2.ゼラール閣下


 アルフレッドの悩みが解決されぬままに、K・kが有する船は佐志へと寄港した。

「うわ、きれいな所。本当にこんな所で戦争が起こっているなんて信じられないくらい」

無邪気に笑顔を見せるフィーナの言葉もあながち外れてはいない。
この佐志は大洋に位置している小島で、海運の要所でもあって船の行き来が多い土地なのだが、
近代的な建物などはどこにもなく多くの民家が連なっているだけで、風景が容易に見渡せる。
木々が生い茂る森林もあり、草がどこまでも続いているような平原もある。
どこか懐かしさを覚える古めかしい街並みと自然の調和した姿は何とも美しく、
ルナゲイトが散策を目的とした観光地として開発しようというのもうなずける場所だった。
ともするとここが危険地帯であることを忘れさせるくらいにのどかな風景が広がっているのだが、
しかしよくよく周囲を見回せば、所々に草や木が焼けたようであろう黒焦げの場所があったり、
廃棄された銃器や折れた槍や剣、無数に穴の開いた革鎧などがあちこちに転がっていたり、
わずかに残った赤い色が染みついた地面が見受けられたりと、
間違いなくこの場所が戦場であることがこれらの物から簡単に理解できた。

このような島の様子を遠目にしながら、アルフレッドたちは村の中心部へと足を向ける。
K・kの指示があるまでは各自待機ということで、まずは情報収集だと
アルフレッドは佐志の村で村民たちからの話を聞き、おおよその戦況を掴もうとしていた。

村人たちからの情報によれば――

西方のなだらかな丘陵地帯に本陣を構えているのが、兄であるエルンストの軍勢二万。
海を背にして東に位置するは、既に戦死したエルンストの弟の遺臣であるザムシードが率いる軍勢一万と八千。
前年、テムグ・テングリの先代首領が病没し、彼が正式な後継者を定めなかったのが争いの原因。
先代には優秀な兄弟が二人いて、それ故に父も後継を決めかねていたわけであるが、
そういう場合に巨大な組織で起こりがちになるのが、それぞれの派閥が後継者を擁立しあっての権力争い。
そこから端を発するこのテムグ・テングリの内紛、権力闘争は、
いつしか勢力を真っ二つに割った武器を使う争いへと様相を変化させていた。
 テムグ・テングリの本拠地をハンガイ・オルスというのだが、まずはそこで両軍が激突し、以降、長きに亘って戦は続いていく。
 なにしろテムグ・テングリが手中に収めた領土は広大である。その中で兄弟それぞれの派閥に分裂するのであるから、
争乱の長期化は必然と言えよう。
 混乱に乗じてテムグ・テングリからの独立を画策する者や、兄弟をまとめて始末し、自らが盟主にならんとする反乱分子も出始め、
兄弟間の権力闘争に端を発した戦は、新たな局面へと移っていった。

 先代首領は、いわばカリスマであった。
 強烈なリーダーシップによって頂点に立つカリスマを失ったが為に組織がバラバラになるのは、
それこそどこにでも転がっている話である。
 カリスマの子息たちにとって、この戦は、首領としての器を占う試金石でもあったのだ。
狼の群れを統べるだけの器量を示すことが出来ねば、戦いに勝利したところで反乱分子に飲み込まれる運命なのである。

 弟の側は旧来よりテムグ・テングリ群狼領を支えてきた氏族を支持の基盤としており、
開戦当初は弟優勢に進むものとの下馬評が立った。
 しかし、エルンストの反転攻勢は早く、彼は調略をもって弟の支持基盤を切り崩していった。
 こうなると戦の勢いはエルンストが掴んだようなものである。敗戦を重ねながらも抗戦の姿勢を崩さずにいた弟の軍であるが、
最前線で指揮を振るっていた総大将が、弟本人が戦死したことで大勢は決した。
 領内を騒がせていた反乱分子の鎮撫にも成功し、エルンストはテムグ・テングリの実権を握るに至ったのである。

