6.Come here! Sepia's bears それは、どこかの世界の、(多分)ありふれた寓話―――プラスチック製のマイホームと、 透き通った我が家を中心として円状に広がった木彫りの地平で起こる不思議な不思議な物語。 その世界には色彩と言うものが存在せず、見るもの、触れるものの全てがセピア色で塗りたくられていた。 真っ赤な血。例外的に真っ赤な血の雫のみがセピアな世界で唯一、鮮やかな色彩を許されている。 真っ赤に染まることが、この世界における至高の自己表現であるかのように。 「―――あんた、今、なんつった? ガチャポンって何よ。生活かかってんのよ、こっちは。 …もしかして、あんた、稼ぎをガチャポンに突っ込んだんじゃないでしょうね」 「クール・ベアー、キミはロマンと言うものがわかってナイよ。いたいけな少女たちが眠りから起こされるのを待ち侘びてるんだよ? ガチャポンの狭い狭い箱ん中から広い広い世界へ飛び出す日をね。 美しい眠り姫に手を差し伸べるなんて、オスにとっちゃ死ぬまでに一度は叶えたいロマンなんだもん」 「何一つも糧になる物を生み出さない非生産的な趣味に生活費使い込んでおいて、どの口がほざくか。 つーか、ガチャポンだかロマンだか、知らないけど、オモチャ屋の前に置いてあるんなら、 あんたがやらなくたって誰かが救ってくれるじゃないの? ワーキング・プアを地で行くあんたが生活費ブッ込んでまでやり続けなくても、どこぞの誰かが」 「フフフ………わかってるって、わかってるって。マサコ、キミはジェラシってるんだろ? 大丈夫、大丈夫! ロマンとラブは別物だよ。そこらへんの分別はオレも付けてるから! オレたち、世界でたった一組の熊だもんな!」 「その現実を突きつけられる度にあたしは世界でたった一匹の熊になりたくなるのよ」 「またそうやって強がっちゃって! 孤独は辛いもんじゃん。誰かがいてこそじゃん。 ガチャポンの箱ん中から外の世界に飛び出す少女と同じように」 「孤独だろうが何だろうが、無味無臭のフィギュアをさも生きてる女の子みたいに扱うクレイジーと 顔を突き合わせながら生きるよりマシだわ」 セピア色の世界で許された至高の自己表現を全うできたからなのか、 真っ赤な血を口元から垂らしつつも極楽にでもいるような表情で横たわっている肥え太ったオス熊は、 『ワイルド・ベアー』を自称し、つぶらながら全く輝きの見出せない濁りきった瞳で相方を見つめている。 その視線が癇に障ったのか、ワイルド・ベアーの相方は情け容赦なくその眼窩を 全体重を乗せたストンピングでもって踏みつけた。 メキメキメキ…と耳を覆いたくなるイヤな音で軋んでも一向に手加減する素振りを見せず踏み続け、 唾どころか痰を吐き掛けて侮蔑の限りを尽くすのは、信じられないことだが、どうやらメスの熊らしい。 ワイルド・ベアーに負けず劣らず愛らしい風体ではあるものの、 全身から迸る残虐性は口調からして呑気な相方とは比べようが無いほどに凄まじく、 眼窩を蹂躙しても飽き足らないのか、今度は贅肉の盛り上がった太鼓腹を蹴り付けている。 腹の肉を弾いているのではない。肋骨の粉砕を狙って的確に胸部を蹴って、踏んで、躙っている。 サディスティックな――けれど表情はどこまでも無表情で、残虐行為へ恍惚している風には見えない――相方のことを ワイルド・ベアーは『クール・ベアー』と呼んだ。 クール・ベアーと言うのはコードネームなのだろうか―――時折、“マサコ”と本名と思しき名前で呼びかけてしまい、 その都度、子供には絶対に見せられないお仕置きを叩き込まれるのがワイルド・ベアーにとっての日常茶飯事であった。 コードネームを用いるような作戦の都合上、是が非でも隠匿しておくべきハズの本名で軽々しく呼びつけ、 毎回毎回、律儀にも首を三回転半させられるワイルド・ベアーの無残な姿を日常茶飯事と言ってしまって良いものかは、 社会通念上、いささか憚られるところがあるものの、『セピアな熊ども』にとってヴァイオレンスな掛け合い漫才は空気を吸うのと殆ど同じ。 まるまる太ったワイルド・ベアーの太鼓腹が原形を留めないほど拳と蹴りのスタンプで蹂躙されているのも、 クール・ベアーが痙攣する相方を見下ろしながら何の表情も浮かべない――怒りや呆れも感じられないのだ――のも、 『セピアな熊ども』には紛れもない“生態”であった。 しかし、クール・ベアーのワイルド・ベアーに対するお仕置きは、単に生態の一言で片付けては行けないように思える。 いくら“生態”として強烈な攻撃本能が備わっているとはしても、相手が濁りきった瞳の持ち主であろうとも、 思いやりがほんの細微でも残っていれば、間違っても、肋骨をへし折られて悶える相方の速頭部を 飛び膝蹴りで追い撃ちするような真似はすまい。 気の弱い人間が見たら、まず間違いなく卒倒してしまうであろう凄絶な仕打ちは、 ワイルド・ベアーの五体へ完全に無関心でなければ不可能であった。 そして、クール・ベアーは、文字通り、冷徹な面持ち――と言うか、全くの無表情――でこれをやってのけた。 手加減と言った感情が少しも含まれていないクール・ベアーの両手は、今、ワイルド・ベアーの頸部を締め上げている。 ほんの数秒でも経てば、泡を噴き始めているワイルド・ベアーの面から生気が抜け落ちるのは確実だ。 本気で殺しにかかっている―――掌で引っ叩かれ、今にも死にかけているたった一匹の蚊を相手に 強力な殺虫剤を底が尽きるまで噴射するのと同じように、クール・ベアーは本気でワイルド・ベアーの始末にかかっている。 押し潰して当たり前の蚊トンボ程度にしかワイルド・ベアーのことを見ていない証拠だった。 「だ、大事なものが入ってるかも知れないじゃないか。プレミア付いちゃってて二度と手に入らないレアものが ガシャポンで出回ってるってさ、オレ、よく聴くもん。見逃したら世界が終わっちゃうようなレアものが―――げぶゥっ!」 「だったらあんたもそうしてやるわ。大好きなガチャポンと一緒におなりなさい。 全身の骨をバッキバキにした後、生きたままガチャポンの玉ン中に詰め込んでやるから。 自分の大好きなもんと同じ恰好になれるまで、せいぜい頑張ることね。途中でぽっくり逝くのがベストなストーリーだけど」 「し、死なない! オレは絶対に死なない! クール・ベアーを絶対に一匹にはせんぞぉーッ!」 「殺し文句のつもり? 鼻でも笑えないわね。自分を殺そうとしている相手に殺し文句を投げるなんて芸当、 トミー・リー・ジョーンズレベルでなきゃ只の自虐ネタよ」 「オス熊界のジーン・ハックマンと呼ばれたオレだぁー! ね、狙えるだろ、トミーさんレベル!」 「………エステル・パーソンズに引き裂かれてこい」 「うッそ!? まさかの全却下!? オレのどこがジーンさんと違―――ひぎゃあああぁぁぁぁぁぁッ!」 息も絶え絶えのワイルド・ベアーが微かに残る力を振り絞った訴えにもクール・ベアーは耳を貸さず、 薄汚い囀りを黙らせるには声帯を潰すしかないと判断したのか、彼女は締め上げていた首から両手を離すと その喉笛へと腰の入ったパンチを打ち込んだ。 近くにあったプラスチック製のマイホームが震動で揺らいだことからも、恐るべき力が込められていたと窺い知れた。 本気で殺しにかかっているだけはある。 拷問に近い仕打ちを浴びせ続けられるワイルド・ベアーも哀れは哀れなのだが、 彼の訴えは自己弁護にすらなっていないのだから、クール・ベアーにとっては耳を貸す貸さない以前の問題だ。 過度とは言えどもワイルド・ベアーには顔面をボロボロにされ、肋骨を粉砕され、喉笛をも潰されるだけの罪が歴然としてあるのだから。 「だ、誰か! 誰かぁー! たぁすけてぇーッ!!」 「あたしら以外に誰もいないと抜かしたのはどこのどいつだ。そんなことも忘れたのかしら」 ――――――長々長々長々とグダグダな漫才をお見せして申し訳ございませんでした。 一応、お断りを入れておきますが、このお話は<トロイメライ〜その声を忘れないで>でございます。 愛くるしい容貌と裏腹に血とヴァイオレンスに支配された熊二頭の繰り広げる世紀末ダーティー・ストーリーが SFロマン軍記に差し替えられたのかと混乱させてしまい、読者の皆さまには誠に申し訳ございませんでした。 