5.輪廻の徒



「―――イーライ!」
「ケッ―――攻撃力だけは一丁前みてぇだな。それくらいしか誉めてやるもんもねぇけどよ」

 背後から猛烈な速度で迫り来る冽水の塊に対するメアズ・レイグの行動は、神業と呼ぶに相応しいものであった。
 全身のバネを発揮してドラムガジェットにランスを突き込み、ディアナごと撥ね飛ばしたレオナは、
すぐさまにイーライの背に回り込んだ。
 と言っても、彼を盾にして冽水の塊を防ごうと言うわけではない。
 背合わせとなって彼を守るレオナは、中空で身を翻して着地したディアナや、
徐々に間合いを詰めにかかっているアルフレッドたちの動向を警戒し、ランスの穂先を小刻みに揺らしている。
 その挙動は、いつどこから攻め入られても迎撃のランスを突き込めると言う暗黙の威圧であった。

 背面こそレオナに守られているイーライではあるが、正面から迫る冽水の塊は既に着弾不可避の距離にまで到達しており、
本人が望むと望まざるとに関わらず、愛妻の盾となって散る運命は免れない状況となっていた。
 そのように差し迫った事態であると言うのに、イーライは悠然と構えたまま、何一つとして対策を講じようともしない。
耳の穴に指を突っ込む姿だけを切り取って見れば、回避も防御も諦めて自棄になっているとしか思えなかった。

「―――さっきも言ったが、学習能力ってもんを付けろよ。バカ高ぇ攻撃力を持ったところでよ、当たらなけりゃ意味が無ぇんだよッ!」

 この罵声を合図にイーライの腹部が液体金属と化し、次いで風船のように丸く大きく膨張した。
傍目には胃袋が限界を超えて膨らんでしまったようにしか見えないのだが、腹部そのものは液体金属と化している為、
むしろ、「身体の一部が水風船と化した」と言うほうが表現としては正しいのかも知れない。
 水風船のように柔らかな素材ではないものの、流体化した金属は水面のようにゆったりと波を打っており、
耳を欹てれば、水と空気とが戯れる音が聞こえてくるかも知れない―――
思わずそのような錯覚を起こしかける程に液体金属のうねりは艶かしかった。

 一定のリズムを刻んでいた波動が激しく揺らぎ始めたのは、冽水の塊が着弾寸前にまで迫ったときである。
 丸く大きく膨らんでいたイーライの腹部が、針で穴を開けられて空気と水とが噴出した水風船のように急速に萎み始めたのだ。
 “穴を開けられた”状態に陥った場合、水風船は前述の内容物が外部へ飛び出すことになる。
 混ざり合った水と空気が破裂した箇所から濁流と化して溢れ出たかのように、
液体金属の奔流がイーライの腹部より凄まじい勢いで放たれたのだ。
 奔流の量が増すにつれて腹部の膨らみは急速に萎んでいく。その様もまた水風船と言う喩えに沿うものであった。

 イーライの腹部から怒涛の勢いで放たれた液体金属は、徐々にツララのような貌(かたち)へと凝固していき、
完全に成形を終える頃には、牙剥く餓狼の顎(あぎと)へと変身を遂げていた。
 前方の空間全てを覆い隠すほどの大口へと吸い込まれた冽水の塊は、
ついに本来の威力を発揮することなく餓狼の歯牙によって噛み砕かれ、虚しく潰えてしまった。

 メアズ・レイグから逸れて流れ弾と化した冽水の一つが、床に散乱していたクリッターの残骸に触れる。
 その刹那、弾けた冽水が気泡を彷彿とさせる膜を展開して件の残骸を包み込み、
次いで中心点に向かって収束、内部に納めていた物体をメチャクチャに圧壊してしまった。
 イーライの前に惜しくも敗れたものの、ガイガー・ミュラーより放たれた冽水の固まりは、
着弾した相手を水の膜で捕獲した上に極限の域まで圧縮して粉砕すると言う一撃必殺の荒業だったようだ。
 殆ど原形を留めていないような破壊の仕方であり、一連の経緯まで細かく説明しなければ、
元がクリッターの残骸だったとは誰も信じまい。決まってさえいれば、まさしく必勝だったのだ。

「よもや、小生のウンディーネまでもが………」
「へェ―――これまた小洒落たネーミングじゃねぇの。ま、所詮は名前負けの見掛け倒しだったがな。
あんな見え見えの奇襲に引っ掛かるバカじゃ冒険者なんてやってらんねーんだよ」
「見え見えって言うか、こんなところで見得なんか張らないでよ………。私たち、一回は引っ掛かったじゃない」
「る、るせぇな! 速攻で切り返したじゃねーか。クリーンヒットしなけりゃセーフだよ、セーフ!」

 奇しくも同系統の技による勝負となり、これを恐るべき戦闘能力で制したイーライは、
正面から餓狼の顎(あぎと)を見せ付けられ、恐れ慄くあまり硬直してしまったアイルに向かって
勝ち誇るかのように中指を突き出して見せた。
 彼女がガイガー・ミュラーとオーキスを併用して放った砲撃が一行にとっての最後の抵抗とでも捉えていたのだろう。
冽水の荒業を封殺したことによって勝敗が決したと判断したらしいイーライは、
「順番に殺してやるからな、負け犬どもが。早く楽になりたい野郎は手ぇ挙げな」などと哄笑交じりに大言した。


 そのイーライが風切る音を感じて表情(かお)を強張らせたのは、
背中合わせに立っていたレオナがその場を離れ、アルフレッドたちへ臨戦態勢を解くよう求めた直後であった。
 続けてイーライの鼓膜を打ったのは、金属製の歯車を噛み合わせた際に起こる独特の軋み音である。
その重低な響きは、離れることを受け付けない程にふたつの歯車が合致したことを示していた。

「投げ手錠―――こちらのチームは芸達者が揃っているわね。冒険者と言うよりも雑技団に近い気がするわ」
「てめぇ、こらッ! 俺たちゃ、こう言うプレイには興味ねぇんだよ! 恋愛結婚なんだぜ!?」
「そう言う話じゃないでしょう………」

 片手に構えたランスの穂先を突き出し、アルフレッドたちを威嚇していたレオナの手首へ
いつの間にか手錠が掛けられていたのだ。
 しかも、だ。ひとつの手錠にて両手首を完全に捕らえており、
これによってレオナのランスを完全に封じ込めていた。ランスどころか両腕の機能事態が大きく制限されている。