 混乱の中、敗軍はザムシードを指導者に据えて、仇を取らんと徹底的な抗戦体制に入った。
しかし、緒戦の勢いを駆ったエルンスト軍に対抗しきれず、散発的な合戦が幾度か繰り返される中で、
ザムシードの軍はその都度退却を余儀なくされる。
それでも、撤退の途中で支配地域から兵を徴収したために充分な兵力はあった。
そこでザムシード軍は最後の策ともいえるべき行動に移る。
大陸から海峡を隔てた佐志に全兵力を集中させてエルンスト軍を誘い込むとともに、
自軍は背水の陣を敷いて一か八か、乾坤一擲の合戦をしかけようというわけだ。
 
 退却を重ねる軍勢は、どういう具合か歴史的に見て大河や海の近くに陣を構える、
というような記述をアルフレッドは何かの本で読んだ気がしたが、それはともかく。
東軍(ザムシード軍)はこの戦いに全てを賭けんとその士気は天を突き、
西軍(エルンスト軍)もこのまま余勢を維持しテムグ・テングリを統一せんと、空を裂かん士気である。
両軍の戦いの跡は見ての通りあちらこちらに残っているものの、
最前線では小規模な先鋒部隊間での小競り合いが始まっている程度ということであった。
しかし、全軍を挙げての激突までにはまだ至っていないにせよ、
それがいつ起きたとしても決しておかしくない様子であり、佐志の村人も緊張感に包まれていた。

「思っていた以上に張りつめた、緊迫した状況だな。
『世界一の危険地帯』と呼ばれているのも納得というところか、なんて呑気な事を言っている場合でもないな。
このまま全軍がぶつかり合うような事があったら、どれだけの被害が出るだろうか……
合戦の巻き添えになってしまえば、ここの村なんて一たまりも無いだろう」

状況を知るにつれて更に顔が曇るアルフレッド。
やはりこのような場所に来るべきではなかったのかとも思いながら歯噛みをする。
しかしこの島から抜け出そうにもその手段が無い。
港から船を奪取して脱出する方法も考えたが、K・kの船以外は今港にあるのは手漕ぎの船だけなのだから、
これではどうしたって海を超えるなんてことはできそうにも無い。
そうなると、なんとか佐志に留まりながら自分たちの身の安全を図るしかないわけだ。
 佐志に来るまでは余計な不安を与えないようにとフィーナたちには事の真相を話していなかったわけだったが、
これほどまでに差し迫った状況下におかれていると理解してしまうと、隠しておくのはむしろ危険に思えた。
だから、その辺りののっぴきならない現状を認識させるためにと、
アルフレッドは宿で休憩していたフィーナに事の次第を細かに伝えた。
すると彼女はそれを聞くや否や、意を決したように外へと飛び出そうとする。突然の事に驚きつつ、

「っておい、何をする気だ、フィー?」

とだけ声をかけたのだが、フィーナはアルフレッドの言葉は耳に入れていられないというような感じである。
彼女はここで休んでなどいられないといった様子で、引き留めようとしたアルフレッドすら、
本当は構っている暇など無いのだとでも言いたげな目つきで、

「どうしてもっと早く言ってくれなかったの? 
軍隊が激突したら大変だ、だなんてそんなのんきな事を言っている場合じゃないでしょ。
だって、そんな危ないことが起こるかもしれないのに。 
少しでも早く、村の人たちに安全なところに避難してもらわないと!」

と一目散に駆け出しながら答えた。あまりの素早い動きにアルフレッドは止めに入ることができず、
もしかしたらこういう反応を示すのかもしれないとは想像していたが、
しかしそれ以上の反応についつい驚き、彼女を追うのを忘れてしまうくらいだった。
アルフレッドはただ、フィーナの髪が激しくたなびく後姿を見ていることしか出来なかった。

転げるように外に出たフィーナは、誰でも彼でもといった感じで目に入った村人に駆け寄って、即座に話しかける。

「あの、テムグ・テングリが今にも戦いを始めようっていうのに、ここにいたら危ないんじゃ。
もし軍隊が攻めてきたらこの村だってどうなるか分からないじゃないですか。
だから、少しでも早くここから非難するべきだと思うんですけど」

フィーナはあちらの村人に話したらこちらの村人、といった具合に会う人会う人にこのような事を言って回る。
一刻も早くテムグ・テングリのもたらす戦火から逃れるために、この村から退去するべきだと力説した。
だがしかし、彼女がいくら言っても、村人たちは渋い顔をするばかり。

「そんな事を仰られてもの。ワシらはこの村を大事にしているし、誰がどうしようったって屈するつもりは無いわい」
「そうそう、そりゃあできない相談だ。こっから逃げ出すなんてえのは、
ここに眠っているご先祖さんたちを見捨てることになるわけよ。そんな不孝はできやしねえなあ」
「だでなあ、源さんの言う通りだ。この佐志の民はそのくらいのことで故郷を捨てるようなことは出来ん。
たとえ村が踏みにじられるような事があったってだ」

フィーナは外で見かけた村人たちに片っ端からあたってみたのだが、
結局彼女の思いとは裏腹に、愛郷心や独立意識の強い佐志の村人は、
今後合戦が始まってどのような事に村がみまわれようとも、自分たちの身が危険にさらされようとも、
テムグ・テングリにどうされようとも、村を離れるという選択肢をとることは断じてないのだという気概を見せ、
彼女の言葉に耳を貸そうという者は誰一人としていなかった。
むしろ村人の中でも血の気の多い者などは、
「テムグ・テングリだか何だか知らねえが、この村に攻め込んでくるっていうなら返り討ちにしてやるよ」
などと鼻息も荒くいきり立っているありさまだった。
それでもフィーナが諦めきれずに、なおも粘り強く村人の説得を続けようとしていた時である。
村にテムグ・テングリの西軍からの使者が馬を走らせて訪れる。
当面の脅威であり、この村をも蹂躙するかもしれないというテムグ・テングリではあるが、
自分たちの気概を示すためか、それともテムグ・テングリなどは気にも留めていないのだとアピールするためか、
佐志の村人たちは使者を無下に追い出そうとはしなかった。
話だけでも聞いてやろうではないかという態度で、彼らを代表して村長が応対する。
しかし、そんな村民たちの意志などは全く関係の無いものだとでも言わんばかりに高圧的な態度で、
使者は村に対しての通告を事務的に始める。
折り畳んでいた村人宛ての手紙を出し、仰々しく開いては文面を高らかに読み上げた。

 曰く、この戦いはテムグ・テングリの正当な後継者であるエルンスト・ドルジ・パラッシュの軍勢と、
彼の弟を傀儡として祭り上げて、勢力を私せんと目論んだ東軍との戦いである。
 つまりは賊は東軍であり、大義も道義も正義も全て西軍の側にある。
 この戦に際して、村人たちがどちらに与するべきかは一目瞭然ではあるが、
念のために警告しておくと、仮にこの村がどのような形であれ東軍への援助や協力となる行ないをしたならば、
その時には一切の慈悲も容赦無く、この村を徹底的に責め滅ぼす、と。

少なくともこの文書の文言がはったりの類ではない事だけは誰もが分かっていた。
音に聞こえた武装集団テムグ・テングリ群狼領といえば、
エンディニオン随一と評される徹底的に鍛え上げられた兵員によって構成されている。
さらには、主力となる騎兵を効果的に用いての、風のごとき速攻戦術と、
津波が押し寄せるように、末端まで命令の行き届いた集団で攻めたてて、目標を叩き潰すという戦法を得意とする。
この凄まじいまでの物量と、鍛錬された兵士、それに電撃戦、包囲戦、殲滅戦、等々の
あらゆる戦いを得意とすることはよく知られており、ほぼエンディニオン全域でその軍事力は恐れられている。
もしもここの村人が敵対すれば、彼らの抵抗などは歯牙にもかけず、
たちどころに責め滅ぼすなどは容易い事なのだというのは想像に難くない。
しかし、それでも佐志のあらゆるものを大事に思う村の人々は、
たとえ相手がテムグ・テングリであろうとも、通告を受け入れて平伏し、唯々諾々と従おうなどとはしなかった。
このまま西軍の告知通りにおとなしく従属するにしても、相手が相手だ。
水面に波紋が広がっていくように勢力圏を広げ続けるテムグ・テングリは、
いずれはこの佐志も数多くの村と同じように併呑し、支配下においてしまう腹づもりであろう。
愛郷心に満ちた彼らがそのような事を認めるわけも無かった。

「我々はかくのごとき申し出など、承服致しかねますな」
「それはつまり、このテムグ・テングリを敵に回すというつもりか?」
「そのような意味ではございませぬが、
我々はどこの支配も受けずに独立を貫くという確固たる信念を持っております。
ですので、そちら側にも東軍側にも加勢はいたしませぬ。
我らは我らが思うがまま望むがままに、中立の立場を取らさせていただくだけでございます」
「うぬ、何たる暴言。素直にこちらの言うとおりにしていれば良いものを。
いずれこの場所は戦場になるだろう。その時になって後悔しても手遅れだ」

声を張り上げる使者と、頑として受け入れない村長。
二人が言葉を交わす中で、村長の意見に賛同する村人が次々に集まりだし、使者を取り囲んで口々に怒声を上げ始めた。
徐々に村の騒ぎが大きくなる中で、宿の中にいたアルフレッドもこの音を聞きつけ、何事かと外へ出でて様子を窺う。
彼が村人たちの終結している場所に辿り着くころには、
既に村側とテムグ・テングリ側との交渉(というよりはテムグ・テングリの一方的な通達ではあるが)
が決裂した後であり、血気にはやる村人たちが、
使者を村の外へと追い出そうと殺気混じりの怒号や罵声を発しているところだった。

この村をどうするのかは上の判断と状況次第、自分たちの意思は伝えたと、
当初の目的を(形式的には)果たした使者たちが村から出て行こうとする途中であり、
そこに偶然アルフレッドは鉢合わせたのである。
誰も彼もが勇猛果敢で知られるテムグ・テングリの人間らしい無骨な顔立ちだな、
とアルフレッドは場違いにもそのような印象を持った中、突如として、

「久しいな、アルフレッド・S・ライアン! よもやこのような場所で出会おうとはついぞ思わなんだぞ」

と使者の一団の中から、何者かに自分のフルネームを呼ばれたのを認識した。

(テムグ・テングリなどに俺の名を、しかもフルネームを知るような人間などはいるはずも無いが、だが確かに今――)

一瞬の思考の後に、ふと眼前に姿を現した人物を見ると、
アルフレッドは本日一番の驚きのあまりに口が開くも声が出せない状態に陥ってしまった。

(まさかこいつと再会するとは。しかもこんな場所で。ここのところこういう事が多いな。何かの前触れだろうか?)

声の主の姿を目にしたまま、その衝撃にしばし固まったままであったアルフレッド。
そんな彼にパープルの髪をゆらしながら向かってきた声の主は、挨拶代わりであろうか、
アルフレッドの頭を拳で軽く小突いてみせた。ここでようやく、封印が解けたかのようにアルフレッドが口を開いた。

「ゼラール、お前…… 何故ここに?」

アルフレッドが名を呼んだゼラールという者は、アルフレッドと同じアカデミーの出身。
彼とは同期であり、またアカデミーでの好敵手であった。

当時の彼は名門カザン家の出であるが故か自尊心が高く、また己の才を自ら高評価し、
優秀な人物が揃っていたアカデミー内でも自分が最優秀であると信じて疑わないような人物だった。
そのような性格であるから、学生や教官を問わずアカデミーでの誰に対しても高慢であり、不遜であり、居丈高であり、
アルフレッドへの態度もその例にもれる事は無かった。

そんな彼をアルフレッドはある面では疎ましくも思ってはいたが、しかしゼラールは口先だけの人物ではない。
言い放つ大言を現実にすることができるほどの実力が備わっているとアルフレッドは評していて、
全ては才能で決まる、小人の努力など塵芥の価値も無いなどと言ってはいたが、
実は彼も人知れず研鑽を続けていることをアルフレッドは知っていた。

 それにゼラールはそんな性格でありながら、
自分とアカデミーで関わり合いになっている人の事を詳細に至るまで熟知してそれを忘れず、
時には厳しく、時には褒め上げと硬軟織り交ぜた人付き合いをするものだから、
彼のカリスマ性と面倒見の良さにものの見事に当てられてしまって、
ゼラールを尊敬したり崇拝したりする学生が少なからず存在していたのだ。
 取り巻きの信奉者たちはゼラールのことを尊敬をもって、

 ―――閣下。

 そう呼んでいた。

 ゼラールは数名の部下を引き連れていたが、
学生時代の取り巻きと同じように彼らもまた閣下の尊称を用いているとアルフレッドには思えた。
 部下たちがゼラールへ寄せる熱情を帯びた眼差しが、学生時代に見たそれと全く同じなのだ。

 無愛想であまり人付き合いに積極的ではなく、他人と深く関わろうとはしなかった当時のアルフレッドとは、
全く反対のものだったといっても過言ではない。

そういうわけで、ゼラールの実力をアルフレッドは認めていたし、
ゼラールはゼラールで歯牙にもかけないようなそぶりを見せながらも、
実は彼が接するその他の人と異なり、アルフレッドをフルネームで呼ぶというように、
他の学生に知られていない程度に、お互いがお互いを認め合っていたのである。


 いつだったか、マーシャルアーツのトレーニングの一環としてゼラールと模擬戦を行ったことがある。
 アカデミーで組まれるトレーニングメニューは過酷そのものだ。血がにじむような訓練と言う比喩があるが、
その言葉通り、実戦さながらに打撃を打ち込み合うフルコンタクト形式で格技のトレーニングは実施されていた。
 名家の子たるゼラールも英才教育として幼少期より様々な格闘技を修めており、
アカデミーで行われる過酷な模擬戦でも非凡な才覚を遺憾なく発揮していた。
 しかし、格闘術に関して一日の長があったアルフレッドには一歩及ばず、
彼が最も得意とする後ろ回し蹴りの前にあえなく撃墜された。
 大言壮語のやかましい彼のことを常々疎ましく感じていたアルフレッドは、
高慢な鼻っ柱をへし折られたことで少しはしおらしくなるだろうと期待したのだが、
ゼラールから返ってきたのは意外なレスポンスだった。

「余の前に立ちはだかるとは誠に天晴れよ。これよりは貴様を我の踏み台と認めようぞ。
アルフレッド・S・ライアンよ。余に倒される日を愉しみに待っておるがよい」

 言い回しこそ高飛車なままだったが、そこには自分を倒したアルフレッドへの敬意が含まれており、
また、それは好敵手を超えようと言う努力の宣言でもあった。
 なによりアルフレッドを驚かせたのは、ゼラールが自分の名前を初めて呼んだことである。
 基本的に相手のことを見下す傾向にあるゼラールは、教官であろうと取り巻きであろうと、
会う人全てを辛口なニックネームで呼びつけていた。
 アルフレッドも「根暗の若白髪」と辛辣な呼び方をされていたのだが、
その日を境にニックネームではなくフルネームで話しかけられるようになっていった。
 それは、ゼラールがアルフレッドのことを己に比肩する対等な存在…好敵手と認めた証しに他ならない。

 そして、彼は前言を見事に達成した。
 一週間後に再び行われた模擬戦でゼラールは新たに開発した体術でもってアルフレッドを圧倒、
逆襲を果たしたのである。
 手足の爪を長く伸ばし、なおかつ猛獣のように鋭く研ぐことにゼラールはこだわっているのだが、
 正面から打撃の応酬を行うのは不利と判断したらしい彼は、この爪を超速で振り抜き、
相手を引き裂くと言う戦法を身につけていた。
 およそマーシャルアーツとは言い難い変則的な武技であったが、
指導に当たった教官はゼラールの柔軟な発想力をむしろ評価。
 アルフレッドはリベンジを果たされたわけだ。

 だが、完敗を喫したアルフレッドの心に蟠りのようなものは全くなかった。
 敗北したアルフレッドをゼラールはさんざんに嘲笑い、挑発を繰り返したのだが、
その全てが彼なりの励ましだと言うことをこのときには既に理解していたからだ。

 敗北の味を知ってからの一週間―――ゼラールは草木すら寝静まるような深夜まで
アリーナで自主トレーニングを重ねていた。
 日々のメニューとは別に…いや、それ以上に厳しいトレーニングを、だ。
 それは、アルフレッドに敗れた悔しさや、恥をかかされた憎悪に因るものではない。
己の至らなさを反省し、より強く飛躍する為の努力であった。

 ゼラールが夜な夜な部屋を抜け出していると聞きつけ、
ふと彼の後を追ったことで隠れた努力を目の当たりにしたアルフレッドは、
自分のほうにこそ驕りがあったと思い知ったのだ。
 ゼラールと言う人間をその一面だけで評価し、見下していたのはアルフレッド本人だった。
 
「大したもんだと思うよ、あいつ。カザン家って言ったら名家中の名家だろ? 
何もしなくたってエスカレーター式に出世できるって言うのにさ………。
出自とかそんなもんには全く興味がないんだと。人より優れているのは家じゃなくて自分自身なんだって言ってたよ。
優れた自分を誇るのは、上に立つ器の義務だとか言ってたっけな」

 アルフレッドともゼラールとも親しい友人のその言葉は、今も忘れがたい。

 出自を鼻にかけて威張り散らすことしか能がない傲慢なだけの人間であれば、
取り巻きたちが深夜のトレーニングを見守り、サポートすることなどあり得ない話だ。
 そもそもアルフレッドに敗れた時点で人望を失い、誰にも見向きもされなくなった筈である。
 しかし、ゼラールと彼の取り巻きたちは違った。
 一度の敗北などではビクともしない結束力が、固い信頼が彼らの間に結ばれていた。
 取り巻きたちが信奉しているのは、カザン家の御曹司ではなく、ゼラールその人である。

 彼らが本気で惚れ込むその理由を理解したとき、
アルフレッドは初めてゼラールに名前で呼ばれることを嬉しく思った。
 切磋琢磨し合える好敵手に巡り会えたことを心の底から誇りに思ったのである。
アカデミーでの生活をアルフレッドは掛け値なしに充実していたと思っているが、
ゼラールと言う好敵手の存在が日々の刺激となっていたのは言うまでもない。


 しかし、そんな好敵手ともアカデミーを卒業してからはずっと音信不通であった。
 無論、気にはなっていたが、なにしろグリーニャへ戻って間を置かずにスマウグ総業と言う大きなトラブルが降りかかり、
連絡を取るようなゆとりを持ち得なかったのだ。

 今ここで再会するまでゼラールの近況などアルフレッドには知る由も無かった。
 しかもテムグ・テングリの配下としてここにいるのだ。
 唯一至上の自分が君臨し、その他全てが踏み石にすぎないとまで言い放っていた人間が、
他人の下についているというのは想像だにしていなかった。
そんな彼とまさか再びこのような場所で出会おうとは、さしものアルフレッドも思ってもみなかったのである。

「何故と聞くか? 分からぬか? この程度のことが分からぬのなら、貴様はそれまでの男。
ここで息絶えるのが関の山であろうぞ。だがアルフレッド・S・ライアン、貴様はここで死なすには少々惜しい男よ。
今からでも遅くは無い、エルンストの側近たるこの余にひざまずき、忠誠を誓うが良い。
西軍に加わることが、貴様が生き延びるためのが唯一つの道よ」

久しぶりの再会であったが、ゼラールの言い草は当時と全く変わりは無く、高慢で強引であった。
 自らの陣営へ味方するようゼラールが口にした直後、彼の部下と思しき兵士が小脇に抱えていたCDラジカセのスイッチを入れた。
ゼラールの雄弁にBGMを付けようと言うわけである。
 傍目にはその行動は奇々怪々でしかないのだが、CDラジカセのスピーカーから流れてきた音楽に
アルフレッドは聞き覚えがあった。…いや、聞き覚えどころのレベルではない。
ゼラールのお陰で聞き飽きているくらいだった。

 佐志の街路を満たしたのは、エドワード・エルガー作曲の行進曲『威風堂々』第一番である。

 行進曲『威風堂々』第一番は、ゼラールが最も愛する音楽であり、
アカデミー時代も彼が何事か喋る際には取り巻きがBGMとして流していた。
 ことあるごとに、だ。一日の内に何度聴かされたかわからず、いつしか耳にするのも嫌になるくらいの食傷となっていた。
 愛する『威風堂々』に合わせて雄弁を垂れる様もまた学生時代から何一つ変わっておらず、
それにもアルフレッドはげんなりさせられた。

「余の天賦は貴様が誰よりもよく知っておろう。末席に加わるは冥利である、とな。
余が記憶しておる限りでは、貴様の目は千載一遇の好機を看過するような節穴ではあるまいて。
今日に至るまでの間に根が腐ったと言うのであれば、また話も変わるものがな」

 両手を大きく広げ、全身を十字架に見立てると言う独特のポーズを作ってゼラールは雄弁を続けているが、
これこそ彼のテンションが最高潮に達した証拠だった。
 このポーズを取り始めたが最後、もう止められないことをアルフレッドは身を以って知っている。
 ゼラールと共に佐志の村民への通告に訪れていた同僚たちも「また始まった」とばかりに呆れ顔で溜め息を吐き捨てていた。
 アカデミー時代のクラスメートが彼らとそっくり同じ表情を作っていたことを思い出したアルフレッドは、
改めてテムグ・テングリ将士の苦労を偲んだ。十字架のポーズにも『威風堂々』にも飽いているのは間違いなかろう。

(ここまで変わらずにいられるのは、ある意味では賞賛に値するだろう。だが、しかし………)

 全く変わりがないのに、この男がどうしてテムグ・テングリの配下にいるのか。誰かの下についているのか。
その理由はアルフレッドには全然及びもつかなかった。
 それよりも今、考えるべき事は自分たちの身の振り方だ。
ゼラールが言ったように、このままK・kの監視下に置かれているよりは、
西軍に加わった方が最悪の事態を避けられる可能性ははるかに高そうであった。
だが、ここまでゼラールに見下されるような言い方をされて、
「はいそうですか」と言えるような性格でないことはアルフレッド自身が一番分かっていた。
彼の実力を認めていようとも、癪に障るものは癪に障るのだ。

「………断る。俺はお前なんかと違って権力に尾を振ってまで生きようとは思わない」
「今の余がテムグ・テングリの飼い犬にでも見えるとでも? 
面白い、『燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや』とはまさにこのような時に使う言葉よ。
小人の貴様ごときには余の深謀なる考えが理解できぬか。見ないうちに耄碌したのう、アルフレッド・S・ライアン」

アルフレッドと同じ真紅の瞳を携えた、刃のような鋭い目を細めながら、
ゼラールはアルフレッドに嘲笑とも侮蔑とも取れる笑みを見せた。
だが、こんな扱いは慣れたもの。アルフレッドは全く気にすることなくゼラールに言葉を返す。

「何とでも言え。振りすぎて尾が千切れないように気をつけるんだな」
「フェッハハハ、実力者に気に入られる才も持たぬような負け犬がとんとほざきおるわ。
まあ良い、このままでは今の貴様には今後の出口は見つかるまい」
「出口は見つけるものではない、作り出すものだ」

年月を経たにもかかわらず、アカデミー時代と同じような言い争いをする二人。
ゼラールがどれだけ煽ってみせても、アルフレッドの意志が揺らぐようなことは無かった。
その内に、いつまでもこうしてもいられないとばかりにゼラールは使者の一団と共に村を去っていった。
「余に三跪九拝したければいつでも来い。余は靴を汚して待っておる。
それを望まぬのならば、次に会うは貴様が捕虜となって世に助命を嘆願する時ぞ」という言葉と共に。

アルフレッドとしてはゼラールの言葉に耳を貸す気など毛頭無かったが、
しかしいつの間にやら東西両軍のぶつかり合いは間近といった雰囲気が、
戦場から離れているこの村へも届いてくる行軍の音らしきものから感じとれた。
合戦の始まりはすぐそこまで、危機もまたすぐそこにまで迫ってきているのだとアルフレッドは思った。

(もう始まってしまうのか、などと考えるのは楽天的過ぎるな。
この村が安全な場所なのもあとわずか、と覚悟しておいた方が良いだろう……)




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