引きずったままの激突に
不安を残すアルフレッドだが、カウントは待ったなしに続いていく。
 あと一つを数えたなら、否が応でも気持ちを最後の応酬へ切り替えねばならないのだ。

 フィーナやシェインを守る為にも、ニコラスにこれ以上大きな負担をかけない為にも、
この謀略は、必ずや達成させる。
 この一戦は、今後の旅の安全を確保できるか否かを占うものでもあった。

「零ッ!!」

 改めて自分の為すべきことを見極めたアルフレッドは、最後のカウントを終えると同時に
肉体から魂から全てを躍動させてフツノミタマに向かい合う―――

「その意気や良しッ! ―――けれど、闇の眷属に正義の理を振るう資格は無しッ!」

 ―――ハズだったのだが、その決意は夜天を裂いて飛び込んできた第三者よりの一声でもって
思いっきり出鼻を挫かれた。

 予想だにしない横槍に足を捕られたアルフレッドは、グラウエンヘルツの変身が
解除された際のフツノミタマをそっくり模倣して顔面から突っ伏してしまった。
 勿論、アルフレッド以上に勢い勇んでいたフツノミタマも同様に足を捕られており、
堅い木の板が敷き詰められたトニーゴンザレス・ブリッジへ本日二度目の口づけをしている。

(………コールレイン………!)

 声のした方角―――南の橋桁を見れば、ムーラン・ルージュを構えたハーヴェストが
大仰にも欄干へ屹立しながらこちらを睨め付けているではないか。

 騒音公害スレスレな自分の大音声を棚に上げて、真夜中の決闘を咎めるべくやって来たのかと
アルフレッドは考え、そんな小事の為に決着と言う大事を邪魔されたのかと憤ったのだが、
キャットランズ・アウトバーンでクリッター群を撃破したときよりも
明らかに緊迫した様子を見るにつけ、その想像を誤解として改めた。
 一体全体何事かはまだ判別できないが、どうやら事態は只ならぬ方向へ向かっているらしい。

 正義の味方たらんとする名乗りは毎度のことだが、今夜は何しろ物々しかった。
 ムーラン・ルージュは既にグレネードランチャーへと変形しており、
砲門の向きから推察するに照準はフツノミタマに定められているようだ。

 それに南の橋桁にはハーヴェストだけではなく、フィーナやシェイン、ニコラスも居合わせたのだが、
それぞれが武器を手に駆けつけていた。
 シェインに至ってはCUBEを構えるほかにも、到着に合わせて発動させたビルバンガーTを
背後に控えさせており、いつぞやの襲撃の折を再現させようと既に拳を深く引いている。
 もしも、フツノミタマが逃走を図ろうものなら猛突進して行く手を阻み、鉄拳一発にて成敗するつもりなのだろうが、
シェインが気を回すまでもなく、スカーフェイスに逃げ場は見当たらなかった。
 トニーゴンザレス・ブリッジに二つしかない出入り口のうち、ハーヴェストたちに占拠された南の対、
北の橋桁に目をやれば、やはり戦闘態勢を整え終えたホゥリーとネイサンの姿が見えた。

 つまり、両方の橋桁からフツノミタマを挟み撃ちにした格好である。
 フツノミタマは退路を完全に絶たれていた。
 橋の下や川の中へ逃げ込む手もあるにはあるが、立って歩けるような浅瀬では隠れようもないし、
仮にその手を採ったとしても、到着するまでの間に雷撃の魔力を杖先に収束させているホゥリーが
これを阻止するだろう。
 窮鼠をいたぶるのが楽しみで楽しみでしょうがないように舌なめずりを繰り返すホゥリーのニヤケ面の
不気味なことと言ったら筆舌に尽くし難く、ビチャビチャと言う下品な音と合わされば背筋に寒気が走った。
 実際、隣で彼の様子を見せ付けられたネイサンは、その後、三日間ほど気色の悪い舌なめずりの音が
耳から離れず、夢の中にまで不気味なニヤケ面が出てきたと言う。

