4.夕食前に


 アルフレッドとフェイの身に思わぬ災難が降りかかっているとは思いも寄らないキャンプ地の面々は、
そろそろ各人の作業を終えようとしていた。
 見回りに出かけた二人のように闖入者によって妨害される事も無いので作業は能率的かつスムーズ。
 ムルグの機嫌を損ねてキャンプ地を追い出される恰好になったシェインの作業を継ぎ、
テントの設営に取り掛かったケロイド・ジュースに至っては器用にも一人でロープ張りまでこなし、
ものの数分の内に両チーム分を完成させてしまった。

「………うむ………芸術品の域………近年稀に見る力学的黄金三角比が………
ここに………完成された………ナ」
「コカっカ〜!」

 言葉巧みに宥めすかしたムルグの助力もあって納得行くものとなったらしく、
深く被ったフードによって形の見えない口元から「かっかっか………」と
ご陽気な笑い声を漏らすケロイド・ジュース。
 ムルグ(の足)とハイタッチまでするあたり、相当テンションが上がっているようだ。

 不思議と気の合うムルグとケロイド・ジュースの様子が微笑ましくて、
つい喉を鳴らしてしまったソニエもあと少しで分担された作業が終わりそうだ。
 危険地帯でのキャンプではあるものの、みな和気藹々としていて、
まるで課外授業へ繰り出した学生さながらに作業を楽しんでいた。

………そんな楽しい空気へ水を差すかのように微妙な空気を漂わす、ある一区画を除いては。

「あの………トリーシャさん、火の加減はどうですか?」
「ばっちり過ぎて恐いくらいばっちりよ。薪もケロさんの調達分で余裕出来たから夜通し煮込んでたって大丈夫! 
ガスコンロ使えばもっと手っ取り早いんだけど、こんな大所帯だとアタシのヤツじゃさすがに火力不足だしねぇ」
「ガスコンロがあるんですか?」
「一人用の、ちっちゃいヤツね。小腹空いたときに何か作ったり出来て便利なのよ。出先には必ず持ってくわ。
いざと言うときに暖も取れて、持ち運びも簡単と来れば、ジャーナリストの必需品ね〜」
「いえ、そうじゃなくて………小さくてもガスコンロをお借り出来れば、下拵えが捗ったかなって」
「もしもアタシが気を利かせてたら、ガスコンロ補正で一品追加もあった、とか?」
「即席ですけど、コンソメスープがセットになったかも知れません」
「うわっちゃあ〜、ごめんねぇ〜。気利かないよね、アタシ………」
「あっ、そんなそんな………私がいけないんです、今更こんなこと言って、気を煩わせてしまって………」
「………」
「………」
「………………」
「………………」
「………………………」
「………………………」

 微妙にして不穏な空気を漂わすのは、炊事場を担当するフィーナとトリーシャの二人だ。
 作業以外の話題が出ても少しも盛り上がらず、お互いに腫れ物を触るように気を遣ってしまって
会話が途切れる状態が続いていた。

 と言うよりも積極的に――けれどどこか遠慮して――話し掛けるトリーシャに対して、
フィーナのほうがやや引いてしまい、会話の継続へ消極的になっているように見える。
 いつでも誰にでも全力の笑顔を振り撒くフィーナにしては珍しく愛想笑いまで作っており、
トリーシャとの関わりを極力省きたいという明確な意思まで感じられた。

 トリーシャもトリーシャで、薄々はフィーナに疎ましく思われていると勘付いてはいた。
 グリーニャとスマウグ総業との乱闘の果てにフィーナが体験した阿鼻叫喚の出来事をさんざんに突っつき、
あまつさえ何の気無しに吐いてしまった無神経な一言で深く傷つけてしまったのだから、
疎ましがられるのも仕方の無い話ではある。
 「いつまでも同じ場所にはいられない、関係改善にも前進あるのみ」とポジティブに考え、
あえて過失へ触れずに努めてフレンドリーに接してきたトリーシャだったが、
心の片隅にこびり付いた呵責と蟠りはそう簡単には隠せない。
 フレンドリーな態度の裏側に秘められた遠慮はどうしても伝わってしまい、
そのことが以前の過失をフィーナに意識させ、距離を縮めるどころか逆に遠ざける悪循環に繋がっていた。

「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」

 カレーの鍋を掻き混ぜるフィーナと、火加減を見るトリーシャの間に何度目かの沈黙が訪れる。
 意図せず二人きりになってしまったトリーシャは、ソニエのような盛り上げ上手の第三者がいなくては
満足に会話のキャッチボールも出来ない空気が息苦しくて、虚しくて、………哀しくて、
改めて自分の犯した過失の重大さを痛感させられた。

 ハイテンションな性格や見た目に反して、意外とナイーブな部分の強いトリーシャには、
誰かに嫌われたり快く思われないことは大変なショックとして圧し掛かる。
 その発端を作ったのも自分、フォローしようとして更にフィーナを傷付けてしまうのも自分、
何もかも自分に原因があると来れば、ショックの大きさは計り知れない。

 鈍痛を頭へ及ぼす沈黙に耐える為に必死で笑顔を作るものの、
本音を言えば、今すぐMTBに跨ってこの場から脱出し、夕陽に向かって、自分に向けて、
「アタシのオタンコナスッ!!!!」と絶叫したかった。

「お料理、上手なんですね」
「………うん?」
「お料理。手際よくこなしていたから………」

 会話の糸口、当り障りの無い話題を模索していたトリーシャへ、
期せずしてフィーナのほうからアプローチがあったのはそんなときだった。

「あ、ああ、料理ね。うん、料理。仕事柄、外食とか出来合いの弁当食べることが多いんだけど、
それだけじゃ身体に悪いしね。ストレス発散ついでによく作ってんの。
いいストレス発散になるんだよ、料理って」
「で、でも、お料理が上達した理由って、他にあるのかなとか思ったりして」
「他の理由? ………ん〜、思いつかないけどなぁ」
「もしかして、ネイトさんに食べてもらうため、とか?」
「―――ブッ!?」

 ようやく見つけた共通の話題で、しかもフィーナのほうから振ってくれたアプローチと言うこともあり、
「これで挽回」とばかりに大張り切りで“料理”の話を広げようとするトリーシャだったが、
何の脈絡も無く会話中に異物を混入され、思わず様子を見ていた火中に顔からランディングしそうになってしまった。

 ネイト…つまり、ネイサンに食べて貰う為に料理の腕を磨いたのではないか、との大胆予想をフィーナは放ってきた。
 この変化球をトリーシャはキャッチし損ね、横転した上、もんどりうったのである。

「な、なにそれ、どこをどうしたらそーゆー発想になるわけ!? コペルニクスもびっくりな大回転だわよ!?」

 ぐりんッ、という音が聞こえてきそうな勢いでフィーナの正面へ向き直ったトリーシャの顔は既に真っ赤だ。

「女の子がお料理を上達させるのって、大体が好きな男の子に食べてもらいたいってときじゃないですか。
だから、そうかなって思って」
「それは一部の例でしょーが! 一部って言うか、フィーちゃんみたいな天然記念物クラスの純情系の!
アタシとは縁の無い世界の話だわ」
「で、でも、ベルフェルの村ですごく仲良さそうにしてましたよね。仲良さそうって言うか、もうラブラブで」
「―――ぐあぁぁぁっ!」

今度は比喩でなく本当に悶絶し、その場でゴロンゴロンと転げ回るトリーシャは、
見ようによってはタイヤで遊ぶパンダのようにも見えてどこか愛らしく、微笑ましくもあったが、
のたうつ場所が火の近くということもあって傍観するフィーナは気が気ではない。
 案の定、サイドポニーに結わえた髪が火を舐める薪へ巻き込まれそうになり、
気付いたフィーナが慌てて彼女を引き起こした。

 引き起こしたら引き起こしたで、今度はトリーシャの顔面が大火事になる。
 フィーナと目が合うなり瞬間沸騰した顔を両手で隠したトリーシャは、
声にならない声を上げ、何をそんなに拒んでいるかはわからないが、とにかく大仰に頭を振り続けた。

 ネイサンから召集を受けて駆けつけたベルフェルの村で、
確かにトリーシャは彼と口に出すには気恥ずかしいやり取りを結んだ覚えはある。
あり過ぎるくらい身に覚えがある。
 それ自体は嫌ではない。嫌などと考えたことも無い―――が、目撃者がいたとなれば話は大きく変わってくる。

「………見てたの?」
「えーっと………」

 微笑しながらもちょっとだけ困ったように眉をへの字に曲げ、
胸元で小さくVサインを作ることで返答に代えたフィーナの懐へトリーシャは頭から倒れ込んだ。
 恥ずかしさの臨界点を突破したトリーシャには、最早フィーナの顔を見ているだけの余力も、
自分で自分の身体を支えるだけの気力も残っていなかった。

「だ、大丈夫ですか!?」
「恥と外聞をパラメータ化して答えるとすると、もうバッタンキューだよ、アタシゃ………」

 いきなり卒倒したトリーシャに驚くフィーナだが、彼女の意識を飛ばしかけたきっかけが
自分の想像通りだと察すると、「私よりネイトさんに抱いてもらったほうがいいんじゃないですか?」と
いたずらっぽく耳元へ囁きかけ、胸の中に抱きとめた柔らかい熱を更に加速させる。

 異性との睦まじい場面を目撃された挙句、その気恥ずかしさを煽りに煽られたトリーシャの顔面は
殆ど溶解点へ到達しかかっていた。

「お、お願いだから、そのことは誰にも言わないでね? アタシとフィーちゃんだけの秘密にしといてね?
ね? ねっ? ねっ!?」

 辛うじて人間の皮膚組成が溶解する温度にまでは達しなかったものの、
限界ギリギリまで熱を帯びたトリーシャは息も絶え絶え。
 内密にして欲しいとフィーナに懇願するのが精一杯の様子だ。

「好きな人と一緒にいられる幸せって素敵じゃないですか。私とアルもおんなじですよ」
「はぇ?」
「隠す必要なんかありません。みんなに公認してもらって、もっともっと幸せになっちゃいましょう♪」
「ちょ、ちょっと………フィーちゃん?」
「まずは、そうですね………あっ、ソニエ姉さ〜ん、あのね、トリーシャさんとネイトさんってね―――」
「ぎにゃーーーーーーーーーっ!!」

 ………憔悴し切って弱々しくなったトリーシャを見るなり目の色を変えたフィーナには、
心の底から平和を願う善人の層とは別に、案外、サディストの気があるのかも知れない。
 懇願をにべも無く拒否されて頭を抱えたトリーシャへ向ける極上の笑顔の眩しさと言ったら、
普段浮かべている慈愛のそれとまた異なる輝きに満ち満ちている。
 アルコールが入ると毒舌になることにもその片鱗は垣間見え、フィーナS説の信憑性は非常に高いように思われた。
 裏を取るにはアルフレッドあたりに訊ねるのが一番だろうが、そんなことをすれば逆さ吊りでは済むまい。
なにしろ彼もトリーシャに負けず劣らずウブなところがあるのだ。

 フィーナの隠された性癖はともかくとして、核心に触れる前に彼女の口を両手で抑えて事なきを得たかに見えたトリーシャだが、
ふと視線が交わったソニエは意を得たとばかりにニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべ、
気に障るくらい温かい目を細めてうんうんと頷いていた。
 まさかと思って辺りを見回すと、視界に入ったケロイド・ジュースとムルグも
ソニエが浮かべたものと同種のイヤらしい笑みを浮かべている。温かい目を細めている点まで一緒だ。
 普段は寝入っているくせして、こんなときばかりパッチリ目を覚ましているホゥリーのスケベったらしい顔など、
見ていて殺意を覚えるくらい腹立たしかった。

「ア〜ハ〜♪ サプライズるくらいゴールデンパターンな意地っ張りガールってリエゾンね。ヨーヨー、え〜ヨー。
慎みナッスィングなガールがベターな昨今、チミみたいなマイノリティは絶滅危惧種のセーブターゲットだよ。
バットしかし、ボキはあえてオ〜プンになるのもおススメするね。
跳ね返りガールの恥じらいサーモンピンクフェイスもなかなかオツなアートで―――」

 予想に難くないが、トリーシャをからかった直後、ホゥリーの顔面には彼女愛用の自転車がめり込んでいた。

「………は、恥ずかしながら、つ、つ、付き合ってるわよ、ネイトと………」
「照れる必要なんかありませんってば。好きなら好きってちゃんと言ってもらえると嬉しいじゃないですか。
アルもそうなんですけど、どうしてこんなことで照れちゃうのかなぁ〜」
「そ、そなの? カレもアタシみたいな感じ?」
「トリーシャさん以上に奥手ですもん、うちのアル。例えば実家の頃の話なんかすると―――
夜ね、寝る前に部屋へ遊びに行くと、アルってばすっごい緊張しちゃって、
おしゃべりどころじゃ無くなっちゃうんですよ」
「そ、それはだって男の子ってそーゆーもんだし、女の子だって、か、かか、覚悟をばしてだね………」
「覚悟って………おしゃべりするのにそんな風に決心固められても困りますよ〜。アルなんか、
『ああ』とか『そうか』くらいしか返してくれなくなっちゃうし。一人で一方的に話し続けるの、大変ですもん」
「だからそれは覚悟をね、覚悟を、覚悟………」
「だから、一体、何の覚悟?」
「それはその、おしべとめしべが―――………―――っていうか、ねぇ、わざとやってる? わざとはぐらかしてる?」
「えっと………言ってる意味がわからないです」
「おしべとめしべまで言ってるのに!? よしんば本当にはぐらかす気が無かったにしたって、
そこまで言えばピンと来るでしょ、女の子的に!?」

 種類はどうであれ、ようやく向けて貰えた素直な笑顔を曇らせたくないトリーシャは、
相当な葛藤を堪えに堪え、意識が飛びそうな恥ずかしさを抑えに抑え、
錆びたブリキを無理矢理可動させたような、ギギギ…と言う怪音が聴こえてきそうな鈍い動きで首を縦に振った。
 再びアルフレッドのことを引き合いに出すが、今、トリーシャが立たされた状況に彼をシャッフルしたなら、
きっと全く同じリアクションを取って固まることだろう。
 恋愛について奥手な人間にとって、誰某と交際していると話したり、認めたりするのは、
地獄の炎で炙られたほうがまだマシと断言するくらい苦痛で抵抗のあることなのだ。

 反対にフィーナやソニエのようにオープンなタイプは自分の恋の話をするのも、人のものを聴くのも大好きで、
大衆の面前で恋人にキスを見舞うのも平気でやってのける。
 実際、フィーナは誰が見ているか解らない状況でアルフレッドの唇を奪い、彼を悶絶させた前科もある。
 羞恥心はあるのだが、それ以上に恋人が好きで好きで堪らず、
時として欲求が理性を陵駕してしまうのがフィーナやソニエたちだった。

 頭のてっぺんから湯気を昇らすトリーシャと、爛々と目を輝かすフィーナの取り合わせは
傍目にはひどく滑稽に映るが、どちらもそれぞれ“恋する少女”。どちらも正しく“恋する少女”。
 トリーシャの恋話に興味津々なフィーナの目が輝いているのは当たり前だが、
ウブで奥手でそのテの話題に弱いと言ってもトリーシャだって女の子。
恥ずかしそうに顔を覆う指の隙間から覗ける瞳には、フィーナの恋話へ強く興味を引かれる熱っぽさが見て取れた。

 ………蛇足ながら、トリーシャに代表される奥手なタイプの女の子に限って耳年増が多いことも附記しておく。

「もし良かったら教えてください、トリーシャさんの言おうとしてたこと、詳しく。
………トリーシャさんのこと、もっとよく知りたいし」
「うあーっ、憎いっ! 純真ど真ん中の顔でいじめに近い質問してくるフィーちゃんが今日ばかりは憎いっ!
憎いのに憎めないのはその純真さゆえ!? 天使の皮を被った、なかなかやり手の小悪魔ちゃんめぇっ!」

 あえて明言するが、断じてフィーナが攻めに回った構図ではない。
 サディスティックな性質を覚醒させ、可愛い獲物を前に舌なめずりするケダモノのそれでもない。

「ひ、人に恥ずかしい話をさせてばっかってのもズルくない? フィーちゃんも何か秘密のエピソードとか教えてよ」
「私とアルの、ですか?」
「幼馴染みなんだもん、子供の頃の想い出とか山盛りのてんこ盛りなんじゃない?」

 話題の摩り替えだけに注目すると、これ以上恥ずかしさを上積みされたら悶死しかねないトリーシャが
自分へ向けられたままの矛先を反らした風にも見えるが、
自分から恋話を明かすのが苦手なタイプが人の恋話へ耳を傾けるのを好まないとは限らない。
 そうしたタイプに耳年増が多いことも前述している。

 つまり、トリーシャはフィーナの恋話に並々ならない興味を惹かれているわけだ。
 コミックや小説の世界でしかお目にかかれないような、
“旨味のあるバックボーン”の上に成立しているアルフレッドとフィーナのカップルに対して、
トリーシャはゴシップ的な好奇心を抜きにして興味を抱いていた。
 フィクションの世界ではお決まりな幼馴染みの恋愛関係というのは、現実世界ではどうなのか、と。

「お互いの部屋を屋根伝いに行き来するのか?」
「小さい頃、一緒にお風呂に入っていたのか?」
「産婦人科のベッドでも隣同士だったのか?」
「付き合ってるのかさんざん友達にからかわれた?」

―――等など、質問したいことは数え切れない。

トリーシャにして見れば、それほど深い意図も無く話題を出したつもりなのだが、
フィーナにとってはとてつもなく芳しい撒き餌だったらしく、
“子供の頃の想い出”と振られた途端に満面へ向日葵が咲いたような煌きが宿った。

「私にその話を振ってしまいましたね?」
「お、なにやら自信あり? イイ笑顔(かお)しちゃってるけど」
「幼馴染みならではのとっておきエピソード………知りたいですか?」
「―――あ、別にいいや。そーゆーフリされると萎えちゃうのがジャーナリストって生き物だし」
「―――あれは、まだキンダーガートゥンに上がりたての頃の話です………」
「シキり直しをシキり直しで返すとは、ジャーナリスト真っ青なカウンター技ッ!! 
やっぱりこの娘はテクニシャンッ!?」

 いじわるして焦らそうと試みたトリーシャだが、そんなツッコミなど聴いちゃいないフィーナは
夢見心地で想い出話を紐解き始めた―――







「フィ、フィーナ・ユークリッドです………」
「アルフレッド・ストラスバーグ・ライアンだ。アルでいい。ちちとははからそうよばれている。
それからみどるねーむはSとりゃくせ」
「………………………」
「どうしてだまってしまうんだ?」
「………………………」


初めて両親にアルを紹介されたとき、実はちょっと恐かったんです。
アル、昔、すごい目付き悪くて………今でも小さな子に泣かれることもあるけど、
それでもかなりマシになったほうなんですよ。
噛み付くみたいな目で睨んでくるでしょ? 言い方もぶっきらぼう。
改めて振り返るとファーストインプレッションは考えられる最悪の感覚でしたね。
シアン色の目で睨まれたら、もう、蛇を前にした蛙みたい。


「………………………」
「ないているのか? なにもしていないのになくんじゃない」
「だ、だって………だって………」
「なんだっ?」
「………うっ………」
「だから、そこでだまりこまれたら、どうしようもないだろうっ?」
「………………………」
「おれにどうしろっていうんだ!? なにもしていないのになかれて、りゆうをきいてもだんまりで、
おまえはおれになにをようきゅうするつもりだ!?」
「………………………」


取っ付きの悪さは今も昔も一緒。
でもね、よく誤解されるけど、取っ付きは悪くてもガラが悪いってわけじゃないんですよ。
このときも、初めて見る女の子に緊張して固まっちゃってただけなんですって。
おまけに私はアルがあんまり恐くて、怯えて泣いちゃうし………後から聴いたら、
アルも死ぬほどテンパッてたみたい。


「あの、アルちゃん………」
「ちゃんづけはやめろってなんどもいってるだろう。どがすぎればめいよきそんがてきようされる」
「め、めいよきそん?」
「そのひとのめいよをいちじるしくそこなうこういのことだ。たとえば、おまえはおれをアルちゃんとよぶが、
それはおれにとってくつうでしかない。そんなはずかしいよびかたをむらのひとにきかれてみろ。
おれというにんげんのめいよにきずがつく。そういうのをめいよきそんというんだ」
「あうぅ………それ、どこのくにのことばなの?」
「おまえはそこからおしえなきゃならないのか? どのくにでもげんごはとういつされてるだろう。
グリーニャだけじゃない。にしのくにも、ひがしのくにも、みんなげんごはいっしょだ」
「げんご? とういつ?」
「いいから、さきにいったほうにしゅうちゅうしろ。めいよきそんのなんたるかをふくしゅうするんだ。
おまえはおばかだから、つぎからつぎへとつめこんでもぱんくするだけだ。ひとつひとつますたーしろ」
「な、なにこのごほん? くろくてかたくてあつくて、こんなのわたし、もてないよ」
「ほうりつのほんだ。このぺーじのここにさっきおれがせつめいしてやっためいよきそんのことがのってる。
ここだぞ、ここ。よし、こえにだしてよんでみろ。ろうどくがいちばんあたまにはいるとかあさんもいってた」
「このごほん、どこにえがのってるの? めいよきそんさんはでてくるの?」
「………ひとつひとつかいけつしていこう。まずこれはえほんじゃない。つまりさしえはどこにもない。
つぎにめいよきそんはじれいのひとつであって、いきものじゃない」
「あの、あの、あの………」
「そんなことばはどこにもかかれていない。よめといったらよめ。ずっとおばかのままでいたいのか」
「なにかいてあるのかわかんないよぉ〜。よめないじばっかだもん〜」


………可愛げが無かったのも昔から。
小さい頃からアルは弁護士さんになるのを夢見ていて、私にも難しい本を読ませようとするんですよ。
こっちはやっと絵本を読めるようになったばかりだって言うのに、法律事典みたいのを押し付けられたら
困るなんてものじゃありません。
ちんぷんかんぷん以前に字も読めないし、読めなくて質問するとおバカ呼ばわりだし………。
あっ、これこそアルの行ってた名誉毀損じゃない。あいつこそ訴えられなきゃだよ。

で、同い年が絵本を読んでる歳のときにどうして難しい本を読めたかって言うと、
フランチェスカ―――………えっと………“アルのお母さん”に教えて貰っていたんだって。
もうよく覚えていないんですけど、“アルのお母さん”って、とっても優秀で、
グリーニャには不似合いな天才って呼ばれていたそうです。


「よーし、アル、きょうはドナテラさんちにとつげきひるごはんしようぜ! 
ドナテラさん、いつもおひるにしゃわーをあびるから、うまくいきゃうはうはだ〜」
「まて、ばか。おまえがやろうとしていることはのぞきだ。れっきとしたはんざいだぞ」
「へっへっへ〜ん。ざんねんでした、ちびっこべんごしく〜ん! おれはまだみせいねんだから、
ちょっとくらいわるさしてもつかまんないよ〜だ。そーゆーふうにほうりつがまもってくれるんじゃね?」
「なっ!? おまえ、ほうのぬけあなをみつけたのかっ!?」
「おまえのへりくつもききあきたんでね。ちょいとおまえがてもあしもでないにげみちをさがしてみてやったのさ。
どうする、アル? このままじゃおれをとめることはできないぞ?」
「………それはどうかな?」
「じしんまんまんだな」
「われにさくあり―――おい、フィー、いまクラップがいったことをドナテラさんにぜんぶはなしてこい」
「お、おっけー!」
「げっ!? おま、それははんそくだろっ! もうドナテラさんにドーナッツつくってもらえなくなるっ!
つーか、かあちゃんにしばかれるっ!! ………まて、フィー、まってくれっって! 
―――てめ、この、アル、はなせ! はなしやがってくださいっ!」
「せいぎはかつんだ、かならずな」
「おれのじんせいがまけいぬろせんにはいっちゃうまえにはなしてぇーーーっ!!」


村で同い年の子供って言うと、私とアルと、もう一人、クラぴょんって言う男の子の三人しかいなかったんです。
アルとクラぴょんは男の子同士で気が合ったし、なによりクラぴょんは私と違って
アルの小難しい話にも上手に付き合ってましたから。ていうか、上手に流していたのかな。
未だに二人のやり取りはすごいです。噛み合って無さそうで噛み合ってる感じ。
クラぴょんの、その………ちょっとハレンチな話をアルは適当に流して、
説法みたいなアルの長話をクラぴょんは右から左へスルーして。

そんな風に朝から晩まで男の子は走り回って、私は二人の背中を追いかけていました。
途中で随いて行けなくなって、息切れしたり転んだり………それでも必死に追いかけて、追いかけて。
同世代の友達に置いて行かれるのが恐かったんです。


「どうしておまえはそうどんくさいんだ」
「そ、そんなこといわれたって………」
「じょうけんがととのわなきゃにんげんはころばないんだ。おまえのばあい、ちゅういりょくがさんまんなんだよ。
あしもとはちゃんとみてるか? みていないだろう。みていないおまえにかわっておれがみていると、
おまえ、あしもとにいしころがころがってるのにきづかずはしって、なんどもなんどもつまづいてる。
それがまずいってんだ。まだまだおまえのだめなところはある」
「き、きをつけてるもんっ! たまたまだもんっ!」
「ごうけいにひゃくさんじゅっかいもかぞえれば、もうたまたまとはいわない。ひつぜんというんだ。
だいにに、おまえはいつもさんだるばきだ。しかも、おばさんのさんだるをはいてくるだろう?
あしのさいずとあわないぶかぶかのはきものをはいてりゃ、ころぶものとうぜんだ」
「ままのさんだるがすきなんだもんっ」
「くちごたえするつもりなら、せめてころばずにあるけるようになってからにしろ」
「アルちゃんたちがはしるのがはやすぎるの! すこしはフィーにあわせてよ。おいつけないよ」
「おれたちのせいにするのかっ?」
「だってそーだもんっ!」
「じゃあ、むりにおいかけてくるな。かってにおいかけてきて、かってにころんで、かってにせきにんを
てんかされたんじゃかなわない」
「………………………」
「だいたい、あそぶばしょはいつもいっしょなんだから、はしっておってくるひつようは………―――え?
お、おい、おまえ、ないてるのか?」
「………アルちゃんのぶぁかぁぁぁーーーっ!!」


しかも、私が転ぶと不機嫌そうにやって来て、コレですよ?
今ならそれもぶきっちょなアルなりのいたわりだったと思えますけど、当時はもう泣きっ面に蜂状態で。
わんわん泣きました。さんざん泣かされました。


「………アルちゃん、わたしのこと、きらいなんでしょ?」
「きらってはいない」
「うそだもん………きらいじゃなかったら、どうしていつもいじわるするの?」
「いじわるなどしていない。それはいいがかりだ」
「むずかしいこと、フィーナにはわかんないけど、でも、アルちゃんがわたしをきらいってことだけはわかるよ」
「きらっていないといっているだろうっ」
「きらわれてるもんっ!」
「きらっていないっ!」
「きらいじゃないなら、どうしてわたしをこわいかおでみるの?」
「こわくない」
「こわいよっ!」
「こわくないっ!」
「めがこわいのっ! アルちゃんにこわいかおでみられると、わたし、もうこわくって………」
「………………………」


そんなだから、私はアルに嫌われてるんだって、ずっと思ってたんですよ。
私のことが嫌いだから、アルはあんなひどいことするんだって。
………誤解とわかるまでの間、長く長く落ち込んじゃいました。


「なくな」
「………だって、どこにもいないんだもん。おそとがくらくなるまでさがしても、
クレメンタイン、いないんだもん………。わたしのこと、きらいになっちゃったんだよ、きっと………」
「おまえはきらいなのか、クレメンタインのこと」
「きらいになれるわけないでしょっ! うまれてからずっといっしょだったんだよっ!? 
ずっとずっとずっと………、いっしょだったんだもん………いっしょにいるんだもん」
「だったらどうしてなく?」
「かなしいからだよっ! クレメンタインにきらわれちゃったのが、かなしいからないちゃうんだよっ!
………わたしのことがきらいなら、もうほっといてよっ! どっかいっちゃえっ! ………どっかいけっ!」
「きたいにそえなくてわるいが、おれはどこにもいかない」
「どうして!?」
「まえにもいったはずだ。おれはべつにおまえをきらってはいない。きらってないから、ちかくにいる。
………おまえはどうなんだ?」
「え………?」
「クレメンタインがきらいか? ちがうだろう? だいすきなんだろう? だったらないてるばあいじゃない。
あきらめずにさがすんだ。もしもあいつがおまえのことをほんとうにきらいになってしまったとしても、
おまえがだいすきってことをつたえれば、きっとかえってきてくれる。またおまえをすきになってくれる」
「………そんなの………わたしにできるのかな………」
「できるできないかじゃない。すきならこうどうしろ。すきってきもちをつたえるんだ」
「………………………うんっ! わかったっ! クレメンタインのこと、フィー、だいすきだもん。
だから………あきらめないっ!」


本当はアルが優しいんだってわかったのは、そのときかな。
小さい頃に飼ってた犬のクレメンタインが逃げ出したとき、クラぴょんや家族が諦めて、
「もう帰ろう」って言ってきても、アルだけは私に最後まで付き合って一緒に探してくれたんだ。
ふたりとも泥んこになるまで探し回って、でも、結局、見つからなくて………。


「………ぜんげんをてっかいする。ないてもかまわない」
「………ご………めん………もう………もうないてる………」
「そうか………」
「………やっぱり………クレメンタインは………フィーのこと………きらいに―――」
「―――おれはちがうぞ」
「………へ?」
「おれはあいつとはちがう。おまえをおいてどこかにいってしまうようなはくじょうものとはちがう」
「ク、クレメンタインをばかにしないでっ! なにいってるかはわかんなかったけど、いいかたでぴんときた!」
「だってあいつはばかだろ。おおばかけんだ。おまえがなくのもわからずにどこかへきえてしまった。
………でも、おれはちがうっていってるんだ。おれはおまえのそばにいてやる」
「………きゅ、きゅうにどうしたの………?」
「しかたないだろ、こうでもいわなきゃ、おまえ、いつまでもないてそうんだから」
「かなしいんだから、なくよっ。なくにきまってるよっ」
「だから、おれがそのかなしいきもちをどっかにもってってやる」
「……………………」
「やくそくする。ほかのひとがみんないなくなっても、おれだけはおまえのそばにいてやる。
おまえはひとりじゃない。いいな、ひとりぼっちじゃない。おれがいる。なにがあっても、どこにいっても、
ぜったいいっしょにいるから」
「………アルちゃん………」
「だから、な。きょうはないてもいいけど、あしたからはいつものフィーにもどれよな。
おまえがしょんぼりしてると、おれもちょうしがでないんだよ」


泣きべそかいてた私のね、泥だらけの手を握って、アルはそう約束してくれたんです。
いつでも、いつまでも一緒にいてくれるって。
クレメンタインの代わりにはなれないけど、あいつに出来ないことをしてくれるって。

そのとき、初めて私はアルが本当は優しい子なんだってわかりました。
それ以上に、私はアルに嫌われていなかったんだって―――大切に思われていたんだなって。


「ありがと………ありがとう、アルちゃんっ!」
「―――おっ、おい!? ばか、はなれろっ!」
「やーだーっ。いつでもどこでもいっしょってやくそくしてくれたでしょっ?」
「そ、それとこれとははなしがべつだっ」
「………そんなこといわれると、フィー、また、ないちゃうかも………」
「なっ!? ま、まてっ!! わかった、わかったからっ! ………てをつなぐだけならきょかする」
「うぅぅ〜、アルちゃんのうそつきー………っ!」
「ま、ま、まてってっ! そこでなくなよ―――くっそぉ………どうすりゃいいんだ、おれは………」


あんまり嬉し過ぎて思わず抱きついたら、アル、真っ赤になって目を回しちゃって………。
アルのことを可愛いって思ったのも、あのときが初めてだったなぁ。


「おれ、おまえにやくそくしたよな、ずっといっしょにいてやるって」
「うん。いつもいっしょにいてくれるよ」
「その…なんていえばいいのか………ずっといっしょにいるためにはな、ほうてきなこうりょくもひつようなんだ。
ざいさんぶんよのけんりやぎんこうこうざのきょうゆう、それからせいかつのほしょうもだな。
とにかくふたりでずっといっしょにいるには、いろいろなてじゅんをふまなきゃならない」
「ほうりつのはなしはわかんないっていったよね?」
「それとこれとははなしはべつだ。ひつようさいていげんのじこうだけはおまえにもかくにんしてもらう」
「いったよね?」
「いっしょにいるためにはだな、くりあーしなくちゃならないほうてきなもんだいもたくさんあってだな」
「よね?」
「………はい」


それから少しして、アルに呼び出されました。クラぴょんにも誰にも内緒でって念を押されて。
それで………それで―――――――――


「ああ、そうか。わすれていたよ。おばかにはまわりくどいやりかたはつうようしないって」
「またフィーのこと、おばかっていうし〜」
「おまえはおばかだ。お、おとこごころがまるでわかっていない」
「そーゆーアルちゃんだって、おんなのこのきもちがわかってないよ」
「だから、もうたんとうちょくにゅうにいってやる。むーどやにゅあんすでわからすのもおまえにはむりだ」
「いってることはよくわかんなかったけど、いま、ぜったいばかにされ―――」
「―――おとなになったら、フィーをおよめさんにしてやる」
「―――………………………いま………なんていったの………?」
「にどはいわない」
「いってよっ! こんどはもっとしっかりききたいのっ!」
「くどいぞ。にどとおなじことはいわない」
「ひ〜ど〜い〜っ! 」
「いわないかわりに、これ、やる。みぎのくすりゆびにでもつけとけ」
「えっ………え………これって………―――」
「………もうよやくしたからな。べつのやつにかわれていったら、いやくきんじゃすまないからな」







(―――あれ? 私、今、アルの瞳―――)

 「これがそのときの指輪です」と小物を納めてあるポシェットからオモチャの指輪を取り出して
トリーシャに紹介しながらも、フィーナの脳裏には不可思議な違和感に包まれていた。
 幼い頃のアルフレッドを思い返したとき、回想の中の彼は、何故かシアン色の瞳をしていたのだ。
父親であるカッツェと同じシアン色の瞳を。
 父と息子が瞳の色を共有するのは、遺伝上、全く普通のことで取り立てて騒ぐ必要も無いのだが、
フィーナやトリーシャが良く知るアルフレッドの瞳は――少なくとも現在の彼の瞳は――シアンとは正反対の真紅。
 血の色を思わせる真紅だった。

 想い出と現在で瞳の色が違うとは奇妙ではあるものの、
成長の過程で瞳の色が変色でもしない限りはフィーナの記憶違いとしか答えを求められない。
 成長を経る中で瞳の色素が変質するなどと言う類例は聴いたこともないし、改めて検証を凝らすまでもなく、
生物学上、有り得ない話だ。
 記憶違いで処理せず、瞳の色の変色にこだわってしまうと、人間という種の生態系に画期的過ぎる新説・仮説が必要になり、
専門知識を得ていないフィーナの思考能力ではいよいよパニック。
 変質を明らかにする仮説が立たないまま、彼女の頭がパンクするのは試みるまでもなく解りきっている。

 本当に想い出が錯綜しているのか、変質の事実があったのかは別として、
精神に障害を及ぼす破綻を起こさないよう自己補完を行なう思考回路が導き出した活路は、
“記憶違い”として処理すること。
 記憶違いとして処理された疑念に納得したフィーナが、それ以上同じ疑念に頭を捻ることはなかった。

 目の前で変わった行動を取るトリーシャへ彼女の意識が向いたことも、疑念を払う要因の一つだ。

「―――って、なんですか、そのメモ帳?」
「見出しを思いついたから、アイディアが消えないうちにメモしようってね。
『アナタの隣のベストカップル』ってフレーズはどうかしら?」
「え? え? え? え?」
「好きな人と一緒にいられる幸せは公表してナンボってアタシに言ったわよね? 今がそのときじゃない?
幸せのほほんカップルを大々的かつ世界的に知らしめて、みんなを幸せにしてあげましょ〜や♪」
「そ、それは、ちょっと!」

 恋話を明らかにすることに抵抗の薄いフィーナではあるが、それもあくまで友達を相手に話す場合に限ってである。
トリーシャが言うように記事にされてゴシップ誌を賑わせるのはさすがに望むところではない。
 なにやらこまめに書き込まれつつあるメモ帳を引っ手繰ってトリーシャの目論見を阻止しようとしたフィーナだが、
奪い取った紙は真っ白で、文字一つ書き込まれていなかった。
 次のページに書き込まれた文字がうっすらと透けて見れ、
そこに自分の恥ずかしい恋話がメモされてあると踏んだフィーナが慌てて一枚めくると、
そこに書いてあったのは「ホント、フィーちゃんは可愛い」の一言。

「………やってくれましたね」
「素直な娘をおちょくるのって楽しいもんなのよ。砂を吐かせてくれたお返しってコトで、ね」

 なかなか手の込んだトリーシャの罠にすっかり騙されたフィーナは、カラカラ笑う彼女の胸を軽く叩いた。
 コミックに出てくる「ポカポカ」の擬音が聴こえそうな、じゃれ付くような仕草でトリーシャに仕返しするフィーナの表情からは、
もう最初のような遠慮や蟠りは感じられなかった。
 叩かれながらも嬉しそうなトリーシャの表情も同様だ。友達をからかう悪戯っぽさと、
そんな愉快を謳歌できる嬉しさに溢れていて、互いを落胆させるジレンマは微塵も感じられない。

 一旦軌道に乗ったフィーナとトリーシャの談笑は二度と途切れることはなかった。
 ぐつぐつ煮えるカレー鍋のリズムに乗って、どんどん弾みを付けて盛り上がっていく。

「アタシんとこと違ってドラマチックよね〜。それに比べてアタシとネイトのムードが無いこと、ムードが無いこと………。
二人で出かけるったって、あの線目、ゴミ処理場巡りとか平気でデートコースに組み込むのよ?
信じられないったらありゃしない!」
「ネイトさんなら仕方無いかもだけど、ゴミ処理場はさすがにヒドいかな………」
「女の子誘って行く場所じゃないじゃん! こちとら何があってもOKなように身なりをキメて来てるってのに、
あいつ、平気で作業着なのよ? 良くてツナギ! それも油汚れがねちっこいヤツ! 
その瞬間にデートコースを悟るの。まじで冷めるわよ。
盛り上がってたテンションが一気にどん底まで行く瞬間の気持ちって言ったら………もうッ!!」

 確かにネイサンに甲斐性があるようにはフィーナも考えてはいなかったが、
トリーシャの愚痴が進むにつれて明らかにされていく彼の配慮の至らなさは予想を遥かに上回るもので、
場を苦笑いで繕えるレベルも越えてきた。
 と言うよりも、嫌われる為にあえて選んでいるとしか思えない悲惨なデートコースのチョイスには、
呆れを突き抜けて義憤すら覚えるほどだ。

 心から同情を寄せ、一緒に怒ってくれるフィーナに促されたのか、
ネイサンに対するトリーシャの愚痴は次第にスピードアップし、内容も過激なものになっていく。
 とてもとても文面として公表できないような内容――純真なフィーナが首を傾げる単語や行為など――を
喚き散らすトリーシャの姿は、一歩引いて見るとかなり恐いものがあるが、それだけ日常的に鬱憤が
積み重なっていた証拠である。
 それは同時に、ネイサンの男としてのパラメータが恋人に不満を募らせる悪しきものであると言う証明でもあった。

「フィーちゃんとこは運命の出逢いっぽいのに………アタシんとこなんか、あれよ、そーゆーイベントは一切ナシ。
この間のグラウンド・ゼロでもそう。偶然会うとかさぁ、そんな味気ないのとかさぁ〜」
「偶然なんて、それこそステキじゃないですかっ。切っても切れない運命、感じちゃいますよ〜」
「そ、そかな? やっぱそう思う?」
「逆にいつも一緒にいると、そういう刺激と言うか、イベントが無くて、結構、味気ないものなんですよ」
「その分、いつだって幸せ気分でしょ? こーゆー風に特別な事情で同行でもしない限り、
三ヶ月に一回、会うか会わないかの人間に言わせれば、それは贅沢な悩みよ〜?」
「女の子としては、やっぱり、こう、つれなくしてオトすみたいなカッコいいテクに憧れるじゃないですか。
アルの場合、つれなくしてオトすって言うより、本当につれないって言うか、乙女心がわかってないし。
たまに会うからこそ燃えちゃう関係って、なんか羨ましいなぁ〜」
「そんな甲斐性があのうすらトンカチにもありゃいいんだけどね〜。デートコースの選び方でもわかる通り、
アレもアレでかなりの朴念仁よ? 悩みは尽きないわ、まじな話」

 そこからはもう和気藹々。話題に詰まることもなく、互いに遠慮することもなく、
フィーナとトリーシャの談笑は、時に姦しく、いつまでも和やかに、カレーが食べ頃に煮えるまで続いた。
 鍋の担当をフィーナとトリーシャに任せはしたものの、二人の間に開いた溝が実は心配でたまらなかったソニエも
その楽しげな雰囲気に「若い子はやっぱ恋話が一番のクスリか」と口元を綻ばせる。

 雪解けを迎えて咲き誇った談笑の花は、枯れて落ちる気配など見る影も無かった。

「―――いいよ、いいねェ、女の子たちの友情ってのは」

 ソニエと同じくトリーシャの様子を気遣わしげに窺っていたネイサンも、胸を撫で下ろした気持ちでいるのだろう。
トリーシャをして“線目”と呼ばれるような細い目を更に細めて、木の影から満足げに頷いている。

「………トリーシャ、そんな幸せもキミにとって重要な『情報』になるんだ。しっかりと記録しておくと良いよ」

 ………ただし、ソニエの微笑とネイサンの微笑には異なる点があった。
 お姉さん気質のソニエが、妹分のように可愛がる二人が和解したことを心から祝福する喜びの微笑を浮かべたのに対して、
ネイサンの微笑はどこか陰鬱で、口元も“綻んだ”と言うよりは“歪んだ”と表現しなくてはならないような、
得体の知れない不気味さを醸しているのだ。

 傍目には恋人とその友人が交流を深めた様子を見守り、絆が成ったのを喜ぶ情に厚い少年ではある。
 だが、何かが違う。何か違和を感じる。
 例えようの無い怖気を走らせる気配は、意味不明な彼の呟きと溶け合い、ネイサンの微笑、
ひいては彼という存在そのものを混濁させていく。ドロドロと、ドロドロと………。

「そしてその『情報』が新世界の――――――ごっぼぁッ!?」
「―――ピーピングしてる場合じゃねッ!!」

 混濁が泥濘と化すより前にネイサンの笑気を断ち切ったのは、風に乗って駆け込んできたシェインだ。
 正確にはシェインの飛び膝蹴りがネイサンの後頭部を鋭角にブチ抜き、
陰鬱な空気ごと彼を地面へランディングさせて強制停止となったのだが。

「この変態! 呑気に覗きなんかやってる場合じゃないんだよ! 大変なんだってばッ!!」
「………人の後頭部にいきなりニーキックかましといて変態呼ばわりとは、キミも随分良い教育受けてるねぇ」
「変態呼ばわりされても仕方ないだろ、今のは。そーゆーヤツにはキックでお仕置きって教えられてんだよ」
「別に覗きでもなんでもないじゃん………僕はただ、自分のカノジョと親友のカノジョが仲良くしてるのが嬉しくってさぁ、
見守ってただけなんだから」
「ネイトのノロケなんか聴きたくも無―――じゃなくてッ!! だから言ってるだろ!? 大変なことになってんだよッ!!」

 訳もわからず後頭部に蹴りを入れられたことにはさすがのネイサンも苛立ち、
相手が年下の子供であっても、いや、年下の子供であるからこそ、きつく叱り付けなくては、と
眉間に青筋を立てつつシェインに向き直った。
 最初はそこから怒涛のお説教コースと考えていたネイサンだが、シェインの切羽詰った様子にただならぬものを感じ取り、
とりあえず私的な怒りをぶちまけるのは順延することに決めた。
 「ヤバイんだよ!」。そう口早に連呼するシェインの表情は、一瞬でネイサンに意を翻させるほどの焦燥に満ちており、
頬も蒼白に染まりきっていた。

「尋常じゃないね………何があったんだい?」
「アル兄ィとフェイ兄ィがヘンテコなおばさんに連れていかれちゃったんだッ!!」
「なんだい、それ!? 拉致られたってこと!?」
「詳しくはわかんないけど、たぶん、そんな感じッ!!」
「おいおいおいおい、何やってんだよ、アル………」

 シェインの説明を聴くにつれて線目が緊張感で猫のそれのように吊り上がって行く。
事態はネイサンが想像していた以上に深刻だった。

「ったく、アフターファイブくらいゆっくり休みたかったけど、そうも言ってられないみたいね」
「………過度の運動は………お肌に悪いが………仕方あるまい………」

 焦るあまり説明にも大きな声を出してしまったシェインの絶叫が耳に入ったのだろう。
 ソニエとケロイド・ジュースも表情を固くしながら二人のもとへと駆け寄り、
アルフレッドとフェイが見回りに消えていった峠の先を見据えて重苦しい溜め息を吐いた。




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