3.兄と弟


 マコシカの民とアルバトロス・カンパニーの仲間からの盛大な見送りを背に受けて、
新たな出発を踏み出したアルフレッド一行は、当初の取り決め通り、
三角州の貿易港であるウルズデルタへの旅路をフェイ一行と共にすることとなった。

「―――先生?」
「そ。レイチェル先生。私にプロキシを教えてくれたの、レイチェル先生だもん」
「へぇぇぇーっ! オドロキですっ! ソニエさんと言えば、
ルナゲイト家を勘当同然で飛び出してまでフェイさんとの愛を貫いたことで有名ですが、
いやはや、まさかそんなエピソードがあったなんてっ!」
「………愛………アホくさ………一目惚れして………押しかけた………だけだ………」
「そりゃあ私だって元はお嬢様だもん、チチンプイプイって唱えただけで、
いきなりプロキシが使えるようになるわけじゃないよ。
フェイと一緒にいる為にも戦う力は必要だったし、何より、あいつの力になりたかったしさ」
「それで一念発起してレイチェルさんに弟子入りして、今のソニエさんがある、と! 
ひゃあぁぁぁ〜、アツ〜いっ!資産家令嬢の地位を捨てて厳しい修行に入ったのは、
やっぱりフェイさんへの愛が成せる技なんですねっ!」
「トリーシャちゃん、顔真っ赤だよぉ〜? レポーターが照れちゃってどーするの?」
「だ、だって、その………聴いてるこっちまで照れちゃうようなステキな話じゃないですか。ねぇ、フィーナちゃん?」
「え、あ、うん。ソニエお姉ちゃんには昔から仲良くしてもらってたけど、
まさかフェイさんと駆け落ちするなんて、ね。最初に聴いたときは驚いちゃったよ」
「………昔から………仲良くしていたのは………オレも………同じハズ………なのに名前が出てこない………。
………お兄様は………それにビックリだ………」
「でもでも、こーゆーのってすっごく情熱的じゃない? 全てを捨てて好きな人に尽くすって生き方、
女の子は憧れちゃうなぁ、シビれちゃうなぁ〜」
「急に魔法使いになったってメールを貰ったのも驚いたよ。
しかも、なんかすっごい大きいクリッターを一人で消滅させちゃう動画付きで来て………。
まさか、マコシカで修行してたなんてねぇ」
「フィーは素直に驚いてくれたから良かったよ。………そこ行くと、うちの妹なんかダメダメ! 
どうせ合成でしょう、とかスレたリアクションならまだしも、
『それを私にお見せになって、お姉様に何の得があるのですか?私が何の利を得るのです?』でバッサリよ? 
な〜んかねぇ、淡白って言うか、なんて言うか………。もっと人生をエンジョイしろって感じよね」
「………その妹さんから………オレ宛には………『お姉様は(人として)どこへ行こうとしているんですか』………、
………そうメールが………あったがな………姉想いの………出来た妹さんだ………」
「てゆーか、さっきからケロちゃん、うっさい」
「………オレは………埋もれた………真実を………明らかに―――えごえばッ!?」

 アルバトロス・カンパニーとは別れたものの、ソニエが入ったことで一気に華やかさが増し、
マコシカまでの経路と比べて数段賑やかな旅である。
 トリーシャ以上によく喋るソニエは否が応にも道中の空気を明るくしたし、
打てば響く相方を得たトリーシャも共鳴するかのようにして喋くりにブーストがかかる。
 呆れたアルフレッドやネイサンが止めようとするのも聞かず、フェイが嗜めるのも吹き飛ばし、
ソニエとトリーシャのお喋りは時間が経つにつれて、興が乗るにつれて、ヒートアップしていった。

 ケロイド・ジュースから“ここまで雑音放送しちゃって委員会”と名づけられた
二人のマシンガントークは静かになる瞬間がどこにあったか分からないくらい大いに盛り上がり、
間に挟まれたフィーナへ若干の居た堪れなさをも感じさせた。
 相槌を打とうにも、次の瞬間には話題が切り替わっていて、とてもではないが随いて行けないのだ。

「………二人はいいよ、挟むくらいワケないもん。でも、私には、全然、さっぱり、ストーンと………」

 ………この発言は余談と言うか、あまりに悲しい叫び声なので、聞き流して貰いたい。

 新たな仕事にありつきたいと願うアルフレッドにウルズデルタでのリクルートを勧め、
その港町までの同道を提案したのはフェイだったが、実はアルフレッドも腹の内ではシメたものとほくそ笑んでいた。
 マコシカからウルズデルタへ辿り着く為にはキャットランズ・アウトバーンではなく、
高層の道路の下を這う道を進む必要があるのだが、その近辺には獰猛な大型クリッターが数多く犇いているのだ。
 特にウルズデルタを眼下に見渡す“スタン峠”には大型なだけでなく、
特殊な異能を備えたクリッターが出没するという情報もあり、
現時点でのパーティの戦闘力を総合して判断する限りではウルズデルタを目指すのは
自殺行為に等しいとアルフレッドは判断していた。

 そこに来てフェイからの願ってもない提案である。
 言い方は悪いが、未熟なチームを強敵から守る露払いをフェイたちに託し、
高みの見物を決め込もうとさえアルフレッドは腹黒く考えていた。
 人の好いフェイたちのことだ。必ず自分たちを守ってくれるだろう。
強敵との戦闘という貴重な経験を、フィーナやシェインが最小限のダメージのみで
得られると言うのも大きい。
 パーティの戦闘力を底上げするには何としても経験値を積むしかない。
これはまたと無いチャンスでもあった。

(英雄と呼ばれる人たちの技法を間近で見るだけでも大きな勉強になる)

 アルフレッド自身、彼らの戦いから英雄と畏怖されるほどの技術を盗み、
この先の礎にしたいと願っていたのだが――――――

「―――『鴇刀・天綸(ほうと・てんりん)』ッ!!」

 長大にして肉厚なツヴァイハンダーが振り翳される度に刀身より迸り、
円形に炸裂した闘気の刃は巨大なクリッターを一瞬で蒸発させてしまうほどに峻烈かつ鮮烈。
 両チームに群がっていた狼型のクリッター二十体を、
背中合わせに攻めの機会を伺っていたアルフレッドとフィーナの目の前でまとめて滅尽せしめた。

「最初に言っとくけど、私らの邪魔するヤツらに容赦なんてしてやんないんだからねっ!」

 ソニエの掌から放たれた鈍色の閃光は、どういった作用によってそれを成したのか分析し終えるよりも早く、
クリッターの体組織を石像のそれへと変え、粉々に打ち砕いてしまった。
 『ペトリファイド』と呼ばれる石化のプロキシだ…が、恐るべきは発動までの所要時間だ。
 通常、プロキシには詠唱や神楽を必要とし、準備から発動までにそれなりの時間を要するものだが、
彼女の掌から鈍色の閃光が放たれたのはほんの一瞬の内の出来事で、殆ど無詠唱、無動作に近い。
 いつ準備を始めたのかさえアルフレッドには視認出来なかった。

「………ブレーンバスター………脳天砕き………ディック・マードック先生も………そう仰っていた………」

 フェイの剣技とソニエのプロキシの鮮やかな闘法に目を奪われていた一瞬のことだ。
 デミ・ヒューマン(亜人間)型のクリッターの首に組み付くや、
自分より頭二つ以上大きな巨体を軽々と持ち上げたケロイド・ジュースは、
そのまま垂直落下で敵の脳天を固い地面へ叩きつけた。
 いわゆるブレーンバスターという名前の付けられたプロレスの投げ技の一種だが、
振り落としたケロイド・ジュースの膂力は想像を絶するほど強力だったのだろう、
デミ・ヒューマン型のクリッターはたったの一撃で完全に沈黙し、末期の痙攣を起こしていた。

 ケロイド・ジュースの猛攻はブレーンバスターに留まらない。
 フェイやソニエのように一度に多数のクリッターを滅することの出来ないハンデを挽回するかのように
目にも止まらぬ身のこなしで次々と敵影に飛び掛り、プロレス技の応酬で非情のマットならぬ無慈悲な地面へ沈めていく。
 具現化させた闘気を宿す剣技やプロキシと違い、肉弾の範疇にあるケロイド・ジュースの投げ技の数々は、
見た目こそ地味なものの、威力は二人の仲間に全く引けを取らない。
 「………ちぇーすとぉーッ!!」の気合いと共に振り抜かれたラリアットなど、
首長竜のようなクリッターの頸部を豪腕でもって一撃のもとにもぎ取ってしまうほどだ。

「うっわー、すっげぇー………」

 思わず溜め息を漏らしたシェインに、アルフレッドとフィーナも続く。
 フィーナの頭の上で羽根を休めるムルグでさえ、あの傍若無人のムルグでさえ
目の前で繰り広げられる電撃的な光景に目を丸くし、閉口していた。

「凄すぎて、ボクらの出る幕ナシって感じじゃん」
「この辺のクリッター、結構ヤバイって聴いてたから、新型のリサイクル兵器用意してみたんだけど、
こりゃあ骨折り損で終わりそうだぁ」
「ラクでいいじゃないのヨ、スーパーメンのハッスルに任せときゃ、バイタルもカロリーもオールリザーブでウハウハ♪
リトルなチミはこ〜ゆ〜のライクでしょ? テレビアニメみたいでさ〜」
「アニメなんて目じゃねぇッ! 漫画なんてバカバカしくなるッ! すっげぇよ、これ、すっげぇッ!! 超々すっげぇーッ!!」

 「ブレインもリトルなボーイは、エクスタシーな表現を“超”か“ハイメガ”でしか言えないねん♪」とホゥリーはからかうが、
シェインが漏らした素直な感動は、同じ光景を目の当たりにしたアルフレッドたちが共通して抱いた物だ。
 それ以外の表現は見つからない。ヨイショ目的の美辞麗句をも捻じ伏せる眼前の光景には、
ただ一言、「凄い」しか通じないのではないか。

 そうアルフレッドたちが錯覚するのも頷ける、神業のような戦いをフェイ、ソニエ、ケロイド・ジュースは展開し、
遭遇する敵影を片っ端から完殺していった。
 全ての戦いを累計しても、日没までに遭遇したクリッターを倒すのに十分と掛かっていないだろう。
 フツノミタマを遥かに超えるスピードで狭い峠道を縦横無尽に駆け巡り、
敵影を刈り取っていく様は、トリーシャがシャッターを切る最新鋭のデジカメをもってしても捉えきれなかった。
 戦闘終了後にフィルムを確認したトリーシャは盛大に肩を落すのだが、
恐ろしいことにフェイたちがあまりに速過ぎて、残像の端さえ映り込んでいないのだ。

 技術、フィジカル、コンビネーション………あらゆるものが圧倒的過ぎた。
 技法の一片でも盗み取れればと期待したアルフレッドに自分の浅はかさを突きつけるような、
一分の隙さえ見せない完璧な戦闘を展開したフェイたち三人は、
スタン峠に入ったその日の内に峠道へ巣食うクリッターの三分の一を討伐していた。
 “露払い”などと軽く見込んでいたことをアルフレッドに後悔させる、英雄の名に恥じない戦いだった。

(これが英雄の、最強の力かッ!)

 以前から親しい交流こそあったものの、実際に彼らが戦う姿を初めて目の当たりにしたアルフレッドは、
自分の胸算用がいかに考えの浅いものだったかを思い知らされ、
改めて三人が英雄と尊敬される由縁を噛み締めた。噂に違わぬ実力とはこのことだ、と。
 武技の心得がある男としては、如何ともし難いレベルの差を見せ付けられたようで、
ほんの少しの悔しさが涌かないでもないが、ここまで完璧な戦いで魅せられては
白旗を揚げて「次元が違う」と認めるしかない。
 そう、フェイたちと自分たちでは次元が違い過ぎた。最早、比べることさえおこがましい思いだ。

「どうかしたのかい? いつも以上に難しい顔してたけど………」

 自己嫌悪にも似た感情に苛まれて呆然となるあまり、
周囲への注意が完全に消し飛んでいたアルフレッドの意識に誰かの声が反響し、
ドロドロとした負の渦にダイブしていた彼の視界を現世に引き戻した。
 視界が現世に戻るのと同時に鼻腔がスパイシーな香りで刺激され、
ようやくアルフレッドも自分の置かれた現状を想い出す事が出来た―――と言うよりも、
意識が飛んでいた訳だから、把握したと表すべきか。

 表現の方法はともかく、現世に戻った彼の意識が捉えたのは、
バニラアイスのように山間へ溶け込みそうな夕陽と、ムルグとシェインが手助けし合ってテントを張る姿、
それと夕食の準備に勤しむフィーナたち女性陣の賑やかな喧騒だった。

(………ああ、そうか………)

 ―――そうだった。
 クリッター退治はスムーズに進んだものの、長く険しいスタン峠を一日で踏破するのは難しく、
陽の傾きを見計らったフェイが広場のように安定した地形を見つけ、そこでのキャンプを提案したのだ。
 そこはまだ薄暗い林の只中で、ウルズデルタの影も形も見えないような場所だが、
峠道の中腹に程近く、無理に強行しなくても明日にはスタン峠を抜けられるとフェイはアルフレッドのチームに説明し、
皆の了承を取り付けていた。
 フェイたちはスタン峠を登るのが初めてではないらしく、いつもこの場所で休息を取っていると
ソニエやケロイド・ジュースが諸手を挙げて賛同したのも、
旅に不慣れで獣道での休息に懸念を表したフィーナやシェインの緊張を解し、キャンプを了承させる一因となった。

 採決されたキャンプの支度を皆で行っていることを靄のかかった記憶から引っ張り出し、
ようやく得心のついたアルフレッドは、次に自分へ課せられた分担を想い出してその不手際に顔を真っ赤にする。
 冒険ごっこでテント張りに慣れたシェインや夕食の準備を行う女性陣に代わり、
アルフレッドはフェイとキャンプ地周辺の警邏に出掛けることになっていた。

 つまり、今しがたアルフレッドの意識をドロドロとした負の渦から引き戻した声の主は―――

「難しいことを考えていただろう、今。駄目だぞ、一人で抱え込んじゃ。
君はチームのリーダーだろうけど、誰かに相談もせず一人で悩むのは好ましいとは言えないな」
「フェイ兄さん………」

 ―――誰であろう、フェイその人だ。
 今の今まで葛藤していた相手に意識を引き戻されたことがアルフレッドの落胆を更に刺激し、
真っ赤だった顔色は瞬時に真っ青に染め抜かれた。
 英雄の技量を甘く見たばかりか、露払いなどと下衆な胸算用をした自分がアルフレッドには恥ずかしく、
それ以上に情けなかった。
 そうとは知らないフェイは体調不良にも見える様子を心配し、リーダーとしての気構え、
ストレスを軽減させるアドバイスまで授けてくれる。
 優しくされればされるほど、アルフレッドの頭は彼に顔向けできない情けなさで痛くなっていった。

「もし体調が悪いのなら、見回りはケロちゃんに代わって貰おうか? もうすぐ戻ってくるだろうから」
「大丈夫です、ちょっと考え事していただけですから。それにケロさんだって一仕事終えて戻ってくるんです、
俺なんかに気を遣って貰っては申し訳ない」
「顔色も良くないし、大事を取ったほうがいいんじゃないかな………ケロちゃんの仕事と言ったって、
薪を探してくるだけなんだしさ」
「仮に本当に体調が悪かったら、ケロさんでなくてこのロースハム―――もとい、脂肪分を代役に立てますよ。
………最年長のくせに何にもしやがらない、このサボリ魔をね」

 皆がキャンプの準備に忙しく走り回る中、平べったい大岩の上へ大の字になって我関せずを体言するホゥリーの尻を
アルフレッドは思い切り蹴りつけ、転がして見せた。
 わざわざ大岩へ登って渾身の蹴りを見舞うのだから、よほどホゥリーの態度へ頭に来ているようだ。

 今に始まったことではないが、協調性と言うものが辞書から欠落しているホゥリーが
チーム内の雑務へ参加する姿をアルフレッドは一度たりとて見た記憶が無い。
 それでいて食事は人並み以上に貪り、温かい毛布や目覚めのコーヒーを要求できる神経は、
ズバ抜けて非常識と言わざるを得ない。
 マコシカの民と交戦状態に陥った際、いとも簡単に裏切り、それから謝罪すらせずに平気な顔で
旅に随いてくる厚顔からも腐りきった性情は察せられた。
 情操教育の有無はおろか人格そのものが怪しまれるようなモノなのだ、ホゥリーの生き方は。

 そこまで駄目な男を相手にとやかく言っても馬の耳に念仏で、埒が開かないと諦めてはいるものの、
それと蓄積されるストレスは別問題。
 裏切りに対しての謝罪が無かったことで既に頂点に達しかけていたストレスが、
度が過ぎた怠慢を見つけるに至ってとうとう爆発した訳である。

 冒険者としての実績からホゥリーを一流と見込んでグリーニャに派遣し、
今日までの同行へ導いたとも言えるフェイは、立場上、彼をフォローしなくてはならないのだが、
大岩から蹴り転がされてもまだ高いびきを止めない見下げ果てた様子を目の当たりにしては、
さすがに擁護の言葉も無く、口元を引き攣らせるしかない。

「………“もとい”って言い直したけど、言い直す前よりもっと酷くなってるじゃないか」
「それはそうですよ、ロースハムじゃこいつに勿体無いから脂肪分に変えたんです。
脂肪分に物言いが付くとなると、あとはもう“歩くラード”くらいしか呼び名が浮かばない」
「は………ははは………はぁ」

 日頃の鬱憤をまるまる乗せた蹴りをホゥリーに叩き込めてよほど爽快だったのか、
気を持ち直したアルフレッドは色々な意味で戸惑うフェイの背を押し、
本来自分が請け負うべき分担であるキャンプ地周辺の警邏へと改めて繰り出していく。

 「気をつけてね〜」とのフィーナの声と共にカレーの匂いがアルフレッドまで届き、
フェイにまで聴こえるくらい盛大なファンファーレを腹の虫が鳴り響かせた。
 再び顔を赤くする彼の背後では、鳥のクチバシと爪に高望みをし過ぎたシェインが、
ロープと格闘した末にこんがらがったムルグとのテント張りを諦め、
タイミング良く戻ってきたケロイド・ジュースに「このアホ鳥と代わって下さい」と頼み込むところだった。

 一生懸命に手伝ったにも関わらず、失礼な態度で打ち切られて憤慨したムルグが
テント張りでは無力の様を呈した鋭いクチバシをシェインの後頭部に突き立て、
身も世もない悲鳴を上げさせるのは、アルフレッドとフェイが警邏に入ってきっかり三分後のことである。







 ―――注意を凝らしていなければ気付かないくらいの微風が一瞬だけ揺らぎ、二人の頬をやんわりと撫でた。
 “そんな気がした”と、漠然とした表現になってしまっても仕方が無いくらいに
アルフレッドとフェイの間を吹き抜けた風は弱々しかった。

「………フェイ兄さん」
「あ―――うん………気持ちいい風だよ。獣道は湿気も多いし、汗まみれの身体にはたまらないね」
「ええ………」

 フィーナたちが丹精を込めてくれているだろうカレーの匂いが少しだけ強く鼻腔を刺激したのだから、
気のせいではなくて微風がそよいだのは確かなようだ。
 一陣の微風が運んだカレーの匂いは、またしてもアルフレッドの腹でひもじさを喘ぐ虫たちを起こしそうになるが、
腹筋に力を込めて羞恥の繰り返しだけは避けた。
 二度もフェイに腹の虫を聴かれるようなことになれば、少なくともアルフレッドの中では沽券に関わる事態だった。

 微風はその一陣のみで、後に続くそよぎは感じられなかった。
 凪いだように風の無い空の下に一陣吹いただけでも不快指数はだいぶ和らぎ、
二人の額に滲んでいた汗を拭い去っていった。

「グリーニャでは、すごい活躍だったみたいだね」
「―――はえぇっ!?」

 凪の空の下へ実も世も無いシェインの悲鳴を背後に聴き、
「ああ、ムルグだな」と直感して溜め息を吐いていたアルフレッドへ
不意打ちのようにフェイが思いがけない言葉を投げかけ、
息を吸い込んだばかりだった彼はそれを逃がす場を見つけられずにえづいてしまった。

「あっ、ご、ごめん、ちょっと話しかけるタイミング悪かったね」
「い、いえ、平気ですよ。………ちょっと酸欠になりそうですけど」
「わ、わっ、ご、ごめん、ホント! え、えぇっと、酸素スプレーは―――」
「………冗談です。ちょっと咳をしただけですよ」
「お、おいおいおいおい………ゼーハーゼーハーやりながらウソつかれたんじゃ、
信憑性が高すぎて笑うに笑えないぞぉ」
「ええ、わかっていてやりました」
「なッ………、こ、こいつめぇ〜」

 激しく咳き込んだ背を優しく擦りながら自分の不心得を謝罪するフェイの慌てっぷりがひどく滑稽に思えて、
ついついイタズラを働いてしまうアルフレッド。
 洒落っ気に乏しく、いつでも冷静沈着に見える彼がイタズラに及ぶのはとても珍しいことだが、
相手がフェイとなると話は別のようだ。
 子供のような悪ふざけは、小さい頃から兄と慕うフェイだからこそ見せられる素直な一面なのだろう。
 フィーナと語らうときとも違う、同性と遊ぶときにだけ覗かせる表情(かお)は、
冒険を前にして目を輝かすシェインのそれととてもよく似ていた。

「………グリーニャでの一件、でしたよね」
「うん―――その、話しづらいなら無理にこの話題にこだわらなくてもいいのだけど………」
「いえ………」

 愉快そうに口元を綻ばせるアルフレッドだったが、それも一瞬のことで、
フェイが切り出した話題を継いでからは眉間に皺を寄せて口どもる。

 グリーニャで起きたスマウグ総業との一件は、想い出として語るには未だに生々しい感覚が風化せず、
あの日、目の当たりにした悲壮(こと)が瞼の裏に今もくっきり浮かび上がるのだ。
 多くの人の心へ衝撃を与え、一番大事な人の心へ深い傷を刻んだあの日の記憶は、
アルフレッドにとっても胸が軋むものだった。

 改めてそのときの出来事を振り返ることは苦痛でしかなく、
アルフレッドの横顔にうっすらと鬱屈が浮かんだのを見て取ったフェイは、
彼を気遣い、この話題を切り上げる旨を匂わせた。
 これに対するアルフレッドのレスポンスは意外なものだった。
 フェイの気遣いへ首を横に振り、まるで心の傷を拭い去ろうとするように、
あえてあの日の記憶を手繰っていった。

 大切な人が辛い記憶を乗り越えて明るさを取り戻しているのに、
その小さな背中を支えるべき自分がいつまでも同じ場所へいる訳には行かない―――と。

「やっぱり兄さんの耳にも入ったんですね」
「色々あったけど………やっぱり故郷のことだから、自然と耳を傾けてしまってね。
それでなくてもヴァランタインさんに警護をお願いしているわけだし」
「新聞沙汰にまでなったから、遅かれ早かれ耳に入るとは思っていました」
「あれはさすがに我が眼を疑ったよ。一夜にしてスマウグが壊滅して………」
「―――社長は不審死を遂げた………」

 スマウグ総業が壊滅してから数日が経ったある日の新聞の小見出しに掲載された
スマウグ総業社長の不審死は、思わぬ余波をアルフレッドたちにもたらしていた。

 グリーニャで見聞きし、また、ハーヴェストから聞かされた通り、ガラハッドには黒い噂が常につきまとっていた。
 ろくでもない最期を遂げても不思議ではないのだが、なにしろ時期が時期。
武力衝突の末に会社を潰された直後だけに、不審死にはグリーニャの人間が関わっているのではないかと
疑う向きも決して少なくなかった。
 新聞を読んだ大多数の人々と同じ様に青天の霹靂で打ち抜かれたグリーニャの人間には、
周囲から寄せられる猜疑の眼は心外甚だしく、クラップのメールに寄ると新聞の記事に端を発する
トラブルが当時は後を絶たなかったらしい。

 人の噂も七十五日。現在までに謂れの無い疑いの眼も終息したが、
トラブルが二次災害、三次災害の種になる様を見てきたアルフレッドは、
濡れ衣の苛立ちまで強く想い出させるからこそあの日の出来事へ余計に触れたがらないのだ。

 ―――不審死の関与者…と意識が向いたとき、自然とフツノミタマの鋭い眼光が浮かんだ。
 ガラハッドを抹殺したのは、紛れもなく彼である。依頼人でありながら信頼を欠くような振る舞いをしたガラハッドを、
フツノミタマは闇の掟に従って抹殺したのだ。
 愚かな自滅であり、抹殺されて当然の人間だともアルフレッドは考えていたが、
とは言え、グリーニャにあらぬ疑いがかかるのも面白くない。

(どうせ始末するのなら、痕跡が残らない方法で消して欲しいものだな)

 フツノミタマが知ったら顔を真っ赤にして怒り出しそうなことをアルフレッドは腹の中で呟いた。

「あの、兄さん………」
「アルや村の人たちが社長の死に関わっているなんて疑っていないよ。
追い出された身ではあるけれど、僕もグリーニャの出身者なんだ。
村のみんながそんなことをするとは思っていない」
「でも、その………新聞には射殺された人間の記事も―――」
「―――アル!」
「………ッ! ………―――」

 今まさにアルフレッドの口から出そうになったある言葉に、強い光を帯びた瞳でフェイが封をする。
 戒めが研ぎ澄まされた鋭い眼光に射抜かれるまでアルフレッドは
自分がタブーに抵触しかかっていると気付けず、危ういところでフェイの思慮に助けられた。

 他の誰でもない。アルフレッドだけは決してその言葉を二度と口外してはならない。
物の弾みで口に出すなど許されざる咎だった。

「僕はあの事件で起きた人の死にグリーニャの誰も関わってはいないと思っている。信じているんだよ」
「………はい………」

 フェイより投げかけられた戒めの裡に深い思慮を感じたアルフレッドは、
全て把握していながら、あえて何も語らない慈しみも彼から受け取り、
軽はずみな自分を恥じて口を一本線に結んだ。

 自分の意図がちゃんと通じたことをきつく閉じられたアルフレッドの口元から悟ったフェイのそれは、
「迂闊なことは何も言うまい」とするアルフレッドの厳正さと正反対に、じんわり嬉しそうに綻ぶ。
 アルフレッドへ慈悲の思慮が伝わったことがフェイには何よりも喜ばしかった。

「僕が驚いたのはスマウグ総業を相手に攻め勝ちを収めたグリーニャの戦い方だよ。
あの社長、相当な手練を雇っていただろう? 犯罪者も多く混じっていると耳にしていたし………。
いくら君やヴァランタインさんが付いてると言ったって、村の人たちはみんな素人だ。
正面から戦いを挑んで、まさか勝ちを収めるだなんて、さすがに予想していなかったよ」
「俺も最初は反対しましたよ、それについては。でも、いくら止めても誰も聞き入れないから、それで仕方なく………」
「先陣切って攻め込んだ、と」
「ええ―――いや、先陣を切ったのとは違うかな。俺はどちらかと言うと後方で指示を出すほうが多かったですし」
「指示?」
「誰かが手綱を締めていないと力押しに走って全滅するところだったんです。
危なかったんですよ、実際。シェインは人質に取られるわ、向こうには凄腕の用心棒がいるわで」

 誰かの不幸を撫でるトピックから意識を外そうと、スマウグ総業との戦闘の経緯へ内容を一変させたフェイだったが、
直接携わったアルフレッドの話を聴く内にだんだんと目が丸くなり、
気付いたときには両目を思い切り見開く状態になっていた。

 そんなフェイに吊られてアルフレッドまで両目を丸くして驚く。
 何の変哲も無い話をしたつもりだったので、聴き手のフェイが何をそんなに驚嘆しているのか、
アルフレッドには判別がつかなかった。

「ちょっと待って、じゃあ、作戦を指揮したのは、アル、君なのかい?」

 グリーニャ側から仕掛ける攻撃の一切の采配をアルフレッドが取ったことにフェイは驚嘆していたのだ。

「………こいつは二度ビックリだ。いや、今が一番驚いているよ。
でも―――そうか、士官学校で学んだ軍略を生かして勝利に導いたのか」
「すみません、何か自慢話みたいになってしまって………」
「驚きはしたけど、そう考えるとグリーニャの勝ちも納得できるよ。
マコシカの人たちと揉めたときに君のネゴシーションで袋小路を破ったと聴いていたしね。
さながらグリーニャの軍師として立ち回ったわけだ」
「同じこと、クラップにも言われましたよ」
「クラップかぁ………懐かしい名前だなぁ」

 メカニック見習いをしているハズのアルフレッドにどうして戦闘の指揮を取ることが出来たのか、
一瞬、不思議と言うよりも不自然に思ってしまったフェイだが、すぐに彼が士官学校で軍略を学んでいたと思い出し、
その技法を以ってしてスマウグ総業を潰走させたものと納得する。
 頭の回転も人並み以上に早いアルフレッドのこと、数に勝るスマウグ総業の驕りを突いて
グリーニャを勝利に導いたのだろう、と。

 リーダーとして今日までチームを引率してきた実績や、マコシカの民との諍いに際して
彼らが尊ぶ伝承でもって突破口を開いた機転から判断するに、
アルフレッドの権謀術数がガラハッドの浅知恵を覆したとしても何ら不自然は無かった。

 得心がつけば、次にやって来るのは彼の案じた計略への感服だ。
 単純な戦闘力においても、手数においても圧倒的不利な状況だと言うのに、最小限のダメージで戦闘を終結させ、
グリーニャに勝利をもたらした弟分の智謀へフェイは舌を巻く思いである。

 男子三日合わざれば刮目すべしの言葉通りに高く成長を遂げていたアルフレッドがとても誇らしくて、
フェイの口元はだらしないくらいに綻んだ。

「俺やフィーはルナゲイト家にも縁故があるでしょう? 暴力沙汰を避けたかったから、
俺は最初、ルナゲイトを頼ろうと提案したんです。なのにクラップのヤツ、頭に血が上ってしまって………」
「ソニエもボヤいてたよ。自分に相談してくれたら、すぐにでも実家に掛け合うのにってさ」
「………いくらなんでもソニエさんには相談できませんって。だって、あの人、家を出ているんですよ?」
「本人はそういうことに頓着しないからなぁ。気軽に相談して良かったと思うよ」
「そこがあの人の良いところでもあり、厄介なところでもあると俺は思うんですけど」

 ソニエの素行を的確に抉ったアルフレッドの指摘に何ら答えを返さず、
ただただニコニコ笑っているのは、フェイも全面的に同意見と言うことか。
それとも、フォローの言葉も無い為、微笑でやり過ごそうと言う腹づもりか。

 何はともあれ、スマウグ総業との戦いの折に頼ろうとしたルナゲイト家の縁故の一つ、ソニエ・ルナゲイトは
アルフレッドがほんの少しだけ苦手意識を感じる人物のようだ。
 フィーナとは別のベクトルで明るさ底抜けのソニエと、深謀遠慮のアルフレッドでは確かに性質的に
合わない部分があるのかも知れない。

「お互いパートナーには苦労しますね」
「いやぁ、僕んとこはパートナーに加えてケロちゃんもアレだから、ねぇ」
「いいじゃないですか、ソニエさんとケロさんを含めても二人でしょう? 俺の周りを見てくださいよ。
バカ鳥は人の喉笛ばかり狙ってくるし、歩く廃棄油はあのザマですし………シェインくらいですよ、まともなのは」
「………何気にラードから廃棄油にヒドくなってる………」

 フェイたちの活躍のお陰でクリッターの気配も感じられず、警邏と呼ぶにはいささか和やかな、
散歩でもしているような感覚に二人は囚われて―――

「―――フェイ兄さん」
「………そろそろ頃合かな」

―――は、いなかった。
 背後の草叢でガサッと不自然な音が上がった瞬間、二人は愉しげなお喋りを切り上げ、
背中合わせに応戦の構えを取って周囲を警戒する。
 拳を前に突き出しながらファイティングポーズを作るアルフレッドも、ツヴァイハンダーを脇構えに握り締めるフェイも、
今、そこまで迫った異様な気配を鋭敏に察知していた。

 異様な気配を二人が察知したのが“たった今”と言うことは無い。
 凪いだ空の下に何の脈絡も無く微風が渡ったことからして既によからぬ予感を覚え、
雑談に興じるフリをして二人は背後の気配に警戒を巡らせていたのだ。
 そのまま何処かへ消えるなら見逃しても良かったが、二人の後を追尾したまま付かず離れずの距離を崩さない以上、
最早、看過は出来ない。
 正体を検め、必要とあれば敵と認めて撃破するのみ。それが見張り役の指名である。

 こちらの応戦体勢を見て取るや背後の草叢から移動した模様だが、
四方を囲んだ雑木のどこかに息を潜める気配は今なお残存したまま―――誰かが二人の様子を窺っている。
 相手もそれを消そうと躍起になっているらしく、神経を研ぎ澄ませなければ分からないくらい微弱となっているものの、
蠢動する影からは明らかな闘気が感じ取れた。

「………クリッターじゃないな、この息遣いは。人間―――それも女の人のものだ」
「わかるんですか?」
「伊達にお兄さん………年長者をやってるわけじゃあないからね。
位置は―――東の方向、二.五メートルってところか。トラウムだと思うけど、武器を持ってる」
「千里眼でも持ってるんですか、兄さんは」

 アルフレッドなど及びもしないレベルにまで訓練されたフェイの五感は、
気配と闘気を殺しているはずの影が発する細微な呼気を拾い上げ、なんと相手の性別まで分析して見せた。

 これにはアルフレッドも声を挙げて驚いてしまう。話を聴いてすぐにフェイの猿真似で聴覚に全神経を傾けるが、
いくら耳を欹てても拾えるのは草木の軋みばかりで、女性の呼気など脳裏の想像でしか感じられない。
 ましてや微かな金打つ音で武器所持の有無を見極め、
五感に覚えた全ての情報を総合して影の潜む位置まで推論するなど、
どうすれば出来るものなのか、それすらアルフレッドには解らなかった。

「次の合図で飛ぼう。………気配の消し方といい、殺気の押さえ方といい、かなりの手練だと思う。気を付けて」
「そこは存分に頼らせて貰いますよ、兄さん」
「君らしくもない気弱な台詞だけど………頼られたからには、期待に応えないと―――ね!」

 フェイと再会してからと言うもの、自分の無力さ、至らなさが立て続けにアルフレッドを苛み、
精神コンディションは落胆の極みにある。
 本音を言えば、穴を掘って飛び込みたいくらい情けない思いだ。

 しかし、状況はそれを許してはくれない。情けなさに落ち込み、立ち止まっている暇などは与えてくれない。
 影より漂う闘気が瞬間的に膨れ上がり、緩やかな小波は殺気を孕んだ激流へと転じ、
フェイの言い当てた位置から烈風と化して飛び込んできた。

 微風など比較にならない烈風が空を切って唸りを上げる。
 轟然なる烈風の閃きは、アルフレッドの眼力ではギリギリ残像を捉えるのが精一杯だ。
 炎の中で立ち合ったフツノミタマとの最初の戦いでも彼の鋭敏さに手を焼いたが、今度の敵はその比ではない。
電撃的な速さで迫る影の動きにまるで随いて行けず、視覚に全神経を集中してもまだ足りない。
 霞のように掻き消える残像から敵がフリルの多い服装を身に着けていることと、
髪の色が淡い紫であることを視覚に全神経を集中してようやく見て取れたが、
戦術的に有効な情報は何一つ拾えなかった。
 フェイが言う敵の武器の輪郭線すらアルフレッドの五感には察知できない。
 亡霊のように現れては消え、現れては消えの明滅を繰り返す超速の霍乱に、
アルフレッドは完全に飲み込まれてしまっていた。

 フェイもフェイで、ツヴァイハンダーの剣尖を超速の明滅に合わせることまでは出来たが、
それ以上のアクションを興せないまま二の足を踏んでいる。
 少しの余裕も無いアルフレッドより幾分敵の動きを把握するフェイではあるが、
それがオフェンスに直結するかと問われると、かなり難しい。
 ツヴァイハンダーは攻撃力と攻撃の有効範囲に部類の強さを誇る半面、重量武器の欠点をより顕著に被っている。
 すなわち瞬時の小回りと素早い身のこなしに負荷がかかり、一撃必殺の攻撃力の代償として
フェイの敏捷性を大きく削いでいるのだ。
 超人さながらのフェイのフィジカルをもってすれば、ツヴァイハンダーを使っても常人以上の敏捷性を発揮し、
大軍を相手に戦うことはできる。
 だが、目の前で明滅を繰り返す敵はどうか? 前の残像が掻き消えるよりも早く別の場所に飛ぶような超速の敵に対して、
ツヴァイハンダーはどこまでアドバンテージを発揮するのか?
 ………答えは“絶無”。
 一撃必殺の一振りだろうが、撃ち込みを誤れば返す刀の二撃目を放つより前に
敵の攻撃がフェイの喉元へ突き立てられるのは明白だ。
 重量武器ゆえに難のある小回りが、その可能性を危険域まで引き上げる―――
それがあるからフェイも迂闊に攻め入れず、敵の動きを十分に引き付けているのだった。

「ッ!!!???」

 影が、落ちた。二人の目の前に影が落ちていた。
 よくよく見ると、影を映し込む地面には両足を強烈に踏み込んだ形跡が確認できる。
 次第に小さく窄まっていく影は、アルフレッドたちに勘付かれない内に上空へ飛び上がった敵が落すものに違いない。

 ―――敵は、空。
 反射的にアルフレッドは茜空を仰いで敵の動きを探るが、在るべき敵の姿はどこにも見当たらなかった。
 信じられないものを見るような刮目で「まさか…」と呟くアルフレッドの驚愕を背中で受けながら、
上空へ意識を向けた彼とは正反対に地上へ警戒を留めていたフェイも言葉を失っていた。
 小さく窄まりながらも主の座標を示してくれるはずの影が、まるで地面へ吸い込まれたかのように
フェイの視界から一瞬にして消えてしまったのだ。
 ありえない。フェイにとってありえない話だった。
 彼は瞬きをも押さえて影の動向を注視していた…にも関わらずあっさりと見失うとは、
不覚を恥じるよりも我が眼を疑う唖然が先にやって来る。

「………手荒な真似を強いて申し訳ございませんでした。火急の用件につき、何分にもご容赦くださいませ」

 アルフレッドにとっても、フェイにとっても、生まれて初めて味わう言い知れない恐怖がそれぞれの胸を突く中、
二人のすぐ近くでいきなり上がった女性の声に周囲の空気は瞬間的に凍り付いた。

 ぎょっとして声の上がった方に向き直ると、そこには恭しく礼をしてアルフレッドとフェイに跪く一人の女性の姿があった。
 肩口で切り揃えられた紫の髪と、名家が雇うような侍従の用いるエプロンドレスに身を纏うその女性には
アルフレッドもフェイも見覚えは無かったが、先ほどまで明滅していた残像より拾った情報と照合すれば、
誰でもない彼女こそが自分たちを追跡し、威嚇を行なった人間だと即座に認められた。

 認められた瞬間、アルフレッドの背筋に冷たい戦慄が走る。
 恭しく礼など尽くしているものの、彼女はフェイをも手玉に取って霍乱するようなフィジカルの持ち主で、
現にアルフレッドは注視を別の場所へ反らした隙に至近距離まで接近を許してしまっていた。
 それも無防備の内に、だ。

 功名を立てようとフェイを狙った悪党か、それとも全くの別の思惑を持った刺客なのか。
 その正体は侍従のような姿と折り目正しい立ち居振舞いに阻害されてより一層見えにくくなっているものの、
いずれにせよ、こちらに敵意があるなら戦わなければならない。
 ………だが、どんな知恵を絞っても、過去に習った戦略・戦術を紐解いても、戦って勝てる算段が
アルフレッドにはつけられなかった。
 この期に及んで張り巡らすような浅い軍略など彼女には到底通用しないよう思えた。
浅知恵を絞ったところで圧倒的な力量差の前には無意味。踏み躙られて、それまでだ、と。

(それでも俺に出来るとすれば――――――)

 冷徹にこの窮地を打破する手段を考えると、最早、自分の身を犠牲にして敵に組み付き、
その意識を霍乱してフェイに逆転の一撃を託す以外に思い浮かばない。
 到底無事で済むとは思えず、全滅するよりは多少損害が減る程度の、極めて無謀な策ではあるが、
フェイの剣腕ならば、一瞬でも隙が生じれば一足飛びで勝機へ踏み込み、一刀のもとにこの難敵を両断してくれるはずだ。
 危険だが賭ける価値はある。そのようにフェイの技量を固く信じるアルフレッドならではの捨て身の策と言えた。

「―――アルフレッド・S・ライアン様、貴方様との面会を心待ちにされる方がおられるのです」

 意を決して跳ぼうとした出鼻を、アルフレッドは自分の名前を呼ばれることで挫かれた。
 アルフレッド・S・ライアン。侍従のような女性はハッキリとフルネームを呼び、
そればかりかアルフレッドとの面会を願う人物がいると言い出したのだ。

 思っても見なかった成り行きに緊張の糸を切られたアルフレッドとフェイは、
きょとんと呆けた顔を見合わせ、互いに言葉を失った。
 フェイの視線には「知り合いなのか?」と言う旨が乗せられていたが、
戸惑いに憑かれるのは記憶に無い顔にいきなりフルネームを呼ばれたアルフレッドも一緒で、
首を横に振って理解不能の意を返す。

 頭の回転だけでなく記憶力にも恵まれたアルフレッドだが、どれだけ記憶の引き出しを探っても
目の前の女性の顔は見つけられなかった。

 ただ一点―――

(………この声、どこかで………)

 ―――ただ一点、ややハスキーがかった声にだけは聞き覚えがあった。
 どこでこの声を聴いたのかは思い出せないのだが、奥深いところにある微かな記憶を刺激し、
不思議と耳に馴染むのだ。間違いなく、聞き覚えのある――それも頻繁に耳にしていた気がする――声だった。

 奇妙な感覚としか言いようが無い。
 顔は見覚えが無いのに、声にははっきりと聞き覚えがある。
まるで記憶中枢が音声を担当する部分と映像を担当する部分で分断されたかのような気持ちの悪さに
アルフレッドは目眩さえ覚えた。
 “顔の身覚えは無いのに声だけは聞き覚えがある”という手がかりから、
愛聴するボーカリストにハスキーボイスの答えを求めるが、
耳に馴染むほど聴き込んだ人物やグループの名前を忘れてしまうとは思えず、早々に断念。
 考えられる可能性としては知らない内に記憶障害に罹り、文字通り記憶中枢の分断を患っているというセンだが、
そんな仮定は到底飲み込めない。

 記憶を穿れば穿り返すほど、頭を捻れば捻るほど、アルフレッドの目眩は強さを増していった。

「拭い難い疑念はお察しします。………ただ、今だけは私に黙って随いて来て頂きたいのです。
どなたがアルフレッド様との再会を心待ちにされているかも、すぐにわかりますので」
「………再会? おい、ますます意味がわからないんだがな。
誰の差し金かも明かされないままホイホイと随いて行くほど、俺たちはお人好しではない」
「申し訳ございませんが―――何も言わずに随いて来て頂きたいのです」
「だから………ッ!」
「待った、アル。ここはこの女性に従おうよ。登場の仕方には僕も思うところがあるけれど、
危害を加えるつもりは無いようだし、さ」

 初対面なのに、どうして自分のフルネームを知っていたのか? “再会”とはどう言う意味なのか?
 声だけが記憶にあることへの自問も含めて、確認したい事項は山積している。
果たしてどれから手を付けるべきかと模索していた矢先、
なんとフェイが女性の申し出に乗ろうと提案するではないか。

「兄さんこそちょっと待ってくれ! 短絡的に判断を下すのは油断と同じだ。
後で泣きを見たら、笑い話にもならないぞ」
「危害を加える気があるなら、とっくの昔に僕らはやられていたんじゃないかな? 
この人の意思は僕らが今、こうして立っていることが証明しているよ。
………なにしろ僕より数段稽古が進んでいる風に思えるからね」
「兄さんにその油断を植え付ける為の罠かも知れないだろう!」

 自分よりも稽古が進んでいると脱帽するフェイの様子に、女性への新たな戦慄を覚えるアルフレッドだったが、
それとこれとは話は別だ。
 はっきりと“敵”と認めた相手の誘いへ随いていくなど自殺行為に等しい。
 もしかするとフェイの胸の内には「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の覚悟が忍ばされていたのかも知れないが、
相手との力量差がここまで歴然と開いている場合、死中に活の奇策は裏目に出る可能性のほうが遥かに高い。
 何より―――自分よりも強いと言う相手に尻尾を振って随いていくようなフェイの姿をアルフレッドは見たくなかった。

「もしも本当に罠だったら、その時は僕が全力でアルを守るよ。僕のトラウムにはそれが出来るって、
アルならわかるだろう? ………いくら稽古が進んでいても、この切り札がある以上、僕は絶対に負けないって」
「………兄さんのトラウムがあれば可能でしょうが、しかし、リスクは避けるべきであって………」
「リスクと付き合うのも冒険者の仕事だよ。―――と言うわけです、お嬢さん。
貴女の腹の底に少しでも汚いものが見えたときには、僕らは全力で攻撃を仕掛けます」
「その条件で結構です。私の言葉に偽りがあった時には、八つ裂きにして頂いても構いません」
「………………………」

 心配する自分を他所に条件付きの約束を取り付けてしまったフェイに面白く無い気持ちはあるものの、
危難が及んだ際には切り札を以って必ず護る、とまで言われては決定に従わざるを得ない。
 フェイと“敵”を交互に睨んでいたアルフレッドだが、ややあってからようやく渋々と首を縦に振った。
「本当は不同意なのだが、仕方なく付き合ってやる」と言わんばかりの態度で。

「では行きましょうか、………ええっと―――」
「紹介が遅れました。私はタスク・ロッテンマイヤーと申します。タスク、とお呼び下さい」

 遅れたことを詫びながら自己紹介し、行く先を手で促す侍従風の女性…タスクの表情は
アルフレッドやフェイを撹乱し、翻弄した人物と思えないくらい穏やかだが、
四本の刃を張り出したオブジェクト―――紛うことなき武器をチラつかせる背後からは、
有無を言わせぬ凄味と戦慄が沁み出していた。

(………タスク…ロッテンマイヤー? ………やはり聞き覚えが無いな)

 紹介された名前にもアルフレッドは聞き覚えが無かった。
 名前を紹介するその声にだけ記憶を刺激され、またしても不意の目眩に襲われるのだった。







「は、はわわわわわわわわわ………ッ!」

 ―――三人は気付かなかったが、実はこの時、戦いから約束へ至るまでの一部始終を
木陰から目撃していた人間がいた。

「えらいこっちゃ………! ア、アル兄ィもフェイ兄ィも………連れていかれちゃった………!」

 シェインだ。不用意な彼の言葉で激怒したムルグに後頭部をやられ、
ホウホウの体で逃げ遂せたシェインが偶然にもアルフレッドたちの窮地に居合わせたのだ。

 アルフレッドたちが敵の攻撃を受けていると知り、加勢に入ろうと身を乗り出したところまでは良かったものの、
タスクの超人的なフィジカルの前に立ち竦んでしまい、今の今まで硬直しまっていたのだが、
それがシェインには幸いした。

「たッ、大変だぁーッ!! みんなーッ!! アル兄ィが、フェイ兄ィがぁーッ!!」

 力負けしたアルフレッドたちがタスクに連行されたと思い込んだシェインは二人を救うべく、
踵を返して助けを呼びに走る。
 まだ怒りが収まっていないと予想されるムルグからの追撃が恐いことは恐いのだが、
二人の兄貴分がピンチを迎えている時に、ごく個人的な理由で怖気づいてはいられなかった。

 ………本来ならシェインの目撃はタスクに連れられた二人にとっても幸いなのだろうが、
加勢を呼ばれてしまったが為に、後でアルフレッドへ大きな大きな災いが降りかかることになる。
 そう、彼の人生をある意味で狂わせるとてつもなく巨大な災いが。




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