5.我欲

 ヒューが行なったのは、現場に残された証拠や形跡を把握・分析し、
過去の凡例と照らし合わせることで性格、性質、動機と言った犯人像へアプローチする捜査方法―――
所謂、プロファイリングだった。
 推理小説の探偵がアームチェアに揺られながら犯人の絞込みへ臨むと言う一般に認知されるところの推理と異なるのは、
あくまで犯人像の割り出しに終始している点だ。
 プロファイリングとは、犯人を確定させる推理と言う“点”へ至るまでの“線”を引く作業である。
 形跡として現場に残された犯罪の手口などから得られた情報をリストアップされた容疑者に当てはめ、
逮捕へ近付けていくのがプロファイリングの役割なのだ。推理と言うよりは高度な情報解析と呼ぶのが正しいだろう。

 彼らがこれから向かおうとしているリーヴル・ノワールへ凶悪犯が潜伏していると言う情報は今のところ誰の耳にも入っていない。
 皮肉屋のホゥリーは、逮捕すべき犯人がいないにも関わらずプロファイリングを試みる必要があったのかと
早速、ヒューのことをからかったのだが、周りはこの下品極まりない嘲笑に同調するどころか、逆に失笑を返している。
 アルフレッドに至っては失笑すら浮かべずホゥリーを蔑視し、
ベテランの冒険者であるフェイやローガンたちはヒューのプロファイリングへ神妙な面持ちで聴き入っていた。
 “名探偵”によるプロファイリングがもたらした情報は、リーヴル・ノワール探索へ臨むにあたって欠くべからざる有益なものだった。

 ここ一週間の間にリーヴル・ノワールへ入ったのは二組。
 その二組のうち、四日前には若い男女のコンビが、それからやや遅れること二日前には壮年の男性が、
それぞれ先んじてリーヴル・ノワールへ入ったとヒューは語った。

 男女のコンビはおそらく二十代前半の同い年。二人とも痩せ型で身長は少し高い。
 男性のほうはやや荒っぽく、女性のほうはそれをフォローし得る慎重さと穏やかさを兼ね備えている。
 男性が女性に先んじて進み、その身を盾としているらしい。
また、女性は三つ指ついて彼に随行しつつ、時折、歩みを止めて周囲に警戒を張り巡らせている。
 ドアを開けたのも男性である。ドア越しに強烈な獣気を察知したのか、少しずつ少しずつノブを引いていき、
エントランスの様子を一頻り窺ってから全開にし、一気に突入したと言う。
 飛ぶ込むや否や、待ち構えていたクリッターやトラップへ対するべく男女は互いの背中をぴったりと合わせ、
降りかかって来た火の粉を振り払ったようだ。

 壮年の男性は先行したコンビとは全く正反対の行動パターンだった。
 ドアの前に立った際も一瞬たりとも躊躇せず、慎重さのカケラも無く豪快に蹴り開け、ドカドカと大股で踏み込んでいった。
 遠慮も手心も一切加わっていない蹴りは全体重を乗せた強烈なもので、ドアが両開きに対応していなかったら、
衝撃を受け流しきれずに蝶番が大破していたことだろう。
ファインセラミックスの板に強化ガラスを嵌め込んだ特別製のドアだったからこそ耐え切れたものだが、
それでも側面には細かいヒビが走っていた。
 これが木製と仮定した場合、ど真ん中に足跡が開くどころの話でなく、ドア自体が吹き飛んでいたのは間違いない。
 無遠慮にも程がある第二の潜入者は、その力強さからも推察できるようにかなり大柄であるようだ。

 それらの情報をヒューはドアの状態と床に残された僅かな靴跡から全て割り出していた。
 本人は自慢するでもなくこともなげに話していたが、ほんの短時間、調べただけでそこまで見極められる人間は
エンディニオン広しと言えどもそう多くはいない筈だ。
 足跡から人数を、ドアの金属摩擦から性格を割り出したのはともかく、
遺されていた足取りと歩調を年齢別でデータベース化した統計に照合することによっておおまかな年代を特定したと言うのだから、
ヒューの探偵としてのスキルは神業を自負しても決して慢心とならないレベルであろう。
 デミヒューマン型のクリッターの有無を確認したのは、ドアノブを回せるのが人間のみに限られることを確定する為だと言う。
 フェイたちの足のサイズは先行者の体格を割り出すヒントになったらしい。
 また、ケロイド・ジュースは素足だから“靴の跡”は絶対に残らないし、
床に残っていた足跡のサイズは三人の誰とも合わなかったとヒューは付け加えた。
 ここ最近のうちに出来た足跡とフェイたちのそれを分別する為の材料を得たかったのだ、と。

 微に入り細に入る緻密な分析をヒューはほんの数分の内にこなしてしまった。
 見事過ぎる仕事ぶりにアルフレッドは感嘆の溜め息を吐き、皆もそれに倣った。
 ただ一人、ホゥリーだけは「わざわざグッドルッキングをアピールしなくてもイイんじゃナッシング?
ディテクティブなんだし、ザッツくらいコンプリートできてベターでしょ」などとしぶとくヒューを皮肉っていたが、
彼の囀りなど、最早、何の効力も成さない。
 やっかみ以外の何物でもないホゥリーを封殺してしまえるほどにヒューのプロファイリングは冴え渡っているのだ。

 そして、ヒューのプロファイリングに次いで類稀なるスキルを発揮し、仲間たちの感嘆を引き出したのはアルフレッドである。
 ヒューのプロファイリングを拝聴する間、中断していた打ち合わせを再開させたアルフレッドは、
まずリーヴル・ノワール内部にて想定される戦闘の頻度を計算するところから手を付けた。
 跳梁跋扈するクリッターとは相当数の戦闘をこなす必要があるだろうが、気にかかるのは先行している二組のことだ。
特に壮年の男はその荒っぽさから言って遭遇と同時に戦闘を仕掛けられる可能性が高いとアルフレッドは見ていた。
 危険に満ちた場所へ単身で潜伏しているからには、全神経を極限まで研ぎ澄ましているのは明らか。
何よりも気が立っているに違いなく、迂闊に接近すれば問答無用で攻撃されるだろう。

 それは男女のコンビにも同じことが言えた。
 後続の壮年よりは多少マシなようだが、それでも男性のほうには荒っぽさが見え隠れしている。
まかり間違って女性に危害を加えてしまったとしよう。おそらくパートナーである男性は
恐るべき勢いで逆襲に転じ、執念でもってこちらを追い詰めて来るように思えた。
 我が身を盾とするくらいだ。恋愛関係かどうかはともかくとして深い絆をパートナーと結んでいるのだろう。
アルフレッド自身、フィーナを傷付けられたら自分でも何をしでかすか分からなかった。

 結論から言うなら、アルフレッドはクリッターと二組の潜入者の双方を相手に戦うことを想定して調査の体制を整えようと提案した。
 彼らが遺跡を荒らし、貴重な遺産を売りさばくことで利益を得るような盗掘人であれば、
ある程度の仕置きは止む無しだが、真っ当な冒険者にまで危害を加えたくはなかった。
 話し合いの成り行きによってはリーヴル・ノワールの探索を共同で行なおうと持ちかける道も見えてくる。
 最善と言えるのは、まさしくその展開だ。

 だが、最悪のケースを想定して戦略を練るのが策士の務めである。
 共同調査の可能性を数パーセントの僥倖と位置付けたアルフレッドは、
各人の戦闘力を加味した上で何時、如何なる強敵と遭遇しても対処し得るバランスの取れたチーム分けを実施していった。
 先にフェイと話していた通り、多人数で固まりながら施設内を練り歩いても時間の無駄遣いである。
 広大なリーヴル・ノワールを調査するに当たっては、十数名もの人数を幾つかのチームに割り振り、
担当エリアに分散して放つことが最も合理的なのだ。

 当たり前のことをしたまでだと言うアルフレッドは、本当に合理的な探索を確立してくれた。
 幸いにして施設内でもモバイルの電波が届く為、三十分おきに連絡を取り合っているのだが、入ってくる報告を聞く限りでは、
探索は概ね好調に進んでいる。
 あまりにも突然なリーヴル・ノワール出現の謎を解く鍵や、アルバトロス・カンパニーとフィガス・テクナーを繋ぐ手がかりは
今のところ発見されていないが、いずれは大きな成果を挙げられるだろうと全員が胸に期待を灯している。
 錯覚ではなく実感として成功を予感できるのは、すなわち好調の証拠である。
 一攫千金に全てを賭けるトレジャーハンターたちの間で使い古された名文句の一つに
「大きな期待は強い活力を生み、その活力が望ましい結果をもたらす」と言うモノがあるが、
ハングリーなフレーズそのままの状況にアルフレッドたちはあった。

 探索がスムーズに進んでいると言っても、クリッターの猛威が激減したわけではない。
 確かにチームが分散されたことによってクリッターどもも標的を限定しにくくなり、
結果として一隊ごとが相手にするクリッターの頭数は大幅に減少していた。
 しかし、大型クリッターには数の不利を補ってあまりあるような強大な戦闘力がある。
 リーヴル・ノワールを揺るがすような巨体をうねらせ、異能をぶつけてくる大型クリッターの前には
フェイやハーヴェストと言った手練を数多く要するチームとて苦戦を強いられる…かに思われたが、
以前、キャットランズ・アウトバーンを横断しようとしていた折、クリッターの大群に包囲されて命の危険に瀕した経験のあるアルフレッドは、
そのときの反省を生かした対応策を練り上げていた。
 広域攻撃向けの多弾頭ミサイルをムーラン・ルージュから発射できるハーヴェストや
巨大な火柱や雷撃を放てるホゥリーと言った範囲攻撃に長じた人間をそれぞれのチームに最低一人を割り振り、
いざクリッターの群れと戦闘に入った際には大規模を対象とする攻撃を放って敵の目を霍乱するようアルフレッドは彼らに言い付けていた。
 これによって敵陣を乱し、総崩れになったところをチーム全員の総力を結集して各個撃破していくのだ、とも。
 霊長類のような知恵を持たず、思考を動物性本能に頼るクリッターなどは言ってしまえばまとまりを欠く烏合の衆と同義だ。
先手を取って形勢を決してさえしまえば自然と瓦解し、内側から崩壊するに違いない…とアルフレッドは見立て、
現実にそうなりつつあった。

 アルフレッドの秘策によって一挙に形勢不利とはなったものの、クリッターからの反撃は依然として手強く、
やはり厄介なものだ…が、フェイたちをさんざん悩ませていたセキュリティシステムとトラップが早い内に解除された為、
キャットランズ・アウトバーンでの戦闘(とき)のように一方的に追いまくられる状況へ陥らずに済んだ。
 アルフレッドの指示を受けたヒューがニコラス、ダイナソーの二人を伴って先駆け、制御システムをいち早く制圧していたのだ。
 各所に設置されているセキュリティのスイッチはヒューによってことごとく落とされ、
為にクリッターと並ぶもう一つの脅威はその役割を全うできないまま、沈黙を保っている。
 配線等の電気系統を調べれば、おおまかにではあるものの、辿り着くべき場所までの道筋を計算できる―――
そう言ってのけたヒューの試みが見事に的中したわけである。

 分散させた各隊はクリッターを撃退しつつ、それぞれが探索のフロアを変えつつある。
 フェイたちが最初に足を踏み入れた際に探索したエリアはほんの数分の内に調べ尽くされ、
現在はそれぞれのチームが未踏のフロアを目指して突き進んでいた。
 ほんの短時間で前回の探索を遥かに上回る成果を得られたのだから、人海戦術は大成功と言えるし、
それを発案したアルフレッドはさながら殊勲賞と言ったところか。
 何よりアルフレッドの能力を見込んで彼を招き入れたフェイの判断をこそ最も評価されるべきである。

「………………………」

 ―――しかし、フェイの表情は、可愛い弟分の采配を誉めるのでなく、
自身の読みの正確さに胸を張るでもなく、何故か曇りに曇っていた。

「………気にするほどでも………あるまい………アルは………こう言う特技があった………それだけだ………」
「気にしているわけじゃないさ」

 口ではそう答えたものの、フェイの心にはドス黒い靄がこびり付き、拭い去ろうと懸命になっても決して離れてくれなかった。
 その感情の名をフェイは知っている。
 アルフレッドの智謀を周りの人間が囃し立てる度、言い知れぬ痛みを胸の理に走らすその原因へ付けるべき名を、
フェイは自覚していた。
 ………知っているからこそ、自身の抱いた感情であることを決して認められなかった。

「………………………………………………」

 そんな浅ましい真似、自分の感情(こころ)だと認められるハズがない。
 自分で呼び寄せておきながらアルフレッドに―――実の弟のように可愛がっている彼の智謀を
妬み、嫉み、羨望すら抱いているなど、どうして認められようか。
 自分に無い才能を持つアルフレッドに嫉妬してしまったなどと、一体、どうして―――

「………強気で………突っ張ってみたが………本音は………気になって………仕方ない………違うか………?」
「………ケロちゃんには敵わないな………」
「………無論………お前と………何年………組んで………いると………思うのだ………」
「さぁ、どのくらいだろう―――数えたことなんてなかったからなぁ。
ケロちゃんが傍にいてくれのが、もう僕の中で当たり前になっていたからね」
「………そーゆー殺し文句は………ソニエに………言って欲しかったぞ………待て…誤解はするなよ………。
ド…ドキドキなど………していないぞ………オレと…お前は…プラトニックな仲だ………」
「それ、ギャグのつもりかも知れないけど、おかしな誤解を招くだけだから。ちょっと僕にはキツ過ぎるから」

 だが、一度、意識してしまった感情は、振り解こうとすればするほどフェイの心に絡みつき、そこから自由と余裕を奪い取っていく。
 信じられないほどの力で締め付けられ、絞り粕にされたフェイの心にしつこくこびり付いていたものは、
一刻も早く拭い去りたいと願った真っ黒な靄である。
 嫉妬と言う名の真っ黒な靄だけは、どう足掻いてもフェイから離れてくれなかった。
 意識すまいと努めるつもりだったのに、いつしかアルフレッドに対するドロドロとした感情でフェイの心は塗り変えられてしまっていた。

『同じグリーニャ出身でも、こうも頭の構造(つくり)が違うとはのぉ。アルはお主よりもずっと長く田舎暮らしをしておると言うのに、
外の世界におって種々様々な経験に経ておるハズのお主が何故にアルより劣るのか………。
さても面妖なことがあるものじゃのぉ。のぉ、英雄殿よ。
やはり人間とは頭の構造(つくり)次第なのじゃな。機体が最新鋭でもOSが旧世代のものではコケの生えた財宝と同じじゃて』

 フェイの心を余計に屈折させたのは、彼の異変に気付きながら最もダメージを与えられる言葉を選んで吐き掛けてきたジョゼフの一言だった。
 これが根も葉もない言い掛かりであったなら、いつもの厭味が始まったと割り切り、聞き流すことも出来ただろう。
 しかし、ジョゼフの言うことは誇大を一切含まないばかりか、全てが核心を突いており、
それ故に最も深く心へと突き刺さる無形の刃と化したのだ。

 今回の探索を成功させる為にアルフレッドが駆使したのは、所謂、用兵術である。
 セントラルタワーにおけるジューダス・ローブとの戦いでも高い効力を発揮した人海戦術の秘策を
今度は調査と言う形にアレンジして用いていた。
 探索における能率、戦闘における有利、以前の失敗を踏まえた反省、
全てを包括した上での合理を達成し得る方程式を組み立て、
そこから導き出した答えとしてアルフレッドは件のチーム分けを献策した次第だ。
 そして、その策の効果は電撃的と言っても過言ではない探索の進み具合にも表れている。

 非の打ち所のない見事な采配にはフェイ自身も感心し、素直な称賛を送っていた。
 アルフレッドを弟分に持っていることを誇りに思い、軍師などと持て囃される姿を微笑ましく見守り、
………気付いたときには、弟分の輝かしい活躍へ向ける眼差しに暗い影が差し込んでいた。

 ジョゼフが言い放った通り、大人数を手足のように動かせる用兵術は自分には決して真似のできない芸当だ。
 メンバーそれぞれの長所と短所を加味した上で戦場になり得る場所のコンディションをも熟考し、
チームの割り振りを行なうだけの頭の回転を残念ながらフェイは備えていなかった。
 もちろん、ソニエとケロイド・ジュースを指揮して戦うことには慣れている。
慣れてはいるが、それとこれとは全くの別問題。
 十数体もの駒を盤上にて瞬時に動かせるかと問われれば、“剣匠”も返答に窮したに違いない。
 つまり、それがフェイの操れる用兵術の限界だった。
 接戦時における勘や読み、ごく小規模の人数を取りまとめるのとは全く異なる頭脳、
桁の違う応用力を大規模な用兵術では要されるのである。
 十数体もの駒を盤上にて瞬時に動かせる状況把握能力、桁の違う応用力、
機知に富んだ頭の回転の早さをアルフレッドは兼ね備えていると言うことだ。
 誰が言い出したのかは知らないが、アルフレッドのことを“グリーニャの軍師”と呼ぶ声が多いのも頷ける気がした。

 それは素直に認め、称賛しよう。アカデミーでの修学で開花させた軍略の才にはとにかく眼を見張るものがあった。
 だが、アルフレッドはツヴァイハンダーを自由自在に操るだけの筋力も剣技も持ち合わせいないし、
冒険者としての経験も、それによって得られた“生きた知識”も弟分とは比較になるまい。
 個人の能力が真に問われる実戦――特に個人対個人の格闘戦――であれば誰にも引けを取らない自信があり、
万が一、アルフレッドと手合わせする機会が巡って来ようとも鎧袖一触で勝負を決せられるだろう。
 戦いの趨勢が机上の空論で決まってしまわない現実(こと)を、
フェイはアルフレッドよりも数段身に染みて解っているつもりだった。

(………………厭だな、たまらなく………………)

 ………そんな風に自分とアルフレッドとを比べている時点で尋常ではなく、
無意識の内に行なってしまったことを浅はかで厚顔、無礼千万な振る舞いだったとフェイは心から恥じた。

 年下の、それも駆け出しの冒険者を相手に大人げない真似をしたものだと羞恥し、反省はしたものの、
自分には決して真似のできない芸当―――自分になくてアルフレッドが備えた技術―――たったの一点が
フェイにはいつまでも引っ掛かっていた。

「ヒュ〜ヒュ〜、ディスはベリグッドなインフォメーションをリスニングしちゃったヨ♪
ドラゴンスレイヤーともあろうおパーソンがまさかそんなビギナーなウィークポイント持ってるなんてネ。
グランパのトーク通りならボキでもドラゴンスレイヤーになれるかも? あ、てか、てかドラゴンスレイヤーを
スレイヤーできちゃったりして! ボキもブレインには覚えアリアリよん♪ 
アポリアでもなんでもアイムカミング!」
「ちょ、ちょっとちょっと、ホゥリーさん! 人には得手不得手があるんだから、
そこまで言い切っちゃうのはさすがにヒドいんじゃ………フェイさんだって剣の腕はスゴいんでしょう?
ちょっとくらい計算が出来ないだけで世界一の剣をそこまでバカにすんのはどうかと思いますよ」
「チッチッチ―――スイーツね〜、ネイトはぁ。ボキらのジョブはフットの引っ張り合いがデフォルトなんよ。
ウィークのミートをストロングがイートってメニメニセイっしょ?」
「僕も冒険家紛いのことやってますけどねぇ、そんな山賊みたいな話聴いたことないですよ。
困ったときは手を貸し合うってのがセオリーだって」
「ザッツがチミのスイーツたるリエゾンだっちゅ〜の。ゲッツした恩を仇でリターンするレベルのハングリーを
イクイップしちょらんとォ、ブレインのマーベラスな同業者にパクッとされちまうのがディスのワールドなのヨ。
ディフィカルツなのよ、ボキらのワールドは―――おっと、ブレインが残念なドラゴンスレイヤーズには
リスニングさせられナッシングね、今のアレゴリーってば♪」
「またそうやって火に油を注ぐんだから………フェイさんのことは放っておいてあげましょうよ、
人間、弱いところの一つや二つ、あるでしょうに」

 探索チームを組んでいるホゥリーの戯言も、フォローしているようでまるっきりフォローになっていないネイサンの失言も、
いつものフェイなら事情を知らない人間たちの囀りと思って受け流せたハズだ。
 しかし、今日だけは…ドロドロと渦を巻く黒い靄が晴れない内は、
聞き捨てられないノイズとしてフェイの心に響き、激しく動揺を煽った。
 彼らの囀りも、また、ジョゼフのそれと同様に的を射たものだった。

「………本当に………気にすることはないから…な………フェイは…フェイだ………!」
「………すまない、ケロちゃん。………ありがとう」

 気が付かなければ幸せだったのに。意識せずに捨て置けばどうと言うことも無かったのに。
 だけど、黒い靄が耳元で囁くのだ。
 忘れてしまいたい悪夢を、封をしたまま風化させてしまいたい感情をジットリとした声で囁きかけ、
否が応にもアルフレッドと自分との間にある大きなギャップへと意識を向けさせる。

「―――はぁ〜、アルってばホントにやればデキる子なのね。
ヒーロー養成所出身って、実は大当たりなんじゃないの? アカデミーだっけ? ホントはそんなとこ行ってなかったんでしょ? 
グリーニャの養成所に通ってましたって素直に認めなさいよ」
「誉めているのか、追及しているのか、どちらか片方にしろ。そもそもなんなんだ、その養成所とやらは」
「ホラ、飲み会んときにレイチェルさんが言ってたじゃないのさ。
アルもフェイさんも、グリーニャのヒーロー養成所卒業生なんじゃないのかって。
でなきゃ、こんな都合よくグリーニャから凄腕がポンポン出るわけないもん」

 以前にマコシカの集落で開かれた酒宴の折、アルフレッドとフェイが同郷であることに大層驚いたレイチェルは、
グリーニャにはヒーローの養成所があるのではないかと訝っていた。
 類稀なる才覚を備えた人間がひとつの村から同時に輩出されたことが信じられないと言うのだ。
 “養成所”とはなんとも愉快な表現だが、レイチェルが言わんとしたことは判る。
それが為にトリーシャは巧みな用兵術を披露したアルフレッドへ感嘆しつつ、
かつてレイチェルから訊いていた発言を振り返ったのだが、不意に彼女の口から“グリーニャ”と言う地名が漏れ出た刹那、
フェイの面に差していた影がその色を更に濃くした。

「なになに? そんなこと言ってたの、レイチェルさん。私、全然記憶にないなぁ」
「フィーは、だって、ミストちゃんとお喋りするのに忙しかったでしょ? ちょうどあたしとアルがフェイさん囲んで呑んでるときよ」
「お前の場合は囲んで呑んでいたわけではなくて、囲み取材だっただろうが。あんな非常識な人間がいるとは信じられなかったな。
むしろ、未だに信じられない」
「失礼しちゃうわねぇー! あんた、そんなんだからテムグ・テングリの皆さんにエロガッパなんてブッ叩かれんのよ。
デリカシーのかけらもないわね」
「おい、ちょっと待て! それは初耳だぞ!?」
「カジャムさんが言ってたのよ。二股をかけるだけならまだしも、ウジウジとしているクズ男、エロガッパで十分だって。
他にも“またずれ狼〜拝プレイボーイ”とか“エロウルフ色情詩”とか―――そう言ってましたよね、フェイさん?」
「―――え? あ、ああ…うん、そうだね。僕も聞いていたよ。まさかテムグ・テングリの人間から
弟分の悪口を言われるなんて、まさかって話さ」

 唐突にトリーシャから話を振られたフェイは、思考が外部と隔絶された己の裡へ向かっている最中だっただけに
受け答えもしどろもどろになってしまう。
 眉毛をハの字に折り曲げつつ頬を掻き、居た堪れない空気を取り繕おうとしたものの、
必ずしもアルフレッドの醜聞について明け透けに語ることを憚ったわけではない。
 不義とも言うべきアルフレッドの肩を持つつもりはないが、さりとてソニエほど弟分の三角関係にこだわってもいない。
この弟分について尋常ならざる感情(おもい)を抱くとすれば、それはフェイ当人すら触れたくもないような性質のものである。
 ………人々の規範たる英雄として忌避すべき感情が深淵から染み出し、その心中へにわかに波風を立てたからこそ、
トリーシャから声をかけられた瞬間に自身の闇を垣間見られたような、そんな気まずさをフェイは覚えてしまったのだ。

「待て、待ってくれ。前提条件がおかしいだろ。………どうしてテムグ・テングリに俺たちのことが知れ渡っているんだ?」
「そりゃチクッた人間がいるからでしょ。でなきゃ、滅多に係わり合いにならないようなあの人たちが、
どうしてアンタのゴシップを知ってるって言うのよ」
「………何を他人事のように言っているんだ。お前だろ? どうせお前があることないこと吹き込んだんだろ? 
お前以外にそんな腐った真似をするバカはいない」

 幸いにもアルフレッドやトリーシャは、フェイの面に差した微かな陰りには感づいていないようだ。
そもそもアルフレッドは自分の身に降りかかったことで一杯いっぱいとなっており、周囲に気を配っていられる状況でもなかった。
 その自然体――と言っても、本人は目の前が真っ暗になるような事態に晒されて狼狽しているのだが――が、
またしてもフェイの心を波立たせるのだが、こればかりは彼も「恥を知れ」と己に言い聞かせ、
荒ぶることのない凪の状態へと強引に戻した。
 些か力任せに水面を撫でた為、全く穏やかな状態と言うわけにも行かないものの、
さりとて波浪に任せて転覆してしまうよりは数段マシであろう。

 思わぬ視線を向けられているなど夢想だにしないアルフレッドは、
少し離れた場所でタスクと立ち話するマリスの耳まで届かぬよう潜めた声でもってトリーシャを問い詰めている。
 そうして難詰するのも無理からぬ話だ。
 人のプラベートをネタにしての談笑と言う悪趣味な真似を仕出かした人間を、
アルフレッドの周辺でテムグ・テングリ群狼領と接触した者の中から選ぶとするなら、トリーシャ以外の誰も候補に浮かばなかった。
 補欠候補的にソニエの可能性も挙げはしたのだが、反テムグ・テングリ群狼領の攻勢を企図している中で、
下手に注目を集めるような行為は慎む筈である。
 そうなると消去法的にトリーシャしかおらず、果たしてその予想は的中した。

「バカ言わないでよ! テムグ・テングリとの交渉カードに使っただけよ! 
途中にギャグを織り交ぜるとね、不思議と空気が砕けてくるもんなのよ!」
「ギャグと言いやがったな? 今、ギャグと抜かしたなッ! いい度胸だ、名誉毀損で訴追してやるからそのつもりでいろ!」

 どうやらフェイを仮本陣へと招く為に使者としてやって来たカジャムへ吹き込んだのが発端であるらしい。
 カジャムを発生源としてエルンストやデュガリらの耳に入り、程なく他の幹部たちの間にも広まり、
ついには“またずれ狼〜拝プレイボーイ”、“エロウルフ色情詩”なる身も蓋もない悪評が立った次第だ。

「―――まあ、それでもエルンストのオヤカタさんは、あんたのことをすこぶる誉めてたって話だけどね。
英雄色を好むとか、それくらいの度量がなければ大事は成し遂げられないどうとか………。
あたしらには理解できない考え方だわよ、色々な意味で」
「すごいね、アルっ! もうカジャムさんの恋のライバルって感じじゃんっ!」
「………お前もその反応はどうなんだ、フィー。ありとあらゆる意味で間違っていると思うのだが………」

 アルフレッドたちの様子を睥睨するフェイは、自分の口元から全く力が抜け落ちていることに気付いてはいたのだが、
しかし、本人の意思を以ってしても凍りついた表情はどうにも変え難かった。

 ―――それでもエルンストのオヤカタさんは、あんたのことをすこぶる誉めてたって話だけどね。

 たったの一言が、フェイの身心から活力を削ぎ落としていた。

「………………………」

 トリーシャに悪意がないのはわかっている。彼女は又聞きをしたエルンストによるアルフレッド評を披露しただけなのだ。
そして、彼女にその話題をもたらしたのは、他ならぬフェイ当人なのである。
 しかし、それでもフェイは自分の心が尖っていくのを抑えきれなかった。
 エルンストがアルフレッドのことを高く評価していると訊いたフィーナが、
夢現と言った面持ちで「アルのハーレム体質! ごちそうさまです!」などと抜かし、
鼻血と涎をだらしなく垂らす様子も目端には入ったが、それでもフェイは満面の表情筋を動かすことができなかった。







 ―――アルフレッドを過分なまでに誉めそやすエルンストの姿が初めてフェイの双眸に飛び込んできたとき、
馬軍の覇者は鞍上に在った。
 トリーシャが説明した通り、群狼夜戦を終えて帰還する途上のテムグ・テングリ群狼領と思いがけず同じ町で宿を取ることになったのだが、
先んじて現地に入っていた一行へその旨が知らされたのは、あらかた荷解きを終えた後のことであった。
 輝かしいフェイの名声はこの町にも轟いている。版図拡大へまい進するテムグ・テングリ群狼領に異を唱え、抗う姿勢を見せていることも、だ。
 フェイとエルンストが鉢合わせようものなら荒事に発展するのは火を見るより明らか。
宿の主人からすれば、これ以上に厄介な事態(こと)はない。
 とは言え、一度迎え入れた客を、それも英雄と賞賛されるフェイ一行を、
可能性の世界でしか発生の有無を論じられない騒動を理由に追い出すわけにも行かず、
考えあぐねて結論を得ぬまま、とうとうテムグ・テングリ本隊が到着する間際まで仔細を伝えそびれたと言う次第であった。

 主人からの耳打ちに前後して宿の外が賑々しくなり、これによってエルンストの到着を悟ったフェイは、
愛用のツヴァイハンダーを担いで宿の外へと飛び出した。
 「置き去りにするな」と言う仲間たちの批難と、「頼むから荒っぽい真似は止してくれ」と言う宿の主人の悲鳴がフェイの背中を追いかける。
主人の気持ちは察して余りあるのだが、しかし、フェイとてここは退くわけに行かなかった。

 雑踏は既に群衆で埋め尽くされており、爪先立ちか、あるいは適当な物の上にでもよじ登って視界に合う高さ確保せねば、
何が起こっているのかも確かめられないような有様だ。
 必死に背伸びをし、目を凝らし、人の壁の向こう側に革鎧で全身を固める馬軍の群れを認めたフェイは、
穏やかな性情の彼にしては珍しいほどの闘争心が、まるでマグマのように心の底から湧き上がって来るのを感じていた。

 やがて歓声が一際高くなり、写真でしか見たことのなかったエルンスト・ドルジ・パラッシュが目の前にその姿を現した。
 群狼夜戦を勝ち抜いたときと同じ軍装のまま、肩にアルジャナ・ドゥルヴァンと言う銘の巨大な愛剣を担いでいる。
その威容を目の当たりにしたとき、フェイの口内を満たしていたアドレナリンの苦味が急速に失せた。
 大勝に驕る素振りもなく、歓迎に沸く町人たちを見渡すでもなく、じっと前だけを見つめて手綱を繰るその堂々たる姿は、
王者にのみ許された威風を纏っており、これを見る人々へエルンストと言う男が持つ大器を身一つで示している。

 町長らしき人物がエルンストの前に歩を進め、恭しい礼と共に戦勝の賀詞を述べると、
続けてテムグ・テングリ群狼領の傘下に入ることを申し出た。
 町長の宣言を受けて、町民たちからエルンストを賞賛する声が上がる。そこにテムグ・テングリ群狼領将兵らの歓声が重なると、
いよいよ町は大地を揺るがさんばかりの大騒ぎである。

 今や大歓声に包まれたこの町は、当初は独立した自治を保っていたのだ…が、
エルンストがザムシードの軍を降伏せしめ、正式に馬軍の覇者となったことを訊きつけてからその姿勢を一変、
掌を返すようにテムグ・テングリ群狼領の傘下へ入ると申し出たと言うのだ。
 どうやらエルンストとザムシードのどちらが新たな棟梁となるのか、情勢を注意深く観察していたらしい。
表面上は中立を貫いておいて、優勢を見極めるなりそちらの側へ加担しようとの魂胆であった。
 長い物に巻かれる…と言ってしまうと、些か聞こえが悪いものの、エンディニオンと言う過酷極まりない世界で生き抜いていくには
それもまた当然の処世術であった。
 群狼夜戦をもって内紛は終息し、いよいよエルンストを中心とした新体制が始まる。
一時的に止まっていたテムグ・テングリ群狼領の版図拡大が、破竹の快進撃とまで謳われた昔日の勢いを取り戻すまでに
それほど長い時間は掛からないだろう。
 今後もこうした降伏は各地で散見される筈だ。
 つまるところ、テムグ・テングリ群狼領の武力統一を阻まんとするフェイたちが不利な立場へ追いやられるのと同義であった。
いくら力なき人々の為に剣を振るうと宣言したところで、このような状況でエルンストに逆らう者がいなくなれば、
フェイたちはテムグ・テングリ群狼領へ戦いを挑む為の大義名分を失い、そればかりか面目を丸つぶれにされてしまう。
 世間が彼らを無用と断じるようになってしまうからだ。

 しかし、フェイはそのことに鼻白んだわけではない。
 彼も世界中を飛び回る名うての冒険者だ。このような光景は今までにも何度となく目の当たりにしてきた。

 フェイがその心を大きく揺さぶられたのは、エルンストが肩に担いだアルジャナ・ドゥルヴァンと、
自身が携えるツヴァイハンダーの違いであった。刀身の全長や厚みの差に衝撃を受けたとも言い換えられる。
 どちらも重量級の剣であるが、エルンストのアルジャナ・ドゥルヴァンは、
2メートルを誇るツヴァイハンダーよりも更にふた回りは大きく、また肉厚であった。
 総重量が何十キロにまで及ぶのか想像もできないアルジャナ・ドゥルヴァンは、言ってしまえば人の手に余る代物である…が、
巨人が使うに適したようなその剣を、エルンストは何の苦もなく片手で担いでいる。
 自分の身に置き換え、果たしてアルジャナ・ドゥルヴァンを振るうことが出来るのかと頭の中でシミュレートを試みるフェイだったが、
まず重量の段階でそれは頓挫した。
 両足が地面にめり込むような重量の武器を自分に操れるとはフェイにはどうしても思えず、
そこに彼はエルンストとの埋め難い力量の差を見てしまった。
 実際に刃を交えるまでもなく一剣士としての戦いに敗れた―――
相手と自分の力量の差を一目で見極められるほどの達人の域にまでフェイは既に達している。
………達しているからこその衝撃と言えよう。

 この男には、勝てない。
 竜殺しを成した力をもってしても、おそらくは全くと言って良いほど歯が立つまい。

 無意識のうちに白旗を揚げてしまったことはフェイ本人にもどうしても受け入れ難く、
その悔恨と格闘する内に肝心のエルンストに対する闘争心はみるみる萎んでいった。
 力量の差は大きく開いているかも知れないが、自分ではエルンストに挑戦するつもりでいるのだ。
それなのに、どうして闘争心が萎んでしまうのか。挑戦の意欲に呼応して燃え上がらなければおかしいではないか―――
肉体や精神の働きが自分の思考を離れてしまったことは、またもフェイを打ちのめした。
 剣の勝負にすら戦わずして敗れた。これ以上の屈辱が剣士にとってあるものか。

 アドレナリンの味が口内から完全に引いた頃には、フェイは仲間たちを伴って往来を離れたのだが、
馬上からその後姿を見止めたらしいエルンストは、すぐさまに彼らの宿所へ使いを出した。
 曰く、グリーニャにその人ありと謳われる剣匠と、一度、話がしてみたい…と。
 フェイを仮本陣へと案内する使者として立てられ、ついでにトリーシャからアルフレッドの三角関係を吹き込まれたのが、
カジャムその人であった。
 相手は世界にその名を轟かせる英雄である。
エルンストの愛妾としても知られる群狼領きっての女将軍を直々に遣わすのは、
その英雄に最大限の敬意を払ってのことである。

 宿敵と公言して憚らないテムグ・テングリ群狼領の大軍が目と鼻の先にいる。
意図せず敵中に置かれる事態となった以上、相手がこちらへ感付く前に宿を引き払い、
秘密裏に退散してしまうのが上策と言うものであろう。
 だが、フェイは逃げなかった。
 また、エルンストの側も最初からフェイの逃亡はないと言う前提の上で使者を使わしている。
 仮にも英雄として称えられるフェイが、大軍とは言え宿敵を前に醜態を晒す筈もないと
エルンストは見込んだのかも知れない。

 仮にエルンストの期待を裏切って一目散に逃げ出していたなら、
ブンカンあたりがこれ幸いとばかりに盛大に吹聴して回ったに違いない。
エルンストの前にはフェイも素足で逃げ出す、と。
 実際に逃亡してしまっている以上、このような風評が立ってしまってもフェイには言い繕うことが出来ず、
大いに英雄の評判を落としていたことだろう。


 フェイたちの部屋のドアをカジャムがノックしたのは、
このまま当地に留まり、テムグ・テングリへ探りを入れるべきか否かを議論している最中であった。
 まさかエルンストの側からコンタクトを図ってくるとは予想だにしておらず、
ケロイド・ジュースなどは「………ケロちゃん………おったまげろっぱ………!」と面食らったものの、
群狼領に対して内偵を試みるつもりでいたフェイにしてみれば、この筋運びは渡りに船である。
 敵の懐へ飛び込んでいくのは確かに危険ではあるものの、
正体が露見した瞬間に首を刎ねられる恐れのある内偵よりは遙かに安全と言える。
 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と言う故事の通り、エルンストからの誘いをフェイはチャンスと捉えることにした。

「敵将とは言え、対話の席を持とうとする相手を拒絶しては、それは卑怯者と変わらないじゃないか。
僕らは何の為に戦ってきたんだい? 力なき人たちの為じゃなかったのか? 
正義は僕らの側にある。女神イシュタルは正しい者にこそ微笑まれる。僕らは、僕らのしてきたことを信じよう」

 罠ではないかと警戒するケロイド・ジュースや、単身敵将のもとへ赴くことに反対するソニエに対し、
フェイは決然と己の意思を言明した。
 剣士としての勝負には敗れたものの、最後の一線では踏み止まっている。
自分はまだ負けていない。英雄の誇りは失っていない。
 カジャムの背を追って仮本陣へ赴くフェイには、その矜持が支えであった。


 フェイ一行とテムグ・テングリ群狼領が同じ町に宿を取った―――と一口に言っても、
馬軍を構成する全ての将兵を収容するには、小さな町一つでは余りにもキャパシティが足りない。
 多くの兵士は郊外に草原の民独特の丸みを帯びたテントを設営し、
エルンストら一握りの幹部のみが町側から提供された役場に陣を置き、そこを宿所と定めた。
 野営慣れしているエルンストは、狭苦しい役場よりも兵馬と共に郊外のテントで休みたいと主張したらしい。
主張と言うよりは、駄々をこねたと表したほうが正しいかも知れない。
 それでは兵士たちに示しが付かないとデュガリに説得され、渋々仮本陣へ引っ込んだそうだが、
役場の一室に持ち運ばれた組み立て式の天蓋にも、おそらく彼は見向きもしないだろう。

 ………そんな取り止めのない世間話をカジャムは何度か披露してみせたのだが、
フェイはそのいずれにも言葉一つ返すことはなかった。
 無風流に構えることなく相槌でも打ってやればよかろうが、彼の意識は既にエルンストとの直接対峙にのみ向けられており、
余計な“雑音”などは右から左へすり抜けるような状態であった。
 余りと言えば余りに無愛想ではあるものの、カジャムのほうも強張ったまま崩れそうにないフェイの面構えから
その心中を見通しているらしく、フレンドリーシップに溢れた世間話を悉く無視されても不満を垂れるようなことはない。

(大したものだな。兵権を執るとはこう言うことなのか………?)

 目的の場所へと向かう間、役場の渡り廊下で多くの将兵とすれ違ったが、
各所に配された警護兵に至るまで誰一人として戦勝に浮かれるような者はおらず、直立不動で己の持ち場を厳重に守っていた。
 言うまでもなくエルンスト側についた彼らは勝利者だ。それも並みの勝利ではない。
エンディニオンに覇を唱えんとする傑物に仕えると言う名誉を手に入れたのだ。
 群狼夜戦の大勝から間もなく、尚且つ自分たちの傘下に降った町での宿営となれば、
浮かれ気分でどんちゃん騒ぎをしていてもおかしくない。それだけの大勝利を彼らは得ていたのである。
 にも関わらず、勝ったことへの驕りは末端の兵士にすら感じられなかった。

 如何にエルンストの練兵が優れ、また全軍へ行き届いているのかは、彼の足元に跪く将兵の姿を見れば瞭然。
 成る程、世界最強の馬軍と謳われるだけのことはある。統率力も部隊の士気も、全ては高い水準で維持されていた。
 改めて己が挑まんとしている相手の大きさにフェイは身震いした。これは怯えではなく、あくまでも武者震いの類である。


 仮本陣が置かれたのは、役場の中で最大のスペースを持つ会議室だった。
 会議室の四方には青地に白くテムグ・テングリ群狼領の紋章が染め抜かれた幔幕が張られており、
引き戸を開けただけでは室内の様子を全く窺うことができない。
 幔幕の裾をめくり上げ、中に入るよう促したカジャムに言われるがまま、
仮本陣へと足を踏み入れたフェイは、そこに思いも寄らぬ物を見つけ、刮目と共に絶句した。

 仮本陣へ居並ぶのはデュガリ、ブンカンと言ったテムグ・テングリ群狼領の最高幹部たちである。
言うまでもなくその中心にはエルンストの姿が在った。
 皆、軍装を解いて白色の服へと着替えていた。上質な絹で織られたその装束は、
テムグ・テングリ群狼領の間で用いられる正装だ。
 宝石と言った華美な装飾がなく、一見すると質素な造りのように見えるのだが、
染め糸による刺繍が随所に凝らされており、銀白の生地がこれを秀麗に際立たせていた。
エルンストの装束には金糸が、カジャムの物には銀糸が、それ以外の将兵には赤銅の染め糸が使われている。
各人の立場からも察せられるように、同じデザインの正装でも糸の染め色によって位階が区別できるのだ。

 格式ばったことを好まないのか、正装の襟を逞しい胸板が覗けるほどに大きく開け広げたエルンストは、
花嫁のヴェールを彷彿とさせる銀白の絹織物を頭に被っている。
 胸元へ掛かる長さにまで伸びた両サイドの髪をエルンストはそれぞれ三つ編みにして束ねているのだが、
絹織りの一枚布は極めて薄く、戦塵にまみれて痛んだ毛先までくっきり透けて見えた。
 エルンストが頭に被る長方形の絹織物は、身に纏った正装と同系色であるが、
こちらには刺繍の類は一切施されておらず、見た目には質素…と言うよりも、染糸映える着衣との対比は貧相ですらあった。
 しかしながら、この白布はテムグ・テングリに伝わる由緒正しき宝物であり、
価値の基準を類例に求めるなら、それは王冠に等しい。
 フェイと言う英雄との対面に際してエルンストは相応の礼を尽くしているのだ。

 正装をもって英雄を迎えた仮本陣の中央には円卓のテーブルが設えられており、その机上には―――

「…な…ッ―――べ………?」

 ―――目を丸くするフェイがあんぐり開け広げた口から漏らしたように、
ど真ん中にガスコンロで熱せられる土鍋が鎮座ましましていた。
エルンストから目配せを受けたデュガリ――すかさずエプロンを付けたあたり余念がない――が鍋蓋を開けると、
真っ白な湯気が立ち上り、その彼方から黄金色の海を泳ぐ肉や野菜が顔を覗かせた。
 紛うことなき鍋料理―――カレー鍋である。
 カジャムが引き戸を開けた瞬間に香辛料の良い匂いが鼻腔をくすぐった為、
もしや…とフェイも考えはしたのだが、まさか勘違いではなく本当にカレー鍋が用意されているとは。

「そろそろ頃合のようだ。汁飛びが厭な者は前掛けを付けろ」

 鍋に向かって粉チーズの容器を逆さにしたデュガリの言う通り、
黄金色の海面で弾けた気泡からはスパイシーな香りが立ち上り、これを鼻腔に誘い入れただけで口内が涎で満たされていく。
 隠し味として投下された粉チーズは黄金色に独特の深みを与えた。スープに絶妙なコクが加わった証でもある。
 とろけるくらいによく煮込まれた具からは、旨味エキスがたっぷりと染み出しているだろう。
 鍋の主役は何と言っても連峰が如くどっしり構えた肉の塊だが、これはテムグ・テングリ群狼領の食生活に欠かせないラムであった。
 酒に漬け込むことによって羊の肉特有の臭みを霧散させ、なおかつ旨味成分を更に引き出している。
スープで煮込む前、下ごしらえの段階で軽く焼きを入れてあるのも重要な工夫だ。 

 宿敵と見なした相手との鼎談――それも、非常に複雑な心情を抱いて、だ――と意気込んでいただけに、
唐突以外の何物でもないカレー鍋の登場にはフェイも戸惑いを隠しきれずにいる。
 呆然と立ち尽くしているフェイに「さぁさ、食べ頃よ」と声をかけたカジャムは、彼をエルンストの向かい側の席へと誘った。
 促されるままに着席すると、果たして手元には取り皿、小鉢、レンゲに箸一膳と鍋料理を食べるのに適した品々が取り揃えられている。

 これでは鼎談ではなく会食だ。
 せっかくエルンストを正面に見据えられる席へ案内されたと言うのに、
やたら大きな土鍋と、そこからもうもうと立ち昇る白い湯気が両者の間を隔てている為、絶好の位置関係も殆ど意味を為していなかった。

「一同揃ったところで、いただきます―――」

 そうブンカンが音頭を取った直後、エルンストの箸が超速で鍋に伸びた。
箸を手に取り、鍋底に敷き詰められていたほうれん草を掬い上げるまでの挙動は余りにも速く、
虚を突かれて意識が明後日の方向に飛んでいた影響もあるが、フェイの目には残像すら追うことができなかった。
 まばたき一つの時間である。
 刹那の間に瞼を開閉させると、机上に置かれたままだった箸が瞬間移動でもしたようにエルンストの口の中に埋め込まれていた。
 これを鍋への飽くなき執念と見るか、それとも腹が空き過ぎた為に肉体が限界を超えて動作し、食べ物を求めたと見るかは別として、
手品のような箸さばきを裏打ちする身体能力は驚異的としか表しようがない。
 その身体能力をもっと他のことに使ったらいいのに…とはカジャムから入れられた暢気なツッコミだが、
対座するフェイはあまりに敏速な箸の動きに目を見張り、頬を強張らせたまま硬直してしまっている。

 当のエルンストもフェイに一瞥こそくれたものの、たったそれだけで彼に対する興味を失ってしまったのか、
今は完全にカレー鍋へと意識が集中していた。
 じっくりと味が染みるまでよく煮込まれたほうれん草を口いっぱいに頬張り、噛む度に溢れ出す旨味を堪能すると、
続けて彼はラム肉の塊に箸を向けた。
 一部のラム肉は、ダシを取る為に骨付きのまま鍋の中に放り込んである。
まさにこれはカレー鍋のスター的存在であり、エルンストは我先にと狙いを付けたのだ。
 器用にも骨の部分を摘んだエルンストは、どうやら同じ物に狙いを定めていたらしいブンカンの恨めしそうな顔を見やりつつ、
お目当てのラム肉へ豪快に?り付いた。
 旨味たっぷりのカレースープとラム肉から溶け出した脂が彼の舌を、いやさ全味覚を歓喜の絶頂にまで連れ去り、
文字通り、その余韻を噛み締めるかのようにしてエルンストは深く頷いた。深く、深く頷いて見せた。

「いただきます―――ではありませんッ! 一体全体、これはどういう了見なのか! 
なぜ、この場に敵を同席させるのです!?」

 思い思いに食事を堪能するエルンストらに向かって噴火の如く批難の声を浴びせかけたのは、
円卓に同席するテムグ・テングリ群狼領幹部のひとりであった。
 赤銅と言う糸の染め色からもわかるようにデュガリらと位階を同じくする者なのだが、それにしてはだいぶ若い。
 年齢のことを言うならエルンストやカジャムも若輩の範疇に入るのだが、彼らよりも更に年若く、
おそらくはアルフレッドやフィーナと同じ年頃であろう。
 デュガリやブンカンと言った壮年の幹部たちに囲まれるとその若さが過剰なまでに際立ち、
ともすれば幹部の器に足るのかと懐疑を抱いてしまうのだが、彼はれっきとしたエムグ・テングリ群狼領の将士である。
 それもデュガリやブンカンと言った最高幹部が列するこの場への同席を許される身分。
テムグ・テングリ群狼領が誇る騎馬部隊の百人隊長を任されたこの男―――
ビアルタ・ムンフバト・オイラトは、青年将校の星とでも言うべき猛将だった。
 群狼夜戦の折には別働隊を率いて地下水脈を抜け、ザムシード軍に背後から猛襲を仕掛けると言う輝かしい武功を立てていた。
 その道中にてアルフレッドと遭遇し、仲間を逃がす為に単身特攻してきた彼を捕縛したのもビアルタの判断であった。

 後頭部を丸々刈り上げている為、挙動をする度に炎のように揺らめく豊かな黒髪は、
アンバランスにも頭頂部のみを覆うに留まっている。
 後ろ髪――と言っても、全体的には眉間へ微かに掛かる程度の長さで切り揃えられている――を
真ん中あたりから一条だけ細長く伸ばし、これを更に二房に分けて結わえ、
肩から胸元にかけて垂らしているのだが、あまりにもいびつなそのシルエットは、不格好に飛び出した枝葉のようにも見えた。
 これが笑いのツボに入ったらしいブンカンから椰子の木のようだと揶揄されたビアルタは、
あわや刃傷沙汰へ及びかねないほど激怒した…という逸話がテムグ・テングリ群狼領の将兵の間で語り草になっているのだが、
そうからかわれるのも無理からぬ話である。

 その“椰子の木”をさんざんに振り乱すことでビアルタは憤激の深さを体現しているようだ。
 ブンカンは「風に揺られて南国気分」となどと内心で考えたものの、
余計なことを言って話をややこしくすることを憚り、この場は口にしっかり封をしておいた。
 ………これから数時間後、ビアルタの髪型にまつわる“逸話”が新たに一つ増えることになるのだが、
それはまた別の話。

「毒でも盛られたらどうしますッ!? この男は義兄様の…いや、御屋形様を狙う刺客ッ! 
そんな危険人物と食事など………私には理解しかねますッ!」

 ―――“義兄”…と、ビアルタはエルンストを指して呼んだ。それは同席する幹部たちが誰一人として口にすることのない呼称である。
 その呼び方が示す通り、ビアルタにとってエルンストは妻の兄であり、育まれる縁と情は臣下のそれよりも遥かに深い。
 最高幹部に列した上、エルンストを含める古豪を相手に礼儀を失するような大喝を浴びせても許されるのは、
妹婿と言う立場があったればこそである。
 無論、立場の上にあぐらを掻くことなく武功を重ねるビアルタ個人の努力は、他の将兵も認め、敬うところだ。

 もともとビアルタは、テムグ・テングリ群狼領と敵対する一勢力の長・オイラト族の御曹司であった。
 エルンストの父が存命だった時代にこの勢力はテムグ・テングリ群狼領との戦いに敗北。
御曹司を含むオイラトの一族の身柄と引き換えに民の保護を申し入れたのだが、
始末を決するにあたってビアルタの才能を惜しんだエルンストは、
先代頭領に具申して自身の妹を娶らせ、隷属関係でなく親族として迎え入れていた。
 ビアルタが妻としたのは、エルンストの腹違いの妹だった。
 当然ながらオイラト配下の民を無血で手中に収めると言う政治的な計算は働いていただろうが、
しかし、エルンストが情を持たざる非情の人間であったならビアルタが命を拾うことはなく、有能な将を失っていたこともまた然り。
 ビアルタはオイラト族を断絶の危機から救い、且つ己の才能に賭けてくれたエルンストに絶対的な忠誠を誓っていた。

 それだけにエルンストを狙う刺客のフェイを、よりにもよって食事の席へ迎え入れた幹部たちに大いに立腹しているのだ。
 「義兄様も自分の立場を弁えていただきたい」とエルンスト本人を咎めるだけに留まらず、
隣席で春雨を頬張っていたカジャムにも奥方としての勤めを果たすようにとビアルタは叱責を飛ばした。
 よほど頭に来ているのか、その眉間に青筋を走らせ、また両頬を激情でもって真っ赤に染め上げている。

 ………だが、かく言うビアルタの小鉢には、羊と一緒に煮込まれていたジャガイモが堆く積み上げられており、
また彼の首からは衣服と同系色のエプロンが垂れ下がっていた。
 よくよく目を凝らすまでもなくエプロンには黄色い染みが点々と付着している。
それはつまり、義兄に負けず劣らずカレー鍋を堪能していたことの証明に他ならない。
 エルンストたちを批難するにしても警戒すべき対象をほったらかしにしてカレー鍋をじっくりと味わっていては、
いくら正論に基づいているとは言え、ノリツッコミと大差なかった。

「そもそもフェイ・ブランドール・カスケイドなど呼びつけてどうするおつもりなのですか。
この男がライアンの縁者とは聞いています。しかしながら―――」
「―――お前の心配性にも呆れたものだな、ビアルタ。相手は英雄殿だぞ。
そうした立場に居る人間が毒などと言う卑劣な真似をすると思うか? 
………全く、少しは肝が据わってきたかと思ったが、まだまだ青臭いな」
「………デュガリ殿がそれでは困ります! あなた様はテムグ・テングリの柱! 
本来であれば御屋形様の軽率を諌めるお立場ではありませんか!」
「お前の義兄様がカスケイドを呼ぶように命じたのだ。
作戦中ならいざ知らず、個人の趣味―――それも良い大人のすることまでいちいちワシが面倒を見ることもなかろうよ」
「それが重臣(おとな)の勤めでは!?」
「そう言うのはな、むしろ保育士の仕事だよ」
「デュガリ殿!」

 ビアルタから寄せられる苦言の数々へ耳を傾けているのかいないのか、エルンストは黙々と食事を続けている。
 追加の肉を投入しようとしたカジャムを咳払いで制し、生煮えの野菜へ箸をつけようとしたブンカンを鋭い眼光でもって押さえるなど、
なかなか手厳しい鍋奉行のようだ。

「………追い出されるのは構わないが、こちらとしてもあなた方の真意を確かめるまでは退くに退けないな」

 いちいち無礼な態度が癇に障るものの、ビアルタの発言自体はフェイにとって助け舟にも等しいものだった。
 カレー鍋の登場によって意表を突かれ、そのまま場の空気に飲み込まれて硬直を余儀なくされていたが、
ビアルタが言うようにフェイはテムグ・テングリ群狼領に仇なす敵対者としてここに在るのだ。
 お互いがお互いを宿敵として認めている筈であり、それ故に暢気にも夕餉の席へ自分を招いた真意を確かめねばならなかった。

「お前の気まぐれのせいで、ワシはまた要らん苦労をしなくちゃならんらしいぞ、エルンスト。
いい加減にその気分屋を直してもらいたいものだな」

―――と、溜め息を一つ吐いて捨てたデュガリは、小鉢の横に並べておいた酒瓶を一気に呷った。

 仮にも“御屋形”を呼び捨てにするとは不敬の極みであり、即時処断を申し渡されてもおかしくないのだが、
無礼講なのか、あるいは作戦行動以外ではこうして砕けているのか、
デュガリの不届きな物言いにもエルンストは苦笑いをするばかりで、訂正や謝罪を強いるようなこともない。
 周りの幹部からもデュガリの不敬を罵る声などは上がらなかった。僅かにビアルタただ一人が眉を顰めた程度である。
 おそらくエルンストとデュガリは平素からこのように砕けたやり取りを交わしているのだろう。
主従と言うよりも背中を預け合う戦友と呼ぶほうが相応しいようにも見える。

 しかし、その関係もプライベートな時間に限っての話だった。
 酒瓶を机上に置いた途端、デュガリはパブリックイメージで通るところの“エルンストの側近”の顔つきに戻った。

「真意を尋ねるのはこちらのほうだな、カスケイド殿よ。
貴殿は我らの留守中にハンガイ・オルスに―――我らの本領に土足で踏み入ってくれたそうな。
正々堂々とやって来るならいざ知らず、出征で手薄になったところへ潜り込むとは卑怯にも程がある。
これを非礼とは言わないのか、貴殿の物差しでは」

 先ほどまで愉快そうに崩していた表情(かお)を剽悍に引き締めたデュガリが、
挑戦的な眼差しを向けてくるフェイと相対した。

「正面突撃だけが勝つ為の手段ではありませんからね。たった三人―――まあ、記者を含めれば四人だが、
そんな少人数で大軍に仕掛けるほど僕らも愚かではない。命懸けの戦いと命知らずの無謀は違う」
「英雄殿とは思えんお言葉だな」
「そっくりそのままお返ししようか。………テムグ・テングリ群狼領には優れた作戦家がいると聞いていたが、
勇気と無謀を履き違えるような軍で満足しているようでは、どうやら大したこともなさそうだ」

 「おやおや、今時珍しく純粋な方ですね。目の前にあるものをそのまま信じ込むことが出来る精神美は、
どうか大切になさってくださいな」とブンカンが口を挟むもフェイはこれを黙殺した。
 皮肉に対して皮肉で応戦し、そこへ入った横槍もまた皮肉。皮肉の応酬に終始しては、いつまで経っても話が進まない。

「僕らの潜入捜査を非礼と言いますがね、それではあなた方のしていることはなんですか? 
母なるエンディニオンを馬蹄で踏み躙り、狙った土地や人を望む、望まずに関わらず力で押さえつける侵略戦争は? 
………非礼と言うなら、これに勝る非礼があるのか? 女神を恐れぬこの残虐な侵略こそ詫びるべきだ」
「ほう? 詫びろと申されるか、我らに。テムグ・テングリ群狼領に」
「馬賊の恐怖に怯える全ての人に謝罪し、征服した土地をすぐさまに解放すべきとも付け加えようか。
………我欲の犠牲になって良い命なんてこの世にはない。そんなことはイシュタル様がお許しにならない!」
「犠牲とは辛辣。しかしながらテムグ・テングリの統治をご覧になっていないようだな。
それとも、まさか我らが統治する町や村の在り様を見ての結論がそれか? ………だとしたら片腹痛いとしか言いようがないな」
「片腹痛い? 僕はもう何度も笑いを噛み殺していますよ。………あなた方の理論は、完全に侵略者の目線でしかない」
「結構、我らは侵略者だ。貴殿の申すように標的とした土地も、人も、みな斬り従えておる。それは認めよう。
だが、この乱れ切った世を束ねる術がほかにあるとでもお思いか? 法律が意味を持たなくなった、この荒れ果てた世界に」
「理論として破綻していると思わないのか。それとも乱世を武力で鎮められると本気で考えているのか?」
「逆にお尋ねしよう。武力を以ってする以外にエンディニオンをまとめる手立ては何か」
「―――心だ。誠の心を以って接すれば、そこに人の和が生まれる。やがて和は輪となって広がっていく。
………あなた方には理解し難いでしょうがね」
「さすがは英雄殿、予想を立てるまでもない模範的な回答ですな。しかし、人間はそれほど純粋な生き物ではない。
強き力で導かねば動けぬ者、力で押さえておかねば災いを振りまく者―――
これらの者が貴殿の語る人の和を飲み込むとは思えませんな。
生き延びることは必ずしも美しくないと知っている連中は、清流よりも泥を選んで呑むものだ」
「やってみる価値はあるだろう? 人はみなイシュタルのもとに生まれた同胞。分かり合えぬことなど絶対に有り得ない」
「ほう………では、今、この場は如何かな? 貴殿は自分の理想論が我らに通じぬと申したばかりではなかったか?」
「揚げ足取りか、それとも詭弁か。どちらにせよ捻りも何もない挑発だな」

 舌鋒鋭いデュガリであるが、フェイも負けてはいない。
テムグ・テングリ群狼領本拠地での潜入捜査がバレていた事実を知らされても決して怯まず、
互いの大望と、これを語る弁舌を無形の刃に見立てて激しく斬り結んでいく。
 今のところは互角のまま鎬を削り合うような情況である。

 テムグ・テングリ群狼領は統治下に置いた土地へ管理役として代官を送り込み、彼ら独自の法整備を進めている。
 代官には武功を立てた将兵が選ばれ、税収等の義務・任務を遵守する限り、派遣先を望むがままに統治することができた。
知行地と言っても差し支えはあるまい。
 一口に“望むがまま”と言っても代官への内部監査は非常に厳しく、
エルンストの目が直接届かないのを良いことに領民に圧政を布くような者は、発見次第、死罪に処されるのだ。
 その結果、テムグ・テングリ群狼領の傘下に入る以前に比べてどの町でも治安が格段に回復している。
 治安が回復すると言うことは流通や交易の遅滞が防がれることにも等しく、これによって経済的にも他の地域に比べて比較的安定傾向にある。
 納税や万が一の場合の軍役が領民の義務として課せられるものの、生活を厳しく圧迫するほどでもなく、
エルンストの庇護の下に在る限りは穏やかな生活が保障されると言っても過言ではなかった。
 テムグ・テングリ群狼領統治のメリットを指折り数えて説いていくデュガリだったが、
フェイはこれを「独裁者の傲慢」とにべもなく切り捨てた。

 一方的かつ無礼な口上に立腹したビアルタは椅子を蹴って立ち上がり、
フェイに向かって「やはり貴様もグリーニャの人間だな! 口舌ばかり達者だ! 成る程、義兄様が招かれるわけだ!」と
激烈な怒声を浴びせかけた。
 デュガリへ吐きかけられる悪言の一切がテムグ・テングリ群狼領に対する侮辱だと認めたビアルタは完全に殺気立っており、
何時、フェイに向かって飛び掛るか知れたものではない。
 しかし、フェイはこれを一瞥しただけでまともには相手にしなかった。と言うよりもあえてあからさまに無視して見せた。
 仮にビアルタが襲い掛かってきたとしても軽く返り討ちにする自信があるし、
これを根拠にテムグ・テングリを蛮族と見なして徹底的に叩けるようにもなる。
 どう転んでもフェイの痛手にはならなかった。

 だが、待てど暮らせどビアルタが飛び掛ってくる気配はない。
 武辺を絵に描いたような面構えからもわかる通り、頭に血が昇りやすい性情ではあるが、
さりとて百人隊長を任されるだけの人物でもある。ここぞと言うときに冷静な判断を下せるだけの器量は持ち合わせているらしい。
 エルンストの御前で、それも彼が招いた客人に対して危害を加えることは、テムグ・テングリ群狼領にとって何ら益をもたらさない。
曲刀の柄へ手を伸ばすより先にビアルタは浅慮がもたらす結果を想像し、それが為に歯噛みして堪えた。

 苦虫を噛み殺したような表情(かお)を作りながら先ほど蹴倒した椅子を起こすビアルタに、フェイは拍子抜けする想いであった。
 ………しかし、そうなるとまた展開が変わってくるのだ―――

「いくら言い繕っても、侵略と独裁に変わりはない。そんなものに正義など宿るわけがないんだ」
「小善は大悪に似たり―――貴殿が自己満足で小さな正義をかざす度にもっと大きな救済が逃れることもある。
………真に民を想う心を持ち合わせているのなら、この意味をよくよく考えることだ」
「地獄への道は善意で敷き詰められている―――………ああ、この例えは誤ったかも知れないな。
テムグ・テングリの歩く道は、前にも後ろにも数万の髑髏が転がっているのだから」
「その髑髏の中には志半ばで斃れた将兵も含まれている。彼らの遺志を継げるのならば魔道とて望むところだ」
「イシュタルの裁きを受けた悪党まで我欲の正当化に利用するとは―――言い訳まで醜いな、お前たちは。
………悪党の成れの果てを言い訳にするなッ!」

 ―――英雄らしく毅然と立ち向かいながらもフェイは密かに焦りを感じ始めていた。
 フェイはエルンストと直接対決を演じる覚悟で仮本陣へ乗り込んできたのである…が、
言葉を交わすのはデュガリやビアルタと言った配下の者たちばかりで、馬軍の覇者と論を争ったことは一度たりともない。
 ビアルタの激昂にチャンスを得て口火を切った直後には、確かに論戦へ耳を傾けていた。
箸を進めつつも机上を飛び交う言葉の一つ一つに注意を払っている様子であったのだ。
 しかし、乱世の鎮撫に必要なものは誠の心であるとフェイが胸を張って断言した頃から全く興味が失せてしまったらしく、
今では完全に鍋との格闘に専念している。
 その鍋を挟んで対座していると言うのにフェイばかりがエルンストを意識し、肝心の“宿敵”は全く違う場所へと注意を向けている。
 歯車が噛み合っていないような、何とも表し難い座りの悪さがフェイの心を波立たせるのだ。

 エルンストのほうから呼びつけたにも関わらず、招きに応じてやって来た相手をこのような形で無視するとは半ば辱めにも近い。
 フェイからして見れば、全く相手にされないほうがまだ良かったかも知れない。
少なくとも精神衛生上は今よりずっと穏やかでいられた筈だ。

「………お望みの通りにグリーニャの人間を呼んできたけど、こんな世間知らずを相手にしたって時間の無駄じゃ―――」

 テムグ・テングリ群狼領の侵略行為をするフェイが「罪無き人々を戦火に巻き込み、
支配を誇るような悪党に正義はない」と口にしたとき、カジャムが露骨に顔を顰めた。
 痛いところを突かれての苦悶ではない。聴くに堪えない雑音で耳を傷めた人間が見せる、辟易とした表情(かお)であった。
 得意げに正義を語るフェイがよほど気に障ったらしく、口を突いて出た言葉にも悪意が込められている。
 片手を挙げて制したデュガリによって全て言い終える前に途絶されたが、そのまま続けられていたなら、
おそらくはビアルタ以上に辛辣な痛罵をカジャムは紡いでいただろう。

 聞き捨てならない罵声を受けたフェイはカジャムに反撃すべく身を乗り出した―――のだが、
その挙動は少しばかり腰を浮かせたところで終えることになった。
 幔幕を潜って仮本陣に現れたテムグ・テングリ群狼領の将士がエルンストへ何事かを耳打ちし、これを境に事態が変転したのだ。
 新たに仮本陣へ姿を見せたこの男もデュガリらと同じ位階にある。
 傘を思わせるような末広がりの長髪でもって上半身を包み、たっぷり豊かに伸ばした口髭を三つ編みに結わえたその姿は、
テムグ・テングリ群狼領の一員と言うよりも不審者にしか見えないのだが、彼の身元は正装を飾る糸の染め色が確かに証明していた。
 シャンパンゴールドの帽子を被った様は、どことなくモミの木を思わせる。長髪と髭は針葉、帽子はてっぺんを彩る星の飾りのようだ。
 だが、間違ってもその男から帽子を取り上げてはいけない。ましてや帽子の中身を見て吹き出してはならない。
 風で帽子が飛ばされ、不意打ちに“中身”を見てしまった若い兵士が生まれてきたことを後悔するような目に遭ってからと言うもの、
それはテムグ・テングリ群狼領最大の不文律となっていた。
 この男を―――ドモヴォーイ・ガンエルデネを河童と呼ぶなかれ、と。

「御屋形様、ドモヴォーイは一体………」
「………例の件だ。ジョゼフ・ルナゲイト、強運と言うよりほかない」

 余談はともかく―――ドモヴォーイと言う名の毛むくじゃらの男がもたらしたのは、
先だってルナゲイトで発生した新聞王暗殺未遂事件、つまりジューダス・ローブによる爆弾テロの報であった。
 ドモヴォーイによってたらされ、またエルンストの口から説明がなされた新聞王暗殺未遂事件のあらましには
ブンカンもビアルタも表情を引き締めていく。
 ジューダス・ローブによる爆弾テロはテムグ・テングリ群狼領が手引きしたものではなかったが、
エンディニオンの覇権を争うジョゼフの安否には将兵みな神経を尖らせて注視していた。
 爆弾テロの結果がエンディニオンの勢力図を塗り替えることは明白であり、
“未遂”と言う今回の結果は、テムグ・テングリ群狼領にとって期待に反するものだった。

 「爆破された現場に居合わせて生き残ったのでしょう? 客寄せの自作自演だったのではないですかね。
悪事の限りを尽くしたあの老翁が運に恵まれているとは思えませんね。
真っ先に裁きを受けそうなものですが」

 そう毒づいたブンカンをデュガリは不謹慎だと窘めたが、彼とて本音は同じ筈である。

 ジューダス・ローブがジョゼフを狙うと言う情報を掴んだ直後、
ドモヴォーイはセントラルタワーへ密偵を放ち、内情を探っていたそうだ。
 しかし、ジョゼフも然る者である。
 潜伏していた密偵の殆どがルナゲイトのエージェントによって迎撃されてしまい、
新聞王の生存確認を携えて戻れた生き残りは、たったの一人であった。
 ジューダス・ローブがジョゼフ暗殺を仕損じたと言う速報を最後の密偵から伝えられたドモヴォーイは、
その足で仮本陣まで駆けつけたのだ。
 あらかた具も片付き、底が見えようとしている鍋の底へ直に箸を突っ込んで
カジャムから顰蹙を買うドモヴォーイは、野暮な風体も含めてまるで俊敏には見えないのだが、
彼こそがテムグ・テングリ群狼領の隠密部隊を率いる長なのだ。

 そのドモヴォーイからもたらされ、次いでエルンストより語られた新聞王暗殺未遂事件は、
ソニエを恋人に持つフェイにとっても重大な関心事なのだが、
徹底的に打ちひしがれた彼の耳には、目の前で交わされる会話の内容など入ってはいない。

 エルンストから発せられた声。ただのそれだけが心をへし折るほどにフェイを打ちのめしていた。
 彼が何を語ったか、その内容は問題ではない。

 ドモヴォーイの耳打ちについてデュガリから尋ねられたエルンストが返事をしたとき、
フェイは生まれて初めて彼の声を聴いた。それまで決して自分に向けられることのなかったものを、だ。
 向かいの席に着座していながら応対の一切を配下に任せたきり、
一言も発することなく黙々と食事を進めていた彼が、相槌すら打とうとしなかったこの男が、
デュガリの問いには答えた。
 テムグ・テングリ群狼領の面々には何の変哲もない、ありふれた光景であったろうが、
これまで黙殺に近い仕打ちを受けてきたフェイの目には、
皮肉や当てこすりではなく明確な攻撃として映った。
 誠の心を引き裂こうと図る無慈悲な攻撃として、だ。

 熱弁を振るった正義の論理は、配下の耳打ち一つよりも価値が劣るということなのか―――
宿敵として相対しているつもりでいたエルンストから自分が極めて低く値踏みされていると感じたとき、
フェイは目の前が真っ暗になった。
 屈辱が脳を蝕み、思考も視界も、全てを黒く塗り潰していた。
 肩を並べる宿敵と勝手に思い込んでいたが、その実、愚かなピエロだったと言うことだ。
 剣士として敗れても、人々の代表として…英雄としては決して譲るまいと心に決めていたフェイにとって、
それはあまりにも残酷な結末であった。

 ジョゼフ暗殺の失敗を受けて次なる作戦行動へ移ろうと言うのか、
屈辱に打ち拉がれるフェイを置き去りにしてエルンストは仮本陣を出て行こうとしている。
 今まさに幔幕を潜ろうとしていたその背中にフェイの声が追いすがった。

 逃げるのか―――と。

 風に吹かれて消え入りそうな、か細く、怯えたように震える呼び声が、
あるいはフェイにとって最後の矜持と言えるものだったのかも知れない。

「………………………」

 臆病者を詰るような物言いに闘志を駆り立てられたのか、それとも縋りつくような声が憐れみを誘ったのか、
黙して語らぬエルンストの真意は判然としないものの、
今まさに部屋を出ようとしていた彼の靴音をフェイはその場へ引き止めることに成功した。
 やにわに振り返ったエルンストは、血の気と生気が失せて蒼白くなったフェイの顔をじっと見つめ続ける。
 時間にして数分であろうか。陰湿なまでに黙殺を決め込んでいたエルンストが、今、初めてフェイとまともに相対していた。

 カジャムを傍らに控えさせているエルンストは、その場から一歩たりともフェイへ近付くことはなかった。
 それはそのままエルンストとフェイを隔てる“距離”と同義であった。
両者の間に広がる、埋めようのない距離がそこに顕れていた。

「お前の正義はどこから生まれて、どこに向かおうとしている」
「………なにっ?」
「お前の力の源は何だ。何がお前に正義を語らせるのだ」
「………………………」

 距離こそ縮まらない。歩み寄ろうとする素振りすら見られない。
崩れることのない互いの距離を射貫くように、エルンストは初めてフェイに向けて直言をしていた。
 デュガリらを仲介に通さない完全な形での“会話”が、ここに至って成立した。
焦がれるほどにフェイの望んだ直接対決の場が生まれたのである。

「それは―――」

 ようやく待望の機会を迎えたフェイではあるが、先ほどまでデュガリらに見せていた流水の如き正義の迸りが、
どう言うわけか、一向に出てこない。
 言葉に詰まったきり、次第に伏し目、俯き加減になっていき、
ついにはエルンストの顔をまともに見られなくなってしまった。
 あれほど望んだ直接対決にも関わらず、フェイの視線はエルンストから完全に逸れ、
いまや眼下の机上をあてどもなく彷徨うばかりである。

「………力なき人々を守る為に僕は―――」
「―――我欲にまみれているのはお前のほうではないのか?」

 己の正義に縋ろうとするフェイをエルンストの突き刺すような一声が制した。

「………先刻、悪党の成れの果てと言っていたな。
ならば、問おう。お前の掲げる正義とは、本当に他者の為に在るものか?」
「何を………言う………っ!」
「お前は俺ではなく、どこか遠いところに向けて喋っている。
どこかの誰かに正義を見せつけて満足している。少なくともその相手は俺ではない」
「………」
「俺にはお前の言うこと為すことが我欲にしか見えん。
さも正論のように聞こえるお前の正義は借り物の仮面だ。その下に何がある」
「………………」
「“逃げるな”と俺に言ったが、………逃げているのは、お前のほうだろう」
「………………………」

 誰よりも強く我欲を抱いているのは、テムグ・テングリ群狼領に向かってこれを糾弾したフェイ本人―――
思いも寄らぬ指摘に弓で弾かれたような勢いで顔を上げたフェイがそこに見つけたのは、
つい先ほどまで浮かんでいた筈の興味の相好が消え失せ、満面を失望の色で染めるエルンストの姿であった。
 軽蔑も侮辱も、何もない。値踏みすら放棄した冷たい眼差しがフェイの痩身を貫いた。
 隣ではカジャムが嘲りの表情(かお)を見せているが、フェイのパーソナリティに価値を定めている分だけ
まだ向き合った状態と言える。
 エルンストの眼差しは、フェイと相接する点を探ることすらできないものであった。

「我らに恨みを持つ者であれば相手もしてやったのだが、………憂さ晴らしに付き合うほど俺も暇ではない」

 ………それが、本当の最後であった。
 エルンストはもう二度とフェイに向かって振り返ることはなく、背を向けたまま仮本陣を出て行ってしまった。
 とうとう両者の“距離”が縮まることはなかった。否、縮まるどころか、かえって広がってしまっている。
おそらくこの先、一生かかってもその距離を変えることは出来まい。


 心の奥底を、誰にも見せたくない部分を無遠慮に踏みにじられ、明確な痛みに苛まれるフェイはともかくとして、
傍目にはエルンストが何を言いたいのか、さっぱりわからず、ビアルタなどしきりに首を傾げている。
 エルンストの言行は、おそらくフェイにしか通用しないものだろう。
真意を理解できるのは、これを言われた本人のみに限られる。
 エルンストはフェイの心の一番深いところを抉り、惨たらしく八つ裂きにしていた。

「軍議を開くぞ。方々、野営地に移ろう」

 エプロンを外しながら夕餉の席に列した同胞たちへそう申し渡したデュガリは、
「せっかく来たのだから、シメのカレーうどんくらい食わせてくれんか」と
不満を垂れるドモヴォーイの腕を引っ張って足早に仮本陣を後にした。
 デュガリもまたフェイへの興味を失っているらしく、茫然自失の風情で立ち尽くす彼になど一瞥もくれなかった。

「御屋形様のライアン贔屓にも困ったものですよ。同郷だからと言って、それが一体何だと言うのやら………」
「想い出話でも聴きたかったんじゃないのかな? それ以外に何も思いつかないしね」

 デュガリらの後を追って退室しようとしていたビアルタとブンカンの会話がフェイの耳を打つ。
それは痛烈な痛みを伴いながら脳へと伝達され、更なる動揺をフェイの精神に落とした。

「待てッ! どう言う…どう言う意味だ………ッ!?」

 反射的にふたりを呼び止めたフェイではあったが、そこから先に言葉を続けることはできなかった。
 ………と言うよりも、先へと話を続け、エルンストが自分を招いた本当の意図を知ることに
恐れをなしたと言い表すほうが正しいのかも知れない。
 それはつまり、エルンストの“意図”をフェイ自身が察していることに他ならないのだ。

 憔悴しきった様子からその心中を見抜いたビアルタは、ブンカンが止めるのも聴かずにフェイのもとへ歩み寄り、
いきなりその胸ぐらを掴み上げた。
 鼻先スレスレまで引き寄せたビアルタは、頬を震わせるフェイに向かって「おめでたい野郎だ」と吐き捨てた。

「くたばり損なったルナゲイトの爺さんに、ヴィクドの“提督”、タイガーバズーカのスカッド・フリーダムに
ファラ王とか言うグドゥーの大商人…我々は常に大勢の敵に囲まれているんだ」
「それは、お前たちが人の道に背いたからで―――」

 最早、虚勢を張ることしかできないまでに疲弊しているフェイをビアルタは容赦なく突き飛ばし、
無様に尻餅をついた彼に更なる追い打ちをかけた。

「………野良犬がきゃんきゃんと煩いんだよ。遠吠えは手前ェの縄張りに帰ってからにしてくれ」

 お前程度の雑魚など履いて捨てるほどいる。自分たちが相手にしているのはより大きな敵だ―――
エルンストならいざ知らず、アルフレッドとさして年も変わらないだろうビアルタにまで
徹底的に詰られたフェイは、足下が崩れ去るような錯覚に苛まれていた。

「想い出話ひとつも聞けないようでは、御屋形様もさぞつまらなかったでしょう」

 去り際にブンカンが残していったこの一言に全てが集約されていた。
 やはり自分は馬軍の覇者に相手にもされていなかった。
互いを宿敵として認め合っていると言うことは、傲慢にも等しい思い込みあったのだ。
 竜殺しの実績も剣匠の名声も、エルンストからして見れば
馬蹄によって踏み越えていく有象無象の一つにしか過ぎなかったと言うわけだ。
 蹄鉄の下に虫けらが這っているか否かなど、馬上の者は考えることもない。

 ………そして、そこに考えが及んだとき、フェイはようやく自分の置かれている立場を悟った。

 自分はグリーニャの出身だったから招かれた。
 アルフレッドと同じ村の出身と言うことでエルンストは興味を抱いた。
 アルフレッドの縁者だからこそカジャムを遣いに出した。
 言い換えれば、アルフレッドの縁者でなければ、グリーニャの生まれでなければ、
エルンストには見向きもされなかったわけである。

 食事の席に招かれたのではなかった。
 食事のついでに会ってやる。その程度の扱いをされていたのである。
食事のついでくらいしか割いてやる時間もないのだ、と。

 自尊心の塊ではないにせよフェイにもプライドはある。それなりに名声を博したとの自負もあった。
 その夜、フェイの中で幹を為す矜持の全てが最も残酷な形で打ち砕かれた。







(乗り越えたハズなのに………もうグリーニャなんかに囚われる必要もないと思っていたのに………)

 ………乗り越えたハズの闇は、今、再びフェイの胸に浮かび上がり、宿主にこう語りかけていた。
 それはそれは優しく、穏やかで、………だからこそ神経を逆撫でする声色でそっと囁いていた。


 ―――フェイ・ブランドール・カスケイドと言う存在を疎み、蔑み、受け容れようとしなかった、
あの忌まわしいグリーニャの人間が、どうして………。


「………気にするな………」
「………ああ………」

 追想を経、深みに嵌りかけたフェイの意識を現実世界へと引き戻したのは、
やはりケロイド・ジュースの声だった。
 フェイが語ろうとしない仮本陣での顛末について、深く尋ねることなく沈黙から全てを悟ったケロイド・ジュースは、
「お前が生きるのはここだ」と諭すように親友の腕を強く、音がするほどに強く叩いた。
 その気遣いは確かにフェイの心に響き、自我崩壊の危機に瀕した彼を救った。
腕に感じる痛みは、昏い闇に惑うフェイを正しい帰路へと導く灯火に等しい。

 フェイの心へ垂れ込めるドス黒い靄は、希望の灯火に照らされたことで光の彼方へ消え失せようとしている。
 その靄が見せていた幻影もまた実体を維持できなくなっていた。

 だが、消滅の最中にあって黒い靄は軋みのような音を立てた。
鼓膜にこびり付いて鎮まってくれないその軋み音は、幼い子どもの泣き声を思わせるものであった。
 その泣き声にフェイは誰よりも聞き覚えがある。いや、聞き覚えがあるなどと言うものではない。
 闇の彼方から聞こえてくる泣き声は、フェイ自身のものであった。
 黒い靄が見せていた幻影へ―――血の海に沈む亡骸へ鎮魂歌の代わりに重ねられる慟哭は、
幼いフェイが上げていた。




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