 ………尤も、ホゥリーは唇に付着したポテトスナックの残りカスを舐め取っていただけなので、
勝手に勘違いして、勝手に具合を悪くするほうが失礼なのだが。

「アル兄ィ! 早くそこから…そいつから逃げてッ! 絶対、背中を見せちゃダメだッ!」
「僕たちで援護するからッ! 早く、アルッ!」
「ネイトまで………一体、何をそんなに切羽詰っているんだ?」
「キミはその男のことを知らないからそんな呑気に格闘ごっこをやっていられるんだッ!
その男は―――フツノミタマは、裏社会でも名うての仕事人なんだよッ!!
剣殺千人斬りまでやらかすような極悪外道なんだッ!!」
「フツノミタマが、………“仕事人”だと?」

 ここで言う“仕事人”と言うのは、読んで字の如くではなく、法外な報酬で殺しを請け負う
裏稼業全般を指した忌むべき総称だ。
 仕事の形態や状況によってスイーパーやスナイパー、アサシン、ヒットマンなどと呼び方も変遷するが、
“金で人を殺す”稼業は、概ねはこの“仕事人”の枠で括って良いだろう。
 ただし、一口に“仕事人“と言っても、そのワークスタイルは千差万別である。
 個人単位で“仕事”を請ける者――デラシネ(=組織に属さぬフリーランサーの隠語)とも呼ぶ――がいれば、
ギルドと呼ばれる仲介組織に所属して“仕事”を斡旋して貰う者もいる。
あるいは、闇組織に専属で雇われる者も。

 そのいずれにも共通するのは、情や義理でなく金を得る為に“仕事”を行なうことだ。
 人命を商売道具にするだけあって報酬が破格である点も忘れてはならない。
 依頼主の境遇に同情して飴玉一つで報酬を請け負ってやる温情派の仕事人もいるにはいるが、
これは個人の感情を挟む余地の残されたデラシネに見られる傾向で、
ギルド所属の仕事人の“仕事”選別はよりシビアである。

 なにしろ請け負った日から設けられる期限までに“仕事”を完遂できないと失敗したものと見なされて
“死神”と呼ばれる刺客に命を狙われるからだ。
 ギルドの面子を潰す者、定められた規律を破って阿漕な“仕事”に手を染めた者にも
同様の裁きが下され、これまでにどれだけの血がギルドの足元に流れたとも知れない。
 マフィアやギャングに所属して殺しを行なう仕事人の中には、あるいはギルドこそが裏社会で
最も恐ろしい組織なのかもしれないと恐れる者がいる程である。

 ギルドでは、タロットカードで占いをするかのようにして、どの“仕事”を誰が請け負うかなどを
決定するのが通例になっており、仕事人たちは、通常、信頼できる“口入(闇の仲介業)”を
介して“仕事”を世話して貰うのだった。
 定められた期限までに“仕事”を果たせなかったときは、自害か、“死神”に消されるか、
あるいは当事者の放った追っ手に報復されるかの三択しかない。
 ただでさえハイリクスな上に、報酬の何割かが“口入”に差っ引かれてしまうのだ。
“仕事”選びも慎重かつシビアにならざるを得まい。

 なお、ギルドの長である“ティーゲル”の姿を見た者は誰一人としていない。
 数十年前に忽然とギルドを開設した謎多き人物で、一説には当代最強にして最凶の“仕事人”だったと言う。
 怪力の宿った指先のみでターゲットの背骨や頚骨、肋骨を粉砕して仕留める荒業の使い手とされ、
ギルド―――いや、エンディニオンに“仕事人”と言う裏稼業が成立して以来、
証拠の一片も残さない完璧な“殺し技”は“ティーゲル”を除いて実在しないとまで謳われていた。
 “仕事”の最中に標的と刺し違えたとも、表社会に裏の顔が露見してしまい、
お天道様の下に居場所を失って逃亡したとも、ギルドに残された伝説は語っている。
 生憎、アルフレッドも裏社会の事情にまでは通じておらず、
その伝説的な長に関する豆知識とて聞きかじり程度に持っているのみであった。

(………なるほど、道理で………)