「じゃかしいわいッ! ええ加減にせぇや、おどれらぁッ!! 」 どうやら、混乱しているのは<トロイメライ>本編の登場人物たちも同じ模様。 思わずはしたない言葉遣いをしてしまうくらい混乱しきっているみたいです。 「なんやねんな、ホンマ! リーヴル・ノワール廻るんに必要なネタやっちゅーから、 忙しいとこ、付き合うてやったちゅーのに………見せられたのがこないなコントって! おふざけも大概にしとけや!」 ………がなり声を挙げて頭を掻き毟っているのは、タイガーバズーカ特有の訛りからも判る通り、ローガンである…が、 彼は言わば代弁者のようなもので、腹の底から迸った雄叫びは、居合わせた全員の総意であった。 「まるでオチがあらへんやんか! ええか、おどれら! 笑いをナメとったらアカンで、しかし! オチをきっちりオトしてこそコントは成り立つんやッ!」 「………いや、オチは関係ないだろう、オチは」 一部に“全員の総意”とローガンの憤慨との間に微妙なズレがあったらしく、そこにはすかさずアルフレッドが修正を入れておいたが。 「起動した直後のクオリティに期待した私が愚かでしたかね。 人間さながらの思考ルーチンと感情パターンを兼ね備えたナビゲーション・ソフトなんて、 早々お目にかかれるものじゃありませんし。雅やかに着飾った弁論家の紳士ほど、 腹の底を探れば単なる無能、浅はかな虚勢とは良く言ったものですね」 「無能でも虚勢でも良かったけどよぉ、どーせ意味ねぇコントに付き合わされるんなら、 色っぽいお姉ちゃん型のソフトにしといて欲しかったぜ、俺っちは。お陰で萎え萎えのシオシオだっての。 今からでも遅くねーから、ナイスボインのお姉ちゃんがセクシーでウッフンなソフトに交換してくれや」 先を急がなくてはならないハズのアルフレッドたちが謎の茶番へ付き合っているのには理由があった。 リーヴル・ノワールの探索中にメインコンピューターへアクセスする為の端末を発見したのだが、 これを起動させた際に施設内をナビゲートしてくれるソフトも一緒に立ち上がった。 そのナビゲーション・ソフトと言うのが、ワイルド・ベアーとクール・ベアーのコンビと言うわけだ。 擬似的な人格を与えられたことにより、既存のソフトウェアに比べて遥かに感情豊かに、 且つ、当意即妙なやり取りが可能となったナビゲーション・ソフト『セピアな熊ども』へ、 早速、リーヴル・ノワールの概要を尋ねたアルフレッドであったが、結果はご覧の有様。 二匹の熊たちはアルフレッドの質問に答えるどころか、頼んでもいないのにコント・ショーを演じ始めたのだ。 アクセスした人間を導くと言う本来の仕事を完全に放棄し、 あまつさえ視聴者置いてけぼりのコントを垂れ流すなどナビゲーション・ソフトとしては欠陥品も良いところである。 ローガンの憤激にも含まれていた通り、「リーヴル・ノワールにまつわる特別なヒントが隠されてマス」と 吹聴してアルフレッドたちの興味を引き付けていたのだが、結局、手がかりと言えるものは何一つ拾えなかった。 二十分近いコントへ根気良く付き合いながらも何の意味も見出せなかったのだ。そう判断せざるを得ない。 尤も、安いにも程がある三文芝居へ重要な意味を見出せと強いるほうが無理な話だろう。 コントの出来栄えが良ければ多少は許せたかも知れないが、見せられたのは”喜劇”とは名ばかりの、 ヴァイオレンス映画も監督も裸足で逃げ出すような残虐ショー。 『セピアな熊ども』が仕掛けた詐欺の二乗には、さしものアルフレッドも眉間へ青筋を走らせていた。 その残虐ショーもナビゲーション・ソフトが見せたバーチャル映像の一つなので、 一度リセットが選択されれば、さんざんにボコボコにされたワイルド・ベアーも全身を痙攣させる危篤状態からたちまち完全回復。 丸々とした太鼓腹を揺らしながら元気いっぱいに画面上を走り回っている。 その好調ぶりが癪に障って仕方ないのか、心の底から嫌悪感を湧き立たせたクール・ベアーは、 「クール&ワイルド〜ふたりは最高!」などと喚いて抱きついてくるワイルド・ベアーの頬をローリングソバットで吹き飛ばした。 本気で殺しにかかる姿勢は、コントの間だけギャグで見せていたものではなかったらしく、 クール・ベアーのキックをまともに喰らったワイルド・ベアーの首は高速二回転半し、 その間、木の枝が捻り切れるような不快な音を立て続けた。 「邪魔者は消えた。これで静かに会話が出来るな」 「あら、そこの優男はなかなか賢いのね。話の早い男は嫌いじゃないわよ」 「それは光栄だな。俺もあんたとは話が合いそうな気がする」 またしても全身痙攣の危篤状態へ逆戻りしたワイルド・ベアーを無慈悲にも蹴り一つで画面外へ跳ね飛ばしたクール・ベアーは、 何事もなかったかのような振る舞いでアルフレッドたちに向き直った。 画面の隅にほんの少しだけはみ出している足が、時折、思い出したようにビクッと跳ね上がる様子が妙に生々しく、 ローガンやセフィの顔を顰めさせたが、それすらクール・ベアーは意に介していない。 アルフレッドもアルフレッドで、ワイルド・ベアーの安否には毛ほども興味が無く、 初見でもボケの暴走特急と判るような相方と正反対にまともな思考を持っているだろうクール・ベアーと会話を続けたかった。 二頭揃うからコントが始まるのである。クール・ベアーのみに集中したほうが有益な情報を引き出せるとアルフレッドは考えていた。 そもそも電気信号が生み出すバーチャルな彼らに“死”と言う概念が訪れるとしたら、 ソフトウェアかコンピューターのいずれかが完全破損したときだ。 どうせコンディションをリセットすれば、先ほどのように完全復活するに違いない。 つい数秒前まで小刻みに痙攣していた足が完全に沈黙してしまったからと言って気にするだけ無駄な労力だと言えよう。 「単刀直入に訊こう。この施設は、一体、どう言う類のものなんだ? 見かけは病院のようだが、それにしてはセキュリティが厳重過ぎる。何らかの機密でも隠してあるのか? いずれにせよ人目を遠ざけようとする意図があるのは明白だ」 「あらま、本当にストレートに来たわね。もうちょっと言い方ってのが無いわけ? カノジョに嫌われるわよ、そんなつまらない性格じゃ」 「放っておけ。………お前も一端のナビゲーション・ソフトなら、その役割を遂行して欲しい。 俺の見立てでは、そこでノビている欠陥品とお前は中身が違うように思えるのだがな」 「比較対照を使った口説き文句も感心しないわね。もっと別なことにボキャブラリーをお使いなさいな。 友達減らす原因(もと)よ、そーゆーのは」 「ナビゲーション・ソフトにはわかるまいが、口の悪さも人間社会じゃ個性の一つでね。 これでも友人は多いほうだよ。敵も少ないとは言えないがな」 「なかなか愉快な回答ね。あんたの爪の垢をどこぞのオス熊の脳味噌へ直接ブッ込んでやりたいわ。 まあ、仮にブッ込めてもあんたとクソとじゃ脳のスペックが違い過ぎるから互換性も無さそうだけどね。 すぐに臨界起こしてメルトダウン………っと、これじゃあさっきまでと同じ流れになるかしら」 「自覚して貰えて良かったよ。俺はまだ会話を楽しめるだけの余裕があるが、 仲間のほうは限界が近付いているみたいだ」 「いつの間にやらジト目の集中砲火ね―――まずは、そう、リーヴル・ノワールって名前の由来からナビしようかしらね」 他愛の無い雑談を交えてからクール・ベアーが切り出したのは、リーヴル・ノワールの由来だった。 ようやく話に進展が見られたものの、さんざんに焦れてストレスの溜まっていたローガンは 「回りくどいやっちゃで、ホンマ!」と頭を掻き毟り、ヒューもヒューで「焦らすのはオトコの仕事だろ!」とブツクサ漏らしている。 バンダナ越しにガリガリと赤髪を掻くローガンはともかく、ヒューが持ち出した例え話はお下劣極まりなく、 隣で聴いていたセフィは露骨に口元を歪め、咳払いでもって彼の下品を諌めた。 「それにしてもリーヴル・ノワールとは皮肉な名前もあったものだな。これは意訳すれば“黒書”だ。 黒書と言う名称を付けておきながら全面白塗りとは、一体、建築家は何を考えていたんだろうな。 