「俺っちんトコも恋愛結婚だがよ、そのドリームに浸りきってるうちはまだまだ青いぜ。
エンディニオン男児たる者、ギンギンに挑戦していかねーとイカンだろ―――なぁッ!?」
「挑戦ッ!? てめぇ、この………べ、勉強になっちまったじゃねーかッ! 畜生、また一杯食わされたぜ!」
「………なんでこう男ってゲスいのかしら………そう言う生物なの?」

 改めて確かめるまでもなく、レオナに手錠を掛けた張本人は、虎視眈々と狙いを定めていたヒューだ。
手錠を投擲したヒューが、標的と見立てたレオナへと見事命中させた次第である。
 片方の手首を捕らえた瞬間、反動によってもう片方の手首を追いかけるよう重量までカスタマイズしてある、
ヒュー自慢の手錠である。
 確かに特別製の手錠ではあるのだが、さりとて動いている人間相手に投擲のみで両手首を捕縛するなど神業に等しい。
 パイナップル頭、サボリとさんざんに扱き下ろされてきたヒューが、名探偵の面目を躍如したと言っても過言ではなかった。

「………マリス様、耳が腐らぬうちに耳を塞いでくださいませ。このように下劣な輩の言葉など聞いてはなりません」
「その必要があるようね。調査が終わった後は清めの水を用意しなければならないわ。
不浄なる汚物(モノ)を見聞きしてしまった目と耳を洗い流さずに、
太陽を仰いでしまったなら、それはイシュタル様への冒涜に繋がることでしょう」
「成る程、アタマの程度はサムと同レベルか。いや、あの男も女性に対する礼儀は紙一重でわきまえているからな。
サムがゴミならば、この者どもはゴミ溜めと言うべきであるな」
「―――て言うか、あンた、恋愛結婚を舐めンじゃないよ! 
あンたこそ恋愛結婚ってステータスに酔って、カミさンに手前ェの欲望を押しつけてるだけじゃないのかいッ!?」
「レイチェルさんに言いつけてやろうね、トリーシャ。きつーくお灸を据えて貰わないと!」
「一回くらい殺されたっていいんじゃない? ここぞとばかりにテレコ回しといたし、言い逃れもできないわよ」
「処刑役には立候補させてもらうわよ。こう言った手合いをのさばらせておくことは
あたしの正義にも、社会の秩序にも反することだもの。腐れ外道はその罪を血で購うべきよ」
「あたしの仲間にもいるのよ、こーゆースケベ丸出しなヤツ。
フード被ってごまかしてるけど、時々、お尻に視線を感じるのよね。
………心から同情するわ。しかも、あんたの場合はコレがダンナだもんね。正直、やってらんないでしょ?」
「まさかこんなところで同じ悩みを持っている人に出会えるなんて―――
冗談抜きにして、後でメルアドを交換して貰おうかしら。………最近ね、色々とね、考える瞬間があるのよね」

 ………結局、汚名返上ではなく“汚名挽回”なオチがついてしまうのは、生まれ持った宿命と言うものであろう。

「こーゆーときの女子の結束力ってマジ怖ぇーよ! 完ペキに逃げ場絶ってくるもんなッ! 
………覚悟しとけよ? 俺っちもお前も、末代までゲス呼ばわりだぞ」
「ゲス扱いなんてまだマシなほうだろ! 俺なんか離婚危機に発展しかけてんだぞ!? 
どうしてくれんだ、この雑草頭ッ! ………万が一の場合にでもなってみろ、俺、生きてけねーぞ!?」

 悪びれた語調でもないヒューとイーライに顔を顰めたセフィは、
「女性の結束力を言い逃れの材料にするのは感心しませんね。
ご自分の下品な振る舞いが原因なのであって、それは糾弾されて然るべきでは?」と苦言を呈したのだが、
それは女性陣から発せられた罵倒の嵐によってかき消されてしまった。
 無論、罵倒を浴びせられる対象は、あまりの恐ろしさに膝が震えだしたヒューとイーライである。

「―――フィー! 今だッ!」
「あ―――ラジャーっ!」

 ………修羅の巷と思えない程に緩まりつつあった場の空気を再び引き締めたのは、
アルフレッドからフィーナへと発せられた鋭い号令だった。
 身勝手な男の典型として槍玉に挙げられたヒューとイーライへのバッシングに加わった挙句、
その潮流に飲まれてポンと頭から抜け落ちそうになっているが、フィーナには果たすべき使命があった。
 それは、彼女を自転車の後部に乗せたトリーシャも同様である。

「信じてるよ。トリーシャと一緒なら絶対に成功するから」
「そこまで言われて応えらんなきゃ女が廃るってもんよ!」

 背中越しにトリーシャと段取りの最終確認をし合ったフィーナは、成否を託すと伝えるように彼女の双肩を優しく揉み解す。
心身両面でこそばゆかったのか、トリーシャは照れ臭そうに頬を掻いている。
 しかし、ふたりの間に先ほどのような気の緩みはない。ふたりで臨むと言うことに心のゆとりを得られたものの、
課せられた使命は決して安楽ではないからだ。
 いつでも撃って出れるようにとタイミングを計るふたりの視線は、
レオナに向かって強烈な後ろ回し蹴りを見舞おうとするアルフレッドの姿を捉えていた。

 アルフレッドが最も得意とする必殺の後ろ回し蹴り、パルチザン―――
遠心力をたっぷり乗せたこの蹴りが標的として選んだのは、
またしてもレオナ本人ではなく彼女が手にする得物(ランス)、グレムリンパラドックスZYXであった。
 先ほども畳み掛けるようなキックの応酬でもってさんざんに脅かしたのだが、
結局、最後まで彼女の手からランスを奪取することは叶わなかった。
 
 だが、そのときと現在では状況は大きく異なっている。レオナの状態からして全く違っている。
 現在の彼女はヒューの投げ手錠に両手首を捕縛されており、腕の自由が殆ど利かなくなっているのだ。
右手でグリップを握り締めることは出来る。しかし、左腕全体を使ってランスの重みを支え、
横から加えられる衝撃を受け流すことはどう足掻いても不可能なのである。

「なッ…くぅっ―――!?」

 両手の先に残っていたダメージも祟り、ついにレオナは愛用の武器を取り落とすと言う、
腕利きの冒険者にはあるまじき醜態を晒してしまった。
 さしものレオナとは言え、コンクリートの壁すらブチ破るパルチザンを手先の力のみで耐え凌ぐことは出来ず、
真横から襲来した衝撃によって腕ごと振り回され、弾かれるようにその場へ投げ出されてしまった。

「うゥずりゃあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァァ―――――――――ッ!!!!」

 そこへ猛烈な雄叫びを引き摺りながら駆け込んで来たのは、
限界を突破すべく歯を食いしばってペダルを大回転させるトリーシャである。
 自転車ごとメアズ・レイグにぶつかよるような凄まじい勢いでもって彼女はメアズ・レイグの目の前を駆け抜けた。
時速三十キロは出ていただろうか。衝突でもしようものなら立派な交通事故となるスピードだ。
 後輪のハブに足を、トリーシャの双肩に手を置いて自転車へ乗り合わせていたフィーナは、
メアズ・レイグのもとを駆け抜ける際に車体から飛び降り、着地と同時にレオナが取り落としたランスへと手を伸ばした。
 パルチザンの直撃によってランスはイーライが立つ位置とは逆の方向へと弾き飛ばされている。
おそらくは転がっていく先まで計算に入れ、後ろ回し蹴りを叩き込んだに違いない。


 ―――計算。そう、アルフレッドの立てた通りに作戦(こと)は進んでいた。

 アイルたちはガイガー・ミュラーによる背後からの砲撃が決定打になると期待していたようだが、
アルフレッドにとっては、それすらもここに到達する為の布石に過ぎない。
 レオナからグレムリンパラドックスZYXを奪取し、これを鹵獲してイーライを撃破すると言うのがアルフレッド最大の狙いであったのだ。

 ランス、判子注射と形態の違いこそあれども、グレムリンパラドックスZYXはこれまで二度に亘ってトラウムの銃撃を防ぎ、
またホローポイントのプロキシまで消失させている。ローガンから放たれたエネルギーの弾丸もこれに加わるだろう。
 ここに至るまでの経緯から推察するに、グレムリンパラドックスZYXがトラウムやプロキシに対して何らかの作用を及ぼし、
その機能へ障害を与えていることは明白であった。
 特性も打開策も見極められないが、イーライの言う通り、“特別製”の武器であることは疑いようがない。

 しかし、だ。
 翻って考えるなら、グレムリンパラドックスZYXをこちら側の武器として利用出来さえすれば、
絶大な戦闘能力を誇るディプロミスタスを封殺することも不可能ではなくなるわけである。
 恐るべき攻撃力と柔軟性に裏打ちされた変身のパターンで相対する者を圧倒するディプロミスタスだが、
トラウムと言う大前提だけはどうやっても覆しようが無い。
 グレムリンパラドックスZYXの穂先を突き立てられることによって何らかの異常を来たすのは免れない筈だ。

 また、レオナはダブル・エクスポージャーというトラウムを備えており、
ここからもグレムリンパラドックスZYXがトラウムとは別の種類の武器と言うことは判明している。
 トラウムではない以上、別の人間にも扱えると言うこと―――
これこそが、メアズ・レイグを撃破する為にアルフレッドが案じた一計の神髄であった。
 ディプロミスタスと言う御すことが不可能に近いトラウムのユーザーを先に押さえてから
数に物を言わせて残るレオナを仕留めるつもりである。


 タイヤが削れるのも構わずに急ブレーキを掛けて自転車を停止させたトリーシャは、
勝利の瞬間を見逃すまいと意気揚々としてアルフレッドたちのほうを振り返ったのだが、
そこに待ち構えていたのは、予想していたものとは全く正反対の結末であった。


 虎の子とも言うべきグレムリンパラドックスZYXに手を掛けた途端、
電流でも浴びたかのようにフィーナの全身が跳ね上がり、次いで三度、四度と小刻みに痙攣をした後、
物言わぬままその場へ崩れ落ちてしまったのだ。

「―――フィーッ! ………どうした…どうしたんだ、フィーッ!?」

 フィーナの身に何が起きたのかが全く判らず、また彼女の苦悶を目の当たりにして極限に狼狽したアルフレッドの脇腹を、
イーライはイボ鉄球に変身させた右手でもって容赦なく打ち据えた。

「残念ながら死んじゃいねぇよ。………クソくだらねぇ考えを起こしやがったことを死ぬほど後悔してるだろうがな。
てめぇとおソロだよ。そうやって生き地獄を味わっているのさ」

 負傷していた箇所に再度強撃を喰らい、堪り兼ねて崩れ落ちたアルフレッドへ侮辱の唾を吐きかけたイーライは、
悲鳴を上げるマリスを「弱点突くのは基本中の基本だろうが。遊びじゃねぇんだよ」と一笑に付し、
次いでレオナを拘束する手錠に向かって左手を翳して見せた。
 程なくして液体金属と化した人差し指が手錠の鍵穴へと流れ込んでいき、
それから数秒も経たないうちにレオナの両手首は自由を取り戻した。
 専用の鍵がなければ解除できない筈の手錠へディプロミスタスで流体化させた人差し指を滑り込ませ、
内部に施された仕掛けを外してしまったと言うのが、その真相である。
 形状さえ判れば、おそらく同じ鍵ですらイーライは作り出すことが可能であろう。
 自慢の手錠が思いも寄らない形で外されてしまったヒューは、「つくづくなんでもアリだな」と盛大に嘆息した。

「グレムリンパラドックスZYXを掠め取ろうってのは、なかなか良い考えだったな。
なかなかどころか、てめぇらにとっちゃ上等過ぎるくらいに良い見立てだぜ。
いくら俺でもコイツをブスッとやられた日には、一溜まりもねぇからよ」
「―――そう言うわけだから、こうして私以外の人間が手を触れると電流が走るようセキュリティも仕掛けてあるのだけどね」
「余所様の物に手ぇ付けようとして痛い目を見た―――よくあるハナシだろ?」

 手錠から解放されたレオナは、フィーナが取り落としたランスを手早く拾い上げると、そのまま床を蹴って駆け出した。
突進していく先にはソニエの姿がある。
 疾風の如く馳せながらグレムリンパラドックスZYXを腰だめに構えたレオナは、
ソニエを自分の間合い(エリア)に捉えるや否や、轟々と風を裂く強烈な刺突を繰り出した。

「“竜殺し”はもっと辛いものだったでしょうに…どうしたのかしら? 風邪でも召しているの?」
「う…うっさいわね! チームメイトと一緒じゃないから調子出ないのよ!」

 皮肉に対し、口先を尖らせて抗議するソニエの手元では、爆ぜたばかりのヴィトゲンシュタイン粒子が舞い踊っている。
 光の帯が明滅を繰り返しながらも余韻のように纏わりついているソニエの手は、
如何にも複雑そうな印を組んでいる…が、どうもプロキシを使おうとしていた様子でもなさそうだ。
 ランス先端部分のパーツは確かに往復運動を行っており、その穂先からはヴィトゲンシュタイン粒子の燐光が漏れ出していた。
 同じ現象はこの戦闘に於いても何度か確認されている。
 硬質な物体あるいは質量を伴う現象――プロキシや、ローガンの放つエネルギーの弾丸も広義ではここに含まれよう――へ
穂先を押し当てることによってランス尖端のパーツがスライドし、件の燐光を排出するのである。

 つまり、ソニエは何らかの硬質な物体を手に持ち、それがグレムリンパラドックスZYXとの接触によって
消失させられたと考えるのが自然であった。
 その正体とは、おそらくトラウムであろう。
 ホローポイントやガンストックと言った、彼女が特に多用するプロキシとも印の組み方が異なっていた。
 劣勢を覆すべくトラウムの発動を試みたソニエであったが、具現化の直後にグレムリンパラドックスZYXで貫かれてしまい、
噂の“切り札”は日の目を見ることなく消失させられていたのだ。
 改めて具現化を試みることも出来るのだが、レオナがグレムリンパラドックスZYXを構えているうちは、
何度挑戦したところで結果は些かも変わるまい。


「アンタはそれなりに使い道があるみてーだな。つーか、頭が働いたのはアンタくれぇなもんか?」
「これでも頭脳労働が本業なんだ。専門分野でくらいはカッコいいトコを見せとかね〜と俺っちもおマンマ食い上げなもんでね。
………っつっても、俺っちはちっと手助けしただけさ」
「手助けとは随分と謙虚じゃねぇか。それとも、義理立てする相手がいるのかい?」
「そんな上等な理由じゃねーって。他人様の功績を横盗りする趣味を俺っちは持っちゃいねぇ。ただそれだけだよ。
………作戦立てるのは、アルの仕事さ」

 一方のイーライは、レオナがソニエに向かって馳せるのと同時に自分もヒューへと突進し、
曲刀状に変身させた右腕を猛然と振り下ろしていた。
 縦一文字に閃いたその曲刀を、ヒューは両手で引っ張るようにして構えた手錠の鎖を使って受け止める。
ディプロミスタスが誇る切れ味と、これを操るイーライの筋力を防ぎ切れるだけの強度がヒュー特製の手錠には備わっているようだ。
 変則的な手段によって解錠されてしまったものの、本来ならば一度拘束した相手を捕らえて逃がさない至極の逸品なのである。

 曲刀と鉄鎖―――百錬が如き鋼の激突によって散った火花の向こうにイーライの顔を見止めたヒューは、
赤熱を映すその瞳の裡へ確かな理知を感じ取った。感じ取ったが為に瞠目して驚いた。
 すこぶる人相は悪い。素行に至っては非道以外に言い表す言葉を持ち合わせないほどだ…が、
彼の三白眼は、粗暴な立ち居振る舞いと裏腹に理知の輝きを宿している。
 忘八者がふとした瞬間に垣間見せる優しさ――雨に降られた捨て猫を拾ってやる不良がその好例であろう――などと言うような、
僅かな兆しのようなものではない。明朗な光として、それはイーライの双眸に内在していた。
 あるいは、思慮と言い換えても良かろう。
 目付き自体はフツノミタマと良い勝負なのだが、注意深くヒューを観察する視線一つ取っても彼のように攻性一辺倒ではなく、
むしろアルフレッドと近いのではないかとヒューには思える。
 目の前で起こる全ての事象を漏らさず吸収し、これをもとに推論を行い、計算を立て、実行へ移ると言う理知と思慮を
イーライは確かに持ち合わせている。アルフレッドがそうであるように、だ。

 些か感傷的な捉え方となり、思い付いた本人も自分のロマンティシズムに苦笑を禁じ得なかったが、
理屈では説明のつけられない悲哀のようなものを、ヒューはイーライの瞳から感じ取っていた。
 行く宛に惑うほどの濃い霧が立ち込める林は、そこへ徐(しず)かにして清められた趣を生み出すのだが、
イーライの瞳に宿る悲哀は、まさしくそのように茫洋が如きものである。

 そう意識すると、さんざん神経を逆撫でにされた数々の挑発ですら、何らかの謎掛けのように思えてくるから不思議である。
 ………あまりにも短絡な自身の思考に、またしてもヒューは苦笑いした。

(………とんだ食わせ者かも知れねぇな、こいつら。頭の足りない暴れ馬と思わないほうが身の為かよ?)

 無頼を地で行く態度が嘘のように思える双眸の動きからイーライの思慮を読み取ったヒューは、
正体こそ掴み兼ねているものの、メアズ・レイグに対する認識を改めつつあった。
 もしかするとアルフレッドが覚えた不思議な違和感へ通じるものがあるのかも知れない。

「―――ぁぐあァッ!?」

 思慮の持ち主として例に挙げられたアルフレッドが、
それとは真逆であろう人間の筆頭に目されたフツノミタマと殆ど同等の無作法を働いたのは、
予想外の粘りを見せるヒューに焦れたイーライが、左腕を大鎌に変身させたのと同時であった。
 ヒューにどうトドメを刺すべきか集中するあまり、周囲への注意が散漫になっていたイーライに向かって、
アルフレッドは背後から不意打ちのパルチザンを見舞ったのだ。
 うずくまった状態から放ったが為に斜めへ跳ね上げるような恰好となったものの、結果的にはこれが功を奏した。
大鎌を振り翳した左腕をすり抜けてアバラを強打した後ろ回し蹴りは、開戦以来、初めてイーライにダメージを与えるものとなった。
 最も狙いやすい部位を選んだのだろうが、自分がダメージを被ったのと同じ脇腹へ蹴りを加えたことには、
個人的な報復を含んでいるようにも思える。

「ク、クソガキめ―――ナメた真似してくれるじゃねーかよ………ッ!」

 鼓膜を打った風切る音によって何者かが自分へ攻撃を仕掛けてきたことは察したものの、
想定を上回る速度で打ち据えられた為、肉体を完全な形で金属化することは間に合わなかったらしい。
 アルフレッドが喰らわせたパルチザンは不完全であった鋼鉄のガードを見事に貫き、イーライの生身に激甚なダメージを与えている。
膝を突く彼の姿を、今この瞬間までアルフレッドたちは想像すらしていなかった筈だ。

「舐めた真似はお互い様だろう。それとも自分のガラの悪さは棚上げか?」
「るせぇんだよ、クソッ………口の減らねぇガキめ………!」

 ソニエを救援すべく駆けつけたタスクやセフィをランスでもっていなしていたレオナは、
ふたりの喊声と併せて耳に入ってきたアルフレッドの指摘に対し、
「ごめんなさいね。うちのイーライ、素直じゃないけど、根は優しくて良いコなのよ。察してあげて頂戴な」と
イーライ本人に代わってその口の悪さを詫びた。
 よもやこのような擁護を入れられるとは思っていなかったイーライは、
心外甚だしいレオナの弁明を野太い雄叫びでもって打ち消し、威厳の回復へ躍起になっているが、
とてつもなく恥ずかしい姿を晒してしまった今となっては、それも憐れな虚勢にしか受け取られまい。
 アイルと共にメアズ・レイグを挟撃に攻めるチャンスを窺っていたディアナは、
ここぞとばかりにガントレットで裏手のツッコミを入れつつ、
「笑えるったらありゃしないね。夫婦じゃなくて幼稚園児と先生みたいなもンだね、あンたたち」とせせら笑って見せたが、
さすがのイーライもこればかりは反論のしようがなかった。
 どれほど虚勢を張ったところで、頬が羞恥の色に染まっているうちは全くの無駄骨と言えよう。

「―――作戦を立てていやがったそうだな、てめぇ。」
「なんだ? 幼稚園児モードはもうおしまいなのか?」
「る、るせぇッ! ンなこたぁどうでもいいんだよッ! ………いつの間に作戦なんておっ立てやがった? 
いや、作戦っつっても、打ち合わせたり段取り組むような時間はなかったハズだぜ。
お仲間とはやり合ってる最中に合流したじゃねーか。それなのに………」
「打ち合わせなど必要もない。そんなことをしてみろ、それこそ貴様の言う通りに作戦の狙いが漏れる―――」
「………あんだと?」

 初めてイーライへまともなダメージを与えることに成功したアルフレッドではあったものの、
無茶な姿勢から体を捻った為に怪我をしている脇腹にも相応の負荷が掛かったらしく、すぐさまに刺すような激痛が上体全てを苛んだ。
 あまりの痛みに耐え切れなくなったアルフレッドもまた膝を突くことになり、やがて視線の高さもイーライと並んだ。

「貴様らと戦う最中、ヒューは注意深く策を練っていた。ソニエさんや自称正義の味方にはサボタージュ扱いされていたが………」
「その雑草頭がてめぇを―――」
「………そのヒューであれば、俺の意図に気付くと思ったんだ。探偵にしておくには勿体ないくらい頭がキレる男だからな」
「………………………」

 如何にも軽佻そうな音色の口笛を交えつつ、「お褒めに預かり光栄だね」とおどけた調子で応じるヒューに対し、
イーライは顔も上げずに悪態を吐き捨てた。
 「てめぇら、デキてんじゃねーのか? 男同士で以心伝心なんて、チト気味が悪ィぜ」。
しかし、それも出し抜かれたことに対する負け惜しみの域を出てはいない。

「………ランスをかっぱらおうとしたお嬢ちゃんは? 事前に打ち合わせてる時間なんかあったか?」
「付き合いだけは長いからな。俺の考えていることぐらい、こいつは察すると思った」
「アルの考えることは何だってお見通しだよ。これでも付き合いだけは人一倍長いんだから」
「………時々、煩わしくも思うがな」
「………………………」

 イーライによる二つ目の問いかけには、アルフレッドの代わりにフィーナが答えた。
 ハーヴェストに介抱されているフィーナは、そもそもグレムリンパラドックスZYXを掠め取ろうとしてセキュリティにやられてしまったのだ。
 今もまだ体内を駆け抜けた電流のダメージが抜け切らず、ハーヴェストに支えて貰わなければ上体を起こすことさえ難しい有様であった。
 理論や理屈のレベルでアルフレッドの意図に気付いたヒューに比し、フィーナの場合は、よりプリミティブな阿吽の呼吸に頼ったとも言える。
 傍目には不確定な賭けにしか見えないのだが、明確な合図すら殆ど出さないまま本当に実行してしまったのだから、
当人たちは一定以上の自信を持っていたと思える。
 結果的に失敗してしまったものの、実際にフィーナはアルフレッドの意図を完璧に汲み取って見せた。

 「ちょっと待って! 線の細い男の子とワイルドなおじさまが心通わせていくストーリーとか最ッ高だよ!?」などと
余計な反論も含んでいたが、それを除けば、フィーナの明かした真相は驚くべきものである。
 セフィから突き込まれたラウンドシールドを鋭い蹴りでもって跳ね返していたレオナの耳にもフィーナの言葉は届いており、
闘いの最中にも関わらず、その口元へじんわりと柔らかな笑みが宿っていく。
 どうやらフィーナの言うことに何がしか感じるものがあったようだ。
 その様子を目端に捉えたイーライは、愛妻とは逆に口をへの字に曲げると気恥ずかしそうに鼻を鳴らした。

 ………いちいち注釈を入れる必要もないが、レオナが微笑んだのはアルフレッドとフィーナの関係についてであって、
「生まれたときからひとつの心に重なって…って言うコンビも捨て難いッ!」などと言う、
阿呆丸出しで垂れ流される妄想に共感したわけではない。

「生まれたときからひとつの心………」

 ただひとり、マリスだけはフィーナがほざいた妄想に反応を示し、その一節を拾い上げて自ら復唱している。

(………生まれたときからひとつの心………)

 同じ一節でありながらも、フィーナとマリスではそこに感じるものが全く異なっていた。

(………幼い頃より共に過ごしてきたからこその勘―――それは、わたくしが決して持ち得ないもの………)

 言うなれば、阿吽の呼吸で行動できるフィーナと、アルフレッドの意図にすら気付けなかったマリスの隔たりとでも表現すべきであろうか。
 少なくともマリスにとって、それは大きな意味を持つものであった。

「………大した信頼関係だな。そこだけは誉めてやらねーでもねぇぜ。空中ブランコとか似合ってんじゃねーのか、てめぇら」

 ほんの僅かな時間のみ向けられていたアイコンタクトと、執拗に行われたグレムリンパラドックスZYXに対する攻撃から
アルフレッドの意図を読み取ったヒュー。
 明確な指示も何もないままアルフレッドの考えていることを誰よりも早く、そして的確に察知したフィーナ。
 いずれもマリスの心を、………アルフレッドに対する想いを激しく動揺させるものである。
 誰に聞かせるわけでもなくイーライが漏らした「幼馴染みってのは、そう言うモンだけどよ」と言う呟きも、彼女の動揺を大いに煽った。

「………もう一個、誉めてやろうか。俺に一発喰らわせたこと、こいつは認めてやるよ」

 眉間に皺を寄せながら睨めつけてくるマリスに「ンだよ、コラ。辛気臭ぇ顔しやがって………何か文句あんのかッ!?」と
荒っぽく噛み付いたイーライは、これを見咎めるアルフレッドを突き飛ばすと、次いで懐中時計を取り出しながら立ち上がった。
 それを合図にレオナも戦闘を切り上げ、追い縋って来る巨大手裏剣を避けながら彼のもとへと馳せ戻っていく。
 今なお開かぬ大扉を背にメアズ・レイグが並び立ったことは、『セクト:クレイドルホール』にて繰り広げられる騒動が
新たな局面を迎えることを予感させた。
 大扉の背にして屹立し、悠然と懐中時計へ目を落とすイーライの姿は、見る者にそう感じさせるほど浮世離れしていたのだ。


「お前はそれをどこで―――」

 イーライの手の中にあるのは、おそらくクラップ作の懐中時計と見て間違いないだろう。
 その入手経路についてアルフレッドが尋ねようとした矢先、
『セクト:クレイドルホール』を天地のひっくり返るような怪異が襲った―――

「………時間か―――」

 ―――メアズ・レイグが背にする大扉が、地響きのような轟音を立てながら突如として開き始めたのだ。

「な、なんやねんッ!?」
「大扉に何らかの仕掛けが施されていると仮定するならば、おそらく誰かがそれを解除したのでしょう。
シェイン君のチームか、フェイさんのチームか、あるいは、第三者か………!」

 アルフレッドたちにとっては驚愕をもってして見つめるべき事態なのだが、
どうやらイーライとレオナはこうなることを最初から予期していたらしく、
ゆっくりと左右にスライドしていく大扉になど一瞥すらくれなかった。
 反応を示す代わりに懐中時計の秒針を見つめながら、

「………誤差にしてコンマ四秒ってトコか。輪廻ってのも、案外、適当に組まれてるんだな」

 ………と、いささか芝居がかった意味ありげな呟きを漏らす。
 大袈裟に“輪廻”などと言う観念を引用し、芝居っ気たっぷりに振る舞うイーライの言わんとする意図はまるで掴めなかったが、
それまで沈黙を守っていた真後ろの大扉が誰に手を施されるでもなく開いていくことに些かも動揺せず、
余裕綽々と懐中時計へ目を落とすその態度は、不可思議としか言いようがない。
 電子的にロックされていた大扉の開錠には、メアズ・レイグが関与しているのではなかろうか。
それは、イーライを睨めつける誰もが共有する疑念である。
 ヒューがプロファイルした中年男性は、やはりメアズ・レイグの一味であり、
予め取り決めておいた解放の時間をイーライが懐中時計で確認していた―――とすれば全ての辻褄が合致するのだ。
 リーヴル・ノワールのどこかにある仕掛けが件の中年男性によって起動される時間をイーライが計っていた、と。

「てめぇらのお仲間が開いてくれたみてぇだな。前にでしゃばるザコと違ってサポーターにはそこそこ使い道があるのな」

 ………が、そう推理したヒューの「謎は全て解けたちゃったもんね!」と言う決め台詞はイーライ本人の口で完全に否定された。
 イーライの言葉が示す通り、大扉の解放へ共鳴するかのように
アルフレッドとフィーナ両人のポケットでモバイルが電子的な着信音を奏でていた。
 小洒落たことに無頓着なアルフレッドの決まりきった電子音と異なり、
親しい人間にはそれぞれの個性に合った着信音を設定してあるフィーナは、
S.M.Turkeyなるバンドの軽妙のナンバーが鳴り響いたことで、連絡を入れてきたのがシェインだとすぐにわかった。
 シリアスなトーンに包まれた場を掻き乱すようにして流れる明るさの限界を突破したような曲は、
まさしくムードメーカーを地で行くシェインのイメージにぴったりである。

 者の見事に推理を外してズッコける名探偵(早くもローガンは迷探偵などと呼ばわっているが)を意にも介さず、
未だに脇腹へ負わされたダメージが抜けきらずに呼気を荒くするアルフレッドを見下ろしたイーライは、
完全に開き切った大扉の先に覗ける広大な回廊を顎で差し示しながら、無様にも崩れ落ちた魔人をなおも挑発し続ける。

「みっともねぇったらありゃしねぇ体たらくを晒しておきながらよ、てめぇら、この先に眠ってるモンをマジで起こそうってのか? 
アレを覚醒させちまったら最後、もう後戻りは出来ねぇんだぞ。資格があると思ってんのか、今の手前ェらによ」

 さんざんにアルフレッドを嘲りまくっていたイーライの声色がこれまでになく引き締まったのはその瞬間(とき)である。
 大扉の先―――長い長い回廊を進みきった先にあるモノへ言及したイーライが、
侮辱や苛立ちと言った混じり気のない眼差しを初めてアルフレッドに向けたのだ。
 懐中時計の秒針をガラスカバーの上からなぞりながら並べられたイーライの言葉は、
字面だけならいつも通りの傲岸不遜な羅列である。
 しかし、その声は―――彼の発した声色には、
おそらくは回廊の先にあるモノと接触するであろうアルフレッドやその仲間たちの身を案じる気遣いが感じられた。
 それは、傍若無人の振る舞いで一行を弄んで来た悪辣極まりないイーライの声へ温もり感じられる人間味の宿った瞬間でもあった。

「一体、何の話をしているんだ? この先に何があるのか、お前は知っているのか?」
「あ? 今、なんつった? この先が…なんだと?」
「貴様の言う財宝とやらは、一体、何なのかと訊いている。………覚醒? 資格? 退転は難しい? 
何が眠っていると言うんだ、この先に?」
「………まさか、てめぇら、リーヴル・ノワールが何を目的にしてるのかも知らねぇでココまで来やがったってのか!?」

 せっかく宿った人間味は、アルフレッドとのやり取りが終わる頃にはすっかり掻き消えており、
気付いたときには元通りの血も涙もないアウトローへと戻っていた。
 イーライの言わんとしていることを誰一人理解できずに唖然としている一行に対しては失望の念すら抱いているようで、
「どこまで人生にナメられてんだ、こいつらはッ!」と吐き捨てるがなり声はいつにも増して不機嫌そうだ。

「そ、そうは言われてもだな、非合法な実験の事実は掴んだが、それ以外は目ぼしい成果が………」
「―――うるせぇッ! てめぇは喋んな。もうてめぇのゴタクなんざ聞きたくもねぇッ!!」
「………………………」

 何を失望しているのか、何が気に入らなかったのかすら理解できなかったアルフレッドは、
小首を傾げつつイーライの様子を窺っていたのだが、そうした態度すら今の彼には癇に障ったらしく、
「ウドの大木がいつまでも道塞いでんじゃねーよッ!」と一喝されるや、横っ面を蹴倒されてしまった。
 力無く地面に伏したアルフレッドに一瞥もくれないイーライは、
困ったような表情を浮かべたまま所在無さげに佇んでいたレオナの腕を引っ張って大回廊に背を向ける。
 結局、理由はわからず終いであったが、どうやらこの場を去る気になったようだ。
 誰にも苛立ちの理由が理解してもらえなかったイーライは全身から怒気を発しており、
辺り構わず鳴らされる鼻息や舌打ちはもちろん大股で踏み締めていく足音までやかましかった。

「………輪廻ってのはマジで適当なんだな。肝心なところで前より状況がヒデェと来たもんだ。
何の予備知識も無ぇままでアイツと出くわして、それでどうなるってんだ………」
「貴様は何を話しているんだ? 先刻から繰り返している輪廻とは何を指す? 
大回廊の先に眠る財宝と関係があるのか?」
「さっきから喋るなっつってんだろうが。………もう説明してやる気も起きやしねぇ。やめだ、やめ。何もかも終いにしてやらぁ」
「お、おいっ………!」
「てめぇらのツラ見てるだけで、何もかもがバカバカしくなっちまうんだよ。
………後は好きにしな。そんでもってせいぜい“眠り姫”に振り回されるこった」
「………………………」

 またしても輪廻だの眠り姫だのと意味不明な単語を並べ立ててアルフレッドを煙に巻いたイーライは、
呆気に取られる一行を置き去りに地下十二階に昇る階段へと一直線に歩みを進めていった。

 去り行く道程には、先ほどフィーナに避けられてしまった流れ矢が散乱している。
 イーライが指を弾くと流れ矢はヴィトゲンシュタイン粒子へと還元され、
夏夜に舞う蛍火のような明滅を繰り返しながら中空へと吸い込まれていく。
 光芒が立ち昇ってゆく様は、神苑に還る御霊をも彷彿とさせた。
 光の輪舞の中をメアズ・レイグのふたりは往く。
 ヴィトゲンシュタイン粒子の還元が作り出した霊妙なる光線は、
アルフレッドたちとメアズ・レイグとを全く別の世界に棲まう存在であるかのように隔てていた。

「―――ベストショット、いただきぃッ!」

 ところが、その霊妙な趣は、甲高い声と共に横から割り込んできた強烈にして無粋な閃光に全て平らげられてしまった。
 まるでスキャンダラスな光景を激写されたタレントのように不意打ちに閃光を浴びせられたイーライは、
眩む視界に思わず立ち止まった。

「………撮らせてもらったわよ、あんたたちの生写真」

 イーライとレオナに向かって閃光を焚いたのはジャーナリストの命とも言えるデジタルカメラ―――
その持ち主は、言わずもがなトリーシャであった。
 パパラッチに追い詰められて行き場を失ったタレントさながらに呆然と立ち尽くすイーライとレオナを指差しながら、
トリーシャは思いがけない奇策に打って出たのだ。

「あたしの名前はトリーシャ・ハウルノート。これでも少しは名の通ったジャーナリストなのよね。
メアズ・レイグ、いいじゃない。見出しに使えば映えそうなネーミングだし、
実際、読者の興味もグイグイ引けると思うわ。新興チームってのは興味の的になるもんだしね。
………あんたたちの悪行三昧を顔写真付きで暴露したら、さあ、次の週刊誌はどれだけ部数増やすかしらね」
「だ、だめだよ、トリーシャっ! これ以上、この人たちを挑発しないでっ! トリーシャの手にも、私たちの手にも負えないんだよっ!」
「ここはあたしに任せてって、フィー。………―――えぇっと、話を戻さなきゃだわね、お二人さん。
あたしがその記事をジョゼフ師匠と協力してエンディニオン中にバラ撒いたら、
あんたたちの冒険者生命は完璧に絶たれるわ。………この意味、おわかり?」
「………………………」
「データの消去ボタンを押させたかったら、それなりのネタと交換でなきゃね。
とりあえず、あんたらが探り当てたリーヴル・ノワールの情報、全部ゲロッてもらおうかしら」
「てめぇは―――」
「訊けば、あんたらのほうから仕掛けてきたケンカらしいじゃないの。慰謝料の代わりって考えたら、安いもんでしょう? 
………こっちは仲間がやられてるんだからね。悪いけど、タダじゃ転んでやれないのよ」

 ふたりの行く手を遮るように仁王立ちして情報の提供を要求するトリーシャの強行策に、
メアズ・レイグではなくフィーナたちの間に戦慄が走った。

 成る程、トリーシャの試みた奇策はジャーナリストならではのモノだ。
“新聞王”の名前をチラつかせるあたり、恫喝や揺さぶりとしても上等である。
 “新聞王”のネットワークに風評被害を乗せられようものなら、間違いなくメアズ・レイグの信頼は地に墜ち、
イーライもレオナも冒険者としての再起は不可能になる。
 それで済めば御の字で、最悪の場合、二度とお天道様の下を歩けなくさせられるかも知れなかった。
 普通の人間ならば、一発で尻込みして要求を呑み込むだろう強烈な恫喝だ。

 ………だが、メアズ・レイグにこのような恫喝が通じるかと言えば、甚だ疑問である。
 揺さぶりに屈して要求を呑む可能性と、圧倒的な戦闘力をもってして“死人に口無し”と言う諺を
この場で再現する可能性を比べたとしよう。メアズ・レイグが後者を選ぶ確率は遥かに高かった。
 仮にレオナが前者を推したとて、暴悪そのもののイーライがそれを受け入れるとも思えない。

 だからこそ戦慄が走る。
 逆効果以外の何物でもないトリーシャの奇策が招くであろう最悪の結果に誰もが息を呑み、
フィーナやハーヴェストは通用しないまでも、せめてトリーシャが逃げるまでの時間稼ぎをすべく
メアズ・レイグの二人へ再び照星を合わせた。
 ソニエも既にホローポイントやファランクスなど持てる限りの攻撃プロキシを繰り出す準備を終えている。

「面白ェことを抜かしてくれるじゃねーか、お嬢ちゃん―――」

 案の定、イーライは“新聞王”のお墨付きと言う最強の威力を誇る筈の揺さぶりを軽く無視し、
レオナが見咎めるのも黙殺してガントレットに包まれた左手をトリーシャに突き出し―――

「逃げてぇ、トリーシャぁッ!!」

 ―――何を思ったのか、その細い体を自分の胸の中へと掻き抱いた。

 てっきり首の骨をへし折るか、腕をブレード状に変身させて膾斬りにするものとばかり見なしていたフィーナやハーヴェストは
思いがけない展開に目を丸くし、驚きのあまり、危うく銃器を取り落とすところだった。
 プロキシを準備していたソニエも、助けに入るつもりでいたローガンもこの状況には口を開け広げたまま硬直しているが、
誰より最も呆然としているのは、言わずもがなトリーシャ当人である。

「な…、な、なな………っ」

 不意に抱き締められたことへの驚きはもちろんだが、
肩へ手を回した瞬間にイーライが見せた表情にもトリーシャはその心を搦め取られていた。

 彼女を移しこんだ赤い瞳は、徹底的にアルフレッドたちを嘲り、笑い者にしていた傲慢さを潜め、
深く静かな哀しみと、トリーシャの全存在を優しく包み込むかのような慈しみだけを宿している。
 ただ見つめるだけでいい。語りかける言葉だって必要無い―――
ロマンティストよりもアナーキストと当てはめるほうが遥かに似合う筈の三白眼が不意に見せた、
いっぱいの愛しさで揺らめく瞳にトリーシャの意識は完全に吸い取られてしまった。

 それは、最愛の恋人であるネイサンにだって見せてもらったことのない表情(かお)だった。

「………………………」

 一瞬のときめきなどと言った生半可な揺らぎではない。
 女子高生が茶話のトピックで挙げるような、黄色い声で言い表せるような“乙女心”より
もっと深層の部分まで愛しげに撫でられて骨を抜かれたトリーシャは、最早、イーライの為すがままだ。
 今日、自分たちが邂逅したことを互いの肉体へ記憶させているかのようにきつく抱き締められても、
マンダリンオレンジの髪をそっと撫でられても、………耳元で何事かささやかれても、
今のトリーシャではネイサンに操を立ててイーライを拒めない。
 拒むどころか、彼がすることなら自ら進んで受け入れるだろう。

「………ペンは剣より強しってのをやりてぇなら、もっと上品な相手にやるこったな」

 当事者はもちろんそれを見守る周囲の人間が呆気に取られて立ち尽くす中、
口惜しそうにトリーシャから身を剥がしたイーライは、吊り上がった三白眼を再び傲慢の彩(いろ)で塗りたくると、
もう一度、アルフレッドたちを見回しながら「今日はこのくらいにしといたらぁ。次会ったときこそ、マジな潰し合いと行くぜ」と吐いて捨てた。

 驕慢にして野性味溢れる眼光をギラつかせるイーライの面からは、
既に先ほどまでの感傷などは一片の残像すら消え失せていた。

 大股で『セクト:クレイドルホール』を去っていくイーライの後を、アルフレッドたちに一礼してから追いかけるレオナだったが、
メアズ・レイグのパートナーにして生涯の伴侶である彼が
よりにもよって妻の目の前でどこの馬の骨とも知れない女性を捕まえて迫ったのだから、内心、面白くはない筈だ。

 ………そう、面白くない筈なのだが、追い付いた腕に自分のそれを絡めたレオナの面持ちは、
諦観にも似た悟りの色が濃く滲んでおり、夫の浮気を咎めてはいなかった。
 ともすればイーライがしょっちゅう浮気を繰り返していて、
疲れきったレオナがもう諦めの境地に達しているかのような印象に誤解されそうだが、そう言う下世話なものでもない。
 彼の行動の全てに理解を示し、何があっても随いて行くと言うある種の高潔な決意をレオナは満面に宿していた。

 それを見やるイーライが気遣わしげにレオナの頭へと頬を摺り寄せ、軽く口付けを落とした。
 触れるか触れないかの軽い口付けではあったが、レオナにとってはそれだけで十分だったらしく、
キスが代弁した夫からの想いを静かに噛み締め、一握の哀しみを残しながらも微笑を浮かべた。
 イーライがこの世で最も好み、愛する微笑を。

「かくして扉は開かれた―――………どう? 自分の手で“開かずの扉”をこじ開けた感想は?」
「知るかよ。………ただイラつく。胃の底がムカムカして仕方ねぇ。いつも通りだよ、いつも通り」

 イーライとレオナ―――台風のように現れ、嵐のように去っていったメアズ・レイグだったが、
二人もまた余人には想像も出来ない程の重荷を背負っているのかも知れない。

「しっかし、お前、ちょっとやり過ぎだったんじゃねーか? 俺らを頭上(うえ)から撃とうとしてたふたりさ、
お前、マジで殺すつもりだっただろ? あのまま墜ちてたら、タダじゃ済まなかった筈だぜ」
「それはそうよ。この先の輪廻(こと)を考えたら、実力不足は今の内に篩に掛けなきゃ。
それも優しさと言うものでしょう?」
「………時々、ゾクッとするコトを言うよな。それもさらりと」
「………芽生えたの?」
「何がだよ。アホか」

 ………彼らが開いた“開かずの扉”は、やがてエンディニオンにとって大き過ぎる意味を持つのだから―――


「………………――――――………………」

 メアズ・レイグが去った後も一同の心に刻み込まれた動揺はなかなか拭い切れず、
皆が皆、圧倒的な戦闘力を誇る強敵との戦いに生き残ったことやイーライの奇行にアテられて放心状態となっている。
 メンバーの中で最も早く我に返ったフィーナは、弾かれたようにトリーシャの傍へと駆け寄った。

「トリーシャっ? ねえ、本当に大丈夫なの? 何かおかしなコト、されなかったよね?
………だから、無茶しないでって言ったのにぃ………っ! 私、生きた心地しなかったよぉ………」
「………………」
「―――って、あれ? トリーシャ? トリ〜シャ〜?」
「………………………」
「お〜い、ジャーナリストの皮を被ったC級ゴシップ担当三流パパラッチさ〜んっ」
「………………………………………………」
「………だめだ、こりゃ」

 その場に尻餅ついたまま動けなくなっているトリーシャに何度も何度もそう呼びかけるのだが、
反応はまるで返って来ない。返事の代わりと言えば、虚ろな瞳でフィーナを見つめることくらいか。
 夢遊病にでも罹ってしまったかのような惚けた表情のまま、気遣わしげに自分の顔を覗きこんで来る親友へ
トリーシャは甘い息を吐き出すかのようにしてこう呟いていた。
 一字一句を噛み締めるようにして、イーライからのささやきを復唱したのである。

「………せめて………美しい人生を………」




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