1.カナリア鳴く空-T

 古の文献にその名を残す偉大な心理学者は、後進に向けて実に興味深い仮説を発信していた。
 遍く人間の根源には、極めて原始的な欲求の一つとして暴力が根を張っているのだが、
その傾向は二つに大別され、それぞれが男性と女性とに振り分けられている。

 心持つモノ――この場合は自分以外の人間や動物が当てはまるだろう――、持たざるモノを問わず、
力によって屈服させ、意のままに支配したいと言う欲求を強く根差しているのが、男性。
 生命の有無はおろか有形無形を問わず、目に入るモノをメチャクシャに破壊し、崩壊させ、
一切を無に帰してしまいたいと言う衝動を秘めているのが、女性。

 論拠云々を問うよりもまずこの仮説はあくまで傾向を説いたモノであり、
全ての人間にこの法則が適用されるとは限らないことを明言しておく。
 これを大真面目に議論するのは、血液型によってその人の性格や運命が決してしまうと言う俗説を
権威ある学会の議題に掲げるようなもので、つまるところ、詮の無いことなのである。
 もちろん、かの学者の発した言葉が、人間が原始の時代から深層にへと潜在させている心の働きを探る上で
極めて貴重な意見であることを疑う余地は無く、一つの仮説として頭の片隅へ留め置く価値は十分にあるであろう。

 また、別の学者は云う―――多大な時間と労苦を費やして作り上げた発明の産物を、
欠陥があったからと自らの手で壊さなければならない瞬間ほど虚しいものはない。
 科学者の辿る末路として、これほど惨めなモノが他にあるだろうか、と。

 まさしく真理と言っても過言ではない叡智を分け与えてくれたことに、
彼らの後進としてはいくら感謝しても足りないくらいのだが、
いかんせん、礼を言いたくても肝心の学者の名前をどうしても思い出せない。
 永遠の功績たる叡智の恩恵にあやかりながら、
不義理にもその名を忘れてしまうとはどう言う了見か、と自分で自分を叱りたくなるが、
思い出せないものは思い出せないのだ。

 開き直って無知と不義理を認め、誰か自分より博識な人間に偉大なる先達の名前を訊ねようとも考えたのだが、
彼らの活動した時期はあまりに古く、また、一般的とは言い難い内容である為、
余程、学問に精通した人間でもなければ名前はおろか研究の断片すら耳にしたこともあるまい。
 しかも、だ。“学問に精通”と一口に言っても、ハイスクールやカレッジで使われるようなテキストに
彼らが登場することはまず在り得ない。
 物好きな教師なり教授なりの授業を受けていれば、彼らの学説を講釈されることがあるにはあるが、
何一つ備えを持たずに大海へ泳ぎ出、渡るべき島を探そうとするくらい低い確率でしか
遭遇する可能性は無かった。

 ともすれば常識の枠を飛び出した異端の走りと見られるだろうが、
それだけに彼らの仮説は貴重なのであるし、
だからこそ世間一般へ高名を知らしめるのに至らなかったのだと納得できようものだ。
 さんざん貴重だ、興味深いと持ち上げておきながら、
今更、その価値を貶めるような形容をするのはなんとも心苦しいのだが、
やはりかの先達が遺した研究は、現代人にとっては雑学の域を出ないようである。

(そこまで憶えておいて、名前を忘れているんだから、我ながら薄情極まりないね)

 雑学―――人間は無用な知識を得ることで快楽を憶える唯一の動物だとする仮説を提唱した学者もいた。
 いや、あれは作家だっただろうか。それとも、科学に通じた評論家か何かだったか。

 今度も名前を思い出せず、自分の記憶力の悪さに辟易した“彼”は、
脳内に人名録を収蔵しているような知識人を記憶の底のアドレス帳から探し出そうとしたものの、
その作業を途中で止めてしまった。

(そもそも僕には、こんな相談を持ちかけられる友達はいないじゃないか―――)

 ………つまりはそう言うことである。
 検索するも何も、彼の備えるアドレス帳には人名など殆ど記載されていなかった。

 当たり前のことだが、故郷の友人や家族の名前はちゃんと記されている。
 しかし、それもAからZまでのイニシャル順にインデックスで区切られた膨大なアドレス帳のごく一部に過ぎず、
誰も彼もが学者や学問になどまるで興味が無い。驚くくらい無関心だった。
 小難しい論文の一節を話しただけで蕁麻疹が出るような人間を捕まえて、
学者の名前を一緒に考えてくれなどと強いる訳には行かないだろう。

(―――いや、昔はいたんだよね。………誰一人憶えていない大昔には………)

 今にも風化してしまいそうなくらい遠い遠い記憶の彼方、
薄ぼんやりと輪郭だけが浮ぶ顔ぶれの中には確かに生き字引とも言うべき人物もいた―――いたハズだ。
 彼らの名前もアドレス帳には記載されているのだが、残念ながら、現在(いま)は
コンタクトを取れる状態には無かった。
 ………仮にコンタクトを取れる機会に恵まれたとしても、“彼”のほうが声をかけるのを躊躇してしまい、
憚った末にせっかくのチャンスを見過ごすことだろう。

(………逢いに行こうと思えば行けるけどさ―――でも、今更、どんな顔して逢えば良いんだよ………)

 “その現実(こと)”を考える度に、“彼”は自分がいかに矛盾に満ちた存在であるかを突きつけられる。
その都度、心を深い深い闇の世界へ引き擦り込まれてしまう。
 闇の世界へ墜ちて、まず真っ先にやって来るのは、決まって自己否定の哲学であった。
 “彼”に己を否定させる闇のうねりは、いくつもの段階に分かれて押し寄せて来る。
これもお定まりのパターンであった。
 “彼”がエンディニオンと言う世界に存在することの矛盾を問う声が闇の世界に響き渡り、
続いて矛盾を孕んだ存在が冷厳に糾弾される。

 次に訪れるのは自問自答だ。

 女性にこそ見られる破壊の衝動を、どうして男性である自分が世の誰よりも強く秘めているのか。
 自分自身で作り上げた発明をその手で壊すことを科学者たちは最大の恥としているのに、
モノが崩れ去るその瞬間、どうして自分は麻薬に脳を侵されたような恍惚を抱いてしまうのか。
 男性らしからぬ破壊の衝動をもってして、己の手で築き上げてきた全てを引き裂きたくなるのは、
人間として決定的に破綻している証拠ではないか………………。

 その問いかけが―――全く同じ内容の問いかけだけが、“彼”の心を掌握し、
目を逸らすことすら許さず、己が深淵に宿りし闇に答えを求めさせるのだった。

 己を苦しめるものであるなら、自問も自答もせずにただただ無となっておれば良いと傍観者は考えるだろうし、
この闇について相談を持ちかけられた友人や家族は、
口を揃えて「辛いことばかり考えないで、もっと人生エンジョイしようよ」と言ってくれた。
 だが、“彼”は自問自答を止められない。まるでそうすることが自分自身に定められた宿命であるかのように
同じ苦しみを繰り返す。
 自己否定と言う何よりの矛盾を止めることがどうしても出来ない。

 何度、この世界に墜ちようとも必ず自問は途中で寸断され、
結論を見ずに終息してしまうこともループを止められない一因であった。
 誰よりも強い破壊の衝動に思いを巡らせれば、天の蓋より重い衝撃で押し潰され、
自ら創出したモノを破滅させる悦びに頭を振れば、地の底より裂帛の呻き声で突き上げられ、
“彼”の思考は、共鳴する二重の苦痛によって断ち切られてしまうのである。

 交わり、絡まり、混ざり合った二重の衝動は、まるで岩盤を抉り取るかのような怒涛となって理性の水際へ打ち寄せ、
鈍色の飛沫の向こう側に一つの感情を産み落とす。
 破壊に起因する波動が融合して生まれたその感情は、
“彼”の裡に湧き起こる衝動の全てを肯定せしめるモノだった。
 誰よりも強い破壊の衝動を不可侵の理(ことわり)とし、
自らの手で生み出したモノこそ自らの手でメチャクチャに潰滅させるのが、
在るべきサイクルではないか―――と。

 遍く破壊と破滅に免罪符を与え、罪悪の観念から解き放つ感情の正体を“彼”は見極めている。
 その感情を、人は“狂気”と呼ぶのだ。

「………イーライ………」

 ―――そのとき、闇の世界に新しい波紋が広がった。
 イーライ…と誰かを呼ぶ声が波紋を起こし、これによって闇に閉ざされた空間に皹を入れ、
脈動止まない“狂気”をも拭い去る浄化の光を、砕けた隙間よりもたらした。

(違う………僕は………僕の名前は――――――)

 もたらされた光へ抗うようにして“彼”はイーライと言う呼びかけを否定する。
 自分はイーライなんて名前じゃない。自分は…“狂気”の具現たる自分の名前は―――

「イーライッ!!」

 ―――だが、浄化せしめる光は“彼”に自己否定させることを許さなかった。
 イーライと呼ぶ声が一際強くなったかと思った瞬間、“彼”の意識は真っ白な輝きに包まれ、
ハッとして気付けば、そこには闇の世界とは似ても似つかぬ光景が広がっていた。

「………耳元で喚かなくてもいいだろうが。お陰で寝起きが悪ィたらありゃしねぇぜ」
「何言ってるの。もっと静かに声を掛けても、どれだけ揺さぶっても起きてくれない
アナタがいけないんじゃない」
「うっせぇな、昨夜は遅かったんだから仕方ねーだろ」

 まず真っ先に“彼”の視覚が認識したのは、「イーライ」と呼びかけ続けた声の主である。
 尤も、視界の全てを彼女に独占されているのだから、他の景色を視覚が認識できようハズもない。
 鼻先スレスレまで顔を近付けて“彼”の寝惚け眼を覗き込んでいたその女性は、
碧落を思わせる透き通った瞳を瞬かせると、何やら満足そうに頷いた。

 何がそんなに満足なのか。
 こちらは安眠――視ていた夢は最悪であろうと――を妨害されて気分がすこぶる悪いと言うのに、
爽快な顔で微笑まれてはたまったものじゃない。
 更なる文句を重ねるべく開きかかった“彼”の唇が温かい何かで覆われたのはその瞬間(とき)だった。
 唇に感じる柔らかな感触は、最悪な夢と最悪な寝覚めのダブルパンチで疲弊していた“彼”の心を
一瞬にして癒していった。

 その柔らかな感触が去った後、今度は“彼”の額へ新たな温もりがもたらされた。
 額に温もりを感じる“彼”の視界は今もなお呼びかけの女性に独占されているが、
その距離は互いの吐息が溶け合うほどに近付いている。
 碧落の瞳は「これを待っていたのでしょう?」とでも言いたげに笑っていた。

 余韻の残る唇と、心臓の鼓動をお互いに伝え合えるくらいぴったりとくっ付いている額の温もりと、
何よりも透き通った瞳に宿る愛情を感じるだけで、“彼”の心は安らぎで満たされる。
 先ほどまで憑依していた闇も、狂気も、たったそれだけで彼の心から掻き消えていく。

 我ながら単純なことだと思いつつも、彼女と交わすこのやり取りが何にも勝る幸福であるのに変わりは無くて。
 “彼”は、今度は自分から温もりを求めていった。

 程無くして今しがたの感触を再び唇に得た“彼”は、満足するまでその幸福を満喫した後、

「おはようさん、レオナ」

 そう言って自分に計り知れない幸福を与えてくれる最愛の女性(ひと)へ挨拶した。

「はい、おはよう、イーライ。今日も良い天気―――とは言えないけどね」
「そもそも穴倉ン中に潜りっぱなしじゃあな。天気もクソもあったもんじゃあねェよ」

 名残惜しそうにレオナから身を離した“彼”―――イーライは「穴倉ン中に篭りっぱなしじゃ、
身体が鈍っちまう」と悪態を吐いてみせたが、
二人のいる場所を見渡せば、どうにも洞窟を連想させる“穴倉”なる呼び方は相応しくないように思われる。
 いや、相応しい相応しくないどころの話ではない。“穴倉”と言う呼称からして
イーライは言葉の使い方を誤っていた。

 イーライとレオナが寝袋から抜け出し、朝から熱烈な挨拶を交わしたこの場所は、
四方を鋼鉄の板で固めた密室なのだが、その鉄板からして不思議な組成をしており、
触れると冷たい感触や頑強な高度、鉄独特の臭いを持っているものの、
表面はガラスのように透き通っているのだ。
 鉄板の向こう側に走る無数のパイプ管やケーブル、レトロチックな歯車が全て透けて見え、
ここが建造物の一室であることを物語っていた。

 寝袋に包まったまま眠った為か、あるいは悪夢によって極度の緊張を強いられたせいか、
節々が痛くなるくらい固まっている筋肉をほぐそうとイーライがその場で軽くフットワークを踏めば、
鉄の板を蹴ったときに出る鈍い音が部屋中に響き渡る。
 強化ガラスのようにも見えなくもないが、やはり四方を固める板は鋼鉄製なのだ。
 なんとも不思議な素材の板である。少なくともエンディニオンに住まう人々は目にしたことの代物であろう。
 ジャンク品を問わず珍しいパーツや素材に目が無いネイサンあたりがこの場所を知ったなら、
涎を垂らしてへばり付くことだろう。
 床なり壁なりをキスして回り、トリーシャに恋人選びの失敗を省みさせる彼の姿は想像に難くなかった。

 透き通った金属板の隙間はファインセラミックスや合成樹脂が塞いである。
 これもまた不思議な光景なのだが、壁際にはぼんやりと真四角の光線が浮かび上がっており、
幻想的な明滅の内側に何やら小難しい文字の羅列や、この建物の中の一室を撮影したものと
思しき画像を映し出している。
 太古の昔、彼方の宇宙よりエンディニオンへ飛来したと伝わる人類の祖先、
『ルーインドサピエンス(=旧人類)』に詳しい人間であれば、
この光線をデジタル・ウィンドウ(映像投射光板)と呼ぶであろう。
 正確な形状までは現代に伝わっていないが、自由自在に空を飛翔し、
天候をもコントロールする秘術に長けたルーインドサピエンスは、
このようなデジタル・ウィンドウを展開してそこに投射される映像などを楽しんだと云う。

 ………尤もルーインドサピエンス自体、考古学者の一派が結論を見ない進化論に
一つの筋道を作る為に提唱している仮説の一つに過ぎず、人類の祖先として見なすには尚早のように思える。
 確かに超越的な技術を用いて建造したとしか思えない太古の遺跡はエンディニオン中で散見されるが、
それらとルーインドサピエンスの仮説を結びつけるだけの決定的な資料は現在もまだ発見されていないのだ。

 デジタル・ウィンドウにしても史料の一部にて記述が見られるのみであった。
 ルーインドサピエンスの足跡は、生命の始原にまつわる謎として今なお物議を醸しているものの、
考古学など何ら意味を成さないとされる即物的な現代の風潮のもとでは、
大いなる神秘が解き明かされるのはまだまだ先になるであろう。

 ルーインドサピエンスはともかくとして、ハイテクの粋を集めたような場所を指して
洞窟を連想させる“穴倉”と呼ぶなど、語学力を疑われてもイーライは反論のしようもあるまい。
 そのイーライは、自身の語学力の欠損など気付いた様子も無く、
「穴倉暮らしってのはイヤなもんだぜ」と誰に聞かせるでもない悪態混じりに壁を蹴りつけている。
 腹いせなのか、ストレスの発散なのかは知れないが、行儀が悪いことに変わりなく、
朝食の準備をしていたレオナは彼の粗暴を厳しく見咎めた。

「育ちが悪ィから仕方ねぇよ。そこらへんはお前が一番よく知ってんだろ」

 レオナからの注意を軽口でもって上流したイーライは、突き刺すような視線を背中に浴びながらも、
もう一度、無数のケーブルが透けて見える壁を蹴りつけた。

 あたかも、そこに物質界が存在するのを確認するかのように。
 ………自分の在る世界は、あの闇の中でなく、此処なのだと刻み付けるかのように。

「………あと二時間もすれば“あいつら”がやって来る頃合だ。本腰入れて露払いと行くか」

 職人が丹精込めて作ったであろう古びた懐中時計を取り出したイーライは、
現在時刻を確認しながら、レオナに話し掛けるでもなくポツリとそう呟いた。

(――――――こうして扉は開かれるわけだ………………)

 イーライ―――イーライ・ストロス・ボルタ。

 今はまだ誰も彼のことを知らない。
 彼の為してきたことの意味を、背負った業と宿命の重みを、誰も分かち合うことはできない。
 ただ一人、盟友にして最愛のレオナ・メイフラワーがそれを支えるばかりである。

 いつか彼を取り巻く人々が、彼に秘められた全ての真実を知ったとき、
闇の世界に現れた狂気のうねりが意味するところを知ったとき、
誰もが彼の為に涙し、誰もが彼に永遠の友となることを誓うだろう。

 ………エンディニオンが取り込まれた悪夢へ立ち向かう、独りぼっちの英雄に―――。




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