白塗りにこだわった建築家の意図と裏腹に発言権のある第三者が、景観も何もかも無視して 勝手に黒書と名付けてしまった………と言うパターンであれば、心から同情するが」 「オシャレの一種ではありませんかね。聴き慣れない言語を使っておけば、 とりあえずスタイリッシュな印象が出せます。三流のアーティストがいかにも走りそうな安直な手法ですよ。 もちろんリーヴル・ノワールの光の屈折を計算し尽くした設計は芸術の域だと思いますけど、 だからこそ余計に“黒書”などと名付けたセンスに、私は画竜点睛を欠く思いがあるのです」 「ほうかいな? アンピバレンツなネーミング、ごっつええやんけ。 よう言い表せへん深みみたいなもんがでとる気ぃがするで!」 「つまり、ネーミング次第でこーゆーのが釣れるってわけか。今度、広告会社のダチにアドバイスしとくよ。 ま、俺っちも気持ちがまるっきりわからねーでも無いけどさ」 「―――HAHAHA! 銀髪もウィッグもバンダナもパイナップルも! 説明する前からイイ線行きまくりで ナビゲーション・ソフト的にはちょ〜っと複雑だぜぃ!」 ………案の定と言うべきか、予想通りと言うべきか。 初めて登場した折りと同様に何の脈絡もなく瀕死の状態から立ち上がったワイルド・ベアーは、 にわかにクール・ベアーが提示したリーヴル・ノワールの語源について雑談していたアルフレッドたちへ割り込むなり、 したり顔でなにやら講釈を垂れ始めた。 改めて確認するまでもないが、彼が発言することはこの場にいる誰一人として望んではいない。 画面と向き合うアルフレッドたちはもちろんのこと、クール・ベアーに至るまで全ての人々が、 何かにつけて話を破綻させるワイルド・ベアーを疎ましそうに睨んでいた。 「な・ん・で、ココがリーヴル・ノワールなのか知ってるかぁい? 知らないから訊いてんだもんね! 仕方がないから教えて差し上げますぜ! いや、教えるまでもなくネーミングからして 由来も説明済みなんだけどね。わっかるっかな〜、わっかんねぇかな〜。 銀髪のヒトが説明する通り、直訳すれば“黒書”だ。書ってのは書籍の“書“、書物の“書”! 見るからに建物ってか病院なのに“書”ってなんかおかしくね? おかしいよな。 ここに気付けるかでダメかで、イケイケか、ゆとりかが分かれるぜ。ちなみにオレはもち気付いたね! だってリーヴル・ノワールだぜ、リーヴル・ノワール。こんなネタバレな名前付けたヤツ、トンマだろ。 そんでもって、セキュリティシステムの山・山・山。おまけにこんな端末まで設置しちゃってさぁ、 もう間抜けとしか言えねぇよ。カモフラージュのつもりなのか、ブロックしてんのか知らないけど、 クリッターまでバラ撒いてんじゃん? 不審に思ってくれって言ってるようなもんじゃね?」 如何にも自慢げな表情でつらつらつらつら、くどくどくどくど並べ立てるワイルド・ベアーの煩わしいことと言ったら無い。 確かに説明そのものはリーヴル・ノワールにまつわることを話しており、探索にとって有益なのは認めるのだが、 合間に入る雑談が異常に長く、その上、どうしようもなくつまらない。 何より最も神経を逆撫でしてくれるのは、「キミたちってばそんなことも知らないの? 遅れてる〜♪」との自慢を 全面に押し出す不遜な態度である。 不遜と言うことあれば同系列の人間にホゥリーが該当するのだが、 言いたいことだけ主張して人の意見を全く耳に入れないと言う人間性以外では二人の傾向は正反対で、 お互いに別々の意味でどうしようもなかった。 いつでもどこでもスナック菓子を食い漁り、皮肉以外は基本的に口を挟まないホゥリーと、 間食はしないものの、いちいち回りくどい上に自己主張が強く、更には必要以上に口喧しいワイルド・ベアーではどちらのほうがマシか――― この二者択一では選ぶに迷うところだが、少なくとも今現在の感覚としては、 後者の熊を完全に始末してしまいたいとアルフレッドたちは異口同音で頷き合った。 特にアルフレッドだ。 これ見よがしの大声でセフィに「俺にハッキングが出来れば、すぐにでもアンインストールしてやるんだがな」と話し、 どうせなら怪我でなく自分と言う存在そのものをリセットして来いとまで吐き捨てた。 重要な情報源だけに相手を怒らせない程度の礼儀を弁えていようと無理に努めてきた彼も、 ここに来ていよいよ我慢の限界へ近付きつつあるようだ。 さりとて、重要なワードを散りばめているものだから彼の駄話を聞き漏らすワケにも行かない。 満面に鬱屈を浮かべながらも、アルフレッドたちはただひたすらにワイルド・ベアーの駄話に付き合い続けた。 目的の為とは言え、全く面白くない話を耐えねばならないのだから、まさしく苦行、悪い言い方をするならば生き地獄である。 「メインコンピューターにアクセスできる装置がそこかしこにあるってことは、 メインコンピューターと何かチャネリングできるってことじゃん? 大宇宙の真理を受信すんのかね? いやいや、オレとマサコの愛のメモリーがデータサーバーに保存してあっ――――――ごゥぼォッ!?」 無論、クール・ベアーがそのような勝手をワイルド・ベアーに許すはずもなく、 得意げにリーヴル・ノワールのことを説明していた彼の後頭部をラリアットで打ち据え、 太鼓腹に並ぶチャーミング・ポイントの一つである団子鼻を地面へ叩きつけた。 背後から襲いかかってきた強烈な衝撃でまたしても首をやられたワイルド・ベアーだったが、 彼の存在そのものを疎んじるクール・ベアーは冷徹なる追撃の手を休めず、 何か言いかけている彼の口へ自身の右足を強引にねじ込んだ。全体重をかけて喉の奥までねじ込んでいった。 途中、鉄の板がへし折られたかのような耳障りの悪い音が響き、その直後にワイルド・ベアーの身体から一気に力が抜けた。 つい数秒前まで抵抗の力が働いていた下顎は完全に力を失ってだらしなく開け放たれている。 素人目にもワイルド・ベアーの額関節が粉砕されてしまったことが判った…が、 それでいて誰も心配や同情をしないあたりにメス熊の尻ばかり追いかけているオス男の人となりと言うものが理解できるかのようだった。 クマを相手に“人となり”と言うのもおかしな表現であるが。 「今、あたしたちがこうして会話をしていられるのも端末装置のお陰じゃない? 別のフロアにあるから、あなたたちは知らないだろうけど、このテの端末装置はリーヴル・ノワールの至るところにあるわ。 そして、端末装置と言うからには、必ずどこか源流に繋がっているはず。例えば、メインコンピューターとかね。 人目を寄せ付けない為の厳重なガードと、どこかへアクセスできる端末装置。 それからリーヴル・ノワールと呼ばれる由縁。………こうして並べ立てていけば、 おぼろげながら見えてくるんじゃないかしら? “黒書”と呼ばれるこの場所が、果たしてどんな役割を担っているのか」 「無かったことにしたッ! 相方の存在を無かったことにした!」とはローガンの弁だが、 別にワイルド・ベアーを蔑ろにしたクール・ベアーを責めているわけではない。 ローガンを含めた全員が、煩わしいだけで何の役にも立たないワイルド・ベアーの排除に踏み切ったクール・ベアーの英断を サムズアップで称賛していた。 実際、ワイルド・ベアーがその太鼓腹の脂肪と同じように引っ付けていた一切の無駄を削ぎ落とし、 再編集させたクール・ベアーの説明はとても簡潔で、非常に判り易かった。 やはり、説明と言う行為に必要なのは、物事の要点を突きつつ、無駄を省いて伝えようとする意思なのだ。 「黒い書物、か。………俺の推論が正しければ、もしや、ここは――――――」 何事か閃いた様子のアルフレッドに「ご明察」とウィンクしてみせたクール・ベアーは、 それきり口を噤んだ彼を後継し、この病院風の施設が、何故にリーヴル・ノワール…“黒書”と呼ばれるのか、 その核心に触れていった。 それはつまり、リーヴル・ノワールと言う名称が持つ本当の意味、本来の役割を解き明かすのと同義である。 「そ。一種の情報ライブラリーなのよ、………リーヴル・ノワールはね」 * 「情報ライブラリーねぇ…………今のとこはどこを眺めてもマッドな研究所にしか見えないんだけど」 「シェインの見立てに賛成だな。図書館って言うにはちょっと無理があり過ぎるぜ。 尤もどう言う形で情報を蓄積しているのかも知らねぇがな」 「ご挨拶ね、青髪アンド赤髪。一口に情報ライブラリーと言ったって、わかりやすく蔵書してある場所とは限らないでしょうが」 無数のデジタル・ウインドゥが中空に表示された白壁の一室で『セピアな熊ども』――案の定、 モニターにはクール・ベアーの姿しか映っていない。画面端から血のような液体が染み出しているが、 きっと気のせいだろう――を相手に間の抜けた顔をさらしているのは、 アルバトロス・カンパニー男子部とシェイン、フツミタマのコンビで構成されたリーヴル・ノワール探索の別働チームである。 彼らも探索先で発見した端末を通じ、『セピアな熊ども』に接触しているところだった。 会話の内容から推察できるようにシェインたちもアルフレッドたちと時同じくしてリーヴル・ノワールの由来を拝聴していたところらしい。 シェインたちのチームは地下を主なエリアとして探索を進めており、現在までに地上一階から地下八階までの全ての部屋を踏破していた。 最後にモバイルで連絡を取り合ったときには、他のチームは大型クリッターの妨害に手間取ってなかなか先に進めない状況にあり、 そうした中で一挙に八つのフロアを制覇してしまうとは異例のスピードと言っても過言ではあるまい。 かの伝説的な英雄、フェイですら最初の探索時には殆ど手を付けられない内に跳ね返されてしまったと言うのだから、 これは大きな自慢となるに違いない。 最初の内など五分も掛からずに一フロアを攻略していた程である。 チーム全員が力を出し合ってクリッターに挑めたことはもちろんのこと、トキハの知識がこの探索では大いに役に立った。 運送を専業とする職員が大多数を占めるアルバトロス・カンパニーでは極めて珍しいことなのだが、 トキハは通信制の大学で『特異科学(マクガフィン・アルケミー)』なる分野を勉強しながら学費を得る為に働く、 今時希少になった清貧を地で行く苦学生であり、科学者の卵だった。 配線の仕様で建物の構造を読み取ったヒューに同行して彼も制御システムへ向かったのだが、 実際にシステムと格闘したのは何を隠そうトキハ当人なのだ。 水準と規模の差はあれど、リーヴル・ノワールも科学の粋を集めて作られた施設である。 同じ“科学”を修めるからにはコンピューターなどの扱いに慣れているのではないか…とトキハに白羽の矢が立ち、 実際、彼の仕事ぶりは素晴らしかった。 一般にあまり馴染みのない学問である特異科学が扱う研究は実に多岐に渡っており、 例えばルーインドサピエンスが母なる惑星(ほし)より運び込み、 このエンディニオンへ遺したとされるロストテクノロジーの解明も考古学の意味合いを含みながら精力的に行なわれている。 と言うよりも、ロストテクノロジーの研究と解析は考古学でなく特異科学が専門とする領域であった。 これはロストテクノロジーの遺産や遺跡には電子的なプロテクトが施されている場合が多いことに起因している。 遺産や遺跡が発掘された年代や当時の風俗、 またそれらを複合させて得た手がかりから歴史的な意義を読み解くことが考古学者には出来るが、 ロストテクノロジーに施されたプロテクトを解除することは、履修した分野が全く異なる為に殆ど不可能に近い。 その点、寝る間を惜しんでロストテクノロジーと格闘している特異科学の研究者たちは、 多く場合、古代規格のコンピューターが組み込まれている件の遺産・遺跡の扱いにも慣れており、 プロテクトにアクセスし、それを解除するパスワードを抜き取ることも、強制的にプログラムをリライトしてしまうことも朝飯前だった。 所謂、ハッキングと呼ばれる技術にも自然と長じていくのである。 特異科学を修めてから本格的に考古学の道へ入る学者も多いのだが、その背景にはこんな裏話が隠されているのだった。 生憎、トキハは考古学にはさほど興味は無く、特異科学一本に絞って勉強を続けていくそうだ。 その決意と努力が結実したのか、はたまた、持って生まれた天性のセンスなのか、 こと特異科学に関する知識と技量は、彼が通う『アレクサンダー大学』の中でもトップクラスにあり、 いざ向き合ったリーヴル・ノワールのプロテクトを、ルーインドサピエンスの技術を模倣したモノだと看破しながら、 「これくらいならカップラーメンが出来上がるより早く仕上げられるよ」と慣れた手付きで全て解除してしまった。 プロテクトの解除に要したのは、ほんの一、二分。あっと言う間の鮮やかな手腕である。 ………以上がトキハのバックボーンにあたる話なのだが、これらはあくまで次なる問題を語る上での補足資料の域を出ない余談だ。 トキハにとって最重要とも言えるプロフィールを余談だったと簡単に切り捨てては、彼に投石抗議され兼ねないのだが、 問題はアレクサンダー大学が誇る俊英をもってしても勢いを持続し、更なる加速をさせられなかった点にあった。 確かに最初の内は破竹の勢いで各フロアを踏み破っていった―――そう、“最初の内”は、だ。 だが、下層部へ降りるにつれてシェインたちのチームは徐々に足取りを重くしていった。 単純に大型クリッターの強さの前に立ち往生していた訳ではない。 別な場所でアルフレッドたちが覗き込んでいるものと全く同種の端末が至るところに設置されており、 それらを調べている内に段々と時間が狭まり、当初のような加速が利かなくなったと言う次第である。 ならば無視して先に進めば良いではないか―――細々とした行動(コト)がとにかく苦手なフツノミタマは 律儀にも一つ一つ端末を起動させて調べ回るシェインたちへ「焦れったい、ウザい」と不満をぶちまけたものだが、 シェインに腕を引っ張られてモニターの真ん前に座らせられ、そこで見せ付けられた映像には目を丸くし、 以来、決して端末を無視しろとは言わなくなった。 断っておくが、シェインの機転を誉めちぎったわけではない。 どうあっても無視せざる衝撃的な内容が、モニターを通してフツノミタマやシェインたちの心を凍りつかせた…と言うことだ。 『セピアな熊ども』が別な映像に出番を譲っているモニターには、遍く生物へ備わる生命力の神秘が映写されていた。 ………いや、“神秘”と言う響きから連想される美しい映像などではない。美しさなど微塵も見受けられない。 人工的に受精させられた卵子からガラスの筒の中にて生命の萌芽が発生し、 時を経て胎児へと成長していく―――人為が含まれる点に自然の摂理を脱したなどの倫理を問われるかも知れないが、 それを除けば至ってありふれた光景である。 新たな生命が芽吹く瞬間に感動こそ覚えるくらいだ…が、次第に胎児の骨格はヒトの持つそれから脱し始め、 やがてクリッターを彷彿とさせる畸形へと変貌し、ついには醜悪なる化け物と成り果ててしまった。 完全に化け物と化したケースはまだ恵まれたほうだ。 身体の一部のみが化け物となってしまい、歪みつつもヒトとしての面相を残しているケースなどは思わず目を背けてしまうほど憐れであった。 いずれにも共通するのは泣き声である。モニターの両端に備え付けられたスピーカーから漏れ出す異形たちの声は、 クリッターや獣の発する鳴き声ではなかった。 暗い洞穴の奥底より響く共鳴のようなその声は、紛うことなき赤ん坊の泣き声であった。 ヒトにあらざる姿に生まれながらも、その起源を呪うこともなく、ただただ誕生の喜びを謳い上げる産声であった。 起源も、異形も一切関係ない。そこに在るのは、エンディニオンへ新たに生を受けた無垢なる赤ん坊なのだ。 だが、ガラスの筒を出でて誕生の喜びを奏でた彼らの産声は、次の瞬間には凄惨な断末魔に変わってしまう。 誕生から間もなく突如として肉体に変調を来たした赤ん坊たちは、我が身を掻き抱いて震え出し、 頭を掻き毟るように苦しんだかと思うや、その場に崩れ落ちていった。 そう、文字通り、“崩れ落ちた”のだ。 何が起こったのか判らない――おそらく本人にも判らなかった筈だ――ものの、異形の赤ん坊たちは、 その肉体がドロドロに溶け始め、最後には跡形もなく肌色の溜め池と化してしまった。 骨格や臓器が…ヒトであった名残が溜め池の中を泳ぎ、肉体を失ってなお収縮を繰り返す瞳孔は、 生への渇望を、強く強く訴え、………数秒後に完全に沈黙した。 真紅に染め抜かれた瞳はいずれも天井を睨んだまま沈黙したが、本当は薄汚れた天井など見たくなかったに違いない。 天井を、屋根をも貫いた先に広がる虚空を仰ぎ、一度でも良いから陽の光を浴びたかった筈だ。 しかし、その夢は現世では叶わず、遥かなる来世へ持ち越されることとなった。 異形の誕生と一瞬だけの生、その後に訪れる終末までをシェインたちは見せ付けられ、為に誰もが言葉を失った。 トキハに至っては何とも表し難い吐き気を催したらしく、口元に手を当てたままその場に蹲っている。 状況が状況であったなら、醜悪な造詣のクリーチャーが登場するホラー映画から引っ張ってきたと疑えたかも知れないが、 シェインたちが『セピアな熊ども』にアクセスした地下八階の一室には、 モニターを通して見せ付けられた映像が、実際にこの場所で行なわれたことだと言う証拠が確かなカタチで存在しており、 それがトキハの胃を激しくノックするのだ。 入り口に『セクト:キマイラホール』と記されるプレートを掲げたその部屋には、 おそらく培養液と思われる液体で満たされたガラスの筒が数え切れないほど林立していた。 ガラスの筒と直結し、内部の環境をコントロール及び観測する為のものだろう機械が目を付く。 タッチパネル式のコンソールを覗き込めば、“試験体”の文字。ガラスの筒へ収容される胎児のコードネームと通し番号も、 生命の誕生を冒涜する文字の隣に添えられていた。 誰が疑えるのか。 部屋中に林立したガラスの筒の内側で起こり、その外で潰えた小さな生命を目の当たりにして、誰が疑えると言うのか。 あまりにも合致し過ぎている立地条件が、件の映像に揺らぐことのない説得力を生み出しているのだ。 これこそ情報ライブラリーと呼ばれる由縁、とクール・ベアーは淡々と語った。 「ココで行なわれていた生命工学の研究、その一部始終がメインサーバーに記録されてるのよ。 ココで得られたデータを別な研究に転用する為のサーバーにね。そう言う意図で作られたから、 リーヴル・ノワール…“黒書”なんて名前で付いたわけ。………今はもう研究が行なわれていないから、 本当に情報ライブラリーとしてしか機能していないけど」と説明する声は背筋に寒気が走るくらい無機質だ。 ナビゲーション・ソフトが発する声だけに当たり前のことなのだが、今はその無機質な声がやけに重く、冷たく感じられる。 「………表が病院みてぇな恰好ってのは、こう言うバカげた研究が行なわれてるってのを 隠す為のカモフラージュか? 答えろや、おい」 「そんな凄まなくても答えるわよ。おっかないスカーフェイスね。………カモフラージュでもあるし、 素材を確保する為の撒き餌でもあるわね」 「ちょ、ちょっと待てよ。俺サマ、耳が腐っちまったのか? あ、あんたの言うことが冗談でなけりゃ、 地上の病院ってのは、………おい、ウソだろ………ブラックジョークだっつってくれよ………」 「あたしはジョークってのが大嫌いなのよ。それに、言って良いジョークとそうでないジョークの分別くらいはつけられるわ」 「ありえねぇって………そんなの、絶対にあっちゃならねぇコトじゃねーか………」 フツノミタマの問いかけが引き出した恐るべき事実にダイナソーは満面に愕然とした表情を浮かべ、激しく頭(かぶり)を振った。 どれだけ頭を振っても、脳裏にこびり付いたモノを払うことはできない。それは自覚しているのだ。 だが、そうしなければ気がおかしくなってしまう。人間の生命を、人間としての尊厳を侵す研究が、 あろうことか同じ人間の手で行なわれていたことへの嫌悪と憎悪で塗り潰されてしまう。 正常な思考を保つ為、お決まりのマシンガン・トークさえも忘れてダイナソーは一心不乱に頭を振り続けた。 「素材…だぁ? おい、一体、何をほざいてやがる?」 「レディにエグい話をさせるわね。………病院と言う機関であれば研究内容に合致する人間の肉体を秘密裡にイジくることも出来るわ。 データ採取はもちろん検査にかこつけた細胞の抽出も合法的に可能よ。 死体から研究に必要な素材を得ることだって出来なくもない。それだけじゃないわ、 どうしてもモルモットとして使いたい素材を発見した場合、医療過誤の名目で――――――」 子供の前で話すのが憚られる部分へと説明が及ぶにつけ、クール・ベアーはシェインの様子を窺った。 彼女の気遣いを察したフツノミタマもシェインへ目配せするが、彼は二つの視線に頭を振って応えた。 ダイナソーがそうしたように自身の精神を侵すほどの嫌悪から逃れる為でなく、 この場所で行なわれていた全てを受け止めたいと願う真摯な決意である。 シェインの決意を見て取ったクール・ベアーは、承認を求めるようにフツノミタマを見つめ、彼が頷くのを待ってから説明を再開させた。 「さっきの映像にもあった通り、ココじゃ人工授精も平気で行なわれていたわ。体外受精なんか日常茶飯事よ。 そーゆー自然の法則に反した研究用の素材も、病院って撒き餌を使えば取り放題」 「………ココがイカれたカス共の巣窟ってことはわかった。本題はこっからだ。 そのカス共は、ココで、一体、どんな研究をしていやがったんだ? クソみてぇな方法でアレコレ採取していたらしいが、まさか趣味のコレクションじゃあねぇだろ?」 「一言で言うなら、人造人間の創出ってところかしらね。ここは生体研究を専門に扱う場所だったわ」 「人造人間、だってぇっ!?」 思いも寄らない研究内容にシェインは素っ頓狂な声を上げて驚いた。 「人造人間なんて、SFの中だけの話かと思ってたよ。いや、今の話を聞く限りじゃ、もっと原始的な――― フランケンシュタイン博士の怪物みたいなのも作っていたってことかい? 生きたまま電流流して筋肉の動きを確かめる実験とか………」 「いや、シェイン君………これはそんな生易しい話じゃないよ。そんなモノは御伽噺の世界に留めておくべきだ。 ここで行なわれていたのは、人類と言う種に対する反乱だよ。………そうだ、挑戦だよ、僕らに対する………ッ」 「クレームは備え付けの目安箱に入れて頂戴。もう研究者が目を通すことはないけれど、 それで少しは鬱憤が晴れるでしょう」 「僕の気分を心配してくれるのなら、もう一つ、質問に答えてください。 ………ここで働いていた研究者たちは、何の為に人造人間を作っていたんですか? 先ほどの映像を見る限り、単純に試験管ベビーを作っていたのではありませんよね。 途中、明らかにヒトのモノでない細胞が注入されていた。………意図的に異形の生物を生み出した理由を話してはいただけませんかね」 「………まあ………そう来るわよね………」 科学へ携わる者らしい疑問を挿んだトキハにクール・ベアーは、一瞬、言葉を詰まらせ、腕組みしたまま暫く黙り込んだ。 鋭い詰問に困惑しているかのような、話して良いものか躊躇しているような様子からトキハは クール・ベアーの思案を読み取り、果たしてそれは予想した通りのものであった。 「知的好奇心としか言いようがないわね。獣とヒトの細胞を掛け合わせたらどんな生物が産まれるのか? その経過と結果を知ろうとした実験が、さっき見せた映像なのよ」 「な………―――っ」 「映像には含まれてなかったけど、ヒトの細胞へ特別な因子を組み込もうとする試みもあったみたいね。 人為的なミュータントでも作ろうとしたんじゃないかしら。………末路は言わずもがなだけど」 「………………………」 予想した通りの内容であったからこそ、トキハは言葉を失い、両手で顔を覆った。 知的好奇心を満たす為の実験―――科学者の卵としてその理念には理解が出来るが、 科学者の卵だからこそ、その行為を容認することは出来ない。 同じ道を志す者が行なった忌むべき所業へトキハは吐き気すら覚えていた。 この研究に携わった一人ひとりの顔面へ唾棄して回りたい衝動が嫌悪と共に溢れ出しそうだった。 「じょ、冗談じゃねーよ。こんな………こんなヤバいもんが身近にあったなんてよ………。 い、いくら俺サマでも、正直、ブルッちまって………――――――」 堪り兼ねたダイナソーが身も世もない悲鳴を上げるのも無理からぬ話である。 地元フィガス・テクナーの近郊に廃棄され、軽い気持ちで入り口に落書きまでしていたリーヴル・ノワールが これほどまでに恐ろしい場所であったと思い知ったのだ。 錯乱もせずに悲鳴のみで済んだことは、ダイナソーに人並み以上の強靱さがあった証しだと誉めてやっても良いくらいだろう。 「クソったれが………ッ!! クソがああああああぁぁぁぁぁぁッ!!」 動揺するあまりいつもの騒がしさを失っているダイナソーと真逆に、 いつも通りの―――いや、普段の数倍もの大音声を張り上げたのはフツノミタマだ。 今にもクール・ベアーが映るモニターへ噛み付きそうな勢いで激昂し、 リーヴル・ノワールをも揺るがさんとする程の怒鳴り声を上げた彼は、正面に在って視界へ飛び込んできたガラスの筒を力任せに殴りつけた。 研究に適した硬度に強化された特別製のガラスらしく、フツノミタマの野太い豪腕をもってしてもヒビ一つ入らなかったが、 それでも彼は何度も何度も拳を打ち込み続ける。 しかし、彼の激昂を嘲笑うかのようにガラスの筒は左右へ震動するばかりでダメージを負った気配すら見られなかった。 「………残念だけど、その機械はアンタの力じゃビクともしないわ。右手まで駄目にするわよ。 ムカついてモノに当たりたいなら、せめて地団駄にしときなさい」 「るせぇッ! るせぇんだよッ!! こんなもん………ブッ壊さなきゃ気が収まらねぇッ!! ガキの命をゴミ同然に扱うてめぇらみてーなカスには、絶対ェにわからねぇだろうがなぁッ!!」 「コイツに当たっても仕方無いだろ。落ち着け、落ち着けって。コイツは単なるナビなんだからさ、研究にゃ参加してなかったってば」 「そう言う問題じゃねぇんだよッ!! そう言う問題じゃあ………ッ!! 黒書だかなんだか知らねぇが、 オレはこの腐れた存在が許せねぇんだッ!! ブッ潰してやらぁ………消滅させたらぁッ!!」 「オ、オヤジ………」 なにしろカルシウムが深刻に不足していると周りの人間から言われ続けるほどの短気である。 フツノミタマが怒声を上げることは全く珍しいことではない…が、今回はいつもと様子が違う。まるで違う。 迸る激昂も、滾らせる怒気も、フツノミタマから発せられる全てに今まで見たこともない激烈さが宿っていた。 普段は物怖じせずフツノミタマのがなり声に付き合っているシェインですらその恐ろしさに怯み、 足が竦んでしまっている。 「………そうだよ。こんな場所、エンディニオンに残しておいちゃいけない………!」 言葉こそ少ないものの、トキハも相当な怒りを感じているようだ。 正しき科学を志す者としても、この地で行なわれていた研究は決して容認せざる所業であったのだろう。 「………………………」 彼と肩を並べてガラスの筒を睨みつけるニコラスも、グローブが軋むくらい強く…強く左手を握り締めていた。 ダイナソーをして優男と言わしめる端整な顔立ちには、フツノミタマに負けぬほど激しい憎悪の念が滲んでいる。 満面に憎悪を、真っ赤な双眸に深い悲しみを称えながら押し黙るニコラスは、視線でフツノミタマの様子を追った。 自分の代わりにガラスの筒へ…生命の種子から悪夢を生み出す忌むべき試験管へ 怒りを叩き付けてくれるフツノミタマの様子を見守り続けた。 「ナメんじゃねぇぞ、クソったれがぁッ!!」 制止の言葉にも耳を貸さず、フツノミタマはガラスの筒を殴り続け、吼え声とて止む気配を見せない。 今や誰もがリーヴル・ノワールと言う存在に心の底からの怒りを燃やしていた。 「………どこぞの銀髪たちも同じリアクションをしていたね、マサ…クール・ベアー」 「無理もないわ。人間にとっちゃ、自分たちの種としての尊厳を踏み躙られるようなものだもの。 怒らないほうがおかしいわよ」 「当たり前だろ! こんなにフザけた場所だって分かってたら、あんなにウキウキなんか―――………って、何ぃっ!?」 何の脈絡もなく復活したワイルド・ベアーが、これまた何の脈絡も無くアルフレッドたちのことに触れ、 全く心の準備をしていなかったシェインは、最初、そのことを聞き逃すところだった。 「あんたたち、アル兄ィたちとも話したの?」 「厳密には会話ってのとはちょっと違うんだけどね。あたしらが直接話したんじゃないし」 「………意味がわからねーな。アルと話したんじゃねーのか、あんたら?」 「設定されたパーソナルデータは同じなんだけど、話してるのは別人ならぬ別熊なのよ。 サーバーを経由して記憶や経験も共有しているから、アンタらのお仲間のことも知っているわ。 でも、彼らとトイメンで話したのは、アンタらの目の前にいるあたしらじゃなくて、 パーソナルデータと記憶を共有している“別のあたしら”ってワケ」 「………わかったような、余計に頭ん中がゴッチャゴチャになったような………」 『セピアな熊ども』の説明を今一つ飲み込めていない様子のシェインとニコラスだったが、 「彼らはソフトが作り出したバーチャル世界のナビゲーターだからね。 複数の端末から同時にアクセスがあった場合、それに合わせて同じ数だけナビゲーターも作られる。 統一サーバーに記録された情報を、そこにコネクトしてるパソコンが共有しているのと同じ原理だよ」とトキハに耳打ちされて、 ようやく原理を理解することが出来た。 尤も、おぼろげにしかイメージが掴めなかったので、相互の関係性や仕組みを説明しろと強いられれば、 まず間違いなく言葉に詰まってしまうだろうが。 「噛み砕いて説明するとだねぇ、お前がオレでオレがお前で、みたいな?」 「それのどこが噛み砕いてんのよ。余計に意味わからないっつーか、的外れ以外の何物でもないわ。 ―――ほら、見なさいな。おチビちゃんも赤髪の彼も混乱しまくってるじゃないの。 ホント、クソの役にも立たないわね。あんたの存在する意義って、一体、何なのかしら?」 「改めて答えなきゃいけないの? て、照れるなぁ! オレの全存在はキミが一番よく知っ―――ぴゅぶッ!?」 「そうね。アンタに価値と言うものが発生しないのは、アタシが一番よく知っていたわね」 馴れ馴れしく肩に手を回してくるワイルド・ベアーを急降下踵落とし一発で撲殺したクール・ベアーは、 ふと思い出したかのように“別のあたしらと共有する記憶”とやらを一つ付け加えた。 「………金髪に青い髪飾りの女の子と黒衣の女性―――あの二人は泣いていたわね。 他の連中が怒り狂う中で、あの娘たちだけは………」 * クール・ベアーがシェインたちに話した通り、“金髪に青い髪飾りの女の子”ことフィーナと、 黒衣の女性と形容されたマリスは、ハーヴェストたちがヒトの道を外した実験へ憤怒する中にあって大粒の涙を流していた。 烈火の怒りではなく、深い悲しみが二人の心を満たしていた。 悪辣、非道、下衆…といくら軽蔑を並べても昂ぶる怒りを言い表すのに足りず、 ともすればやり場のない激情を裂帛の気合いに換えたハーヴェストが天井を震わし、 子を持つ母親だけに赤ん坊の命をモルモット同然に扱うような悪魔の所業を心の底から憎むディアナが 鋼板を敷き詰めた床を轟々たる鉄拳で揺るがす度、 朝露さながらに儚い二つの雫は眦から宙へと離れ、やがて空へと掻き消えていく。 「許せないよ、こんなのって………どんな命だって生きる権利があるのに………。 それをこんな形で裏切ることも………研究だって言い切ることも………絶対に…絶対に間違ってる………」 我が身を掻き抱いて肩を震わせるフィーナが呟いた言葉は、果たして、この地に眠る数多の魂へ届いただろうか。 外法を繰る悪魔の犠牲にされ、生まれたての無垢なる心に絶望のみを宿して崩れ落ちた赤子たちをほんの少しでも癒せただろうか。 強いられた死によって引き裂かれた彼らへの鎮魂になれたのだろうか………。 死者の声訊く術はこの場に参集した誰しも持ち合わせていなかったが、花の代わりに涙を捧げる弔いは、 惜しまれることも、悼まれることすらもなく潰えていった小さな魂たちへ安らぎを与えたに違いない。 母の抱擁、父の愛撫に成り代わって人間の持つ温もりを教えたに違いない。 この地へ怨念と共に留まっていた死霊たちは、生まれ、死して、初めて触れたヒトの温もりに安らぎながら、 今まさに天へと召されている最中だろう。そうに決まっている。 悪魔どもに弄ばれた幼い命を想って嗚咽し続けるフィーナの肩を抱き寄せたトリーシャは、 彼女につられるようにして涙ぐみながら「もう安心していいのよ。フィーのお陰で、皆みんな、ちゃんと成仏できたんだもの。 今は誰も悲しんでいないわ。絶対、喜んでくれてるって」と頭を撫でてやった。 それでも頭を振って涙を零すフィーナだが、彼女は自らに感じるほど無力な存在ではない。 彼女の流す弔いの涙は、怒りに任せて激昂するばかりだったハーヴェストたちに大切なことを思い出させたのだ。 駆られた激情へ素直に吼えることも人として正しい姿だ…が、そこには失われた命への弔いの念は無い。 人間として遵守すべき道徳と正義に基づく怒りの顕現は、その勢い故に往々として大切なことを見落としてしまいがちである。 「どこぞに隠れてンなら首根っこ掴ンで引きずり出してやるよ! 手前ェのしたことにケリもつけんとくたばっちまってンなら墓穴暴いてでもここまで連れてきてやろうじゃないか!」 「狂気に冒されたままでも構わないわ。徹底的に修正して、人間としての正義を、道徳を取り戻させるッ! 人間として懺悔させてやるのよッ! 人間が絶対にしてはならないラインを踏み越えてしまった、 その大罪を魂に刻み込んでッ! その重みを認めさせてッ! そのときこそ初めて贖罪が生まれるッ! 人間として罪を償わせなければ、ここに眠る子たちの無念が晴れることはないッ!」 何を想い、誰の為に激するのか―――フィーナの涙が気付かせてくれた大切なことを拾い上げたハーヴェストとディアナは、 改めてヒトの道を外した悪魔どもへの怒りを吼えた。 天へと逆巻き、地の底を烈震させ、世の影に潜むであろう忌むべき所業を執り行った悪魔どもを脅かさん限りに。 「………………………」 「マリス様? いかがなさいました、マリス様っ?」 「だ、大丈夫よ、タスク………少し気分が………優れないだけだから………」 ………しかし、朝露も霜を纏わせて生じるものと、雨を受けて玉を結ぶものとに分かれるように、 フィーナとマリスがそれぞれ流した涙にも、そこに込められた想いと言う点においては大きな隔たりがある。 マリスの頬を伝った幾筋もの雫は、弔いの涙とは全く異なるものだった。 もちろん、犠牲になった子らを憐れみ、その悲劇を悲しむ気持ちはある。 だが、それ以上にマリスの胸中を強く揺さぶり、その瞳を潤ませたのは、 怖気走るほどの落命を経て骸と成り果てた異形たちが醸し出す恐怖であった。 心の奥底から染み出した恐怖と焦燥が冷たい雫となってマリスの双眸に浮び、頬を濡らしていたのである。 だからと言って、断末魔と共に生身が崩れ落ち、骨と臓器のみを残して溶液と化すと言う骸へ、 ホラー映画を見ているときに押し寄せるような恐怖を感じたわけではなかった。 真にマリスの心を掻き乱したのは、溶液の溜池に浮ぶ二つの瞳だった。 血走った眼球の真ん中にある真紅の瞳と―――マリスが持つものとそっくり同じ色をした瞳と視線が交わった瞬間、 感情や理屈では説明できない恐怖が彼女の爪先から脳天までを駆け巡ったのだ。 死臭漂う溜め池に浮ぶ真紅の瞳は、同じ色の瞳を持つマリスにそう訴えかけてきた。 否、訴えるなどと言う生易しいレベルではない。 生あるモノ全てを怨むかのように溜め池の只中で憎悪の炎を渦巻かす真紅の瞳は、 そのおぞましい眼光でもってマリスを呪っていた。 「あ………あぁっ………ああ………っ………!」 どうしてお前だけが生き延びているのか。 同じ色の瞳を持っているのなら、お前じゃなく私が生き残る道があっても良いじゃないか。 なのに、どうして死神はお前でなく私を選んだのか。私は醜いからふるいに掛けられたのか。 一人だけのうのうと生き延びているお前を許すわけにはいかない。 一人だけ生を謳歌するなんて、何があっても許さない………………―――――― ………………同じ瞳を持つ者は、醜く爛れ落ちるのが絶対の運命なのだ……………… 最早、口と呼べる部位が失われている為に彼らは言葉を発する術を持ち合わせないが、 替わりに口より遥かに雄弁なモノを手に入れている。 それが、呪いだ。 肉体を失っても、生命を落としても、なお怨念を燃やし続けるおぞましき眼光の発した呪いは、 マリスの心を鷲掴みにしたまま決して離れてはくれない。 振り払おうとすればするほど、もがけばもがくほど、呪いを産み落とした怨霊たちは陶酔して哄笑(わら)い、 マリスの精神を蝕んでいく。 「マリス様ッ! しっかりなさってくださいませっ!」 「――――――っ………………だ、大丈夫だと言っているでしょう、マリス。 わたくし…は…こんなことでへこたれたりしないわ………っ」 今まさに溜め池へと引き擦り込まれそうになったそのとき、盟主の異変に気付いたタスクが一喝にてマリスを激励した。 これが功を奏し、危ういところで意識を現実世界へと引き戻すことが出来たマリスではあるものの、 濃い霧の向こうでもくっきりとわかる程に強烈な真紅の残影は、いつまでもマリスの脳裏にこびり付き、 一瞬でも気を弛ませようものなら再び彼女を呪いの支配下に置こうと虎視眈々狙いを定めている。 自分の肉体を奪い取ろうと這いずる影の正体を、マリスは遥か昔に身をもって思い知っていた。 アカデミーに通っていた頃、一秒たりとも休む暇もなく常に付きまとっていたモノにそっくりだ。 その影を踏むのは、この世に在らざる死神であった。 今でこそ完治して元気に過ごしているものの、以前のマリスは不治とされる遺伝子の病気を患い、 余命幾ばくもないと医者に匙を投げられるほど危険な状態が続いた時期がある。 アカデミーへ通っていた頃は特に発作が酷く、末期にまで悪化した病状が祟って普段から寝たきりの生活だった。 絶対安静の治療と言えば聞こえは良いものの、本質は殆ど軟禁と言う状況によって鬱屈が積もりに積もり、 それに比例して身体が衰弱していく。筋肉も気力も全てが萎えて減退されていった。 “死”と言う終末(モノ)が最も身近にあった頃、衰えゆく肉体に感じていた拭い難い絶望感が、 今、再びマリスを蝕み始めていた。 同じ色の瞳を持つ無残な亡霊たちのかけた呪いが、マリスの胸中で死の胎動を目覚めさせたのだ。 (アルちゃん………アルちゃん………っ! ) かつて全存在を平らげるかのようにして覆い被さってきた死の影から自分を救ってくれた恋人への――― アルフレッドへの想いを解き放ち、愛する彼の幻影を…いつだって自分を力づけてくれる愛の軌跡を瞼の裏へと描くことによって マリスは今にも塗り潰されそうな自我を懸命に保とうとする。 強く…なによりも強くアルフレッドを想い、彼への愛を貫けば、きっとアカデミー時代のように救われる。 今、ここに在る自分を確かに信じられる―――果たして、マリスのその試みは成功し、 溜め池で燃え盛る真紅の劫火の魔手と、再び心臓に早鐘打たせた死の影は彼女の裡よりすっかり消え失せていた。 そうして呪いを振り払う中、一つ勘付いたことがある。 どうして今になって死の影に脅かされる必要があるのだろうか。もうすっかり元気になっているのに、何故―――と 何度も何度も自問していたものの、翻って考えてみれば、 同じ瞳を持ちながら生き続けているマリスへ亡者たちが激しく嫉妬したことに端を発する現象なのだ。 妬み、忌み、嫉み、憎まれ、呪いをかけられるのも無理からぬ話かも知れない。 溜め池と化した異形の残滓は、どんなに生を渇望しても、最早、マリスのように生きて存えることは出来ないのだから。 彼らに出来ることとすれば、妬ましき生者どもの恐怖と絶望を煽り、僅かばかりの波紋をその胸中へ落としてやることぐらいである。 (思えば悲しい話なのですね………わたくしもあの子たち同様に何一つ世界へ残せないまま、 命の灯火が消えていたかも知れない………) 回顧の中に現れた真紅の瞳と正面から視線が交わった―――そんな錯覚に襲われたマリスは 追想にまで忍び寄る死の影を、頭を振って払い除けた。 (それにしても―――………) それにしても不思議なのは、どうして亡者たちの瞳にのみ過剰に反応してしまったことだ。 真紅の瞳を持つ人間が殊更珍しいわけではない。 アルフレッドはもちろん、短期間の内にニコラスやアイルと言った真紅の瞳を持つ人々ともたくさん知り合ったし、 それなりに交流してきたが、そのときには、別段、何かを感じ取ることはなかった。 皆、優しく好人物ばかりで恐怖を感じる機会などまずあり得ない。 なのに、今回に限ってどうして強迫観念が津波のように押し寄せてきたのだろうか? 相手が亡者だからと言うことだけでは説明がつかない気がしてならないのだ。 恐れとか怖気と言った感情レベルでの揺らぎではない。もっと根源的な――― マリス・ヘイフリックと言う人間の根っこの部分に在る魂(モノ)が、あの赤い瞳の亡者を嫌悪している。 そうとしか言い表せなかった。 ………………同じ瞳を持つ者は、醜く爛れ落ちるのが絶対の運命なのだ……………… 先ほどからこの言葉がマリスの耳から離れずにいるのだが、 『セピアな熊ども』が見せたライブラリー映像の中にこんな言葉が含まれていた訳ではないので念のため断っておく。 無言の内にマリスを睨みつける小さな玉石の如き二つの眼球が、失われた口に代わるモノでもって彼女にそう伝えてきたのである。 あるいはそれは、マリス自身が溜め池で憎悪の炎を燃やす真紅の瞳は、 マリス・ヘイフリックの運命を知り尽くし、あるべき道………生を解き放つ死者の谷へと誘っているかのようでもあった。 ………あるいは、その姿こそがマリスにとってあるべき場所なのである、と。 「―――マリス、貴女の夢は何?」 「―――は、………え?」 死の影を振り払うなり新たに襲いかかって来た、失われた異形たちへの寂寥感で呆然立ち尽くしていたマリスは、 タイミング・内容ともに唐突な質問を投げかけられ、思わず口を開け広げたままで眼を丸くした。 「あたしの夢はね、自慢するわけじゃないけどデッカイわよ。 あたしはズタボロになってるエンディニオンの環境を完全に再生させたくて、世界中を旅して回ってるの。 ま、スケールが超大きいエコ活動ってところかしらね」 「は、はあ………」 「並大抵の努力じゃないわよ、自分で言うのもなんだけど。 誰が持ち込んだのかもわからない粗大ゴミをどうにかしなくちゃならないし、 一口にどうにかするったって全部のゴミを消し去る方法も見つかってないわ。 だからこそ不法投棄も、それを食い物にするふざけたビジネスも広がってるんだけど」 「………………………」 「それでもあたしは夢を諦めない。今と昔に夢を叶える術が無いのなら、未来に夢見てさ、 自分の手で作っていけばいいのよ」 「………………………」 唐突に自身の夢を語り出したソニエの言い回しには多分に含みがあり、言葉の裏に何事かを秘めていると感じられた。 そして、その“裏”をマリスが読み取ってくれるのを望んでいるとも。 けれど、いくら行間に眼を凝らしても言わんとしていることがどうにも読み取れない。 最大限に想像力を働かせ、一字一句落とさぬよう耳を傾けても輪郭すら突き止められないのがもどかしく、 また、何らかの思慮を凝らしてくれているのだろうソニエにも申し訳なかった。 「―――つまり! 大事なのは今ってわけ! 現在(ここ)より未来へ何を繋いでいくのか! どうせ考えごとするんなら、そっちに気を回したほうが、人生百倍愉快になるわよ!」 「あっ………―――は、はい、その通りです。その通りだと思いますわ。 ………未来の空に昇る太陽が悔恨と言う名の宵闇を撃ち破るからこそ、 光と闇の狭間に在る現在へ道は拓かれ、その果てなき経路を迷うことなく歩いて行けるのです。 あるべき道を照らすのは太陽、そして、人の生涯へ後戻りではなくひたすらに前進を促すのは 悔恨と呼ばれる糸で編み上げる過去の亡骸。人間とは、そうやって前へ前へ往く生き物ですもの」 「うんうん! いいカンジじゃないの! 全力でポジティブでいれば、過去の亡骸ってヤツも、 いつか笑い話に変わるもんね―――」 皆までソニエに言わせて、ようやくマリスにも閃くものがあった。 どうやら彼女には死の影がもたらした過去への葛藤を看破されていたようだ。 どうして途中でソニエの意図に気付いてあげられなかったのか―――自分の頭の回転の鈍さにひどく落胆していたマリスを、 ソニエは、もう一度、鼓舞してくれた。 明朗な笑顔を満面に咲かせながらサムズアップして見せたソニエは、 「クヨクヨしてたらラッキーも逃げちゃうわよ」とマリスに向けてウィンクを一つ飛ばした。 (ハーヴェストさん、と言ったかしら………フィーナさんがあの赤い髪の女性に憧れるのって、 きっとこんな気持ちなのでしょうね………) 明るく快活で、何よりも自信に満ちた笑顔を見るにつけ、 ソニエがフェイ、ケロイド・ジュースと共に英雄へ列せられる由縁がマリスにもわかったような気がした。 短期間ではあるが旅路を共にし、今回もリーヴル・ノワール探索に同行しているとは言え、 マリスにとってソニエとは、それほど親しく話したこともなく、どちらかと言えば余所余所しさを感じる相手だった。 アルフレッドやフィーナと既知の間柄であることは承知しているし、かのマユと姉妹だとも訊いている。 アルフレッドの恩人として記憶しているジョゼフとも血縁関係だった筈だ。 これまでソニエの人柄を判断する為の材料をマリスはこの程度しか持ち合わせていなかった…が、今は違う。 情報量と言う点においては、依然として乏しいのだが、見る者に大きな勇気を与えてくれる明朗な笑顔、 たったこれ一つでマリスはソニエのことを比類なき英雄と認めていた。 否、認めざるを得ない何かがソニエの笑顔から感じ取れたのだ。 彼女は、力強い言霊と笑顔で人を変えられる。疲弊した人を励まし、奮い立たせることができる。 ルナゲイト家の恩恵など、富など問題にならぬ。心で心を動かせる。 誰もがソニエを頼り、敬い、慕う由縁をマリスにもはっきりと理解できた。 「―――その未来を切り開くためにも、今は戦うときさっ!」 「もちろんっ!」 ソニエの呼びかけに殆ど鸚鵡返しで答えたのはフィーナである。 泣き腫らした眼は赤く充血し、瞼はしている…が、もうどこにも膝を抱えて座り込んでしまうような弱々しさは見当たらない。 鎮魂の銀弾を放つべく『SA2アンヘルチャント』を具現化させたフィーナの瞳には、 どんなに過酷な真実が待ち構えていようとも最後まで見届けんとする決意の炎が灯されていた。 それは、別なフロアで同じ映像を見せられた折にシェインの瞳へ宿った輝きとそっくり同じものであった。 「失われた命が戻せないなら、せめて、ここに眠る子たちが安らかでいられるように―――ッ!」 強い輝き宿す眼差しが見据えるのはクリッターの群れだ。 探索に当たっていたフィーナたち――つまり、肉の瑞々しい若者たちと言うことだ――の匂いを嗅ぎつけたらしく、 完全包囲で逼迫されたキャットランズ・アウトバーンの戦闘(とき)など比べ物にならないほどの大量のクリッターどもが 新たな獲物を狙って大挙して押し寄せ、不気味にも舌なめずりをしているではないか。 種族によっては顔面にびっしりと十個単位から付いている眼光がギョロギョロと動く様子は、 まるで肉付きの良さを値踏みしているようにも見える。 こちらは総勢八名。 それに対して数倍の物量を投入できるクリッターの大群を前にしてもフィーナたちは一歩たりとも退かなかった。 戦力差を苦にして退くことは、ここで非業の死を遂げた者たちへの慰めにはなるまい。 最後まで真実を見届けると決めた以上、如何なる危地にあっても全身全霊を尽くすのみ――― そんな闘志を全員が漲らせているのだ。 その雄々しさたるや、さながら神話に登場する死をも恐れぬ戦乙女さながらである。 決意に燃える頼もしいばかりの後姿を眩い気持ちで見つめながら、 マリスもまた自分と同じ瞳を持った犠牲者たちの為に出来る限りのことをしてやりたいと護身用の金属バットを握り締めていた。 「発奮なさるのは大変結構ですが、ご無理だけはなさらないように」と案じてくれるタスクへ 答えの代わりに微笑みを返したマリスは、もう一度、心の中にアルフレッドの雄姿を思い描いた。 自分にとって赤い瞳とは、死の影をもたらす忌むべきものじゃない。 死の影を振り払えるだけの勇気を与えてくれる希望の煌きなのだ。 だから、頑張れる。だから、戦える。 (アルちゃんを近くに感じるから、わたくしは強くなれるのです!) アルちゃん、と最愛の恋人の名前を口にするだけで全身の力が湧き立つマリスは、 そんな自分がたまらなく誇らしく、たまらなく嬉しかった。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |