7.ルディア・エルシャイン



「残念なの。いっぱいの“い”を“お”に替えてたところでおっぱおにしかならないの。
でも、それはそれでオッケーって感じ? 言い間違いを避けつつも言わされそうになったことへの
恥じらいが見え隠れする瞬間を額縁に入れて飾っておきたいの。と言うわけでフォトジェニックなヒト、求む!
………ただし、バストDカップ以上が最低条件ですたい」

 ―――などと言うのは、寝起きにセクハラまがいの発言を放った自分に対するツッコミか、
それともをド変態さながらな部分まで包み隠さず自分を知らしめたいと言う方向性のかなり危うい主張なのか。

 ことの真偽は不明だし、むしろ確かめるのも怖い気がするこの発言は、
信じられないことにメアズ・レイグと『セピアな熊ども』が“眠り姫”、エンジェル・ハイロゥと盛り上げて、
引っ張って、最後の最後まで神秘性をもって仄めかし続けてきた揺りかご上の少女が言い放ったものである。
 リーヴル・ノワールの最深部で深く長い眠りに就いてきた少女の開口とは、すなわち万人が抱く価値観の崩壊と同義だった訳だ。

 こう言う場合、キーパーソンと目される人物の立ち居振舞いには、浮世離れした神秘性があって然るべきではないだろうか―――
もちろんこれは観察する側の身勝手な幻想であるし、これに付き合う理由などどこにも無いのだが、
それにしてもとかく人間と言う生き物はシチュエーションを重視する傾向にある。
 お決まりの登場パターンには、お定まりのキャラクターを期待してしまうではないか。
 そうした淡い期待を“眠り姫”はものの見事に粉砕し、蹂躙し、後ろ足で泥まで引っ掛けた。
 “二度目の産声”とまで情感たっぷりに引っ張られた第一声をセクハラ放言で切った“眠り姫”は
呆気に取られる一行を見回しながら、あいさつもそこそこに「なんだバカヤロー」。

 ………最早、神秘性を見つけられる可能性など皆無に等しかった。

「リーヴル・ノワールで遭遇する人間にまともなヤツはいない」とはアルフレッドの漏らした嘆息だが、
『セピアな熊ども』もメアズ・レイグも、頭のネジが数本飛んでしまっているようなものであるから破綻者の巣窟とまで見なすのも、
あながち間違いではなさそうだ。
 コールドスリープから目覚めた開口一番でセクハラ発言を行い、
不躾にも好奇の目を向けてくるアルフレッドたちを鼻息荒く追い散らそうとするなど“眠り姫”も
なかなか良いセンを行っているように思える。
 ホゥリーを見るなり「なにコレ、キモっ! 何かの化合物!?」と青くなった辺り、
言動にクセはあっても常識的な判断や感性はとりあえず備えていそうだ。

「姓はエルシャイン、名はルディア―――ルディア・エルシャイン、恋に恋するお年頃、ちょっとおきゃんな十四歳なの。
友達にはキャラ作ってるって言われるけど、しかしてその正体は、包み隠さず天然素材! 今後ともよろぴくなの!」

 カプセルの内部に収納してあったケースから取り出した自分の衣服――
桜色を基調としたスモックとワイドバギーのジーンズだ――を身に着けたルディアは、
もう一度、アルフレッドたちを見回すと、今度はお辞儀と共に自己紹介を披露した。
 茶目っ気を出したかったらしく、スモックの裾をスカートのように摘んで貴婦人の挨拶を真似て見せた…のだが、
それからが大変だった。ルディアの見せた愛らしい仕草に和んでいる暇すらない程に。

 “眠り姫”―――もとい、ルディアは、喜怒哀楽の表現とその切り替えがとにかく激しい。
 くるくる変わるルディアの表情(かお)をフィーナは万華鏡のようだと評したが、アルフレッドに言わせれば、
紋切り調の感情表現は極東の島国に伝わる伝統芸能・カブキのそれと同じ趣である。
 一つ一つの感情表現がとにかく極端で、一瞬一瞬にフルパワーが込められている―――
そんな印象をアルフレッドはルディアから感じ取っていた。

 他のカプセルでミイラと化している友人を見つけるや、
『セクト:クレイドルホール』を揺るがすほど大声を張り上げて泣き出し、極まり切った“哀”を見せていたかと思えば、
場違いにも友人からメールが届いたことを知らせる着信音を鳴らしたモバイルへ並々ならぬ興味を示し、
「こんなときにメールって………。クラ君はもっと空気読むべきだよぉ〜」と気まずげにしているフィーナの手元から
それを引っ手繰って物珍しそうにキーボードをプッシュし始めた。
 どうやらモバイル自体を初めて見たらしく、操作方法もわからずガチャガチャといじくっている為に
メール画面にすら進めていないものの、本人はいたくご満悦の様子だ。
 両目を真っ赤にする程の号泣からものの一分も経っていなかったが、
モバイル遊びを始めたときには既に“哀”は満面に浮んだ“楽”の感情で塗り潰されていた。
 万華鏡のようだと言い表すべきか、カブキのようだと比喩すべきか、判断に迷うところである。

「こんなに面白いゲーム機、十四年の人生ではじめてなのっ! ルディアが持ってる白黒液晶のアレより
もっとずっとスゴイのっ! なんて言うか―――チョベリグぅ〜ッ♪」
「ボクはまだ十年しか生きてないけど、モバイル如きでここまで感動するヤツは後にも先にもコイツだけだろ〜な。
こーゆーのもおのぼりさんってもんなのかなぁ?」

 感情が切り替わる度に彩りが変化するココアブラウンの瞳は、“楽”と“哀”を余すことなくいずれの色も鮮やかに映し出していた。

「―――はい、そこのボクちゃんっ! ボクちゃん、いくつなの?」
「ぼ、ボク? …今年で十歳だけど、それがなんだよ」
「ルディアは十四歳なの」
「………はぁ?」
「十四歳なのっ。この意味、おわかり?」
「………先輩カゼってワケっすか、先輩」
「理解が早い後輩は可愛いけど、ボクちゃんのバヤイ、ちょ〜っとナマイキ盛りなのね。
ルディアのほうが年上なんだから、ボクちゃんはもっともっとお姉さんを敬いなさいなのっ!
と言うわけで、あんドーナッツと牛乳、五分以内で買って来いなの。代金? ボクちゃん、そこでジャンプするの。
チャラチャラ言うでしょ、チャラチャラ。ご飯の代金はそこにあるのっ!」
「うぜッ!! こいつ、ホントうぜぇぇぇぇぇぇッ!!」

 例えば、シェインを相手に見せた今の感情は“怒”、だ。
両腕をグルグルと振り回しながらシェインに詰め寄っていったルディアは、年上を敬わぬ生意気な態度を
さんざんに叱り付けた―――本人はシェインの態度を改めるべくこっぴどくどやし付けたつもりでいるのだろうが、
傍目には子供二人がじゃれ合っているようにしか見えず、とりわけ極端に走りがちな“怒”の感情表現も、
フツノミタマのそれと比較すれば愛嬌の域を出ていない。

引き合いに出されたフツノミタマは、煩わしいとばかりにルディアの首根っこを掴み、
手足をバタ付かせる彼女を睨みつけて「腹減ってっからカリカリすんだよ、クソガキがッ!! 
てめぇはとっととメシ喰って来いッ!! 良く噛んでゆっくり飲み込まねーとブッ飛ばす」と怒鳴りつけた。

………前言を一部訂正しよう。フツノミタマの怒鳴り声もギリギリ愛嬌の域を出ていないかも知れない。

「一気にたくさん頬張ると喉を詰まらせてしまいますから注意してくださいね。
お水もありますよ。それともお茶にしますか?」
「かたじけねぇです、姐さん………ルディア、このご恩は一生涯忘れませんぜなのっ!」
「チャンバラ口調で行くのか、素の話し方で行くのか、統一しろよな。キャラ、ブレまくりだっつーの」
「ボクちゃん、まだここにいたの? もうとっくに五分過ぎてるの。あんドーナッツ係のお仕事を忘れちゃメッなの。
ちゃんと行ってきたらお駄賃にチュ〜してあげるからがんばっ。………あ、もち頬っぺたに、なの。
勘違いされてホンキになられたら袖にするの大変だから、今のうちに言っとくね」
「お駄賃が既に罰ゲームじゃんかッ! 余計にやる気削がれるわッ!」
「いいのいいの、照れなくていいの。ね、ルディアからのお・ね・が・いなの☆」
「勘違い野郎はどっちだッ! 可愛くないんだよ、上から目線な言い方もパシり要求もッ!!」
「パシりだなんて言ってないの。メッシーくんなの、ボクちゃんは」
「誰でもいいからコイツを黙らせろッ!!」

 何年も何年もコールドスリープしていたせいか、だいぶ空腹だったらしく、
タスクが非常食のカンパンを開けるとルディアはすぐさまそちらに飛び移っていった。
 タスクに渡されたカンパンをまるでリスか何かのように口一杯に頬張り、それをミネラルウォーターで飲み下すと、
肩をプルプル震わせてから「五臓六腑に染み渡らぁ〜♪」と“喜”の感情を爆発させた。
 「頬っぺたが落ちる」とは美味い物を食べた際のリアクションとして使われる例えだが、
ルディアの様子を見やれば、本当に頬が落っこちてしまわないように自分の両手で力いっぱいに押さえつけている。
 何もカンパンとミネラルウォーターでそこまで感動しなくても………と思わなくもないものの、
ルディアにとって数年のぶりの食事であったのだ。自然と最高のご馳走になるのも頷けた。

 このようにアルフレッドたちはルディアに振り回されっぱなしなのである。
 良く言えば、能動的。悪く言えば、落ち着きの無いルディアは、飛び跳ねるようにして動き捲くる。
 身振り手振りもリアクションまでも大袈裟で、とにかく忙しなく動き回る様子は、どことなく小動物的だ。
 実際、シェインよりも頭一つ分小さなルディアのシルエットは、犬の耳を模した髪飾りを付けていることもあって
チワワやとコーギーと言った小型犬のそれを彷彿とさせた。

 実年齢よりも遥かに幼い立ち居振舞いはやかましいくらいに賑やかだったが、
それが不快感を振り撒くことはなく、満面に素直な感動を表す様子は、見ている者に安らぎと癒しを与えてくれる。
 そんなところまでルディアは“子供”のままであった。

 ………とは言え、全ての人間に等しく安らぎと癒しをもたらしてくれるわけではない。
 身心ともに―――いや、心が著しく疲れ果てていた人間にとっては、
ルディアの天真爛漫な笑顔は鬱陶しさ以外の感情を一つとて呼び起こさなかった。
 誰かの明るさは、他の誰かに元気を波及させるだけでなく、
それを好まない者に陰鬱とした嫌悪を芽生えさせる原因にもなり得るのである。

(ご隠居に詰られた通り、結局、僕は何の為にいたのかもわからなかったな………)

 ルディアが何年ぶりかの食事を摂っている間に残る最後の一隊もリーヴル・ノワールの最深部へ到着したのだが、
そこで行なわれていたこと―――もっと言えば、アルフレッドたちが挙げた成果を目の当たりにした瞬間、
フェイの心の働きが表情と共に凍りついた。
 ジョゼフとホゥリーに小馬鹿にされ続け、ネイサンからフォローとは名ばかりの嘲り――
ネイサン本人は真剣にフォローしたかったかも知れないが、フェイには嘲笑にしか聴こえなかった――を受け、
いい加減、相手するのにも疲れ果てていたところへ自分以外の者たちが揃い踏みして大成果を見せ付けてくれたのだ。
 運が悪かったこともあるだろうが、あちこち駆けずり回った挙句に何一つ満足できる成果を残せなかったフェイにとって、
これほど自己嫌悪を駆り立てられる事態は他にはない。

 収穫らしい収穫と言えば、研究者たちが置き忘れていったと思しきCUBEを発見したことくらいだが、
これすらホゥリーに横取りされてしまって手元には残っていなかった。
 「ブレードマスターなヒーローにはソーサルなんて小細工ニードがナッシングでしょ? こーゆーブレイン労働カテゴリーは
ボキみたいなインテリ派が使わなきゃ宝の持ちルストよン♪」などと抜かしながらCUBEを掠め取っていったホゥリーの高笑いは、
今もまだフェイの耳にこびり付いている。
 黴か何かのようにしつこい残響は鼓膜から汚染するかのようにジワジワと心の裡へと回っていき、
心の汚染箇所が拡大されるにつれて不快指数を飛躍的に跳ね上げていった。

 人海戦術の知識や用兵の技術を備えていなかったフェイは、
それらを士官学校で修得したアルフレッドへ今回の探索におけるイニシアチブを譲っていた。
 専門的な能力を持った適材はそれを行かせる適所に配置すべきだと思ったのだし、
現に誰もがクリッターの巣窟としか考えられていなかったリーヴル・ノワールで小さな“眠り姫”を発見できたのだから、
フェイの判断は全く正しかったと言えよう。
 アルフレッドが発揮した手腕は、彼にイニシアチブを任せて良かったとフェイを安心させるばかりでなく、
弟分が期待以上の成果を挙げたことを心からの誇りに思わせた。

(………所詮、力に任せた剣など智謀には劣ると言うことなのか………)

 期待に応えてくれたことがとても嬉しく、アルフレッドを弟分に持てたことを誇りにも思えた…が、
人間とは実に不思議な生き物で、フェイは、今、心のうちに全く相反する二種類の感情を内包させていた。

 アルフレッドに対する喜びと、もう一つは微かな嫉妬である。
 自分が頼みとする最高の力が、冒険者としても後輩にあたるアルフレッドに引けを取ったことへの悔しさが、
沼地を浸食する泥のようにフェイの心に染み出してきているのだ。
 まるで真綿で首を締めるかのような、苛立ちを膨らませようとしているかのような鈍いスピードでジワジワと。

 勉強不足をジョゼフたちに罵倒されるまでは考えることすらしなかった醜い感情だが、
一度、意識してしまうと後から後から焦燥感が湧き出し、鎮静させるのは極めて困難だった。

(―――いや、違う。知恵もまた大きな力の一つだ。正義なき力が無能であるのと同じように、
命を賭した剣を振るうには、闘争の先にある結果を見極めるだけの理知が不可欠だ)

 ………極めて困難に思えるが、しかし、フェイはドス黒い暗雲如きには屈しなかった。
 自分は“英雄”なのだ。人々の規範となるべき生き方を全うする使命がある。
 一時の感情に流されて“英雄”にあるまじき軽率な振る舞いをするなど断じて許されないのだ。
 “英雄”たらんとする矜持を訓戒にもってして自らを律し、歪みかけた精神を正していく―――
心に迷いが生じたとき、負の想念が垂れ込めそうになったとき、フェイは決まって自らに“英雄”としての生き方を訴えかけてきた。

 醜悪な感情に囚われて人の道を踏み外すような過ちだけはすまい。
 身をもって知るこの世の悲しみを、絶望と抱き合わせる不幸を、他の誰かに振り撒いてはならない。
 自分は違う。自分は人の道に背いた悪党を成敗する“英雄”なのだ。堕落する側でなく断罪する立場なのだ。
“英雄”である自分だけは、下卑た連中と同列になってはならないのだ―――と。

(相容れないと思うよりも力と知恵を束ねる術を探すんだ―――それを成し遂げられるのが“英雄”なんだ………!)

 今度の暗雲は実に厄介であったが、“英雄”たるべき者の精神はまたしてもフェイに勝利をもたらしてくれた。
 英雄的に生きんと欲する信念が醜悪を切り払い、更なる精神の高みへと克己させるのである。

(………僕は、あいつらとは違う。かりそめの英雄などではない………ッ!)

 エルンストを始めとするテムグ・テングリ群狼領の幹部たちから受けた屈辱は、今もなおフェイの心に深い傷を残している。
 英雄たらんと意識すればするほど、彼らの嘲りに満ちた顔がチラついて仕方がない。
悪意に満ちた嘲笑が鼓膜にて蘇り、いつまでも反響をし続ける。
 その嘲笑の中には、言うまでもなくジョゼフとホゥリーから向けられたモノも含まれていた。

(理屈で求めるんじゃない。強い意志が生み出す―――それが英雄なんだッ!!)

 大いなる矛盾としか言いようもないのだが、心ない嘲笑を断ち切る剣は英雄たる矜持によってのみ磨かれるのだ。
少なくともフェイは、それ以外に克己の刃へ光宿す術を持ち合わせてはいなかった。
 ………不備ではない。ただそれだけで“英雄”には十分であった―――

「………ナビゲーターたちの好き勝手にされてしまったけど、本当に目覚めさせて良かったのかな。
俺たちの手に負える問題じゃない気がするんですが………」
「あ、え………っ?」

 ―――精神統一に努めてようやく暗雲から脱却ばかりだと言うのに、
そんなことはお構い無しとばかりにアルフレッド当人に話し掛けられたフェイは、さすがにえづいてしまった。
 心の整理が完全につくまでは無視しようと一瞬だけ考えたものの、
弟分からの相談を無碍にしたら更なる自己嫌悪が押し寄せて来るかも知れない。
と言うよりも、そもそもアルフレッドは何も悪くないのだ。
 手前勝手な行き詰まりに彼まで巻き込むわけにも行かず、また、そんな状況へ陥ってしまったなら
今度こそと人の道を外れてしまうと案じたフェイは、更なる克己の為にもアルフレッドと向き合うことに決めた。
 英雄である矜持と自訴するのも忘れずに。

「手に負えなくなった場合を想定すると、生体研究の生き残りを覚醒させたのは間違いじゃないかと。
あのまま眠りに就かせておくのが双方にとって良かったんじゃないでしょうか」

 頼れる兄貴分に助けを求めるような視線を送りながら、何か腑に落ちない面持ちで佇んでいたアルフレッドは、
先ほど口にした懸念を、もう一度、フェイに投げかけた。
 それは、とてつもなく難解な懸念であり、論議するには人目を憚る内容であった。
 フェイが後方に視線をやり、ルディアの面倒を見ている仲間たちから離れて話そうと促すとアルフレッドも素直に同意した。
アルフレッド本人もこの場で話して仲間の耳に入れば揉め事になると判断したのだろう。

「待ってくれ、アル。………手に負えないってのはどう言う意味なんだ?」
「ルディアと言ったかな―――あの娘、人間の姿形をしてはいますが、正体はまだはっきりとはわかりません。
ナビゲーターたちに見せられた映像にもあったようにいきなり化け物に変身するとも限らない。
………いきなり化け物に変身してしまう俺が言うのも皮肉な話ですが」
「だからと言って、こんな危険な場所に取り残しても良い理由にはならないんじゃないかな。
君が言っているのは、あくまで可能性の世界の話だ。あるかもわからない最悪の事態を想定して、
予防の名目であの娘自身の可能性に蓋をしよう言うのは、君には悪いが、とてつもなく危険な考え方だ。
人道にも反しているし、容認できないな」
「人道や人権は人間にこそ適用されるものです。人の皮を被って悪事を働く狸には何の効力も発揮しないでしょう?」
「あんなに感情豊かで人懐っこいクリッターがどこにいる? 少なくとも僕らは一度だって出くわしたことがないよ。
君は臭い物に蓋をしたがるが、もう一度、あの娘をカプセルに押し込めたら、一体、どうなると思うんだ?
他のカプセルの有様が君の目には入っていないのかい?」
「あれが化け物と化した後にも同じことを終えますか? 生半可な憐れみで連れ回し、
お互いに情が涌いてから斬り捨てることと、今、この場で全ての可能性を予防することのどちらがより残酷なのか。
………俺だって自分の意見が正しいとは思っていません。でも、考慮するだけの価値はあると思います」

 人道と引換えにするだけの価値があるのかとの問いかけに対して迷いなく頷いたアルフレッドへフェイは溜息を禁じえなかった。
 離れて話している仲間たちにも聴こえてしまいそうな、大きな大きな溜息だ。

「君は羨ましいくらいの知恵を持っているが、それが時として危険な理論をもたらすようだな。
それとも士官学校で習った軍略なのか?」
「類似したケースを教わりましたが、今のは俺なりにアレンジを加えました。
………フェイ兄さん、あなたに出来ないなら俺がやります。手を汚すのが他の人間ならまだマシでしょう?」
「誰が手を汚すか、汚さないかではないんだよ。それに…だ。君にそんなことをさせられると思うか? 
………以前、ハリケーンの被害に遭って両親を失った子を救助したことがあるんだが、
そのときにツテの出来た孤児院があってね。そこに預けると言うのはどうだろう?
攻撃本能を忘れてしまうような牧歌的な場所だよ。イシュタルへの信仰や道徳的な学科を熱心に教えているし、
情操教育には最良の環境だ。極端な意見へ走る前に危険性を摘み取る努力をすべきだよ、アル。
それがデリケートな問題であれば尚更だ」
「その施設が犠牲になる危険性も考慮すべきです」
「アル、わかっているのか? 今、この場で最も危険なのは君なんだぞ。僕が憂慮しているのは、
君が人として許されない行為に走ることだよ」
「しかし………っ!」
「―――盛り上がってるとこ悪いんだけどね、そこの色男二人。喧嘩する前に議論のテーマがまず間違ってんのよ。
疑うまでもなく、“眠り姫”は―――ルディアはれっきとした人間よ。………人間として完成されたから、
こうやって丁重に保管されていたんだもの」

 倫理と言う議題をテーブルに上げてやり合うアルフレッドとフェイの間に割って入ったのは
『セピアな熊ども』が映し出されたデジタルウィンドルだった。
 アルフレッドは露骨に厭な表情(かお)を見せたが、平行線を辿りつつあった話し合いを打開するには
二頭の熊の干渉は必要不可欠だったと思える。
 現に二頭の差し出口は潤滑油となってアルフレッドとフェイの議論を次のステップへ移行させた。

「“人間として完成されたから”? ………と言うことは、やはりあの娘は―――」
「………人造人間、なのか?」
「何を目的にして作られたのか…とは聞かないでくれよ。さっきも話したけど、ボクらも全部を知ってるわけじゃないんだ。
ボクらが知ってんのは、あの娘が研究者たちの手で作られた試験管ベビーで、
リーヴル・ノワールで行われてた生体実験の完成モデルってことだけなんだ」

 これまでに得られた情報を統合し、判断を下すならば、この結論以外に導き出せるものは無い筈だ。
 “試験管ベビー”。すなわちこの地で悪魔の所業に手を染めていた者どもが創出した人造人間。
 遍く生命の創造を司る女神イシュタルが定めし摂理を踏み外した、この世に在ってはならない存在―――
『セピアな熊ども』はルディアを指してそう言い放った。

(………やはり………そうか………)

 予測をしていたはいたものの、やはり実際に突きつけられると受け止めきれないほどに衝撃が大きく、
アルフレッドとフェイは顔を見合わせて言葉を失った。

「………一つ、確認したいんだが」
「ほうほう、キミのほうから振ってくるなんて珍しいね。よし、なんでもお兄さんにお訊きなさい!
マサコを射止めた包容力を見せ付けてやろーじゃないか」
「それはどうでもいいが―――あの娘は自分が人造人間だと言うことを知っているのか? 俺が知りたいのはこの一点だ」
「また答えにくい質問を持ってきたもんだな〜。………ボクらはナビであってエスパーじゃないからね、
あの娘の心をリーディングする機能は付いてないよ」
「つまり、真実は直接尋ねるしかないと言うことか………とんだ時間の無駄遣いだったな。秒単位で貴様に返還を求めたいくらいだ」
「自分で訊いておいてその言い草―――てかさ、化け物だの人造人間だのってさっきからグチグチ言ってるけど、
それがそんなに重大なことなのかねぇ〜」
「正体のわからないモノと肩を並べることに不安を抱かない人間などいるものか。
………お前たちも感情ロジックをプログラムされているのなら、考えてみてくれ。
俺の言わんとしていることがどれほど重大な意味を持つのか」
「全然。頭硬くして考える必要も無いし」
「な………」

 これ以上ない最重要事項とまで考えていた懸念をたったの二言であっさり切り捨てられたアルフレッドは再び言葉を失い、
呆然と立ち尽くすばかりになった弟分のわき腹を肘で突きながら、「ほら見ろ」とフェイは囁いた。
 杞憂と分かりきっていることをさも深刻そうに懸念して、強硬な態度を取ることは滑稽でしかない、と。

「キミはボクのことをどんな風に見てる?」
「どうと問われても、コンピュータ上のプログラムとしか答えようがないが………」
「ただのプログラムが人間サマみたいにお喋りできるかね? てか熊だって人語は使わないだろ〜し」
「それと今の話がどう繋がるって言うんだ………?」
「取るに足らないプログラムの、しかも本来なら熊語しか使えないハズのボクとキミはフツーにダベッてる。
少なくとも人間サマとおんなじタイプの感情(こころ)を持ってちゃいけない熊なんかとね。
………なのに人造とは言えれっきとした人間に怯えるんかい?」
「俺がいつ怯えた? 俺は危険性を防ぐ手立てを――――――」

 そこまで言ってアルフレッドは言葉を切った。………いや、切らざるを得なかった。
 ワイルド・ベアーの指摘に対する反論の口火を切ろうとしたところで、
アルフレッドは自分が重大な見落としをしていたことに気付いてしまったのだ。

(――――――反論するだけ惨めになる、か………)

 ………フェイが言うところの、“ありもしない可能性”へ他ならぬ自分が、いや、自分だけが怯えていたことに。

「自分で言うのもなんだけど、フツー、愛を語る熊のほうを不気味がるんじゃねーの?
人間じゃなくてプログラムで、しかも熊なアベックってちょ〜っと変わってると思うよ。
あ、でもそれってつまりオンリーワンってコトか! う〜む、それならキテレツ呼ばわりでもいいっかな!
むしろカムカムみんなでキテレツっちゃって、みたいな?」
「………………………」

 最早、何を言われてもアルフレッドには返す言葉が見つからず、ただただ押し黙るしかない。
 思いも寄らない人物(と言うか熊だが)からの思いがけない反論に面食らって
三度絶句させられたアルフレッドの肩を気遣わしげに叩いたフェイは、彼に代わって『セピアな熊ども』に向き合った。

「僕からも質問があるんだけど、続けていいでしょうか?」
「今日はなんだかモテモテね。いいわよ、色男から声を掛けられるのは大歓迎だもの」
「ま、ままま、待ったッ! ボクが出るって、そこはッ! てか、ボクのマサコに馴れ馴れしく近づく―――にゃびゅぷッ!?」
「さっきから聞いてりゃ何度も何度もマサコって呼びやがって、このカスが―――………さ、邪魔者は消えたわ。
なんでも言いつけてちょうだい。ただしセクシャルな質問はふたりきりのとき以外ではNGよ」
「では気を取り直して―――あなたたちの差し金であの娘は目覚めた。
どんな形であれ、目覚めた以上、もう一度、カプセルに押し込めるのは忍びないと言うのが僕の考えだ。
………そこで、伺いたい。今、彼女は何を望んでいると思う? 何をしたいと考えるだろうか?」
「どこぞのゴミ溜めがほざいてたんじゃなかったかしら? あたしたちはエスパーじゃないってね。
何をしたいと思ってるかなんて、それこそ本人に聞くしかないでしょうが」
「その前に客観的な意見が欲しいんだよ。コールドスリープに入る前の彼女を僕らは知らないからね。
あの娘の十四年間の経験から出るだろう欲求を予め知っておきたい」
「柔軟なんだか、硬いんだか、わからない頭をしてるわねぇ。一体、何の哲学なのかしら?」
「幸福論ってヤツかもね」
「………おまけに気障と来たもんだわ。さぞかしモテるんでしょうねぇ〜」

 考えようによってはアルフレッドから投げかけられたものよりも遥かに難解な質問を受けたクール・ベアーは、
尻に敷いた――物理的に、だ――ワイルド・ベアーの身体から何かのへし折れる音が聞こえてくるのも構わず、
臀部へ全体重を乗せてふんぞり返った。
 すぐには答えを出しにくい質問なのだろう。ワイルド・ベアーを椅子にしてふんぞり返ったのは、
高圧的な態度の体現ではなくどう答えたものかと思案しているからであった。

「………ここで“ハカセ”を待つか、あるいは追いかけると思うわね。あの娘、“ハカセ”によく懐いていたから」
「………“ハカセ”?」
「読んで字の如くね。“博士(ハカセ)”。リーヴル・ノワールで行われていた人造人間計画の立案者にしてプロジェクトリーダーであり、
同時にあの娘の養育にも当たった男よ。………本当の名前は忘れちゃったし、
あたしたちのアクセスできるデータベースにも残ってないから“ハカセ”って言うニックネームしかわからないけど」
「つまり、あの娘の親代わり………いや、紛うことなき父親、か」

 コールドスリープに入るまでの十四年間、“父親”としてルディアを養育していたと言う“ハカセ”。
 そのような人間がいるのなら、ルディア自身も会いたいに決まっているし、
何より彼女を引き渡すのにこれ以上相応しい相手はいないだろう。
 なにしろこの施設で行なわれていたプロジェクトの全てを統括していた“ハカセ”なのだ。
 アルフレッドが杞憂甚だしく気を揉んでいた懸念が、万一、発生してしまった場合もきっと適切な処置を施してくれるハズだ。

 ………いや、長々と理由と理屈を連ねてきたが、肝心要はそう小難しく入り組んだことではない。
 いかなる事情があれどこの娘が父親と離れ離れになっているのなら、然るべき場所へ帰すのが一番ではないか。
 例えそれが、血縁関係が無く、あるいは研究者と被験者の立場であっても、
親子の情を交わした以上は父娘が共にある姿こそ最も望ましいと考えるのが自然であろう。

「もう一度…今度は俺から確認させてくれ。“ハカセ”とか言う男はあの娘を可愛がっていたんだな?
実の娘とは行かないまでも、モルモットのような扱いはしていなかったんだろうな?
それともそんな情報すらお前たちは記憶していないのか」
「随分と癪に触る言い方だけど、………ま、あの娘を心配してくれてるみたいだし、流してあげよーじゃない」
「貴様のジョークに付き合う気はとうの昔に失せている。質問にのみ答えてくれ」
「全く可愛げないわねぇ―――で、質問の答えだったわね。もちろん、YESよ。
あの娘やそのお友達から研究データやサンプルを抽出していたのは事実だけど、
観察以上のことはしていないわ。逆にあの娘たちをモルモットとして飼おうとしてた他の研究者に食って掛かってくらいよ」
「念を押すようだが、本当にあの娘が不幸になることはないんだな?」
「………ココを打ち棄ててトンズラするような研究者の一員だってんだから、神経過敏になるのも無理ないけど、
アンタ、またありもしない恐怖に怯えてるわよ。いい加減、ただのヘタレに成り下がってるわ。
男だったもっと気を大きく持ちなさいよ」

 “ハカセ”とやらに引き渡すことでルディアが不幸になる可能性が零でない以上、
裏を取ってからでなければ迂闊な行動も出来かねるのだ。
なにしろ相手は、カプセルの故障とそれが引き起こす災害をまるで想定しなかったかのように研究施設を破却し、
それきりメンテナンスにも訪れず大多数の“ルディアの友達”を見殺しにした悪魔の集団である。
 人道無視をもう数え切れないくらい繰り返している集団の一員に、いくら父親代わりとは言え、
ルディアを帰してしまって良いものか―――これがアルフレッドには引っ掛かっていた。

 ネグレクトですら許し難いと言うのに、まかり間違ってより非人道的な研究に幼いルディアを巻き込もうと言うのなら、
誇張でも恫喝でもなんでもなく万死に値する。
 ハーヴェストではないが、正義の名のもとに罰するべきだ、と。

 回答の全てを鵜呑みには出来ないものの、懸念事項を『セピアな熊ども』によってキッパリと打ち消されたアルフレッドは
ようやく胸を撫で下ろし、何も知らぬままケロイド・ジュースと遊んでいるルディアへ安堵の眼差しを向けた。
 カンパンの食べカスを“お弁当”よろしく頬っぺた残しながらも元気いっぱいに飛び跳ねる様子は、
同じようにチップスの喰いカスを顔面の至る場所へこびりつかせているホゥリーと正反対で微笑ましく、
見る者の口元を緩ませ、荒みがちな心を癒してくれる特効薬である。

 叶うならば、目覚めたばかりのあの娘の表情(かお)が失意と絶望に塗り替えられる状況だけは避けて欲しい。
 フェイと言わずアルフレッドと言わず、誰もがそう願わずにはいられなかった。

「それでその“ハカセ”とやらは、一体何処に―――」
「―――はいっ! 難しいお話はこれにておしまいっ!」

 ………と、これから最重要のキーワードへ踏み込もうとしていた矢先に、
二人の足元からにょっきりと生えてきた――そう表現するのが最も的確だった――フィーナが、
ローアングルから普通の立ち方へ身を起こすまでの間にアルフレッドとフェイを交互に見比べつつ
「幸福論にダムはありません!」などと叫びながらルディアの身の振り方に関連する会話に割って入った。

「本当にルディアちゃんの幸福を願っているなら、本当に心配しているなら、
一番大切なものまで堰き止めちゃうようなダムを心に持ってたらダメだよ。
堰き止めてるものも、全部、キレイに放流しちゃおうっ!」

 地獄耳なんだか、耳年増なんだか………どうやらこれまでの会話は全てフィーナに盗み聞きされていたようだ。
 理論・理屈の応酬でルディア救済の是非を話し合っていたアルフレッドとフェイへ人差し指を突き出しながら、
フィーナは彼らの議論を否定するかのような言葉を発した。
 議論の中身ではなく、議論すること自体がナンセンスと言い放ったのである。

「ハカセに会いたいか、ルディアちゃんに直接訊けばいいんだよ。それが一番でしょ?」

 理論と理屈を否定したあとは、優先される項目はより直感的な心の働きだけとなり、
果たしてフィーナはこの直感をこそ大事にしたいとアルフレッドたちに語った。
 第三者があれこれ議論するのは勝手だが、だからと言ってルディアの行動や判断を左右出来るだけの影響力があるとは考えられず、
また、彼女の選択に第三者が介入するべきではないともフィーナは続けた。
 最後には人生にとって必要だと思われる選択を下し、その選択に自ら責任を持たなければならなくなるのだから、
なおのことルディア以外に選択権は許されないんだ、とも。

 直感的な心の働きを推している割にはさきほど否定したばかりの理屈同様の羅列を連ねるフィーナではあるものの、
やはり尊重しているのはルディア自身の意思による選択である。
 ハカセをここで待ち続けるのか、それともどこかに居るだろうハカセを探しに外の世界へ飛び出すか―――
いずれが選ばれるにせよ、ルディア自身の決断を支持し、守りたいとフィーナは決然と宣言して見せた。

 フィーナの表した決意こそが、あるいは真にルディアを自分たちと同じ人間と認め、
感情豊かに動く彼女の心がプログラムされたものでないと解き明かす唯一の手がかりであるのかも知れない。
 “人間なら人間らしく”―――偏見などのネガティブな印象だけでなく、
マイノリティを庇護してやろうとする傲慢な懸念からも解き放ってルディア本人を尊重しているのは、
少なくともこの場にはフィーナしかいなかった。

 ルディアをコールドスリープから解放させた『セピアな熊ども』も心情的にはフィーナに近いように思われるのだが、
おどけてばかりの口調からは断片的な情報しか拾えず、
リーディングしようにもさすがにデジタル・ウィンドゥの内部までは見透かせはしなかった。

「ウェルナー・ハイゼンベルグもがっかりだな。折角作った法則を教訓にもしてもらえないんじゃ張り合いもあるまいよ」
「“自然とは観察する側によって変化を来たす”、か。また古い例えを持ち出したね、アルも。
………あの娘が観察側の都合に振り回されなくて本当に良かったよ」
「ウェルなんとかさんのことは聞いたこともないけど、難しく考えなくても答えが出るってことは
アルだってわかってたでしょ。なら論より証拠を見せなきゃ」
「そこまで察しているなら、俺の言わんとしていた話を全て確認してから異論を唱えて欲しかったな。
凝らした議論を行動に移すことは不可欠だが、その前に情報を得なければ始まらない」
「銀髪ボーイもそちらのお嬢さんも、お互いをもっと見習ったほうが良さそうね。
頭でっかちでも始まらないけど、空回りなんてもっと情けないわよ」
「そう、走り出そうにも目的地が定まっていないんじゃ、途中で迷子になるだけだ。
引き返せないような場所まで来て泣きを見るなんてごめんだ―――」
「―――けしからんお尻をしてるの♪ 全体的にやせっぽちでうっふん度が低い分、
もっとイケナイ雰囲気が出てるって言うか―――んん〜………抱きごこちはトリプルA級なの!」

 ルディアの心を尊重したいと大熱弁を振るうフィーナの臀部に渦中の“眠り姫”当人が飛びかかって来たのは、
『セピアな熊ども』に対して向かうべき目的地を―――“ハカセ”なる人物の生存と所在を今まさに確認しようとしたときであった。
 どうやらケロイド・ジュースと遊ぶのに飽きてしまったらしく、ルディアの軌道の後方へ視線を巡らせれば、
「………初対面のガールにまで………お口臭いって言われた………」と激しく仰け反るローブ姿とそれを慰めるソニエの姿が見える。
 ぐりんぐりんと臀部に頬を擦り付けられるフィーナは「お、お尻のランク付けされるのはちょっと…」とさすがに困り気味だが、
決して無理に振り払おうとはせず、ルディアの気が済むまでセクハラ親父さながらの行動を許してやり、
満足した頃合を見計らって彼女と向き合った。

「………ルディアちゃんはさ、これからどう言うことをしてみたい? 何でもいいんだよ?
やってみたいこと、お姉ちゃんに教えて欲しいな」

 衣服が汚れるのも気にせず膝を突いて小さなルディアに視線を合わせ、
それまでの余韻に浸るかのように恍惚に輝いているアーモンド形の瞳をフィーナは覗き込む。
 慈しみに満ちた眼差しで見つめられ、愛しげに頭を撫でられたルディアは、最初こそ驚いた素振りを見せたが、
すぐに全身から余分な力が抜け落ち、表情(かお)も緩やかに安らいでいった。
 今にも蕩けてしまいそうなルディアを胸に抱き留め、更に優しく頭を撫でてやりながらフィーナは静かに語り掛けを始めた。

「ん〜、とりあえずシャバに出たいの。ここでハカセを待ってなきゃって思うけど、
たまには外の空気が吸いたいのね。それから買い物っ! でもでも、ファミレス巡りも捨て難いのっ。
さっき、シェインのボクちゃんが遊んでたモバなんとかってゲーム機も自分用に買いたいし………。
んんん〜〜〜っ! たくさんあって迷っちゃうのっ!」
「あ、いいね〜、モバイル。お姉ちゃんのとお揃いのにしようか。…それから?」
「久しぶりのシャバを味わったあとは塀の中に逆戻り―――ってのも、ちょっとルディアの趣味に合わないの。
ほら、ルディアってアウトドア派だし、お日様大好きだし!」
「じゃあ、ここから出るなら何をしたいかな? ルディアちゃんには何か夢ってあるの? 
お花屋さんとか、ケーキ屋さんって似合いそうだね」
「シャバに出るなら、ルディアはヒーローを目指しますっ」

 掻き抱かれたフィーナの懐からルディアの右腕がすり抜け、その人差し指で天を示しつつ、
ルディアはヒーローになりたいと高らかに宣言した。
 あまりにも意外な夢だ。
 てっきりフィーナの挙げた類例に食いつくかと思っていたのだが、
返答はとても勇ましく、ハーヴェストあたりが聴きつけたら新たな同志が増えたと鼻息も荒く大喜びするに違いない。
 案の定、大声で発表されたルディアの夢に対して興奮を極めたようで、
鼻息を荒くするあまり、衝動的に「ポーズの角度が甘い」と一般人には理解不能な指導を入れかけたほどだ。
 横槍が入っては話がこじれると判断したローガンが後ろから羽交い絞めにして止めていてくれなかったら、
今頃、ハーヴェストを中心とした濃ゆいヒーロー談義が開幕していたかも知れない。

 思いがけない答えにフィーナも驚きはしたものの、ヒーロー宣言を否定することもなくルディアの頭を撫で続ける。
 次第に猫か何かのようにルディアはゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
 その和み切った姿がたまらなく愛らしくて、フィーナは更に優しくルディアの頭を撫でていく。
 歳若いフィーナとルディアには失礼だが、傍目には縁側で飼い猫を愛でる老母さながらの雰囲気である。

「『お前はこの世界を救うヒーローになりなさい』ってハカセによく言われてたの。
だからヒーロー目指すのもアリかなって。………でも、ここだけの話、ハカセってばちょっとロリコン入ってるのね。
だから、ヒーローになるよりはフリフリのドレス着て唄って踊るアイドル狙ったほうが、
ハカセ、喜んでくれるかもなの」
「アイドルのCDなら結構持ってるし、今度、一緒に聴いちゃおっか。ルディアちゃんがデビューするときに
参考にしてくれてもいいしさ」
「ほんと!? ア、アイドルってことは、ジョナサン事務所のジュニアとかもあったりするの? 
も、もし貸していただけるなら、ご恩は一生忘れませんの」
「ジュニアは組み合わせの宝庫だからチェックしまくってるよッ!」
「何の宝庫かわかんないし、ドバーって行ってる鼻血が気になるけど―――あっ、それからね、ルディアねっ! 
………えっとね―――そ、それからぁ………………………」

 フィーナとの談笑へ瞳をいっぱいに輝かせたあと、何を思ったのか急にルディアが顔を俯き、
先ほどまでの元気と打って変わって聞き取れないほどの小さな声で何事かをもじもじと呟いている。
 耳まで真っ赤に染めているくらいだから、ルディアにとっては羞恥心を刺激させることなのだろうが、
フィーナの胸に顔を埋めながら呟くものだから彼女以外には輪郭すら捉えられない。
 だが、フィーナは急かさない。
 何を言っているのかわからないようなルディアの呟きへ静かに耳を傾け、彼女が自発的にこちらへ伝えてくれるのをじっと待ち続けた。

「………ハカセに会いたい、かな………っ」

 困ったように頭を掻いて、ウンウンと知恵熱出そうなくらい唸って、恥ずかしさを紛らわそうと咳払いして、
高鳴る心臓を鎮めようと深呼吸して、それがうまく行かずにせつなそうにして、照れ臭そうにはにかんで―――
最後にナイショ話を打ち明けるかのようないたずらっぽい表情(かお)を浮かべて、ルディアはそうフィーナに伝えた。

「よくもまぁ、ファーストコンタクトしたばっかのガールにあそこまで尽くせるもんだね。
マーベラスってかファンタスティック? バットしかし、ボキにセイさせりゃ、ザッツはストレンジだね。そうクレイジー!
………あ、もしかしてアレ? フィーナってば、ホムンクルスたら言うゲテモノをレスキューできなかった責任とか
感じちゃってるリエゾン? そのクライム滅ぼしでマテリアルガールをヘルプしようとしてんのかな? かなかな?」

 ルディアの素直な気持ちを下品なゲップで台無しにしようとするのは、言うまでもなくチーム一空気を読まず、
半ば吐瀉物同然に見なされつつあるホゥリーだ。
 感慨深げにフィーナたちを見守っていたアルフレッドたちの間へ無粋に割って入ったホゥリーだが、
その両耳が何故か淡い燐光を放っているではないか。
 先ほどの胸糞悪い発言と不可思議な燐光を照らし合わせて推察するに、
どうやらプロキシの力を使って一連の会話を盗み聞きしていたようだ。

「なんてグレイトなスピリッツなんざましょ! セルフで進んでゲテモノのエサになりたがるなんて
今時、激レアなサクリファイスの―――ほげっ!?」
「そんな打算的なタマかよ、あの天然小娘がよ。うざったくなるくれぇ単純で無鉄砲じゃねぇか―――」

 そう言って無粋極まりないホゥリーの脳天へゲンコツを落としたのはフツノミタマである。
口振りからすると彼もまたフィーナたちのやり取りにデバガメを働いていた模様だ。
 別段、ホゥリーのような燐光を耳からは発していないが、
彼はもともと生と死が薄皮一枚離で行き交う苛烈な裏社会を渡って来た仕事人だ。常人より五感が鍛えられていても不思議はない。
 その五感をもってしての盗み聞きであったようだ…が、ホゥリーのように悪質な目的で二人の会話へ耳を傾けていたのでなく、
見かけや前職に寄らず情の厚いこの男は、純粋にフィーナとルディアのことを案じていたのだ。

「―――きっと今もそうなんだろうよ。目の前に座り込んでる小さなガキを見捨てちゃおけねぇ。
体当たりで助ける。本当にそれだけなんだろうよ」
「………フツ、お前………」
「………ウゼェったりゃありゃしねぇっつってんだよッ! コラ、てめぇがリード引っ張らねぇでどうすんだッ!?
これ以上、ガキの面倒なんざ見切れねぇかんなッ!! ここは託児所じゃねぇッ!!」

 注意して観察しなければわからないような微々たる変化ではあるが、ハカセに会いたいと告げた後、
恥ずかしさを紛らわそうと奇声を上げて再びフィーナに胸へ顔を埋めたルディアを見守るその横顔からは
普段よりもほんの少しだけ柔らかな空気が漂っていた。

「オヤジにまで似合わないコトを言わせたんなら、もう座り込んでなんかいられないよな。
ここで無視しちゃったら、このオヤジ、恥ずかしくてブッ倒れちゃうかもだよ。なにしろイイ歳したシャイボーイだもんね」
「だッ、誰がブッ倒れるもんかよッ! 無視してもらったほうが後腐れなくてせいせいすらぁッ!!」
「またまたぁ〜! 顔がリンゴみたく真っ赤になってますわよ、オ・ヤ・ジ・ど・の? 照れずにスマイル、スマイルぅ〜!」
「こ、こ、ここ、こここ、殺すゥッ!!」

 シェインだけはフツノミタマの変化に気付いたようで、珍しく彼が見せた細やかな心の機微をからかうとその尻を思い切り引っ叩いた。
 ………ただし、心の底からフツノミタマを小馬鹿にしているのではない。
照れ隠しに悪態を吐く彼の優しさを認め、その心配りへの共鳴がルディアを励ますかのような明るさとなって声色に宿っている。
 「ほっとけッ!」だの「どっちがガキだ、どっちがッ!?」だのと言う怒鳴り声を背中で受け止めつつ、
フィーナたちのもとへと歩み寄っていったシェインは、上目遣いで見つめてくるルディアに向かって勢いよく右手を差し伸べた。

「………ボクちゃん、あんドーナッツはまだ買ってこないの? いい加減しないと、上下関係を身体でみっちり教えることになるの。
友達の間でスパルタンと評判だったルディアを怒らせると後がこわ―――」
「―――あんドーナッツよりもいいもんを見せてやるよ。………行くんだろ、ハカセのとこにさ!」
「ボクちゃん………」
「ワクワクだらけの冒険に飛び出そうぜッ!」

 叶えたい夢があるなら、その為に立ち上がろう。寝て待つ暇があるなら、果報を掴みに自分から進んでいこう―――
差し出されたシェインの右手から…いや、彼の全身からは、ただ一途に現状を踏み台として乗り越え、
昨日よりも今日、今日よりも明日、明日の次は更なる未来へ飛び立とうとする活気が立ち昇っている。
 きっと、この手を取れば、ルディアにもシェインの活気が伝ってくるに違いない。
 一秒だって止まっていられない、全ての瞬間に前だけを見据えて突き進もうとする活力、そして、意欲が。

 フィーナが示してくれた、進むべき道。シェインが分け与えてくれようとしている、道を往く為の強いチカラ。
 このふたつが揃った瞬間にこそ、父なる“ハカセ”との再会も、ヒーローになると言う願望も果たされるのだろう。
 それはつまり、誰しもが胸へと抱く夢を叶える為の鍵だ。理想の実現を妨げる最後の扉を開けられる真理の鍵とも言える。

 かえって足取りを邪魔するような理論や理屈を超越し、心の赴くままに往かんとする信念を信じ抜いた先に在る地平線の名を、
あるいは夢と呼ぶのかも知れない。
 自分の心に正直であらんとし、自己の行動の責任を自己に問う純粋なヒトの心は、
損得のみに囚われた人々が投げかける千億の議論に勝り、そこから何かを成し遂げんとする意欲が生まれるのである。

 フィーナとシェインが授けてくれたふたつの鍵へ自身に問う意欲が添えられたら、もう何も恐れることはない。
 鍵を回して扉を開き、そこに覗ける無限の未来に向かって駆け出すだけじゃないか。

「………………――――――………………」

 吸い寄せられるようにしてシェインの手を取ったルディアにも夢を叶えるのに必要なことは伝わっていたハズだ。
 手を取る間際、長く親しんだこの場所から飛び出すことへほんの少しだけ怖れを見せたものの、
自分のほうから手を握り締めてきてくれたシェインの優しさに包まれて、微笑みかけてくれるフィーナに見守られて、
ルディアの面にはいつしか“楽”の感情だけがいっぱいに広がっていた。

 シェインに助けられながら、フィーナに支えられながら、自分自身の足で立ったルディアは背伸びを一つしてから、
自分を取り囲む全ての人々の顔を順繰りに見つめていく。
 柔らかな微笑を浮かべながら手を振ってくれるマリス、泣き腫らして赤くなった目でウィンクしながらサムズアップしてくれるトリーシャ、
お弁当を付けっ放しだと頬っぺたを指差して教えてくれるタスク、
ローガンに羽交い絞めにされつつも「正義のポーズと言うものは迷いなく天を示して初めて意味を為す」などと
熱い(もしくは暑苦しい)咆哮を止めないハーヴェスト………みんなみんな、ルディアが立ち上がったことを心から喜び、
チームの一員として共に旅することを受け入れてくれている。

 新しい友達と新しい絆を結べたことを確かめたルディアの面は、眩いばかりの“喜”に輝いた。

「惚れちゃった? やっぱり惚れちゃったの? ………うふふ―――モテる女はツラいの♪」
「………やっぱ手ぇ離して良い?」

 ご陽気になるなりこの調子だ…が、口では悪態を吐いているものの、どんなにカチンと来るような言葉を言われても、
シェインはルディアの小さな手を離すことはしなかった。

「………すまない。あれだけ意気込んでおきながら何一つお前たちに有益な手がかりを見つけられなんだ………」

 ことがここに至れば、最早、成り行きは皆が周知するところである。
 意気込み勇んで乗り込んだまでは良かったものの、
結果としてアルバトロス・カンパニーにとって有益な情報を得られなかったアルフレッドは、
すまなそうな顔をニコラスたちに向けてその心中を窺うが、一同からは意外にも落胆めいたものは感じられなかった。
 もちろん、リーヴル・ノワールでの探索に並々ならない期待を掛けていたのは確かだ。

 ………しかし―――

「さようにまで小生たちに気を遣う必要などなかろうに………。そこもとは過分なくらい小生たちに尽くしてくださった。
その心意気だけでも十二分に在り難い。励まされた恩に報いたく、幾ら礼を返してもし足りぬくらいだ」
「謝られたらこっちのほうが困っちまうさ。あの娘を助けられたことにあたしらは大満足してンだからね。
水を差すより一緒に喜び合うのがいいンじゃないかね」
「そうですよ―――それにみんなには申し訳ないけど、僕は実地の勉強になったからかえって良かったかな。
自分が進もうとしているサイエンスの世界にも色々な人間がいるって肌で感じられたのは大変な収穫でしたよ」
「ゲンキンになったもんだな、トキハ。ンま、そーゆーわけだから、あんま気にすんなよ、アル。
なァに、オレ様の手にかかりゃあヒントの一つや二つ、向こうから寄ってくるぜ。
こんな色男をみんながほっとくわけないッ! フェロモンってのはこーゆーときにこそ使わなきゃだもんな! 
絶世の美女だって何だってイッパツでメロメロさ〜! ………って、おい、なんだよその白い眼は!?」
「逆に考えようぜ。お前らとこうやって冒険できるチャンスがまた増えたんだってさ。
仕事の心配が無いっつったらウソになるけどよ、オレはオレで今の生活もなかなか気に入ってんだ」

 ―――彼らもまたルディアに心を許し、その出発を我がことのように喜んでくれていた。
 手がかりなどまたどこかで見つければいい。今回は一つの命を救えただけでも最高の成果だった、と。
 誰一人としてフィガス・テクナーへの手がかりが得られなかったことを気にしていないと言うのに
なおも申し訳無い気持ちを満面に浮かべているアルフレッドの首へ腕を回したニコラスは、
「そこまでオレたちを心配してくれんのは嬉しいけどよ、お前には別にやらなきゃならねーことが
出来たんじゃなかったかな? ………あの娘まで迷子にしちゃあいけねーぜ」と彼が今すべきことをそっと示唆してやった。

 ルディアを迷子にしてはならない―――そう、ハカセなる人物の生存と所在を僅かなヒントでも
『セピアな熊ども』から聴きださねばならなかった。
 それこそアルフレッドが、今、真に為すべきことなのだ。

「ようやくあたしらを思い出してくれたみたいね」
「まったく困ったもんだよ。あっち行ったりこっち行ったりしてる内にボクらの存在忘れてたんじゃないの?
せっかくボディランゲージでハカセにまつわるスペシャルヒントを教えてやってたのにさ」
「ちょっと待て、さっきは何も知らないと言っていなかったか?」
「さっきまでは―――でしょ。あたしらもあんたたちと同じように自己推論することで成長するよう
プログラムされてんのよ。これ、どう言う意味かおわかり?」
「………応用を利かせてくれた、と言うわけか」
「推論ってのはお得意さ。得意っつーか、生き物で言うトコロの生態みたいなもんだけどね。
んで、ボクらがアクセスできる範囲でかき集められたハカセ絡みの情報から推理するなりだね――――――」

 余談だが、後になってアルフレッドはこのときのことを苦々しさと共に述懐することになる。

 自分がもっと早くに気を回していれば、この先味わうことになる紆余曲折の回り道をせず
ルディアが目指すべき最終地点を知ることが出来ただろう。
 あるいは、平素から話を勿体付ける『セピアな熊ども』に厳しい態度で当たっていれば、
無駄な時間をロスすることなくスムーズに必要な情報を聴取できたかも知れない。

 だが、どれだけ後悔を重ねても、気を取り直すだけの時間が戻って来ることはない。
 次の瞬間には、アルフレッドたちは文字通りリーヴル・ノワールを揺るがす大事件に巻き込まれ、
談話していられるような余裕すら何処かへ吹き飛ばされてしまうのだ。

 ………そして、後の述懐をこう締め括るのである。
 このとき、目の前で起こった異変こそ、今後の自分が辿っていく運命を暗示するものであった。
 あの日、耳を劈いた大きな音は、あるいはその扉を開くことによって生じた軋みだったのだろう。
 間違いない。あれこそがエンディニオンの立てる軋みだったのだ―――と。

 異変を知るに至ったきっかけはデジタル・ウィンドゥに生じた砂嵐だ。
 それまで明瞭に映像を投射していたデジタル・ウィンドゥが急に変調を来たし、最後には砂嵐で覆い尽くされ、
映像はおろか音声まで完全に遮断されてしまった。

「………ひさ………ぶ………に………ヤバ………わね…………」
「………メインサーバが………ヤラレたな…これ………侵入者が………居………!」
「あ……二人………で………ない………ね………………新手………それ…も………――――――」

 デジタル・ウィンドゥそのものがクローズして消失する間際、砂嵐の向こう側から二頭の呼びかけが聴こえて来たのだが、
多分にノイズ混じりであった為、言われた直後にはその意味するところを誰も全く理解できずにいた。
 ことが終わって後から振り返れば、『セピアな熊ども』の言わんとしていたのが危険信号だったと頷ける。
 しかし、次の瞬間に見舞われた異常事態は当時のアルフレッドに正常な判断を許してはくれず、
ただただ怒涛のような混乱に飲み込まれ、押し流されるままにリーヴル・ノワールでの探索は終息を迎えることになるのだ。

 混乱の兆しを真っ先に感じ取ったのはローガンである。
 どこかで爆竹か何かを鳴らすような音が鳴ったと言う彼に倣って耳を澄ませると、
意識しなければ気付きもしないほど小さな炸裂音が確かに何処からか聴こえて来る。
 全神経を聴力に集中して音の発生元を辿っていくと、どうやら天井の向こう―――
つまり、上層のフロアにて何かが爆ぜているらしいとの推論を得られた。
 何より奇妙だったのは、爆竹のように小さかった炸裂音が時間を経るにつれて少しずつ少しずつ大きくなっていくことだ。
 小太鼓から大太鼓へと移ろうのように音色はその強さを徐々に増していき、
それに従って足元から感じる震動も決して無視できないレベルの触れ幅となっていく。
 爆発音が肌身に恐怖を感じさせる程の大きさとなったときには、
床と言わず壁と言わず見渡す限りの一帯へ絶え間ない震動が伝っていた。
 魔獣の咆哮が如き正体不明の爆発音がリーヴル・ノワール全体を強く深く揺さぶっていた。




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