2.ミスト・ピンカートン 「ア〜〜〜ル〜〜〜」 意識を空想の彼方へ飛ばしていたアルフレッドの背中がいきなり温かいもので包まれた。 その声も、その薫りも、振り返るまでもなくアルフレッドには分かる。 覆い被さるようにしてアルフレッドの背中に抱きついたのは、いつにも増して陽気な笑顔を浮かべるフィーナだった。 彼の後頭部へ擦り付ける頬は熱を帯びており、狙い定めて耳に吹きかける吐息には独特の香気が漂っていた。 「あっ、お前、少し酔っているな?」 「ひひひ―――ちょ〜っぴしね。カクテルっぽいのを頂いちゃった。アルも呑む? ラズベリー味のヤツ」 「ったく………未成年の飲酒は罰金か、下手をすれば実刑だぞ?」 「こ〜いうときにカタいお話はNGだよぉ? てゆ〜か、こ〜ゆ〜ときに愉しい以外の話した人こそ実刑でしょ〜。 私が裁判官さんだったら、今頃、アル、首飛んじゃってるよぉ〜、物理的に。ギチギチブシャっと」 「法律を論じて極刑に処される世の中になったら、それはもう本当に末期だな。………と諭す前に言いたかったんだが、 今の音からするとギロチンでなくて捻じ切ってるのか?」 「長い。長い上にくどくてつまらなくてやっぱしカタい。アルってさぁ、ホンット、空気読めないよねぇ〜」 「………彼氏の主張を全否定か」 「大体、私のコトをアレコレ言っちゃってくれてるけど、アルだってしっかり呑んでんじゃ〜ん。 手に持ってるのはな〜にかなぁ?」 「これは米の研ぎ汁だ」 「は〜い、偽証罪で再逮捕〜。“グリーニャでお嫁さんにしたい娘ランキング”五年間連続一位に 座っちゃってるトップランカーのフィ〜ナさんにはそんなウソは通じませ〜ん。 お母さん譲りの目はごまかせませ〜ん。てゆ〜か、アルの考えなんか全部お見通しだよ〜ん♪」 アルフレッドにじゃれつくフィーナに何とも言えない違和感を覚えたレイチェルは、 しかし、脳裏に浮かんだクエスチョンマークの正体を見極められずに腕組みして首を傾げたが、 フェイは何事か思い当たるフシがあるらしく、全力で圧し掛かる体重を 背中で受け止めながら頭を抱えるアルフレッドに視線を巡らせた。 初対面のレイチェルにはいまいちピンと来ないようだが、心の底から博愛と平和主義を唱える 天使のようなフィーナにしては珍しく、酒気を帯びた物言いには毒が盛られているのだ。 平常時には神妙に聴き入るアルフレッドの説明や講釈を「つまらない」と一刀両断するわ、 表現上、教育によろしくないブラックな擬音を笑いながら飛ばすわと、 普段、天使の人格に抑圧されている悪魔な部分が全て解き放たれたかのような振る舞いである。 早い話、酒癖が大変よろしくないわけだ。 アルフレッドから「ちゃんと見張っていろよ」と視線で訴えかけられたムルグは、 それを「誰がてめぇの命令なんぞ訊くか」と小馬鹿にした態度で受け流した。 フィーナの頭の上で尻を向け、鼻で笑うかのようなゼスチャーを見せたムルグに アルフレッドの堪忍袋の緒が緩みかかるが、皆が楽しむ酒の席で本気の喧嘩をする訳にはいかない。 実態はともかく、傍目にはニワトリにしか見えないムルグへ取っ組みかかろうものなら、 マコシカの民の間で未来永劫“鳥相手に躍起になるちょっとカワイソウな人”に認定されるのは間違いなかった。 堪えろ、堪えろとアルフレッドは心の中で念じ、そんな彼の葛藤を見抜いたムルグは 更に調子に乗り、彼の周りを飛び回って挑発を続けた。 「あ、あの………フィーナちゃん………」 「あっ、ごめんね、ミストちゃん、ごめんね〜」 別な女の子の声がしたかと思うと、フィーナはアルフレッドの背中を撥ね付けて弾みを付け、 声のした方向へと飛び掛った。 背中に枝垂れかかった恋人がまさか自分を突き飛ばすとは思っていなかったアルフレッドは、 滑空するようにして地面へつんのめり、手に持っていた杯ごとひっくり返ってしまった。 横転の拍子に濁り酒を頭から被った上に、空になった杯が頭上にジャストフィットするというおまけ付きだ。 「こう言う時に言うのもなんだけど、ボクらって息が合ってるよね」 「………うるさい」 “先客”のネイサンから向けられた生温かい視線を無視しようとするアルフレッドだったが、 頭上の杯へ腰掛けたムルグの嘲笑やレイチェルを始めとするマコシカの人々の噴出す声が 辺りに鳴り響いており、自分が、今、どれだけ滑稽な体勢でいるのかをイタいくらい思い知らされた。 イタ過ぎる。ツラ過ぎる。顔を上げた瞬間、泥まみれの顔をネタに皆が爆笑の渦へ巻き込まれるだろう。 それが分かっているからこそ、アルフレッドは突っ伏したまま、起き上がれないでいた。 こうなると選べる手段は二つ。 同情したフェイが大笑いの皆を宥めてくれるのを待つか、 ことの発端であるフィーナを鬼のような口調で叱り飛ばし、「あ、こいつは笑ったらヤバい人種なんだ」と 周囲の人々へ思い知らせるか、どちらかだ。 前者を待つのが本来なら一番なのだが、なにしろアルフレッドの苛立ちは最高潮に達しつつある。 公衆の面前での叱責はフィーナを晒し者にしてしまうリスクが高いものの、 被害者は自分だと言う意識がアルフレッドには強く、煮え滾る怒りは正当なものだと自負もあった。 いくらアルコールに支配された勢いとは言え、人間界には節度と言う物がある。 それを逸した人間は、例え恋人であろうと修正してやるのが正しい道理と言うものだ。 「随分仲良くなったんだな」 「へっへへ〜、でしょ〜? 根が暗いアルとお日様カンカンな私じゃ友達の輪も違うんだからね〜」 「言ってろ………ちくしょうめ」 踏ん切りを付けて起き上がり、怒号一喝すべくフィーナへ向き直ったアルフレッドだったが、 そこで目にした光景に一瞬で勢いを削がれ、振り落とさんとした拳を静かに下げた。 予想した通り、泥だらけで酒臭い顔を周りの人々が大笑いするが、そんなことも耳には入らない。 目の前ではフィーナとミストが仲良さげにじゃれ合っていた。 ………じゃれ合うと言うよりも、勢いのあるスキンシップに困惑気味なミストへ フィーナが一方的にじゃれ付いている恰好だが。 こうしたスキンシップに慣れていないミストはほんのちょっぴり困り顔ではあるものの、 本気で嫌がっている素振りは無く、くすぐったそうに微笑している。 成る程、先ほどの声はミストで、それに反応したフィーナが彼女へダイヴしたというわけか。 そう納得したアルフレッドの心からはすっかり苛立ちは消えていた。 ツンと鼻を突くアルコール臭と、今なお続くムルグの嘲笑には腹が立たないこともないが、 本当に嬉しそうにミストとじゃれ合うフィーナを見ていると、怒鳴り散らそうとしたくらい昂ぶった怒りが鎮まり、 荒んだ憤りが不思議と癒されていくのだ。 誰とでもすぐに仲良くなれるのはフィーナの一番の長所だ。 ファーストインプレッションではお世辞にも愛想が良いとは言えず、 友達に背中を押されてようやく前に出てるような人見知りの激しいミストを解きほぐし、 じゃれ合うまでに仲良くなれるのは一種の天賦だとアルフレッドは考えている。 それはきっと、心から平和を願う慈愛があってこそ初めて発現される力に違いない、と。 (―――ああ、いつものフィーだ………) グリーニャでの銃殺事件以来、生きる道に迷って気落ちしていたフィーナだったが、 ミストとの交流を見ている限り、深い迷いを振り切り、彼女の一番の強さである慈愛と博愛の心へ 活力が戻ったようだ。 それがアルフレッドには嬉しく、鬱陶しい荒みを鎮静してくれた。 「ミストちゃんとはねぇ、もうすっごい深い仲なんだもんね。ね、ミストちゃん♪」 「は、はい。仲良くさせていただいてます」 「ああ、それは良かった。こんな風にうるさいヤツだが、今後ともよろしく頼むよ」 「友達少ない人によろしく頼まれなくたって、私とミストちゃんはラブラブだもん。 アルにもナイショの私のヒミツまで知ってるしぃ〜♪ ………私、ホント〜に嬉しいんだよぉ。 BLの話題で盛り上がれる友達って、村にはいなかったからさぁ〜♪」 「………は? びーえる?」 “BL”と何やら嬉しそうに話すフィーナに対し、アルフレッドにはその単語の意味するところに覚えが無い。 語感から推理してみると二つの単語を組み合わせた物のようだが、 ブラックリスト(Black List)か、ベターリビング(Better Living ※住宅用工業部品認定規格)か、 はたまた照明器具の一種であるボーダーライト(Border Light)か。 意表を突いて、サンドウィッチのメニューの一つのベーコンレタス(Bacon and Lettuce)の略かも知れない。 そう言えば、古い時代にはBLの略称を用いた映画賞があったと物の本で読んだ気がするが、 どうしても正式名称を思い出せない。 ボキャブラリーの乏しさが災いしたのか、アルフレッドがリストアップした中には フィーナが喜々として話しそうな物は見当たらなかった。 万年空腹の彼女の性格からしてサンドウィッチ案が有力かと思われるものの、 嗜好品の少ないマコシカにベーコンレタスサンドが普及しているとも思えないし、 やや痩せ型のミストが食べ物について大騒ぎするとも考えられない。 (いや、しかし、この娘が見た目と裏腹の大食いなら、それもありえるか。フィーも痩せの大食いだからな) ―――などと考え始めると、頭の中で浮かべた推理材料がゴチャ混ぜになり、 “BL”の意味する答えをアルフレッドは導き出せなかった。 「アルってばBLも知らないの〜? もォ〜、よくそれで知的エリートを自称できるよね。まだまだ浅知恵って感じ?」 「知性をひけらかした覚えもエリートを気取った記憶も無いんだが、 まぁ、それは良しとして………お前たちを熱狂させるBLとやらには興味を引かれるな」 「じゃあ〜、このフィ〜ちゃんが教えて進ぜよう〜。BLとはボ〜イズラヴの略称ね。ボ〜イズラヴ。 ボ〜イズってところが重要ね♪」 「直訳すると―――少年たちの愛? 青少年福祉事業か何かなのか?」 「目の前にある物だけじゃなくてさ〜、もっとセンシティブに物を考えようよ。 真髄を免許皆伝するとねぇ、新時代のロマンスってヤツ。一言で言うと女の子の夢ね♪ で、さっき、ミストちゃんと熱くあッつく話してたんだけど、 これからのブームはアル×ニコラスさ―――」 「フィ、フィ、フィーナちゃんっ!? それは、シーッです、シーッ!!!!」 フィーナがBLを語りだした直後から顔を真っ青にしていたミストだったが、 彼女が核心と思しき部分へ触れようとした間際にその口を両手で封し、 額からダラダラ流れる冷汗を顎の先で玉に結びつつ、そのまま後方に引き摺っていってしまった。 何をそんなに青くなる必要があるのか分からず、アルフレッドとレイチェルは顔を見合わせ首を傾げたが、 目撃した誰もが呆気に取られるくらい、ミストの慌て方には鬼気迫るものがある。 どうやらBLとやらは、同好の人間を外れた衆目に晒したくないものらしい。 「意味がわからない………」 口を塞がれ、別なブロックに引っ込められてからも続行されるフィーナのBL講義を遠くに聴くアルフレッドだったが、 一定のヒントを手探りにしてもやはり思い当たるフシが無く、フィーナの話した内容もまるっきり理解が出来ない。 ボーイズラヴと言うフレーズから、青少年を対象にした福祉、あるいは育成の事業かと想像したものの、 見当外れと指摘され、“女の子の夢”、“新時代のロマンス”と返された。 最後に付け加えられた“アル×ニコラス”という例えも、何を言っているのか、意味がわからない。 「さっきさ、そのテのニーズってどんなのだって訊いてきたでしょ? 身近にいるじゃん、これ以上無いってくらい分かりやすいサンプルが」 「………意味がわからない」 我意を得たり、と言いたげな薄ら笑いを浮かべるトリーシャから貰った、 ヒントと思しき囁きすらアルフレッドの思考回路では処理を弾く異物だった。 大体、“そのテのニーズ”とは何なのだ。フィーナのBL発言と結びつければ答えが出るらしいが、 あまりに抽象的過ぎて、どこをどう繋げれば良いのか、まずその見当がつけられない。 「………意味がわからない………」 レイチェルにもわからないあたり、どうやらBLというものは若い娘にしか通用しなさそうだ。 BLなる未確認物の正体とは、一体、何なのか? 答えを手繰り寄せる糸を見つけられないアルフレッドは 眉をへの字に曲げて首を傾げるしかなかった。 「あの―――すみません、ラスくんをご存知ありませんか?」 騒ぎが収まる頃合を見計らっていたのか、恐る恐ると言った風にアルフレッドへ声を掛けたのはトキハだ。 丁度、フィーナが引っ張っていかれたブロックで上機嫌に大騒ぎしているダイナソーやディアナと異なり、 彼の顔は酒気を帯びていなかった。 ダイナソーなどは昼間、あれだけ「納得行かない」とゴネたのを忘れたかのようにはしゃぎまくり、 例によって例の如く、真実味に欠けるような自慢話を饒舌に並べて聴衆の歓声をさらっている。 時折、絶妙のタイミングでディアナから酒瓶をブン投げられており、それがツッコミの役割を果たしているのは 遠めにも見て取れた。 酒が飲めない体質なのか、それとも自分一人くらいはシラフでいようと決めているのか。 彼は未成年ではなく、立派――いつも困ったように眉を下げている頼りなさは置いておいて――な成人だ。 アルコール摂取にまつわる条件をきちんと満たしたトキハが、飲酒をしないのには“ある理由”があってのことなのだが、 それを語るのは後の機会に譲るとしよう。 今は、彼がアルフレッドに尋ねたことを確認するのが先決である。 「ニコラスがどうかしたのか?」 「いないんですよ、どこにも」 「いない………?」 ニコラスを見かけなかったか、とトキハは尋ねてきたのだが、 それこそBLの定義と同じくらいアルフレッドには心当たりが無く、フェイとレイチェルにも確認を取ってみたものの、 「あの赤い髪の子だよね? …いや、僕は見かけていないけど」 「私も知らないわね。ていうか、あちこちのシマを回ってるけど、その子、宴会が始まってから見かけてないわね」 この通り、誰一人としてニコラスの影も形も見かけていなかった。 「レイチェルさんの言う通り、俺も見ていないな。あの髪の色だ。夜目には目立つと思うんだが………」 「宴会始まってすぐにどっか行っちゃったんで心配してたんです」 目撃者が誰一人もいないことはトキハの不安を駆り立て、「一人で出発しちゃったのかなぁ」などと 彼の顔を青くさせるが、相談を持ちかけられたアルフレッドはそこまで深刻に考えてはいない。 神隠しのように忽然と姿を消してしまったと言うのなら別だが、 カガリ火が無ければ足元すら危うい真っ暗闇なのにまさか村の外へ出かけていくとは考えられない。 何しろ彼…と言うか、アルバトロス・カンパニーの面々は揃って“迷子”なのだ。 そして、大人ともなれば道に迷った時にはムチャクチャに動かず、 状況が好転するまでその場でじっと待つという判断も下せるようになる。 目的が達せられたからと言って、今更出奔するとはとても思えなかった。 「本当にどこにもいないのであれば大事だ。僕らで手分けして探そうか?」 「ああ、大丈夫ですよ、フェイ兄さん。あいつのバイク、あそこに停めてあるでしょう? 相棒を乗り捨ててどこかに雲隠れする人間じゃありませんから、そのうち戻って来ますよ」 「ラ、ライアンさんの言葉を信じますよぉ………」 「あんたも過度に気を揉みすぎだ。今日は色々あったから、疲れてもう寝てるんじゃないのか? 村のベッドは探したのか? 宿に借りた家の中は?」 「あー、いえ、休んだっていう考えはありませんでした」 「今夜は朝まで呑むような勢いだ。小腹が空いて目を覚ませば、ひょっこり顔を出すと俺は予想しているよ。 とにかくだ、良い大人を相手にアタフタするのは、ニコラスにも失礼じゃないか」 「そ、そう言われると、もう何も言えなくなっちゃいますです、はいぃ………」 アルフレッドが指で示した通り、ニコラスのガンドラグーンはサイドにエッジワース・カイパーベルトを接続させたまま、 ドラムガジェットと並んで村落の隅に停車されたままだ。 大事な相棒を置いてニコラスがどこかへ消えるとはトキハにも考えられず、 アルフレッドのその指摘を受けて少しずつ落ち着きを取り戻していった。 緊張の糸が切れ、その場にへたり込んだトキハへ水の入ったグラスを渡してやりながら、 その頼りなげな顔立ちにふとあることを思い出したアルフレッドは、 未だに頭の中を堂々巡りする疑念の突破口を彼に求めた。 「―――なぁ、あんたは確か現役の学生だったよな?」 「ええ、通信制ですけど、れっきとした大学生ですよ」 「俺より学があるものと思って尋ねるが、………BLって何のことだか分かるか?」 