6.ネクローシスの染色的増幅
周知の事実だが、アルフレッド・S・ライアンにはフィーナ・ライアンという恋人がいる。
共に育った幼馴染みで、血の繋がりは無いけれど兄妹同士で………お互いを誰よりも知り、
誰よりも愛しく想い合う理想の恋人が。
惜しみない愛を億面無く表すフィーナはもちろん、不器用で感情を表に出すことが苦手なアルフレッドも彼なりに愛情を示してきた。
お互いに愛情を示し合っているが故に二人の絆は余人の入り込む隙間が見つからないほど強く結びついているのだし、
誰からも祝福され、見守る人々へ笑顔と元気を与えるのだ。
いつだって全力でお互いを支え合う二人の愛情は永遠のものであると誰もが信じて疑わなかった。
それはアルフレッドがアカデミーに通学し、グリーニャを離れている間も変わらない。
フィーナのみならず、グリーニャの誰もが遠距離などに二人の関係が揺らがされるとは夢にも思わなかった。
アカデミーがグリーニャから大陸を幾つも跨いだ遠方に設置されていることもあって面会こそ叶わなかったが、
モバイルを介した交流は二日と置かず取り合っていたし、アルフレッドのほうから手書きのエアメールや
アカデミー近隣の町で手に入れた伝統工芸品などをフィーナへ送ることも少なくなかった。
離れていたって大丈夫。アルフレッドとフィーナは、いつまでもいつまでも、皆から祝福される二人でいるはずだ。
二人が秘密――もちろん、公然の秘密――にしていた手前、他の人々のように表に出すことは無かったが、
カッツェとルノアリーナも、我が子らの絆に強い確信を抱いていた。
………アルフレッドが遠距離にもへこたれないことにムルグが苛立ち、
手ごろなクラップ相手に八つ当たりを繰り返していたことも、余談ながら附記しておく。
だが、実際に彼がアカデミーでどんな生活を送っていたかを目にした人間はグリーニャには誰もいない。
知らないが、アルフレッドはずっとフィーナだけを想っていると誰もが確信していた。
グリーニャに残されたフィーナが彼を一途に想いつづけているのと同じように。
………が、結果はどうだ。知らない時期を紐解いたときに這い出てきた真実は、果たして祝福されるに足るものだったか。
「お初にお目にかかります、わたくし、アルちゃんとお付き合いさせて頂いております、マリス・ヘイフリックと申します」
アルフレッドへの濃厚な口付けを終えたマリスが唖然としている皆を見渡して嬉しそうに自己紹介した瞬間、
祝福は軽蔑に変わり、賛美は罵倒に変わった。
彼に寄せられていた信頼と確信は裏切りへの怒りに塗り変えられ、嘲りに満ちた無数の視線が一斉に浴びせられる。
「ああ、恋人の目が届かないのを良いことに、お楽しみだったんだな」
直接口に出して詰問する者はいなかったが、肌を刺すような刺々しい気配に彼らの意志の全てが凝縮されていた。
「約束の地アカデミーでアルちゃんと出逢うまでわたくしは、月世界に一人残されたかのようなグレイトーンの路を
何も知らずに歩くばかりの、命を持たない人形でした。木々が鼓動する世界の彩(いろ)も、星の瞬く宇宙の美しさも、
わたくしの瞳には何の意味も成さなかったのです。全て、全て、アルちゃんがわたくしにくれたものです。
荒涼として物悲しかった大地は、けれど果てしなさゆえに美しく、
無い物ねだりの切なさが胸を突くとばかり思っていた空は夢と妖精が飛び交う希望の窓。
掴めば取れそうな白い雲はさながら希望に花を添えるカーテンだと………アルちゃんと出逢えて、手を取り合えて、
わたくしの世界はそこから始まったのです。わたくしの全てが、アルちゃんと共にあるのです」
顔面蒼白にするアルフレッドの様子に気付いていないのか、彼の腕に自分のそれを絡めながら、
マリスは聴かれもしないのにアカデミーで送った甘い日々を語り始めた。
オペラ歌手やミュージカル俳優をかくやと思わせる朗々とした語り口調に加えて瞳は夢見がちに蕩け、
どんな場所でどんなキスを交わしたか、小鳥の嘴のように口先を突き出して再現して見せる唇からは
艶やかな吐息が零れて落ちる。
宇宙の果てに到達するほどお互いを想い合っていたと愛の熱情を歌い上げるマリスの声が高らかになればなるほど、
空気が悪くなっていくのだが、空気の読めなさで言えばホゥリー以上か、
この即席ミュージカル歌手は刺々しい雰囲気にこれっぽっちも気付いておらず、
それどころか愛の賛美歌は一層の熱を帯びていく。
マリスが唄う愛の賛美歌によって浮気の全てが露見し、いよいよ立場が無いアルフレッドにしてみれば、
いっそ激しく糾弾されたほうが気が楽だ。
立ち直れないくらい殴られたほうが、まだ生きた心地がする。
この拷問を処罰でもって終えられるのであればどんなものでも甘んじて受け入れよう、と。
しかし、周囲はそんな甘えを許さなかった。
フィーナという恋人がありながら、彼女の目が届かない場所で別の恋を結んでいたアルフレッドに浴びせられるのは
冷たい視線ばかりで、誰一人、声に出して問い詰める人間はいない。
ただただ無言で軽蔑の眼差しを向け、アルフレッドが弁解を求める視線を合わそうとすると
瞳を反らして冷たく突き放した。
お前に弁解の余地は無い。フィーナを含む誰もがそう体言し、アルフレッドを全身で拒んだ。
いっそ糾弾されたほうが気が楽になる―――冷徹に突き放される度にアルフレッドは
自分の犯した過ちに身も心も叩きのめされた。
沈黙の軽蔑は何よりも堪えた。
「偶然にベルフェルでアルちゃんらしい人影を見かけたのです。それでタスクに調査を申し付けたのですが、
思いのほか、早い再会となりました。………違いますね。遅すぎました。
二人の間を引き裂いたアカデミーでの運命の別離から、数え切れない夜と朝を経て―――
アルちゃんがわたくしの心に芽吹かせてくれた真っ赤な花は痩せて、枯れて、それでも涙を吸い上げて、
光を受ける日を今か今かと待ち望んでいたのです。優しくも気高い、銀の光を、アルちゃんの愛を」
夢見ごこちといった風情で我が身を掻き抱き、恍惚と語り続けるマリスの独白が
アルフレッドとフィーナの関係を知る全ての者の神経を逆撫でし、
彼らの蔑視の標的にされたアルフレッド本人は生きた心地もしない。
フィーナもフィーナで、マリスがアルフレッドとの愛を語るにつれて元気を無くしていき、
今では顔から生気が失せていた。
本当ならすぐにでも駆けつけて支えてやりたいのに状況がそれを許さない。
マリスの手前ということだけでなく、「お前にフィーナを支える資格などない」という無言の圧力に押さえ込まれたこの状況では、
“兄”として妹を気遣うことさえ許されないのだ。
マリスが何事かを発する度、アルフレッドはあらゆる意味で寿命が縮む思いを味わった。
「妹さんのお話はアカデミー在籍の頃からよく聴いていましたわ。想像した通り、可愛らしい方ですのね。
わたくしたち、きっと仲良くなれますわ、フィーナさん」
「………そうですね、ええ、きっと仲良くなれます………マリス…さん………」
フィーナがアルフレッドの“義妹”と知るなり、馴れ馴れしく彼女の手を取って
「わたくしが未来のお姉さんですのよ」などと言い始めたときには、もう何もかも投げ出したくなっていた。
「もうアルちゃんと一時も離れたくありませんわ。………やっと、やっと巡り逢えたのですもの」
そう言って強引に割り込んできたマリスとそれに従うタスクを迎えた夕食は、
アルフレッドにとって生き地獄そのものだった。
男性陣からの冷たい視線だけでも泣きたいくらいだと言うのに、
ソニエとトリーシャなどはわざとらしくマリスを焚き付けてアルフレッドの精神を更に追い詰める。
「アタシ、アルとは知り合ってばかりで彼のことをよく知らないんですけど、こんな綺麗な人をゲットしちゃうくらいですもん、
女性のエスコートもさぞ素敵でお上手なんでしょうねぇ?」
「私は、カレシがこの子のお兄さん役だったこともあって昔から妹ぐるみで付き合いがあったんだけどさ―――
―――あ、今の妹ってのはフィーじゃなくて、私の妹のことね? ………で、話し戻すとね、
昔からこの子を知ってる身からするとね、もうビックリなのよ。奥手のアルが、まさか、こんな素敵なカノジョをってね。
私ゃ、もう感無量よ。安心して、マリスさん。この子、見た目はぶっきらぼうだけど、
中身は誠実で一途だからさ。一途だからさ。誠実で一途だからさ」
「うふふ♪ 何度も念を押されなくても存じておりましてよ。アルちゃんはわたくしに嘘をついたことさえありませんもの♪」
「うーふーふー、さーすーがー、アールーフーレーッドくーんだー♪」
「………………………胃が………死ぬ………………………」
夕食の席が空々しく賑わえば賑わうほど、アルフレッドの心は疲弊していく。これを生き地獄といわず、何と言うのか。
当たり前だが、夕食の間も、その後も、フィーナはアルフレッドとのコンタクトを一切拒絶し、
弁解を試みようとする彼が近付いた途端、距離を置くか、ソニエかトリーシャの陰に隠れてしまっていた。
よくもこの娘を傷付けたな、と言わんばかりの憤怒の形相でフィーナの前に立ち塞がるソニエとトリーシャが相手では諦めるしかなく、
二人きりで話す時間を設けることも出来ずにいた。
「アルちゃんが行く場所はわたくしもご一緒します。絶対の絶対に離れません」
………フィーナへ近付こうにもマリスが背中に引っ付いたままではどうにもならない。
強烈な目眩をも起こしそうなくらい追い詰められたアルフレッドの精神には、
背中から掛けられる重みは殊更辛辣に食い込んだ。
「………ネイトさんが………どんな結論を出すにしても、ちゃんと話し合って来いって。
ちゃんと話し合わなきゃ、殴ることも慰めることも出来ないからって………」
「………フィー………」
そんなフィーナとコンタクトを取ることが出来たのは、皆が寝静まった深夜を過ぎてからだった。
二人一組で見張りを交代する手筈になっているのだが、
アルフレッドとバディを組むべきネイサンはいつまで経っても自分の寝袋から出てくる気配が無く、
「とうとうネイトにまで見捨てられたか…」と絶望に苛まれながら夜天を仰いだ彼の視界へ
フィーナの顔が飛び込んできたのがその始まりだ。
期せずしてフィーナと二人で話すチャンスを得られたアルフレッドだが、
フィーナが言うにはお膳立てをしてくれたのはネイサンだと言う。
交代時間の間際、女性陣のテントを訪れたネイサンが手引きしてくれたお陰でマリスの乱入を気にせず
二人で話し合うゆとりが生まれたと言うわけだ。
「チャンスだけなら作ってあげられるよ。でも、最後の判断を下すのは当人同士だ。
もし今夜の話し合いが上手く行かないようなら、そのときはアルに一発入れてあげるからさ」
ネイサンはそんなことを言っていたらしいが、アルフレッドにもその気構えはある。
これで修正出来ないようならフィーナと一緒にいる資格は無いのだと彼も決死の覚悟を決めていた。
「正直に答えて。アルはあの人と付き合っていたの?」
「………………………」
「私と付き合いながら、あの人とも付き合っていたの?」
だからこそ、アルフレッドもフィーナの問い掛けることには全て真実で答えなくてはならなかった。
例えそれが口に出すのを憚るものであったとしても、正直に答えることが、
最低の形で裏切ってしまったフィーナに示せる唯一の誠意なのだ。
この期に及んで誠意を欠き、その場しのぎを働こうとするようなら、そんな男は生きている価値も、資格も無い。
………価値も資格も無いと頭では理解しているものの、いざ口に出そうとすると、
これまでの人生の中で感じたことの無い嫌な汗が背筋を這いずり、アルフレッドは思わず吐き気を催した。
「………………………そうだ」
だが、決して退くわけには行かない。直接口に出せば互いの傷を更に深く抉ることも解っていたが、
誠意だけがフィーナと話すのを許すただ一つのチケットなのだ。
―――フィーナと、もう一度向き合いたい。
その一心で絞り出した声は、自分でも驚くほど嗄れていた。嗄れて、………自分に対する虚しさと憤りに満ちていた。
「………………………」
「お前がグリーニャで待っているにも関わらず、俺はアカデミーであいつと………マリスと関係を持った」
「そう言う言い方しないで」
「………すまない………」
無言、無言、無言………恨めしいくらい満天の星空の下で二人の間に重苦しい沈黙が訪れる。
アルフレッドは彼女との会話を再開する糸口を模索し、対するフィーナは彼の誠意と想いを受け入れたいと願う半面、
心の真ん中に根差した蟠りがぎりぎりの一線で拒絶する………本当に―――本当に重苦しい沈黙だった。
「―――言い訳に聴こえるかも知れないが………いや、言い訳でしかないが………聴いてくれるか?」
無言のまま頷くフィーナの哀しげな瞳を見ているだけでアルフレッドは耐えられないほどの痛みと辛さを味わうが、
彼女の気持ちを踏み躙った以上、全てを打ち明けることが真に誠意を尽くすということである。
逃げずに全てを打ち明けようとアルフレッドは怯える心に自ら喝を入れて奮い立たせた。
「さっきも話した通り、あいつと知り合ったのはアカデミーだ。所属する学部は違ったが、合同演習で知り合った」
あれは、そう―――マーシャルアーツの訓練に入るか入らないかというときだった。
アカデミーにはいくつもの学科がある。軍事行動の体得を専門とする、俺が所属した学科以外にも
直接戦闘に関わらず負傷者の看護を行なう衛生兵や軍用兵器を対象としたメカニックなど、
そこに通う人間の数だけ学科があった。
………マリスは、衛生兵を養育する学科に所属していた。
俺たちの学科とはコースも方向性も違ったから、普段の講習で一緒になることは皆無だったんだ。
だが、全てのコースが異なるカリキュラムを組んでいるわけじゃない。
基本プログラムとして組まれた演習を複数の学科合同でこなすことも少なからずあった。
………合同演習の一環であるマーシャルアーツのトレーニングで、俺はあいつと出逢った。
「あいつは病弱で………演習のときも貧血を起こして途中でリタイア。たまたま近くにいた俺が助けたんだ」
マーシャルアーツ―――分かり易く言うと軍隊式の格闘術のことだ。
前線に出て敵に迫撃する機会の少ない衛生兵とは言え、投入されるのは紛れもない戦場だからな。
自分の命を自分で守れるレベルの護身術は誰もが体得しなければならなかった………俺たちが通っていたのは
軍学校だ。アカデミーなんて洒落が利いた名前だがな。
よりにもよってマリスは模擬戦に入る前のウォーミングアップの段階で貧血を起こして卒倒した。
同じチームに属していた俺は、偶然、あいつがぶっ倒れる場面に出くわしてな。
驚いたよ。軍属の人間として最低限の体力を備えているものとばかり思っていたら、
準備運動後に卒倒してしまったんだ。
介抱してはやったが、内心、こんな体たらくで卒業出来るものかと呆れ果てていたよ。
「座学も実習も休んでばかりで友人もロクにいなかったあいつは、担がれている間、ずっと俺の袖を握り締めて、
震えていて………なんと言うか………放ってはおけなかった」
そのチームにはマリスと同じ学科の生徒も何人か属していたが、
………あまり良い話じゃないが、あいつは同級生に疎ましがられていた。
知識と学力はともかく、軍人志望としては決定的に体力が不足していて、それまでにも実習で
同チームの生徒の足を引っ張っていたそうだ。………後から聴いた話だがな、これは。
つまり、マーシャルアーツの演習で初めてぶっ倒れたのではなく、前科が山ほどあったわけだ。
「俺が見放したら、死んでしまうんじゃないかって………」
初めて覗き込んだあいつの顔は、網膜に焼き付くほど真っ白で、寒気が走るほど病的で―――
―――縋るように見つめてくるランプブラックの瞳から、俺は目を離せなくなっていた。
黒目がこぼれそうな、大きな大きなランプブラックの瞳からは、どうしても………。
「それから、今にも消えそうなあいつの顔が妙に気になってしまって、見舞いに通って………俺も友人が
多いほうじゃなかったから、話し相手が欲しかったのかもしれないな」
………特に俺はツテでアカデミーに潜り込んだ身分だしな。
他の学生のように厳しいテストをパスせず、形だけの面接で入学資格を得たんじゃ、
やっかみの的になるのも必定だ。
境遇は違うけど、“弾かれ者”って点では、俺とマリスは似た者同士。
居心地の悪いアカデミーで、俺は、共感を得られるヤツを求めていたんだよ、きっと―――――――――
「悪い気はしなかったよ。頼りにしてもらえるのは素直に嬉しかったし、マリスと話しているときは心が癒された。
アカデミーって名前は付いてるけど、中身は士官学校だ。和気藹々と言うよりは殺伐としていたからな」
「………アル、今、自分で地雷踏んだのわかったでしょ?」
「地雷? ………いや、何を差しているのか、俺には………」
「あの人と話しているときは癒されたって言ったよね。………私と手紙や電話でやり取りするのは
アルにとって何の骨休めにもならなかったのかな?」
「そんなわけないだろ、俺は………ッ」
「言い方には気をつけて。………今のは結構キツかったよ」
「………悪い………本当に………」
モバイルを使ったメールにせよ、彼女がペンを執ってしたためた手紙にせよ、互いの息遣いを感じられる電話にせよ、
フィーナはいつでも一生懸命に自分やグリーニャの近況を語り、
アルフレッドがアカデミーでどんな生活を送っているのかを訊ねていた。
本音を押し隠して寂しいとは一度も言わず、いつだって彼を全力で励ましていた。
弱音を吐かずに支えることが彼女なりの精一杯だったのだが、彼の不用意な言葉はそうした想いを踏みにじるもので、
失言を指摘された途端にアルフレッドの顔が真っ青になる。
「………………………」
「………………………」
「………それから………」
「………うん」
「それから程無くして、あいつから正式に付き合って欲しいと言われたんだ」
「………そのとき、どうして言えなかったの? 『俺には付き合っている人がいる』って。
そこではっきりと言ってくれれば、私もアルも、今、こんな風に悲しい気持ちにならずに済んだでしょ?」
「………………………」
「………そこで黙っちゃうのは卑怯だよ、アル。ちゃんと理由を話して………私の目を見て、ちゃんと………」
避けられることなら避けたかった最も痛烈な指摘を真正面から突きつけられ、
思わず瞳を反らしてしまったアルフレッドをフィーナは初めて咎めた。この期に及んで逃げないで欲しいと険しい瞳で責めた。
それは、裏切りが発覚して以来、フィーナから初めて向けられた糾弾だった。
「………………………………………………」
再びの無言、無言、無言………だが、今度は先ほどと立場が入れ代わっていた。
彼が誠意を尽くして真実を打ち明けてくれることをフィーナは待ち侘び、アルフレッドは口を噤んだまま、
告げるべきか告げざるべきかを迷っている様子だ。
いつまで経っても二の句を継がないアルフレッドを訝ったフィーナが不安げに彼の顔を覗き込むと、
そこにあったのは、適当な言葉でその場を凌ごうと企む不誠実な能面ではなく、
彼女が想像した以上に深刻な表情(かお)。
浮気の事実を認めることに葛藤している情けないものとも異なる深い苦渋を浮かべ、
かすかに肩を震わせるアルフレッドが動転した視線を地面へ落としたまま硬直していた。
「ア、アル………?」
「………………………」
額に脂汗まで滲ませるアルフレッドは、まるで末期の癌に冒された患者へ
命の期限を宣告せんとする医師のような深刻さを全身から漂わせており、
呻いて丸めた背中にはフィーナが目を見張るほどの緊迫感を宿していた。
「………告白と同時に知ってしまったから―――」
「何を?」
「―――あいつが不治の遺伝病に罹っていると」
「――――――ッ!?」
マリスは、不治の遺伝病に罹っている。アルフレッドは告白への返答の前にそう絞り出した。
原因はわからないが、肉体を構成する遺伝子に致命的な欠陥が生じた為、
『ネクローシスの染色的増幅』―――つまり、細胞の壊死が全身に回ってしまうという奇病をマリスが発症していると、
今にも消え入りそうな擦れた声でアルフレッドは告げた。
人の命の期限に関わる問題を口に出すことをアルフレッドは極限まで躊躇っていたのだ。
フィーナに対して誠意ある対応を示す為に人の―――マリスの病気を持ち出すことは、
果たして倫理に適うものなのか、と。
「余命幾ばくも無いと宣告されていたんだ、そのとき。死を迎えるまでの間だけでいいから、
誰よりも傍にいて欲しい、支えになって欲しいと乞われて………だから、俺は―――
少しでもあいつの気持ちが楽になればと思って、それで―――交際を受け入れた」
「………………………」
全身の遺伝子という遺伝子へ波及するネクローシスを治療する術はなく、
マリスに待つのは悪性の腫瘍を遥かに超えた痛みを伴う残酷な最期ただ一つ。
発狂してもおかしくないような無慈悲な運命に臨まなくてはならないマリスがあまりにも憐れで、あまりにも切なくて、
せめて最期の瞬間だけでも安楽のうちに迎えさせてやりたい………その瞬間まで支えてやりたいと思い、
フィーナの想いやみんなの信頼を踏み躙ることを覚悟した上でマリスの告白を受け入れた。
男として、人間として、最低最悪の不義を犯すに至った経緯をアルフレッドは包み隠さず明らかにした。
押し黙りながらアルフレッドの言葉を聴いていたフィーナだが、
やはり裏切られた瞬間を耳にするのは胸を貫かれるのと同等の痛みを伴うらしく、
「交際を受け入れた」と告げられた直後、一瞬、肩を大きく震わせた。
また傷付けた。また悲しみを与えてしまった。
何度目とも数え切れない激しい悔恨が絶えずアルフレッドを責めているが、
フィーナのこの痛ましい姿が彼には最も堪えた。
と同時に、自分を一途に想ってくれていたフィーナの愛情を裏切り、
あまつさえ出発に際して父と交わした「何があってもフィーナを守る」という約束をも破っていることに気付いてしまい、
絶望と懊悩は更に深度を増す。
愛する人々に対しても、自分自身に対しても逼迫する残酷な悲しみで、
アルフレッドの心臓は握り潰されそうだった。
「………で、でも、待ってよ―――あの人、すごく元気じゃない。末期の病気を患ってる風には見えないよ」
「………ああ………だから俺も混乱してるんだよ」
アルフレッドがマリスとの再会に驚愕し、言葉を失った最大の理由は、
フィーナの目を盗んだアカデミーでの浮気が露見することを恐れたからではない。
便宜的にネクローシスの染色的増幅と名付けられた不治の奇病を発症し、
余命幾ばくも無い状態と知ったからこそ最期の支えになろうと意を決したと言うのに、
再会したマリスは血色優良で溌剌。
オペラ歌手のように声高に愛を歌い上げ、ミュージカル俳優のようにアルフレッドとの想い出を舞い踊って見せた。
とてもとても死神の影に怯えていた人間とは思えない変貌だ。
アカデミーを出てから数年が経過しているのだから、その間に不治の奇病が完治したとの仮説が立てられなくも無いが、
最後に顔を合わせたとき、マリスはまさに臨終を迎える間際だったのだ。
『今日でお別れするのは―――とても―――寂しいのですけど―――わたくしは―――運命を呪っては―――
―――いません―――アルちゃんと―――出逢えた―――出逢えて―――過ごせた人生は―――
―――とても素敵で―――美しかったです―――わたくしは―――幸せでした―――貴方に―――逢えて―――』
生気が抜け落ち、冷たくなっていく指をアルフレッドのそれに絡めながら、
これまでの人生を幸福という一言で締め括ろうとしていたマリスの儚げな声も、苦しげな吐息も、
………絡められた指先が熱を失っていく感触も未だにアルフレッドの記憶に生々しくこびり付いていた。
その記憶がアルフレッドの胸に言い知れぬざわめきを起こし、思考回路に無限の疑問符を散りばめる。
永遠の別れを迎える最期の瞬間に立ち会ったマリスが、どうして今もまだ生を謳歌しているのか?
骨と皮だけに痩せ細り、重度の廃用症候群によって動かすことすら出来ずにいた腕を、足を、
勢いよく上下させ、喉が嗄れるほどに熱情の喜びを唄えているのか?
全てがアルフレッドには不可解だった。
生きて存えてくれた事実は当然喜ぶべき僥倖なのだが、死が生に転じた理由がスッポリと抜け落ちてしまっている以上、
九死の危地より拾った一生とは言え、諸手を上げて受け入れることは出来ない。
諸手を上げて受け入れるには、マリスの生は不明瞭な陰が多過ぎた。
(別離………いや、待て………俺、あいつと最後に会ったのはいつだった?)
臨終の間際に立ち会ったのは事実だが、そこから先の出来事が全く記憶に無い。
懸命に記憶の糸を手繰ろうにも、臨終間際の途中からセピア色の回想が薄ぼんやりと白み始め、
最後には上映を終えたスクリーンのように何も映し出さなくなってしまうのだ。
追想の映写を思い描こうにも、記憶というフィルム自体が途切れてしまっていては、
いつまで経ってもスクリーンは真っ白なままである。
自分で管理しているはずの記憶が混濁し、白濁し、やがて揉み消されてしまうのは、
あの日、マリスを失ったショックが起こしたものなのか、それとも―――
「それに………」
「それに?」
「………こんな話、荒唐無稽かも知れないが―――」
自分の脳に記憶障害が起きたかどうかを細かく詮議している余裕など無かった。
不可避の死が何の脈絡も無く生に転じるという不可解以外にも、マリスに掛ける疑念が鎌首を擡げていた。
臨終の間際に絡められた指先は、再会した現在と比較してかなり幼く、成長期を終えていないあどけなさを残していた。
別離から数年を経過しているのだ。成長する生き物である人間の指先が変貌を遂げているのは、
本来、全く自然な現象のはずなのだが、マリスの場合は過去の虚像と現在の実像との間に開いた差が異常なのだ。
人よりも発育が遅いと嘆いていた童顔は今では妖艶さを漂わすようになり、
服装によってはエレメンタリーに間違われることもあった小さな身体は、すっかり伸びきっていた。
たった二、三年の内にこうも見違えるものなのか。“大人びた”という一言では済まないほどの不可解な急成長を
人間は遂げられるものなのか。
細胞を冒すネクローシスの染色的増幅を罹病していた事情と照らし合わせれば、
その疑念はより一層深まり、アルフレッドにはとても合点が行かない。
年齢的には同い年であるはずのフィーナと並べれば一目瞭然。同世代の少女が持つような若々しさは無く、
落ち着き払った容姿は老成さえ感じさせた。
………恥ずかしげもなく愛を唄ってしまえるような若い(そしてややイタい)頭の中身は、
外見とは関係無いのでこの際、置いておくこととする。
「話せば話すほど嘘臭くなるよな………言い訳なんてそんなもんか」
「普通の人なら、きっと信じないだろうね」
「………………………」
「そこで黙り込まれると私もキツいんだけどな―――私たちは“普通”の関係じゃないって信じてたのに………」
「え………」
死が生に一転した疑念、不可解な急成長への疑念を併せて打ち明けたアルフレッドは、
自分で話した内容のあまりの滑稽さに苦笑いを浮かべ、理解しては貰えないと諦めていた。
サイエンスフィクションもビックリな、下手糞にも程がある作り話めいた内容など、自分でも信じられないくらいだ。
「意味不明な羅列で私を煙に巻こうとしているだけでしょう」と罵られ、卑怯者と後ろ指をさされ、
捨てられる自分の姿まで想像していた。
「私とアルは一体、何なの?」
「何って言われても………」
「幼馴染み? それとも義理の兄妹?」
「―――恋人だ。………お前を裏切った俺にそんな資格があるとは思えないが………俺は今でもお前のことを―――」
「でしょ? 私とアルはずっと小さい頃からお互いのことを知ってる恋人でしょ?」
―――けれど、フィーナは違った。
小刻みに震えるアルフレッドの手を握り、彼の瞳を真っ直ぐに見詰めるフィーナからは荒唐無稽な話を嘲る軽蔑も、
猜疑心の欠片も感じられなかった。
「アルの言葉が嘘なのか、本当なのか、私にはわかるよ」
「フィー………」
“アルの話していることが嘘なのか、本当なのか、すぐにわかる”―――いつだってフィーナは断言していた。
いつだって、どんなときだって、フィーナはアルフレッドの心に在る真実を見つめていた。
「………とりあえずさ、私たちの関係は彼女には伏せておこうよ」
「マリスに?」
「………その人と、あとお付きのメイドさんにも。あの人、アルにべったりっぽいし、
変に波風立てたら、きっとややこしいことになるから」
「だが、それじゃお前に苦しい思いをさせることになる。それだけは俺は―――」
「今ここであの人に『お前とはもう付き合えない』って言ったら、あの人はもっと苦しい思いをすることになるよ」
「―――ッ! ………………」
マリスよりもフィーナの気持ちを優先させようとしたアルフレッドだが、
そうやって序列を付ける考え方自体が卑劣で、卑怯で、最悪なのだとフィーナの怒りを孕んだ瞳によって気付き、
見下げ果てた自分の浅はかさに頭を抱えそうになる。
序列を付けようとする考え方は、フィーナの気持ちを尊重する為でなく、立場の悪い自己の保身でしかない。
一瞬でも自己保身を模索してしまった自分をアルフレッドはたまらなく嫌になった。
「………いつか、折を見て話してくれるんだよね? 私たちが付き合っているってこと」
「それは約束する。俺の一番が誰なのか、必ずマリスに伝える。………でも、どうせ伝えるのだから、
今告げても、先延ばしにしても同じだろう? だったら俺は………ッ」
「………いつも乙女心を勉強してって言ってるでしょ、アル」
「………………………」
「焦らないで。私はいつまでも待つから、そのときが来るまで」
「………………許して………くれるのか?」
「許すわけないでしょう」
「………………………」
三人にとって最良の機会が訪れ、アルフレッドが真実を打ち明けられるまで待つと約束してくれるフィーナだが、
だからと言って彼の犯した裏切りを許すつもりは無い。
当たり前だ。事情はどうであれ、アルフレッドがフィーナの気持ちを裏切り、踏み躙ったことに変わりは無く、
その重罪は誠意を見せた程度で許されてはならない。決して許されない。
これまでフィーナはムルグやシェインのどんないたずらも許してきたし、敵対関係にある悪党相手にも涙を流してきた。
純粋で、無垢で、無限の優しさと包容力、全てを許してしまえるような深い慈愛と広い博愛を兼ね備えたフィーナが、
天使のような少女が、アルフレッドの哀願にも似た問いかけをたったの一言で跳ねつけたのだ。
いかなる慈愛と博愛をもってしても、無限の優しさをもってしても、アルフレッドの犯した裏切りは許せない、と。
「アルは自分が許されると思ってる? 女の子の気持ちを同情混じりで受け止めておいて、
自分には何の罪も無いって言い切れるの? 自分がしたことは正しかったって胸を張って言える?」
「違う、俺が言ってるのはお前の―――」
「私が怒ってるのは、私を裏切ったことじゃない。あの人の気持ちを一番卑怯な形で踏み躙ったことだよ」
「………………………」
「全部に決着がつくまで、私はアルを許してあげない。………でも―――信じてる」
贖罪の路を進み抜けるまでは何があっても許されない罪だけど、
太陽のような笑顔を見つめる権利さえ本来なら与えられない過酷な罰を課せられたアルフレッドだけど、
それでもフィーナは彼を信じようとする。
共に育った幼馴染みで、血の繋がりは無いけれど兄妹同士で、そして、最愛の恋人で―――
互いに惜しみない愛を示してきたこれまでの軌跡に輝く永遠を信じて疑わないから。
慈愛と博愛をもってしても罪人に許しを与えることは出来ない。特赦の代わりに与えられるのは、救いだ。
長く険しい路になろうとも、これまで育んできた想いが枯れることはなく、絆はこれからも続いていく。
二人で種を撒き、水を与えて、大輪に咲かせた花が胸にある限り、永遠は決して閉ざされない。
辛い道程を二人で歩こう。フィーナはアルフレッドに口付けることでそう誓いを立てた。
贖いの日々へ心を窶れさす罪人が受けるには、それは幸せな………幸せが過ぎる救いで―――
アルフレッドは堪えきれずに涙を零した。
頬を伝う幾筋もの雫は、心に焼き付くくらい熱かった。灼けて、痛かった。
「………頑張ろうね」
「………すまない―――――――――ありがとう………」
そのときになってアルフレッドは自分が裏切り行為に対して一度も謝罪していなかったことを想い出し、
一番大切なことを一番後回しにしてしまった自分の愚鈍さを悔い、
嘆きと謝罪の口付けをフィーナに落とした。
*
アルフレッドとフィーナが不可避の約束を結んでいる頃、キャンプ地へ張られたテントの中では
シンとした静寂を譜面に寝息が小夜曲を奏でるばかり。
男性用と女性用に分けられてはいるものの、眠れる者の小夜曲は両方のテントをステージとして催されていた。
何しろ現在は草木も眠る深夜。
信頼の置ける仲間が二人がかり――片割れの信頼度はガタ落ちしているが――で夜警を凝らしてくれている安心感もあり、
皆、心置きなく身体を休めていた。
「………マリス・ヘイフリック………タスク・ロッテンマイヤー………」
休符一つも乱れぬ小夜曲に無粋にも乱入したのは、
こういう場合、誰よりも早く寝付いて高イビキを上げるはずのホゥリーだ。
あどけない顔を緩ませて安眠するシェインの隣で毛布に包まれたホゥリーは、
皆が小夜曲を奏でているにも関わらず、一人だけその旋律には乗らずに天井をじっと睨んでいる。
こんなときまで協調性を欠く男…だが、今宵は普段とはいささか異なる様子である。
天井の中心へ焦点を絞り込み、射抜かんばかりに睨み据える眼光からはいつもの気だるさが掻き消え、
およそ昼間の彼とは無縁だろう冷酷さを帯び、殆ど別人格に摩り替わってしまったかのような変わり身だった。
いつもならスナック菓子を頬張りながら、だらしなく開け広げている大口も、きつく、厳めしく締められている。
時折漏れるのは、鈍色の猜疑と謎に満ちた呟きのみであった。
「………なんでアイツらが―――いや、アイツがリブっていやがるんだ………。
マリス・ヘイフリックはあのとき確かに――――――」
その名を出す度、ホゥリーは眉間へ緊張と驚愕の皺を寄せて独り低く呻いている。
“余人が知らないこと”を知っている素振りを垣間見せ、
あまつさえ知識をひけらかして他者を無知だとからかうような性悪なのだが、
自らの裡に湧いたこの疑念を解き明かす術は、どうやら持ち合わせてはいなかったようだ。
(確かにあのときに“終わっていた”―――大正解だよ、ホゥリーさん。彼女も、あなたも、全てが終わって―――)
………もう一つ、ホゥリーにも関知し得ないことがあった。
ホゥリーから漏れた意味不明な呟きに反応して、ネイサンの口元が微かに吊り上がり、
一際細められた眦には例えようのない奇怪な妖光が宿っていた。
その不気味な胎動にホゥリーは全く感付いてはいなかった。
二つの謎とその意味を、いずれ誰もが知ることになるのだが、そのときに待ち受ける衝撃など知る由もない。
今はただ小夜曲を奏でて束の間の安息を享受していた。
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