 だが―――これで真っ当な剣士でないとの印象に合点が行った。
 “斬る”ことでなく“殺す”のを目的とした剣技の使い手であるなら、携えた刃から剣士たる者としての魂が
感じられないのも無理はない。
 “斬ること”と“殺すこと”は、その技が目的とする結果は限りなく近いが本質は全く異なるのだ。
 そして、イシュタルや神人らへその剣閃を奉納できるような流儀の心得を学んだ一端の剣士であるなら、
決してこの二点を混同しないものである。

「裏社会もシノギが厳しいとは聞いていたが、まさかゴミ屋の飼い犬に成り下がるとはな。
それともボディーガードは表向きの稼業か?」
「しょーがねぇだろ。裏稼業も隙間風の吹くご時世なんだよ。振られた仕事にそっぽ向いたら、
おまんま食い上げだ。それにあのクソ社長の依頼は“社の邪魔になる人間の始末”だったからよ。
広い意味じゃ仕事人の本旨からは外れてねぇ」
「………誰かさんの言葉じゃないが、随分と無理の利く理屈だな」
「ほざきやがれッ!! こっちにも事情ってもんがあらぁッ!!」

 裏社会の人間と言う正体が暴かれたにしては、フツノミタマの声は大した動揺もなく落ち着き払っている。
 何かにつけて怒鳴り散らすのはいつもの通りだが、かと言って裏稼業への詮索を有耶無耶にしたり、
強引に打ち切らせようとすることもない。至って普段通りのキレ方だ。
 尤も、フツノミタマにしてみれば、最初から自分の出自を隠していたわけではないので、
誰にどう知られたとしても焦る必要も無いと言ったところか。
 これが昼行灯を気取っておきながら、夜は冷徹な殺しの仕事人に変わるようなシェリフだったり、
蕎麦屋の主人を装い、その実、闇夜に大勝負をしかける最強の仕事屋であれば、
正体を知った者を一人残らず闇に葬り去って口を封じるだろうが、どうやらフツノミタマは、
そこまで苛烈な仕事人としての矜持は持ち合わせていない様子だ。
 ハーヴェストをして居直りかと言われるほど、あっさりにしてあっけらかんとしたものだった。

「私たち、その人に二回も襲われたでしょ? 一応、お姉様に相談したんだけど、
特徴とか話したら急に血相変えて………」
「ろくでもないのに目を付けられたもんだよ、キミは。フツノミタマ、一応はギルドの仕事人だけど、
今までの実績から普通では考えられない特権を許されてるらしいわ。
無期限の“仕事”を競争相手との駆け引き抜きで自由に選べるとかね。
………つまり、それだけ腕が良いってコトなのよ。腕が良いって言い方は語弊があるけれどね」
「そんな危ない人にアルが狙われてると思ったら、私、もういても立ってもいられなくて、それで………」

 まさか自分たちが裏社会の仕事人に追われていたなど予想だにしなかったフィーナにとっては
驚天動地の緊急事態だ。
 “殺し”の号令がかかったとなれば、クリッター退治のようにただ相手を蹴散らせば良いものではない。
 例え最初の刺客を倒してたとしても、自分たちが殺しの号令をかけられることになった根本的な問題を
解決しない限りは第二、第三のフツノミタマが永劫現れ続けるのである。
 戦いに慣れていない人間にとって、つい最近まで至って平凡なハイスクールの生徒だった少女にとって、
これはあまりにショッキングな事態だった。

 しかも、だ。
 注意を促そうと思ってやって来てみれば、アルフレッドは当の仕事人と一戦に及んでいるではないか。
 なんらかの事故があったのか、グラウエンヘルツまで解除されてしまっており、
仕事人の毒刃にかかればほんの一撃で命を奪われる危険性も高い。
 フツノミタマと肉迫するアルフレッドの姿は、実際の優劣は別として、
フィーナの眼には人生最大の危機に瀕しているように見えるのだ。

 動転するあまり、口も聞かないと言いつけたほどの怒りをどこかに置き忘れたままで
自分の安全を案じてくれるフィーナの様子が、アルフレッドにはたまらなく嬉しい。
 場の空気を読まないことや不謹慎は重々承知の上だが、どうにも嬉しくてたまらなかった。

「………コー………カー………」

 その不謹慎な微笑を、夜だと言うのに爛々と殺意の輝きを宿す瞳が睨めつけていたのは言うまでも無い。

「金目当ての殺し屋なら、なおさらグラウエンヘルツに執着する理由が見えんな。
それとも“飼い猫”の命を誰かが狙っているとでも言うのか?」
「生憎、こっちの用事はプライベートでね。強ェ野郎とガチンコやりてぇってのが一番の理由よぉ。
それと―――落とし前だ。オレとてめぇに対するな」

 一体何の落とし前かと言う問いにフツノミタマはたった一言、「男同士の勝負にゃケジメが必要だろ」とだけ答えた。
それが自分の果たすべき“落とし前”なのだ、と。

 他の詰問には一切何も答えなてくれなかったし、背中越しに感じる熱い闘気は、愚にもつかない言葉でなく
力と力の饗宴を待ち望んでいた。
 ますます膨れ上がる闘気は、漢たる者、女々しく言葉を絡ませるでなく魂の衝突にて
伝えるべきコト、受け取るべきモノを見出せ…とどやしつけて来るかのようでもある。

 裏社会の実情を聞き出すべくアレやコレやと根堀り葉掘り質問攻めにするハーヴェストには申し訳無いが、
アルフレッドにとっても彼女が投げ続ける問いかけの数々は邪魔以外の何物でもなかった。
 男と男がケジメをつける為に臨まんとする決戦の舞台へ横槍さながらの言葉を持ち込むなど
無粋の極みなのだから。

「みんな、待つんだ! この勝負には絶対に手を出さないでくれ!」

 ―――だからかも知れない。
 自分でも驚いたことだが、挟撃と言う絶好の勝機へフツノミタマを追い詰めているにも関わらず、
気が付けば、仲間から受けられるであろう援護の一切を拒絶し、制止していた。

「な、なに言ってんのさっ!? そのオジさん、裏社会のヤバい人なんでしょ?
ここで倒しとかなきゃマズいって、絶対! すっげぇチャンスを棒に振る気なのかい、アルは?」
「コカッ!! コカカッ!! カカカカコココカッ!!」
「ネイトもバードも揃ってセイってるジャン。ボキがサポートしてやるから、とっととフクロにしちゃおーって。
なんならキルっちゃったってもプロブレムもナッシングだしィ♪ ソサエティのダストをスイープするよな
フィーリングでチャッチャとサ。………オゥ! そっか、ナルホドね! 
焦らしプレイもチミお得意のタクティクスってリエゾンね。そーやってゴーサインを焦らして、
さ〜て、トゥデイはどんな腹ブラックなトラップを出してくるんかなァん?」
「謀略じゃないッ、約束したんだ! 必ず決着をつけるとッ! その約束を侵す者は、誰であっても許さないッ!!」
「………………………」
「またまたぁ、似合わないって、そーゆーヒーローっぽい演技は♪
あんましクサいと相手も引いちゃって効果ナッシングよん♪ タクティクスの体をなさないかもよん♪ 
よんよんよ〜んんんんんん?」
「違うと言っているだろうが! 黙れ、廃油の凝固ブロックッ!」

 仲間たちが困惑するのも無理からぬ話だ。
 卓越した戦略眼の持ち主であるアルフレッドであれば、後の禍根を断つべく数に物を言わせて
フツノミタマを包囲、殲滅する判断を下してもなんらおかしくはない。
 いや、むしろそちらの作戦をこそ指示するものと誰もが考えていた。
だからこそ南北の橋桁を味方で占領し、挟み撃ちに攻める陣形を取ったのだ。

 それなのに返ってきたのは「待て」。
 挟み撃ちと言う望んでもそうそう得られるものでない絶好の勝機をアルフレッドは自ら棄権し、
あくまで一対一の勝負にこだわった。全てはフツノミタマと交わした決着の約束を果たす為に。
 結局、アルフレッドは軍師としてフツノミタマの“掃討”を判断するのでなく、
戦士として彼との“勝負”を最優先に選んだのである。

「キミには悪いけど、相手は極悪人なんだッ! ここで仕留めておかなければキミたちだけに留まらず、
もっともっと大勢の人に危害が及ぶッ!! 正義の名において、決して野放しには出来ないわッ!!」
「だから、俺が代わりに戦うと言っている。貴様のほざく正義とやらも請け負ってやるから手を出すな!」
「いい加減にしなさいよ、アルッ! キミ個人のケリと罪なき人の命を天秤にかけられるとでもッ!?
正義の魂がそれを許さないのよッ!! 人の命をチリか何かと割り切るようなヤツをのさばらせるなんて、
ハーヴェスト・コールレインの名折れねッ!!」
「いい加減にしろはこちらの台詞だッ! 第一、貴様の言うことには説得力が足らないんだよッ!
裏稼業が何だと言うんだッ! スマウグの社員を操るような真似をされては確かに迷惑だが、
だからと言って、フツノミタマのせいでどうして犠牲が増える? 何の因果があって? 
それともこいつの本職は仕事人でなくて大量殺人者なのか?」
「なっ………!」
「………偏見を持って接するようなハンチクが俺たちのステージに上がるなッ!!」
「―――ッ………………!」

 制止を振り切って『スマートグレネード』の照準を合わせにかかるハーヴェストの前に
敢然と立ちはだかったアルフレッドからは、身を挺してでも一騎討ちの約束を守ろうとする決意が
湧き立っており、その気迫に圧された彼女は、思わず直立不動に身を硬直させた。

 フィーナに依存するだけの情けない男だとどこか低く見下していたアルフレッドが、
今は山よりも大きく見える。
 彼の裡に秘められた魂の奔流が、まさかここまで大きく熱いものだったとは―――ハーヴェストは、
今、自身の見立ての甘さを悔い改め、アルフレッドに対する不当な評価を正していた。
 正さざるを得ないほどにアルフレッドから浴びせられた喝破はハーヴェストの魂を震わせていた。

(………全く、俺もどうしようもないバカ野郎だな。こんなにもくだらないコトでぐちぐち懊悩していたなんてな………)

 そこまで気を張ってみて、初めてわかったことがアルフレッドにもあった。
 グラウエンヘルツの名前を出す度に染み出していた何とも言えない感情の正体を、
アルフレッドは今になってようやく見極められたのだ。

 ………一言で表すならば、それはグラウエンヘルツに対する嫉妬であった。

 アルフレッド本人の戦闘力を無視してグラウエンヘルツありきで話が進んでいること、
フツノミタマの戦意が自分自身でなく頭越しに気まぐれな猫へ向かっていることがどうにも腹立たしかったのだ。
 アルフレッドとて格闘技者の端くれである。これほどプライドを傷つけられることはない。

 しかし、フツノミタマも最後にはアルフレッド・S・ライアンを省みてくれた。
自分から仕掛けた計略とは言え、グラウエンヘルツではなくアルフレッド・S・ライアンと言う
格闘者の魂を認めて一対一の勝負を了承してくれたのである。
 自分に有利な条件を呑ませた以上、勝負そのものには誠心誠意で立ち向かわなければならない。
それが、自分自身を認めてくれたフツノミタマに対して果たすべきケジメであると
アルフレッドは考え、そして、決意していた。

「バカじゃねぇのか、てめぇ。………敵に背中見せるなんてよ」

 だが、フツノミタマはその決意を嘲笑うかのようにして容赦無くアルフレッドを組み伏せ、
首筋へ冷たいドスの刃を押し当てた。
 普段ならいざ知らず、完全に背を向けた状態の上に意識がハーヴェストへ釘付けとなっていては、
いかにアルフレッドが手練手管とは言え、組み付かれれば一溜まりもない。

 フィーナの悲鳴を耳に捉えてはいるものの、額を地面へ押し当てられたままでは、
おそらく顔面蒼白になっているだろう彼女の表情を確認することも、
まさに自分の首を刈ろうとしている刃を拝むことすら出来なかった。
 ままならない視界に頼らず確認できる唯一のことと言えば、躍動した首筋の熱に
不思議と心地良く感じられる冷たい刃くらいか。
 今度こそ“遊び”も見出せないほどに組み敷かれてしまった全身の不自由は、
改めて確認するまでもないことであり、今更、脳裏に浮かべるのも時間の無駄だと思えた。

 ………と同時に、死神の刃が間際にまで迫っているにも関わらず、
随分と冷静な自分に気付いたアルフレッドは、我ながら―――とこんなときにまで
あらゆる物事を客観視する無意味なまでに細微な分析力を鼻で笑った。

「何とも味気ない幕切れだったな。もっと盛り上がる自信ならあったのに」
「………手前ェで言ってりゃ世話ねぇな。だが、まあ、オレにはそこそこ満足できる時間だったぜ―――」

 身じろぎをも封殺される中、アルフレッドは首筋を冷たい感触が這うのを感じた。
 これが最期か―――ほんの一瞬、怯むものがあったが、この結果を招いた原因は自分自身にある。
 自分で撒いた種に責任を持つのは、例えそれが死の瘴気を漂わすものであったとしても、
人間として当然である。ならば、結果の全てを甘んじて受け入れよう、と。

 フィーナやシェインの悲鳴は気になるけれど、彼らを残してしまうことは心残りだけれど、
説得の為とは言え、戦いの最中に敵に背を向けた愚か者の末路として今から迎える無慈悲の運命は、
きっと二人の戒めになってくれるだろう。

「―――満足できる時間だったがよ、後味があんまりにも悪いんでな。
どうにか仕切り直さねーとやってらんねぇぜ」
「………え………?」
「仕切り直しつっただろうが、何度も同じこと言わすなや。こっちゃタダでさえムカッ腹立ってるのによォッ!!」

 ………だが、いつまで経っても死神は迎えにはやって来なかった。どうやら代理を寄越す気配も無い。
 斬り落とされるものと諦めていた首には、表皮を薄く割いた跡が残るのみである。
 眼が点になっているアルフレッドを引き起こしたのは、今さっきまで死の影を漂わせながら彼を組み敷いていた
フツノミタマその人の節くれだった手だった。

「てめぇは最後までオレをコケにし倒しやがったな、コラァッ!!」

 何をそんなに昂ぶっているのかは全く持って見当もつかないものの、
どうもよほどアルフレッドへ腹に据えかねたことがあるらしく、彼の胸倉を引っ掴む手は怒りで震えていた。
 鼻先寸前まで近づけられた形相に至っては、赤ん坊が見たら失神するのではないかと思えるほどに
歪み切っている。首根っこを捕まえて街往く人々へ「般若」と偽っても殆どの人が信じてしまうだろう。
 否応無しに恐怖心を植え付ける形相を、フツノミタマは満面に浮かべていた。

「勝負だっつってんのに背中向けるバカが、一体、どこの世界にいやがるってんだ?
殺して欲しかったか、コラ? 自殺願望者だったんか、てめぇッ!!」
「………あのとき、何を見ていたんだ、お前は。コールレインが邪魔立てしてきただろうが。
それを制止しようとして何が悪い」
「だから、その態度がイラつくってんだッ!! なんなんだ? あ? てめぇはオレより優れてるから、
助っ人もいらねぇってワケか? 人数のハンディなんぞ無くても勝てるってか? あァッ!?
何人で襲い掛かってきても、挟み撃ちであってもまるで構わねぇ! それが殺し合いっつーもんだろうがッ!
お情けかけられてるみてぇで癪に触るんだよッ! てめぇのそのスカしたやり方はよぉッ!!」
「生憎、お前とは生きている世界が違うのでな。お互いの常識や認識に溝があるのは自然だな」
「辞書持ってこいや、辞書ォッ!! てめーの物言いはいちいちまだるっこしいんだよッ!!」
「………戦う相手に最大限の礼儀を払うのは、戦士として当然の流儀だろう?
一騎討ちの邪魔を許すことは、その流儀に反する」
「………」
「この勝負は俺とお前の一騎討ちだ。そして、お前は自分にとって不利な条件を呑んでくれた。
呑んでくれた以上、俺にはこの決闘を他の誰にも委ねず、自らの手で戦い抜く義務がある。
手数の優劣などは俺とお前の勝負にとって何の意味も為さない。違うか?」
「………………」
「………それが、お前に対する俺なりのケジメだ」
「………………………」

 格闘者としてのプライドを、今一度、省みる機会を与えてくれたフツノミタマに対して示すことのできる
精一杯の感謝が、その言葉の裡に全て集約されているような気がしてならない。
 確かに開戦当初は計略や謀略が先に立っていた。格闘者のプライドを餌にして
フツノミタマの潔さを刺激したのも揺るがし難い事実ではある。
 だが、今は違う。今は全く異なる心持ちでいる。
 ひとりの格闘者として、魂を震わせてくれたこの相手と純然たる決着をつけたい―――
拳と刃を交錯させなければ見出せなかったその心を、アルフレッドは素直に口に出していた。
自分でも驚くほど素直に。

 「上手い言い回しでもって油断を誘っているだけじゃないのか。そうでないなら、誠意を押し付けて
同情を引いているだけじゃないのか」と皮肉たっぷりで斜に見るホゥリーの評を、
ニコラスは「アルフレッドはそんなヤツじゃないだろ」と真っ向から否定した。
 ホゥリーの眼にはペテン師もびっくりな罠のように映るアルフレッドの姿が、
ニコラスには全く別のものとして見えているのだ。

 あるいは、今のアルフレッドに謀略の影を見ているのはホゥリーただ独りなのかもしれない。
 とにもかくにも最愛の恋人が首を刎ねられずに済んでホッと胸を撫で下ろすフィーナの瞳も、
それまでの軽蔑の色を潜めて彼の示した誠意をしかと見届けんとしているハーヴェストの瞳も、
………鼻先スレスレに近付けた好敵手の面を真意を測るかのようにジッと睨み据えるフツノミタマの瞳さえも、
最早、アルフレッドの言葉に謀略を疑ってはいなかった。
 シニカルなホゥリーや、「そこで遠慮なく首斬っとけばいいのに…」とつぶらな輝きの中に底なしのドス黒さを
宿したムルグを除いた誰の瞳にも、アルフレッドの示した誠意はちゃんと伝わっていた。

 だからこそ、ニコラスはホゥリーの皮肉を否定したのだ。
 アルフレッドの誠意や思いやりを、もう一度、信じるきっかけを与えてくれた本人であるホゥリーに
「あいつの性格は、なんだかんだ言って、あんたもよくわかってるだろ?」と。
 フツノミタマに示したアルフレッドの態度から何かを感じ、受け取ったモノを固く信じようとするニコラスの言葉を、
ホゥリーは鼻で笑った。
 実に厭味な一笑ではあったが、ニコラスの信じるモノを否定しようとする気配は微塵も感じられなかった。

「わかったら、ホラ、とっとと向き直れってのっ! 仕切り直しは、アンタが言い出しっぺなんだからさぁ!
アル兄ィにここまで言わせといて、まだ不意打ちで勝つつもりでいるなら承知しないからな!」

 ホゥリーとニコラスがアルフレッドの姿に全く異質なモノを感じ取ったのと同じように、
フツノミタマもまた認識の万別と言う不可思議な錯覚に囚われていた。
 トニーゴンザレス・ブリッジの中央で対峙したまま硬直している両雄の間に割り込んだシェインが
フツノミタマに再戦の準備をするよう食って掛かったときのことである。
 仁王立ちして構えるシェインの姿を認めるなりフツノミタマの双眸は大きく見開かれ、
それと同時に言葉を、我を失っていた。

「………タテ………ナシ………」

 呆然自失と言った風体を晒すフツノミタマは、確かにそう呟いた。
 消え入りそうなか細い声で、たった一言、“タテナシ”………と。

 果たしてシェインに…いや、シェインの姿に、フツノミタマは、何を重ね、何を見ていたと言うのだろうか――――――




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