「びーえる? ………機関車の一種ですか? だとしたら、僕、専攻が違うんで力になれないと 思いますけど………」 「いや、何がなんだか、根本的なところすらわからないんだ。俺とニコラスが関係しているとかいないとかで」 「BL………う〜ん、何だろう? 今度、友達に聞いてみますよ。僕なんかより物知りも大勢いますし」 「ヒントになるかわからないが、どうもボーイズラヴとやらの略称らしい」 「ボーイズラヴ、ですね。了解、メモしときました。………正式名称から考えるにボーイスカウトみたいなものでしょうか?」 「青少年育成とは違うみたいなんだ。………ボーイズラヴ………」 「う〜ん、ボーイズラヴ………」 「………ボーイズラヴ、さっぱりだ」 ………フィーナが残していった“BL”の悩みは、暫くアルフレッドの頭を悩ませる気配が濃厚である。 いよいよもって意味のわからない“BL”に頭を悩ませ、眉間に皺寄せるアルフレッドだったが、 それを横目で見つめるフェイの満面には、呻く弟分とは対照的に 憑きものが落ちたような表情(かお)が浮かんでいた。 いつまで経っても変わることのない幼馴染みたちの様子に心が安らいだのかも知れない。 先ほどまで相好を支配していた陰鬱な空気は、朝日を浴びた霧の如く散っていた。 「………………………」 ようやく晴れやかな容貌となったフェイを見て取ったレイチェルは、人知れず安堵のため息を漏らすのだった。 「マコシカの民を舐めるな、かぁ。そりゃそうだ。選ばれる人間もいれば、用なしの人間だって出てくるもんね」 三者それぞれの様相にネイサンは興味を惹かれたらしく、先ほどから舐めるよう眼差しで彼らを観察し続けている。 デバガメのように悪趣味と言うべきか―――彼の口元は好奇によって嫌らしく吊り上げられていた。 「人の取材にケチつけるクセに自分は覗きだなんて、ちょっとサイテーなんじゃない? ………バレるわよ、あんたの“趣味”」 そう耳打ちしながら額を叩いてくるトリーシャへネイサンは意味ありげに喉を鳴らして見せた。 * 薄雲のかかった三日月が東の空へだいぶ傾いてきたと言うのに、 マコシカの宴は終わる気配すら見せず、むしろ段々と熱が高まっているような気がする。 いや、気のせいでなく、実際にますます盛り上がっている。 「………徹夜なんてもんじゃなく、三日三晩ぶっ通しで続くんじゃねぇか、これ………」 遠目、と表した通り、饗宴を突き抜けて狂宴の域にまで達したマコシカの賑わいを傍観するニコラスは 祭りの会場からかなり離れた場所で雑木に背を預けながら、独り静かに缶ビールを空けていた。 口を付ける缶ビールは村の人々が用意したものではなく、ガンドラグーンに秘蔵しておいた彼の私物だ。 ニコラス以外の人影は気配すら感じない村の外れで私物の缶ビールを呷る彼は、ひどく孤高に見える。 一見すると祭り騒ぎへ馴染めずに爪弾きにされたような恰好だが、 仲間たちの楽しむ姿を興味無さげに見つめ、呷る酒もツマミのポークジャーキーも、 マコシカ産には手も付けずに私物で済ませたとなると、ニコラスは愉快な輪へ入り込めなかったのでなく、 宴会への参加を拒否したと判断して然りだ。 まさか同僚がそんなことを考えているとは想像もしておらず、 宴会場のどこかにいるだろうニコラスの影を探し回ったトキハにとっては残念な話だが、 ジャーキーから滲み出す肉汁をビールと一緒に流し込むニコラスの目は冷ややかそのもの。 アルコールにやられた人々を遠くから観察して楽しむという趣味も感じられず、ただただ無機質だった。 (………いつになったら帰れるんだ………) アルバトロス・カンパニーの同僚は一段落ついたことに安堵して一時の骨休めを満喫しているが、 目的を達したという以上は次のステップに進むことへ意識を向けなければならない。 運送に出かけた社員がことごとく迷子になっているといる異常事態を解決し、 早急に事務所へ帰還することが次なる難題である。 言うまでも無く、これは死活問題だ。 自分たちの置かれた状況を事務所の人間に伝えれば少しは好転するかも知れないが、 今もって電話もメールも通じず、コンタクトを取る手段が完全に途絶えていた。 帰る道も分からず、コンタクトも取れないこの八方塞を焦るなと言うのが無理な話なのだ。 (つーか、遭難って欠勤扱いになるのか? 給料出ないのは仕方無いにしても長期無断欠勤に見なされて クビ飛ばされちゃ、笑うに笑えねぇぞ………) クシャッ―――と、様々な意味で深刻の様相を呈してきた迷子問題へ思いを巡らせ、 ボンヤリしていたニコラスの耳に近くで芝生を踏み締める音が飛び込んできた。 「あ、こちらにいらしたんですか」 「あんたは………」 「誰か来たのか?」と顔を上げて音のした方角へ目を向けると、そこに立っていたのは意外な人物――― 宛先不明の手紙を返却した差出人、ミスト・ピンカートンだった。 しかも今の口振りからするとニコラスを探して村はずれに辿り着いたらしく、 現に彼の姿を見つけるなり空き缶の転がる雑木の下へ足早に駆け寄ってきた。 よほどあちこち探し回っていたようで、額には夜目にも分かるくらい大粒の汗が吹き出し、 荒い息を肩でしていた。 ………もしかすると、額に発露した汗のうち、探索の労力は半分以下で、 アルコールの魔力に支配されたフィーナを抑えるのに要したエネルギー消費が 大半を占めているのかも知れないが。 初対面だった昼に比べて少しは人見知りも慣れたらしく、 手紙を受け取る時にはおどおどしていたミストも今でナチュラルに微笑みかけられるようになっていた。 釣られてニコラスも愛想笑いを返すが、内心では乗り気ではなく、 考え事の妨げになるから早く帰って欲しいと願っているくらいだった。 しかし、ニコラスの内なる願いなど知るべくもないミストは、彼の凭れる雑木へ自分も背を預けた。 それは全く歓迎できない行動で、ニコラスは思わず雑木からずり落ちそうになってしまったが、 まさか追い返すわけにも行かず、「休むのは息が整うまでにしておいてくれ」と ティビシ・ズゥへ無言の祈りを捧げるしかなかった。 「それは?」 「ん? ビールとジャーキーがどうかしたか?」 嗜好品を好まないマコシカの民には珍しい物なのだろうか、 彼の手にある缶ビールとポークジャーキーに興味を持ったらしく、 濁り酒とは異なる匂いを醸すアルミ缶をミストは凝視している。 そこでニコラスの脳裏に閃くものがあった。 ミストは缶ビールやポークジャーキーそのものを珍しいと思っているわけではないのだ。 つまり――― 「さっき渡されたんだよ」 「でも、そう言った類の食べ物は村には無かったはずなのですけど………」 「それは俺に訊かれても困るよ。渡されたもんを食ってるだけなんだ」 「そ、そうですか………」 ―――つまりは、こういうことである。 マコシカの集落に存在しないような嗜好品をニコラスが手にしていることにミストの疑問は集中し、 それを察した彼はやや強引にクエスチョンマークに満ちた凝視を受け流した。 言い聞かせると言うよりは、有無を言わさず信じ込ませるやり方だが、 そうでもしなければ嗜好品の出所について根掘り葉掘り詰問し続けられたかも知れない。 厄介は一日に一度で満腹とし、なおかつ考え事の妨げを取っ払いたいニコラスにとって、 それはなんとしても回避したい結果だ。 語気を強める以外の有効な手立てを見つけられなかったニコラスだったが、 どうやら彼の一手は功を奏したようで、嗜好品について尋ねるミストの声は それきりプッツリと切れた。 「………………………」 「………………………」 これはこれでイヤなものだ。 結果的にニコラスがプレッシャーをかけてミストを押さえつけて形になり、 そこから生み出された沈黙に微妙な空気が垂れ込め、 物凄く居た堪れない思いを双方に抱かせる。 そんな二人を一陣の風が煽った。 森に囲まれたマコシカへ吹く夜風は祭り騒ぎの熱気と正反対に冷気を帯びており、 アルコールで火照ったニコラスの頬には心地良いものだった…が、 顔から浸透した冷たさは彼女へ妙なプレッシャーをかけたことに一抹の呵責を覚える心まで伝い、 少しだけ痛みを与えた。 決して激痛ではないものの、いつまでもキリキリと締め付けられるような苦い感覚だった。 「………お友達と一緒にいなくてもいいのですか?」 「四六時中一緒にいたら疲れるだろ? さっきまで一緒に呑んでたし、 いい加減、酔いも回ってきたから小休止入れてたんだ」 「そう………ですか。今までお姿を見かけなかったので、てっきりずっとこちらにいたのかと………」 「そりゃあんたの見間違いだよ」 「す、すみません………」 「別に怒ってねぇよ。………俺のことは気にしないでくれ」 「俺は結局、話がしたいのか、したくないのか、どっちだ!?」と激しい自問自答をしそうになったニコラスへ ミストはまた別の疑問を投げかける。 「あの………、お嫌いですか、みんなで騒ぐのは」 「俺のことは気にしないでくれって言ったばかりじゃなかったっけ?」 「え? あっ―――す、すみません、そういう意味とは思いませんでした」 「………ま、いいけどさ」 「………私も少し苦手です、大騒ぎとか。お酒も好きになれませんし………」 「………………………」 「………………………」 わざとぶっきらぼうに返し、質問の多いミストの口を再び黙らせたニコラスだったが、 今度は先ほどのような呵責を覚えることは無く、 フォローめいた彼女の二の句にも憮然とした無言でもって反撃を見舞う。 ミストはニコラスに「みんなで騒ぐのは嫌いか?」と問いかけた。 これがニコラスの癇に障ったのだ。ミストの指摘した通り、 ダイナソーたちのように大勢で輪になって騒ぐことをニコラスは好まず、 だからこそ独りぼっちでビールを煽り、遠巻きに、冷ややかに同僚の嬌声を眺めていたのだが、 改めて他人に指摘されると心の内側を見透かされたようで無性にイラッとしてしまうのだ。 お前に何が分かる。逢って数時間の人間が知った顔をするな――― そんな憤りをも無言の中に込め、ニコラスは全身から不貞腐れたオーラを発してミストを牽制した。 「………………………」 「………………………」 「………………………」 「………………………」 ミストが醸すオーラが弱々しく湿っぽいものに変わったのは、 再び沈黙が垂れこめてからジャスト360秒後だ。 「差出人のプライベートを詮索するのは、仕事柄、誉めれたもんじゃねぇんだが………」 「はい?」 「気を悪くしたら無視してくれたって構わない。でも、ちょっと気になっちゃってさ」 「あっ、私、何か間違いをしてしまいましたか?」 「違う、そうじゃねぇんだ。ただ、手紙の書き方に不思議なことがあってさ」 彼女が落ち込んだ原因について自分の態度に思うところがあった――― と言うか、自分の剣呑な態度以外に原因を見つけられなかったニコラスは、 自ら沈黙を破って世間話を切り出し、ミストのご機嫌取りに打って出た。 泣き出されてはたまらない。 しかもこの真っ暗闇の中で二人きりだ。こんなシチュエーションでミストの泣く姿を マコシカの人々に目撃されようものなら、あらぬ誤解を招くのは火を見るより明らかで、 それだけは忌避したかった。 「宛先の住所を書かず、それどころか“お父さん、お母さんへ”って、ただそれだけ書いて出したって 届けたい相手には渡らねぇだろ? てっきり子供のいたずらと思ったら、出てきたのはあんただ。 ………どうしてあんな書き方したんだよ? いたずらのつもりなのか?」 「いたずらなんて、そんな………っ。それだけは違います。そんなことをしたら、色々な人に迷惑を かけてしまいますし………」 「今更それを言うかね。十分、運送屋さんに迷惑かけてるじゃねぇの」 「すっ、すみませんっ! この度は本当にすみませんでしたっ!」 「え? ええ? ………ちょ、ちょっと、おい、今のは冗談なんだぜ? 笑うか、怒ってくれなきゃ、困っちまうよ」 「あっ、………すみません………私、つまらない人間で………―――すみません」 「………………………」 実際問題、差出人のプライバシーを詮索するのは職務規定に抵触しており、 もしも、社の人間にバレればクビを切られるのは間違いない。 初対面からそれほど時間も経っていない為に共有出来る話題が乏しく、 また焦っていたこともあって迂闊にもニコラスはその職務規定を踏み越えた質問を振ってしまった。 勿論、ニコラスもすぐに自分の失言に気付いたが、 質問に対して神妙に考え込むミストが悪意をもって同僚に密告するような人間には見えず、 運送業者に課せられた職務規定の違反にも気付いていないと確信し、 ひとまず安堵の溜め息を吐いた。 とりあえず、クビになる可能性の芽を一つは潰せた。 あとは無断欠勤の問題さえクリアー出来れば、職務への無事の復帰が達せられる…と、 そこまで考えてから、ニコラスは自分がそのことで悩んでいたと思い出し、 今度は重苦しい溜め息が口をついて出る。 吹き付けた寒々しい夜風がイヤに身心へ沁みた。 「お父さんとお母さんに出したんです………あのお手紙」 「ご両親に? 結婚記念日のプレゼントか何かなのか?」 「そう言うわけでは無いのですけど………」 「まあ、理由は訊かないが、手渡しすりゃいいじゃないか。村にいるだろ? 手渡しは照れ臭いかもだけど、 次からはせめて住所は書いてくれよな」 「………………………」 「―――あの、ピンカートン………さん?」 「………………………」 ―――ミスト・ピンカートン。 彼女のファミリーネームは、マコシカ酋長のレイチェルと同じ“ピンカートン”である。 何を隠そうミストとレイチェルは親子関係なのだ。 言うまでも無く、レイチェルが母親でミストが娘。ミストくらいの年齢の娘がいるとは思えない若々しいレイチェルに 最初は誰もが驚き、ダイナソーなど不用意にも「めっちゃ若作りじゃねッ!? お化粧何層仕立てだよッ!?」と口にしてしまい、 危うく生き埋めになりかけた。 ちなみに父親は方々を飛び回る職業に就いているらしく、 昼間の喧嘩騒ぎや今夜の飲み会にも顔を出していない。 その両親に手紙を出したとミストは話してくれたが、これに触れた途端、彼女は口を噤んでしまった。 再び訪れた沈黙にまた地雷を踏んだものとニコラスの焦りがぶり返す。 「………いえ、ピンカートンの両親じゃなく………本当の両親に」 「え………ッ」 ―――今度踏み抜いた地雷は、マコシカに訪れてから最も大きく、被害の劣悪な物で、 ニコラスが気付いた時には、もう取り返しのつかない状況に陥っていた。 職務規定違反の話ではない。他人の重大な問題になど関わりを持ちたくないニコラスには 最悪とも言える地雷だった。 「………レイチェルお母さんとヒューお父さんは私の育ての親で、生みの両親じゃないんです」 幾分、声のトーンを落としながらポツリポツリと話すミストの手前、 掌が動きそうになるのを決死に堪えたが、ニコラスは顔を覆いたくて仕方が無かった。 彼女の口振りからその流れに向かうと予測出来たのに、足元を掬う波を未然に堰き止め、 別な話題と言う助けの岸へ飛び移ることもままならず、最も望まない潮に巻き込まれてしまったのは、 ニコラスにとってまさしく悪夢だ。 「俺が何をしたんだ? もうそろそろ勘弁してくれ」。心の中で何度そう叫んだか分からない。 ニコラスに何を求めているのか分からないが、彼の懊悩を他所にミストは自分の出自にまつわる話をポツリポツリ…と続ける。 語る口へ込められた意味を噛み締めるように、ポツリポツリ…と。 「レイチェルお母さんに聞いた話では、私は雪の降る寒い夜に集落の入り口へ捨てられていたそうです」 「………またおあつらえ向きのシチュエーションだな。凍死しなくて良かったよ」 「ジプシーワートちゃんとミルクシスルちゃんにもよく言われます。 ………あ、ジプシーワートちゃんとミルクシスルちゃんと言うのは私のお友達で」 「いいって、その辺りの説明は端折って貰っても。なんて言うか、ニュアンスでわかるし」 「す、すみません………」 殆ど右から左へ受け流すようにして聴いているニコラスの注意は、 ミストの告げる出自の秘密よりも彼女の癖に向かっていた。 半分寝惚けた意識で「よく謝るヤツだな」とボンヤリ考える。そんな風に聞き流しているものだから、 当然、気も入っておらず、ついさっき話の中に出てきたミストの友達とやらの名前も全く脳に記録されていない。 もしも鸚鵡返しに二人の名前を聴かれたら、答えに窮してミストに不信感を与えかねないのだが、 それでもニコラスには身を入れる気が起きなかった。 「ジプシーワートちゃんとミルクシスルちゃんは、生みの両親のことを酷い親だってよく言います。 ………ううん、二人だけじゃない、ピンカートンのお父さんとお母さんも、 村のみんなも、酷い親だって怒ってくれます。でも………それでも、 私を生んでくれた人たちだから、だから、私―――」 「………………………!」 厭々訊かされていた筈のニコラスがミストの告白にグッと意識を引き寄せられたのはその瞬間(とき)だった。 ―――“酷い親”。 ミストは確かにそう言った。生むだけ生んでおいて、マコシカの集落へ捨てていった実の両親を 村の誰もが“酷い親”と詰り、心の底から軽蔑する………と。 ―――“酷い親”。 もう一度、ニコラスは心の中で反芻した。………おかしな言い方だが、反芻することを何かに強要された。 それはとても昏く、嫌な感覚だった。 思い返したくなくても意識が強引に“酷い親”という言葉をニコラスの心に刻み込み、 ハウリングを起こして鼓膜を震わせる。鼓膜を伝って、全ての感覚神経を酷く揺るがした。 ―――“酷い親”。 誰かの手で精神をまさぐられ、穿り返されたような、何とも言えない辛苦を発症させる耐え難い衝動が ニコラスの脳裏を電流の如くビッと走り抜ける。 「―――ッ………!」 もうミストの話など耳に入ってはいなかった。 いや、彼の精神そのものがマコシカを離れ、全く異なる空間に攫われていた。 ………彼の意思など黙殺し、望まぬ闇の淵へ押し流したと表すのが正しいか。 『………コレは………オマエを………幸せに………する施術………だから………………』 誰の声も届かず、外界の彩(いろ)も差さない深く濃い闇の只中に人の声を思わせる反響が渡った。 そして、その反響は黒く塗り潰されたニコラスの網膜に緩やかな波紋を落とし、浮き立った波紋が何かの形を為す。 決して消せない烙印のように、鈍い痛みを重ねながら黒いスクリーンに輪郭線を焼き付けていく。 あれは、あれは、あれは―――――――――……………………… 「ヴィントミューレさん?」 「―――――――――ッ!!」 白熱がスクリーンへ幻像を映し出す寸前、反響を突き破ったミストの呼ぶ声が鼓膜を打ち抜き、 同時にニコラスの心を塗り潰していた闇も拭い取られた。 まるで石像にでもなってしまったかのように身体が重く、腕を動かすことも首を振ることさえも妨げるが、 辛うじて自由を保っている瞳を左右へ巡らせると、そこは闇の深淵ではなく、マコシカの集落だった。 今の今まで凭れ掛っていた、あの雑木のほのかな温もりが背に感じられた。 自分が在るべき世界に帰還できたという安堵が、自由を妨げる極度の緊張から彼を解放し、 ようやくニコラスの身体に元の軽さが戻った。 「………………………」 自由を取り戻した代償なのか、安堵の溜め息を吐いた途端、今度は左手の指先に鋭い痛みが走る。 鉄製の外殻が固く硬くプロテクトする左手の指先で熱を発した痛みは、次第に上へ上へと駆け上り、 やがては右腕全体を支配する鈍痛に変わっていった。 外傷性の痛みではない。肉の…骨の…更にその深層から染み出すかのような、 裡より湧き上がる鈍い痛みがニコラスの左手を焼いていく。 「ど、どうかされたのですか? すごい汗ですよっ?」 ニコラスの身を包んだ異変がミストにも伝わったのだろう。 心配を絵に描いたような気遣わしげな瞳でニコラスの様子を覗き込み、彼の真っ青な顔に思わず息を呑んだ。 つまり、ミストの眼を丸くするほど、ニコラスの顔色は悪かったということだ。 「あー………、いや………、何でも………無ぇよ………」 「でも………」 「………呑み過ぎちまったのかもな。酔いが回ってちょっと気持ち悪かったんだよ。 ………もう収まったから、大丈夫」 「本当………ですか?」 「そんなに信じられないなら、俺の顔をよく見てみな。もうヤバい表情(かお)、してねぇだろ?」 「………すみません、すごく真っ青で心配になります」 「………うん、今のは俺がバカだった。吐き気が来てすぐに顔色が戻るわけが無ぇわな」 自分でも下手だと分かるような作り笑いで誤魔化すが、 先ほどのようにミストの意識を適当に流したくて芝居を打ったわけではない。 自身の心を蝕んだ怪現象を何と説明すれば良いのか、ニコラス本人にも分からなかったのだ。 ―――“酷い親”。 確かミストの呟いたその言葉が引き金だったと思う。 ―――“酷い親”。 その言葉が耳に飛び込んだ瞬間、いきなり意識がブラックアウトして、それから――――――……………… (………これじゃさっきと同じじゃねぇか!) 大慌てで頭を振り、思い浮かべた想起を打ち消す。 そんなことをしたら、またあの昏い闇に攫われるに決まっている。 ほんの一瞬の出来事だったが、ニコラスの心臓は獰猛な恐怖に鷲掴みにされ、激しい鼓動を打っていた。 もう何者かの手が心を掻き回すことは無かったものの、後にはじっとりとした悪寒が残された。 誰かに心を掻き回されたという不気味な感触が頭の片隅にハッキリとこびり付いて離れなかった。 ………それで十分だった。想像の中でも再現したくないおぞましさを追体験などしてたまるものか。 「もしも苦しいのでしたら言ってください。ヴィントミューレさんは私の為に頑張って下さった人です。 その人が苦しんでいるのは、見ていられません」 「………ありがとう、大丈夫だから、もう………」 復調を表す為にヒラヒラと振っていた彼の左手を不意にミストが自分の両手で包み込んだ。 そうして「痛いの痛いの、飛んでいけ」と彼女は冷たいプロテクターで固められたニコラスの左手に 優しく囁きかける。 指先から湧き起こる鈍痛は、左手を振る最中にも絶える間無くニコラスを苛み続けていたが、 ミストの柔らかな感触を厚手の布とプロテクター越しに感じてからは幾分痛みも弱まり、次第に鎮静されていった。 不思議なことだが、灼(や)いた鉄串で突き刺されたような痛みは、 ミストの手に包まれることによって鈍い疼きもろとも収まり、癒されていた。 それはとても不思議な出来事で、子供のおまじないじみた囁きが ニコラスには万能の治癒のプロキシのようにさえ思えた。 「………ピンカートンさんは随分ペラペラと辛い想い出を喋れるんだな………」 「………お気に触りましたか………」 「違う、そんなんじゃねぇんだ。………ただ、羨ましいって思ってさ」 「羨ましい?」 「―――羨ましいってのはちょっと違ったな。すまねぇ、言葉のアヤだ。 そうさなぁ………、不思議だって言い直すよ」 「変わってますよね………やっぱり」 「気を悪くしたらごめんな。でもさ、何て言うかな、普通はそういう辛い想い出って、あんまり口に出さねぇもんじゃん。 あ―――いやな、そういうのが無い人間のイメージってそんなもんなんだよ。なのに、ピンカートンさんは 結構平気で身の上話をしてくれたから、さ」 「………………………」 「ごめん、やっぱムカついたよな。何も知らないヤツに知ったようなこと、言われたか無いよな」 「え? あっ、違いますよ、違います。今のはそう言うんじゃなくて、その………」 左手の痛みと心臓の動悸が完全に鎮まるのを待ってから、今度はニコラスから話を切り出した。 いや、いつだってニコラスから話題を振ってはいたのだが、今度はミストに向ける意識が違う。 居た堪れない空気に耐えかねて無理矢理話題を求めたのではなく、 ミストの話にちゃんと向き合おうとする意思が今のニコラスには芽生えていた。 「こんなことを言うと、おかしな人と思われるかも知れませんが」 「大丈夫、おかしなことを言われても笑わない用意をしとくから」 「………それはそれで悲しいです。最初からおかしな人に思われているみたいで………」 「自分で言ったんじゃねぇか、おかしな人に認めくれって。だから、俺は気持ちを作ったんだぜ?」 「そこまでは言っていないような…でも、私の勘違いのような………とりあえず―――すみません………」 「いや、そこは謝るところじゃねぇから」 「す、すみませんっ、私………」 「謝るのはもう良いって。―――さぁ、そろそろ体調も良くなってきたことだし、話を本題に戻してくれよな。 ここまで来たんだ、最後まで付き合うよ」 「は、はいっ。ありがとうございます」 腑抜けていた気持ちを入れなおしてミストと向き合ってみると、どうだ。 “辛気臭い女”のファーストインプレッションから普通の会話も難しいと思っていたミストとも こんなにも話が弾むじゃないか。 「おかしな人と思われても仕方ありませんが、………今がとても幸せだから、 ピンカートンのお父さんとお母さんが本当の両親じゃないと言うことも、 普通にお話しできるんだと思うんです。 生みの両親を知らないけれど、でも………ピンカートンの家族にも、友達にも恵まれて、 すごく幸せだから………」 「全然おかしなことは無ぇよ。それって普通―――いや、めちゃくちゃ恵まれてるって」 「やっぱり………そうでしょうか?」 「さっき羨ましいって言い方を訂正したけど、また訂正するよ。ピンカートンさんが羨ましいな、俺は。 ………きっと、もう乗り越えちまっているんだな、ピンカートンさんはさ。自分の生まれ育ちの不思議さを、さ」 「それでもやっぱりたくさんのことを伝えたいから………それで、顔も知らない二人にお手紙を 出していたんですけどね」 「………『私を生んでくれてありがとう。私は幸せです』って―――か?」 「………職権濫用はひどいです。お客さんのお手紙を勝手に封を切っちゃいけません」 「そんなことしなくたって、幸せだって話してくれるあんたの顔を見てれば、 手紙の内容なんか透けて見えるよ」 「………なるほど、透視能力ですかっ。それなら封がそのままなのも納得です。 でも………やっぱりひどいです」 「すっげぇボケ貰ったけど、俺、基本的にツッコミ要員じゃねぇから、漫才師みたいに上手く返せねぇぞ。 っつーか、今のはボケ倒すトコじゃなくて感動路線でシメるべきじゃねぇか………」 唐突に突き落とされた闇の深淵から引っ張り上げてくれた感謝の気持ちも確かにある。 しかし、それ以上に心の奥底に宿った揺らぎが―――今もまだ左手を包んでくれているミストの温もりが 彼を突き動かしていた。 「―――ピンカートンさんの、その………本当の両親の名前は?」 「え?」 「いや、な。仕事柄、俺はあちこち飛び回ってるからさ―――」 「ヴィントミューレ………さん?」 「名前を訊いておけば、どこかであんたの本当の両親…いや、生みの親って言うべきかな。 ともかく、あんたが探してる人たちに逢った時、力になれるかも知れない」 「………あっ!」 「あんたの伝えたかった言葉を教えてやれるかも知れない。なんなら送り返した手紙を預かってもいい。 探してる人たちの名前を知っていれば、そう言う手助けも出来ると思うんだ」 温もりは左手を伝って心の奥底をノックし、そっと促されるままに口をついて出ていた。 他人の事情へ深く踏み込むことをあれだけ嫌っていたのに、臆病な躊躇は知らない内にどこかへ消え去り、 心の底から湧き起こった、ミストの力になりたいと言う希みが、ニコラスの足を強く前進させていた。 「もしも、話しても良いことなら、聞かせて欲しい。………最後まで付き合うって約束したしさ」 「………………………」 どうしてこんなに必死になっているんだろう。何を俺はしゃかりきになっているんだろう。 考えれば考えるほどニコラス本人にも分からなくなるが、今はただ、柔らかな衝動の赴くままに 心を走らせたい気持ちでいっぱいだった。 それがミストの助けになるなら、頭の片隅に浮かぶ疑問符などは取るに足らない瑣末な物だ、と。 「―――………お父さんにもお母さんにも伝えていないので、 ここだけの―――あなたと私だけの秘密にしてもらえますか?」 「それは構わねぇけど………なんで内緒なんだ? 差し出がましいかもだが、 そういうのは真っ先に話すべきなんじゃねぇか?」 「私の記憶におぼろげにある名前なので、本当かどうかもわからないから………」 「………本当かどうかもわからない名前で、両親の気を煩わせたくねぇってわけ、か」 「お父さんとお母さんには本当に申し訳ないと思っているのですが………」 「………………………わかったよ。約束する。俺の心ん中に留めておくよ」 「ありがとうございます………」 約束を結んだからと言ってすぐに気持ちが切り替えられるわけでもなく、 「約束を破ったら何でもするさ」とニコラスがペナルティを課した後もミストは唇を噛んだまま、 切り出すタイミングを自分の心に求めている。 しばらく沈黙が続いたが、今度は苦痛な静けさではない。 ミストが一生懸命になって決心を固めようとしているのがわかったし、 心が向かい合ったニコラスには沈黙さえ休符のように心地良かった。 「ファミリーネームまでは記憶に無いのですけど………」 自分へ言い聞かせるように頷いた後、ミストはそう切り出した。 家族や友達が“酷い親”と詰り、彼女自身が感謝を伝えたいと願う生みの両親の名前を。 「お母さんがマリスでお父さんが―――お父さんは、アルフレッドと言います」 「アルフレッドだってぇッ!?」 母親の名前には決し忘れぬようにと神妙に聴き入っていたニコラスだったが、 父親の名前をミストが口にした途端、飛び上がって驚いた。 比喩でなく、本当に飛び上がって驚き、その拍子に低い位置に張り出していた枝葉に頭をぶつけてしまった。 “アルフレッド”と聴いてニコラスの頭へ真っ先に浮かんだのは、当然ながらライアンさん家のアルフレッドである。 ミストの父親が“アルフレッド”と来れば飛び上がって驚くのも無理からぬことで、 きっとニコラス以外の人間が今の話を聴いても殆ど同じリアクションを返したことだろう。 おっちょこちょいな部分のあるフィーナなどは早とちりしてアルフレッドに食って掛かり、 とても口では説明できないような地獄のお仕置きコースを叩き込むかも知れない。 これ幸いに襲い掛かるムルグに全身を穿り返される様が眼に浮かぶようだ。 「私も驚きました。ライアンさんとそっくり同名なんですから」 「お、驚いたってもんじゃねぇよ………偶然ってのはあるもんだなぁ………」 今の話を打ち明けられた相手が仮にフィーナだったなら、 ライアンさん家のアルフレッドは潔白を証明するチャンスさえ与えられずに吊るし首確定だったが、 幸いにも父親の名前を聴いたのはニコラスだ。 彼はフィーナのようにおっちょこちょいの早とちりではなく、物事を冷静に対処できるタイプの人間である。 いきなり“アルフレッド”と聞かされたら、どうしても驚愕してしまうものの、 衝撃が収まる頃には、頭に浮かんだ仮説がどれだけ有り得ないことで、 ライアンさん家のアルフレッドに濡れ衣をかける行為だと冷静に判断出来るようになる。 どう考えても有り得ない。辻褄が合わないなんてものじゃない。 ニコラスの目の前に立って彼の左手を温めているミストはライアンさん家のアルフレッドと それほど変わらない年齢なのだ。 もしも、本当にライアンさん家のアルフレッドが彼女の実父だとするなら、 彼は何歳のときにマリスなる女性とミストを設けたと言うのか。 未来の世界でミストを設けたライアンさん家のアルフレッドが過去まで遡り、マコシカの集落へ置き去りにしたのか? それとも、アルフレッドは本当は極度に若作りなプレイボーイで、 本当はミストくらいの年頃の娘がいてもおかしくない齢(よわい)だとでも言うつもりか? 前者はサイエンスフィクションの話題としては面白く、後者も昼メロファンが飛びつきそうなネタではあるものの、 両方とも荒唐無稽以外の何物でもなく、考えるだけでバカバカしい仮説だった。 ともすれば、ライアンさん家のアルフレッドと全くの同名の人物がミストの実父であると結論付けるのが 至極真っ当な考え方だ。 と言うよりも、荒唐無稽なネタに飛びつく人間がいるとすれば、よほど夢見がちのイタいコか、 ゴシップのニオイへ撒き餌を前にしたブラックバスばりの食いつきを見せるトリーシャくらいしか思い当たらない。 「ま、まぁ、ちょっとした混乱は流してだな―――しっかり覚えて、口にチャックをしとくよ、 ピンカートンさんの両親の名前。………いや、生みの親の名前を、ね」 「ありがとうございます」 内心に抑止した本音を漏らすなら、フィーナあたりにこのことを吹き込んで アルフレッドに降りかかる人生最悪の受難を見物してみたい衝動に駆られなくもないが、 それではミストとの約束を破ることになる。 そうやって疼くイタズラ心を永遠に封印する為に、ニコラスは改めて誰にも口外しないことをミストに誓った。 生みの両親に巡り逢えるその日までは絶対に誰にも教えない。 左手を温めてくれる彼女の両手へ空いた右手を重ねながら、ニコラスは固く誓いを立てた。 「じゃあ、ピンカート―――」 「―――ミスト、で良いですよ」 「うん?」 「ミストと呼んでください、ニコラスさん」 意外な提案を持ちかけられてニコラスは少しだけ面食らったが、照れ臭いと断る前にすぐに思い直した。 もともと彼女のほうから打ち明けてきたモノではあるものの、 誰にも内緒の秘密を共有することになった彼女には不思議と心を許せるのだ。 干渉することもされることも最初はあれほど嫌がっていたのに、 気付いてたときには彼女のペースに巻き込まれていて―――多分、左手から伝わる温もりに浮かされて、 それで頭がおかしくなったんだろう…と結論を出したニコラスだが、そう思うと、なんだか無性に背中がくすぐったかった。 「―――ニコラスで良いよ。敬語で呼ばれちゃくすぐったくて仕方無い」 「えっと、じゃあ………ニコラスくん………で」 「ああ、………ミスト」 「はい、ニコラスくん」 名前で呼んで貰えたのが本当に嬉しかったのか、ミストは何度も「ニコラスくん」と繰り返し、 その都度、満開の笑顔を咲かせた。 “辛気臭い女”と言うファーストインプレッションが嘘のような、夜空を明るく照らすかのような眩しい笑顔に ニコラスは思わず見蕩れてしまい、そんな自分に気付いて慌てて顔を背ける。 左手に感じる温もりだけで浮かされるんだ。満開の笑顔を見続けていたら、本当に頭が沸いてしまうかも知れない。 ―――また、風が吹いた。 頬を優しく撫でる風は今度も心地良かったが、涼しさを受け取る火照りの底にあるものは どうやらアルコールだけではないようだ。 * マコシカの集落とベルフェルとの中間に位置する林道を更に分け入った場所には 両村が共有して収穫に励む小麦畑がある。 季節と気候の両方に恵まれた今はちょうど刈り入れ時で、 実りに頭垂れた小麦が見渡す限りの一面に輝いていた。 比喩でなく、陽の光を浴びた小麦畑は本当に眩く、黄金の炎が波立っているような風光明媚の趣きである。 朝露が滴る時間帯と言うこともあって目覚めたての陽の光は実に清々しく、 その瑞々しい息吹が黄金の煌きへ更なる彩りを添えているようにも思えた。 清涼な風に揺られてサラサラとアンサンブルを紡ぐ黄金の奏者たちに耳を傾けながら、 東に仰ぐ山並みより差し込む光を浴びるふたつの影が小麦畑の真ん中で何事かを話している。 黄金の煌きが鏡面のように映り込む銀髪の持ち主はもちろんアルフレッドで、 深紅の髪が周りの色と合わさると、まるで日輪を覆う炎の如くに見えるのはニコラスだ。 「失敗したな………こんな絶景があるなら、昨日の内から繰り出すべきだった」 「朝日の中の小麦畑だって、なかなかイイもんじゃねぇか」 「小麦畑というものは、それ自体が最上のモデルだ。どんな光を浴びても、 その都度、最高の気色を見せてくれる。夕陽を浴びる姿は、朝日とはまた違った味わいがあるんだ」 「もう出発しちまう人間には口惜しいってわけか。写メくらいなら送ってやるから、そう残念がるなよ」 「写真も良いが、やはり生で見るものには敵わない。次に来訪する機会があったら、一日中眺めていよう。 月が出る晩には酒の肴にもなる」 「へぇ………性格からして無趣味っぽいのに、意外とこーゆーのを楽しむタイプなんだな、アルフレッドって。 あ、そうでもねぇか。シルバーアクセとか集めてるっつってたっけ」 「意外とは心外だな。俺にだって綺麗なものを愛でる感性くらいあるさ」 盛大な宴会から明けた朝なので互いの顔には疲労困憊が浮かんでいるものの、 清々しい朝日に照らされてだいぶ癒されたらしく、テンションがどんより急降下している様子ではない。 目の下に出来たクマさえ除けば、心身ともに充実した面持ちである。 「なんて言ったっけ、あの空色の髪のさ、お前の兄貴分みたいな―――」 「フェイ兄さんか?」 「客商売失格だな、俺。人の顔を覚えるのは得意だったんだけど」 「フェイ・ブランドール・カスケイド。俺が言うのもなんだが、相当な有名人だぞ? 会う人会う人、みんなが知ってる」 「あんまりテレビとか観ないから、有名人とか芸能人とかよく知らねぇんだよ。 ニュースキャスターならまだしも、超常現象の特番とかに出演してる人の顔はさっぱりだ」 「おいおい、フェイ兄さんを超能力者か大道芸人みたいに言わないでくれよ」 「えっ、違うの? ………すまねぇ、素で勘違いしてた」 「まぁ、この間のアレを見れば、超人オリンピック出場者と間違われても仕方無いがな」 それにしてもヒドい言われ方だ。 音に聞こえるフェイであっても、まさか自分の耳が集音出来ない場所で 大変な言われ方をしているとは夢にも思うまい。 むしろ、耳の届かない場所での出来事が幸いと言うべきか。 見ず知らずのニコラスのみならず可愛い弟分にまで一発芸人さながらの例え方をされたと知ったら、 枕を濡らすに違いなく、それを目の当たりにしたソニエが 仇討ちと称してジェノサイドに乗り出す姿も容易に想像できた。 嗚咽するフェイにケロイド・ジュースが「だからお前は駄目なんだ」などと追撃を浴びせる姿も、 そんな裏切り者に地獄突きを叩き込むソニエの猛攻も、ついでながら脳裏に浮かぶ。 「その人に随いてくのか?」 「途中までな。港町に着くまでの間、一緒に行動する」 「港で仕事を探して―――」 「―――ああ、冒険者稼業再開だ」 そのフェイたち一行と、一時的ではあるものの、行動を共にすることをアルフレッドは昨夜の内に取り決めていた。 エクセルシス探索と同時にテムグ・テングリ群狼領の調査を続けるフェイたちは、 ここマコシカの集落が属するアクパシャ保護区を離れ、近海に位置するアルハンブラ島へ向かう予定でいる。 アルハンブラ島はテムグ・テングリ群狼領の支配下にあり、 アクパシャ保護区が一部を構成する東の大陸を攻める上での重要拠点と目されている場所だ。 天敵の巣窟へフェイたちは危険を承知で潜入捜査を敢行しようと言うのだ。 途中まで同道するとは言え、アルフレッドたちはその潜入捜査には加わらない。 心情的には彼に協力したいと言う考えが無い事も無いが、 如何せん、戦いに不慣れなフィーナやシェインを激戦区に放り込んで無事でいられるとは 今のアルフレッドには想定できなかった。 フェイたちはアルハンブラ島へ渡る手段を求めて、アルフレッドたちは次なる冒険者の仕事を求めて、 ミキストリ地方最大の貿易港、ウルズデルタという共通の目的地を目指すことになり、 その間、行動を共にしようと取り決められたのだ。 そして、今朝がその出発の刻限であり、こうしてアルフレッドがニコラスと話している内にも フィーナたちは出発の準備を整えている筈だ。 ………もとい、二日酔いにやられて調子の出ないフィーナ以外の面々が準備をこなしているに違いない。 自分の支度を早々に終えたからこそ、出発間近と言うのにアルフレッドは余裕をもって ニコラスと早朝散歩に興じているわけだが、 他の面々はつい一時間前にお開きとなったばかりの飲み会で被ったダメージが影響し、身のこなしが鈍りがち。 あと三十分はゆっくりとお喋りを楽しんでも、まだ時間に余裕がありそうだった。 「お前たちこそどうするんだ? 集落へ残るにしても具体的なプランも無く逗留しては埒が開かないぞ。 それとも、うちのロースハムのようにマコシカの一員になるか?」 「ロースハムって………」 「ロースハムでは上等過ぎたな。脂肪分で良い、あんな奴は」 色々フザけた事をしておいて、どのツラ下げて言うのかと言う感じだが、 脂肪分=ホゥリーが言うには外来の人間でも自然礼賛の精神を養い、 洗礼さえ受ければマコシカの民へ迎え入れて貰える。 そもそもホゥリーもマコシカの出身者ではなく、外来からやって来て洗礼とプロキシの技術を授けられた人間だった。 前例が少ない訳ではない。ニコラスだってその気にさえなれば、マコシカの一員になれるのだ。 当然、それはこれまでの生活、仕事、環境の全てと縁を断ち、 新しく生まれ変わるような気構えを作らなければならないが、このまま帰り道が分からないままだったなら、 最終手段の一つに数えても損はしないだろう。 「それも良いかもな。違う道を見つければ、もうクビに怯えなくても済むぞ」 「やめれくれよ、これでも今の仕事に誇りを持ってんだからよ」 「じゃあ、このプランではどうだ? いっそマコシカの集落を拠点に自分たちの事務所を興すと言うのは」 「あのなぁ〜」 「一石二鳥じゃないか。ミスト・ピンカートンと一緒に暮らしながら大好きな仕事も出来る。 お前にとって最高の選択肢を用意したつもりだぞ」 「―――なぁッ!?」 明らかに冷やかすような声色で“ミスト”の名前を挙げられたニコラスは、 不意に襲われた動揺のあまり、思わず後退ってしまった。 そんな“如何にも”な態度を見逃さないアルフレッドの瞳に妖しい輝きが宿り、口元がうっすら吊り上る。 しまった、とニコラスが勘付いたときには、もう手遅れだった。 「露骨な動揺、ありがとう。自供しているようなものだぞ、今のリアクションは」 「自供ってなんだよッ! ちっげぇよッ!! ミストとはそーゆーんじゃ無ぇッ!」 「お、いつの間にファーストネームで呼ぶようになったんだ? 俺の知る限りでは、お前は彼女のことを ファミリーネームで呼んでいたはずだ」 「それは、その、成り行きっつーか………」 「ほう、その場のムードと成り行きに任せたのを認めるわけか。まぁ、若い男女が二人きりになってしまえば、 そんな流れになるのも自然な話ではあるがな」 「ちょッ!!!!!!」 昨夜、忌避しようとしたあらぬ誤解をよりにもよってアルフレッドへ与えていたことに 頭を抱えたくなるニコラスだったが、浴びせられる指摘はまんざら身に覚えが無いものではなく、 そのことが余計に彼の動揺を煽った。 憎たらしい限りだが、そんなニコラスの反応にアルフレッドの瞳に宿った妖光はますます強まっていく。 口元には今にも噴出しそうな笑気が漂っていた。 「俺にはピーピングの趣味なんか無い。無いが、それなりに頭の回転には自信があってな。 ………昨夜、ピンカートンはふらりとどこかへいなくなり、暫くしてからお前と一緒に広場に戻ってきた。 一緒、と言うのは語弊があるか。あからさまに時間差をつけて、二人別々に来たものな」 「………………………」 「一晩明けたら、ファーストネーム呼びだ。昨夜、俺たちの知らない場所で何があったんだろうな。 ………邪推や無粋を働きたくはないから、ここまでにしておくとするよ」 「なッ、なッ、なにも無ぇってッ!! 誓ってミストとは何も無かったッ!!」 「一緒にいたことは認知するわけか。うん、潔いな」 「おッ、おい、アルフレッドッ!!」 顔を真っ赤にしてあーでもないこーでもないと呂律の回らない弁解を展開するニコラスの慌てっぷりを楽しみながら、 アルフレッドはふと懐かしいような感覚を覚えていた。 ニコラスをからかい、ふざけ合うと、今も地元のグリーニャで暮らしているクラップを相手にするのと 同じ感覚がアルフレッドを包むのだ。 とても心地の良い、のんびりとした感覚が。 冒険者として請け負った最初の依頼主ではあるものの、 苦楽を共にした仲間という意識が芽生えたのも確かだし、男同士と言うことも手伝って、 いつしか気兼ねない関係として心を開いていたのかも知れない。 ニコラス同様に馴れ合いを好まないアルフレッドにはくすぐったくて仕方無いが、 上辺だけの付き合いではなく本心をさらけ出せるような友人が出来るのはとても貴重なことで、 込み上げる笑みを冷やかしに換えて茶化さなければ悶絶してしまうくらい嬉しく、喜ばしいものだった。 (最近、あいつにメールの返信してなかったっけなぁ………) そう考えた途端に、今度はニコラスからクラップへとアルフレッドの意識は移ろった。 筆まめと言うよりは寂しがり家のクラップは、一日三通はアルフレッドやシェインにメールを送ってくるが、 「送受信フォルダがクラ兄ィとのメールでいっぱいだ」と苦笑いするシェインと異なって 基本的に返信をしないタイプのアルフレッドは、よほどのことが無い限り反応をしていなかった。 最後にメールを返したのは、カッツェとルノアリーナが年甲斐も無く手を繋いだ上、 スキップして買い物に繰り出したとリアルタイムに報告を受けた時だが、 それも返信と言うよりは「一発入れてでもやめさせろ」と我が家の赤っ恥を制止させる為の指示に近く、 通話を含めて会話らしいやり取りは皆無に等しかった。 「なぁ、アルフレッド。お前―――………」 “ミスト”という名前が口を飛び出した時、ニコラスの脳裏には彼女の顔と約束の内容がフラッシュバックしていた。 昨夜からずっと可能性を模索しているものの、目の前の彼がミストの父親と言う仮説にはどう考えても結びつかない。 だが、しかし―――万が一と言うこともある。念の為と言う言葉もある。 「どうした?」 「………いや、やっぱりなんでもない」 「おかしなヤツだな」 “マリス”という名前に聞き覚えは無いか、と照会の言葉が喉の途中まで出しそうになるニコラスだが、 ミストに誓った約束を瞬時に想い出し、危ないところで強引に引っ込めた。 いきなり神妙な顔になったニコラスをアルフレッドは訝り、それをかわすのはかなりの苦労を要したが、 然るべき機会が訪れるまで守秘すると誓った以上、どんなに大変でも口にチャックをして、 追及をやり過ごさなくてはならない。 それよりもニコラスにとっては軽い拍子で約束を破りそうになった自分の迂闊さのほうが呪わしかった。 「次に会う時まで必ずお礼を用意しとくよ。うちんとこのボスは懐がだだっ広いからな、 期待して貰って構わねーぜ」 「無理するな。最悪の場合、俺たちの証言無しじゃ無断欠勤でクビになるんだろう? そんな時に報酬の話はしなくていい。………今回の旅は駆け出しの俺たちにとって貴重な経験だ。 報酬を支払いたいと考えているのなら、そうした経験に巡り合えた俺たちの顔を見てくれ」 「殻を破って羽撃いた小鳥―――って例えれば、カッコいいかな?」 「それで十分なんだよ、今の俺たちには」 「でも、それじゃ俺の気が済まない。俺だけじゃねぇ、姐さんもトキハも、サムだってそう言う」 「では、開店サービス期間だったと言うことで」 自他共に認めるくらい頭の回転が早いアルフレッドだから、話を摩り替えられたことにもすぐに気付いたが、 何か言いにくい事があったものとニコラスの心情を察し、それ以上、追及するような真似はせず、 彼の話に耳を傾ける。 そう、ニコラスは気兼ねの無い仲間である以前にアルフレッドたちの最初の依頼主なのだ。 依頼の内容を達成した以上は報酬を受け取るのが冒険者稼業と言うものである。 しかし、本社へ帰還する道さえ分からず、明日をも知れない身のアルバトロス・カンパニーの面々から 報酬を搾取しようと言う考えは最初からアルフレッドには無かった。フィーナたちもきっと賛成してくれるだろう。 報酬を受け取らないと知れば、がめついホゥリーあたりが文句を言いそうな気もするが、 彼には脂肪分と悪態を吐かれるだけの“前科”もある事だし、この際、無視してしまっても構わない。 それでもまだゴネるなら、契約を打ち切ってしまえば良いだけの話である。 あのウンザリする顔とふざけた態度を二度と見なくて済むのなら、 むしろ異論を唱えて貰ったほうがアルフレッドには好都合だった。 ところがニコラス当人は収まりがつかないらしく、口をへの字に曲げたまま アルフレッドに無言で「俺らのメンツに泥塗るなよなぁ」と訴えかけてくる。 アルフレッドも彼を真似して口元を曲げて受け流すが、もちろんニコラスは引っ込まない。 無言のまま、一進一退の戦いが暫く続いた。 「アル兄ィー! ラスー! そろそろ時間だぞ〜っ!」 ―――と、そこへシェインの呼び声が届く。 出発の時間がやって来たことを告げる呼び声だ。 アルフレッドの計算ではチームの全員が出発の準備を終えるにはもう少し時間が掛かる予定だったが、 どうやらその見込みは崩れたらしい。 「じゃあ、報酬を保険に換えるとするよ。俺たちが迷子になった時、しっかりナビゲートしてくれ、ラス」 シェインの声が割って入ったことで緊張の糸が切れて気の緩んだアルフレッドは、 その勢いに任せるまま、ニコラスの前に右手を差し伸べていた。 「ったく、安上がりだなぁ―――次からは慈善事業じゃなくて、ちゃんと金取れよ、アル」 最初、何のつもりか分からずにきょとんとしていたニコラスだったが、 すぐにアルフレッドの意図に勘付き、自分からも右手を差し出す。 ―――手のひらと共にアルフレッドが求めた“報酬”にもニコラスはちゃんと気付いていた。 「不思議な縁を与えてくれた女神イシュタルに感謝するよ。次の旅でも素晴らしい出逢いに恵まれますように」 「ああ、ありがとう。お前たちが帰るべき場所に帰れることを俺も祈る」 笑顔と共に結ばれた握手へ掛かった朝日は、傍らで見守るシェインの眼に殊更眩しく映えた。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |